鳥羽伏見の戦い

鳥羽伏見の戦い

 鳥羽伏見の戦いの要因は、鳥羽伏見の戦いが行われる前年の慶応三年十月十四日に徳川幕府最後の将軍第十五代徳川慶喜が大政奉還を行い、政権を朝廷に返上したことに遡ります。慶応二年十二月に将軍職を継いだ慶喜はそれまでの幕政改革の失敗、諸外国と交易を開いた事による国内経済の混乱、そして幕長戦争の敗北により権威を失った幕府を建て直し、絶対主義権力化しようと多くの幕政改革を矢継ぎ早に行ないます。しかし時代の流れは慶喜の想像よりも早く、倒幕勢力である薩摩藩と長州藩は慶喜を逆賊で追討する為の大義名分である倒幕の密勅を得る為の朝廷工作を進めていました。この倒幕勢力の動きを知った慶喜は、幕府を絶対主義権力化するのを諦め、土佐藩の建白を受け入れ政権を朝廷に返上する事により薩長両藩の大義名分を封じる事に成功します。こうして政権を返上した慶喜ですが、これはあくまで絶対主義権力化を諦めたに過ぎず、聡明な慶喜は当時主流派になりつつあった公議政体派政権(諸侯による合議政権)の首座に就く事を新たな目標として、諸々の政治工作を行い始めます。これに対して倒幕勢力も慶喜の大政奉還により出鼻こそ挫かれたものの、その後攻勢を強めて遂に十二月九日に王政復古のクーデターを断行し、明確に慶喜と旧幕府に対する敵対的な立場を表明します。
 しかし王政復古クーデターの直後に行なわれた小御所会議でこそ倒幕派が優勢でしたが、それから徐々に公議政体派の巻き返しが始まります。ここで少し説明させて頂きますが、王政復古クーデターは薩摩藩・土佐藩・芸州藩・尾張藩・越前藩の五藩の協力により断行しましたが、この内明確に慶喜と旧幕府を敵視したのは薩摩藩のみであり(後に長州藩も参加)、残りの土佐・芸州・尾張・越前は慶喜と旧幕府に同情的であり、特に前土佐藩主山内容堂、前越前藩主松平春嶽、前尾張藩主徳川慶勝の公議政体派諸侯は薩長の倒幕派藩士達の台頭を快く思わず、自分達と同じ封建諸侯である慶喜の復権をむしろ望んでいました。この様に王政復古クーデター直後に成立した新政府は、成立当初は倒幕派と公議政体派を内包する不安定な権力だったのです。
 この新政府の実情を知る慶喜は王政復古クーデターを知り激昂する会津藩や桑名藩を宥めすかし、京から大阪に退去して新政府内の公議政体派と連絡を取り合い巻き返しを計ります。王政復古クーデター直後こそ主流派だった倒幕派も、慶喜の協力を得て平和的な政権交代を主張する公議政体派の巻き返しにより徐々に新政府内での発言力を失うようになります。この様な公議政体派の巻き返しにより慶喜が圧倒的に優勢な情況となったのですが、他でもない旧幕府軍の暴発がこの慶喜有利の情況をぶち壊します、このきっかけは大阪に届けられた江戸からの開戦の知らせでした。

 話は遡りますが、前年の慶応三年の終盤より関東では在江戸の薩摩藩とその指揮下の浪士達により、盛んに旧幕府を挑発する破壊工作が行なわれていました。これは公議政体派と協力した慶喜の巻き返しを見た薩摩藩の西郷隆盛が、旧幕府を挑発して激昂させる事により軍事衝突に持ち込ませて、これを撃破することにより慶喜と協力した公議政体派優勢の情況を挽回しようとの謀略でした。そして十二月二十五日遂に江戸城在住の小栗忠順等の開戦派の旧幕臣達が庄内藩兵等に摩藩藩江戸藩邸への攻撃を指令し、旧幕府軍は薩摩藩邸と支藩の佐土原藩邸を攻撃します。これにより江戸では旧幕府と薩摩藩が交戦状態に入り、大目付滝川具挙が江戸で開戦した事を大阪に報告する為に派遣されます。そして滝川により二十八日に江戸は既に開戦したとの情報が大阪在住の旧幕府軍に知らされると、それまでの新政府内の薩長両藩に対する憎しみをたぎらせていた会津藩と桑名藩を始めとする旧幕府軍の将兵は「江戸の次は京で開戦すべし」「薩摩討つべし!」と激昂し、遂に一万五千余の旧幕府軍が京を目指して進軍を開始したのです。

 ところでこの旧幕府軍の進軍に対して慶喜の指示があったのかどうかについては諸説があり、慶喜自身回想記の「昔夢会筆記」にて臣下が暴発した結果で慶喜の本意ではなかったと述べており、これを支持する原口清氏が居れば、むしろ慶喜自身が強硬派であり京への進軍は慶喜主導で行なわれたと主張する石井孝氏も居るなど当時の慶喜の態度には諸説がありますが、弊サイトとしては慶喜は京への進軍に対し消極的賛意を示したとの認識をしています。これはこのまま情勢が進めば公議政体派と組んだ慶喜の政治的勝利は間違いないので、慶喜としては軍事力を行使しなくても良かったのですが、詳しくは後述しますが兵力で薩長連合軍を凌駕する旧幕府軍が負ける訳がないのですから、軍事力を用いるのも構わないと判断して旧幕府軍の進発に消極的賛意を示したのではないかと判断しています。或いは政治的勝利ではあくまで公議政体派の首座しか手に入りませんが、軍事力で権力を奪取する事によりかつて目指した絶対主義権力を手に入れようとしたのかもしれません。

鳥羽伏見の戦い
地図

一月三日の戦い

旧幕府軍の進軍開始
 かくして京を目指して進軍を開始した旧幕府軍は総督:大河内正質・副総督:塚原昌義の指揮の元で(実際には陸軍奉行竹中重固が指揮を取っていた模様ですが、この辺の指揮統率の曖昧さが旧幕府軍の失策に繋がったと判断します)、鳥羽(街道)方面軍と伏見(街道)方面軍に分かれて行軍を開始します(厳密にはもっと細かく分かれていたのですが、基本的には鳥羽街道方面と伏見街道方面に分かれていたので、以後鳥羽方面軍と伏見方面軍と呼称します)。
 まず鳥羽方面軍(滝川具知指揮?):幕府歩兵隊第一連隊(徳川出羽守指揮、1000人程?)・同第五連隊(秋山下総指揮、800人程?)・同伝習隊(小笠原石見守指揮、人数不明)・見廻組(佐々木只三郎指揮、400名程)・桑名藩兵(服部半蔵指揮、4個中隊と砲兵隊)・大垣藩兵(小原忠迪指揮、500名程)、浜田藩兵(指揮官不明、30人程)が行軍します。 一方伏見方面軍(陸軍奉行竹中重固指揮)は幕府歩兵隊第四連隊(横田伊豆守指揮、1000人程?)・同第七連隊(大沢顕一郎指揮、800人程?)・同第十一連隊(佐久間信久指揮、900人程?)・第十二連隊(窪田鎮章指揮、人数不明)・伝習隊(指揮官、人数不明)・遊撃隊(今堀越前守指揮、50名程)・会津藩兵(田中土佐隊・堀半右衛門隊・生駒五兵衛隊・上田八郎右衛門隊・林権助砲兵隊・白井五朗太夫砲兵隊・佐川官兵衛別選隊)・新選組(土方歳三指揮、150名ほど)・高松藩兵(三宅勘解由・筧謙介指揮、8個小隊300名程)・鳥羽藩兵(稲垣九朗兵衛指揮、2個小隊98名)の二手に分かれそれぞれ北上を開始します。
 以上の布陣で進軍を開始した旧幕府軍ですが、京に向かうには鳥羽街道と伏見街道の他にも、主な街道だけでも竹田街道と西国街道がありましたが、旧幕府軍はこの両街道には軍を向かわせませんでした。これは後述しますが、激昂し開戦を決断した旧幕府軍でしたが、自分達の大軍が押し寄せれば薩長連合軍は戦わずに逃げ出すだろうと言う思い込みが旧幕府軍にはあったらしく、実際に薩長連合軍と戦闘になったらどう戦うのかと言う作戦案が無かった為、旧幕府軍は鳥羽街道と伏見街道のみしか進軍路を定めなかったので、結果鳥羽街道と伏見街道に殺到した旧幕府軍は数の有利を生かす事が出来ませんでした。

鳥羽方面の戦い
 この旧幕府軍の進軍に対し薩長連合軍も二手に分かれ、鳥羽方面には東寺を出発した薩摩藩参謀伊地知正治が率いる同藩兵6個中隊相当(城下士小銃五番隊・同六番隊・外城一番隊・同ニ番隊・同三番隊・私領ニ番隊)と一番砲兵隊半隊が鳥羽街道を南下し、鴨川に掛かる小枝橋を渡った辺りに布陣します。
 この小枝橋付近に布陣した薩摩藩兵に対し、滝川は通過させるよう交渉しますが、薩摩藩側はのらりくらりと言を交わし時間を稼ぎます。この間に伊地知は城下士小銃六番隊を鳥羽街道と平行している鴨川左岸を南下させ藪の中に待機させ、外城一番隊を鳥羽街道東側の藪の中に待機させます。これは鳥羽街道上に展開する残りの4個中隊相当と十字砲火を行なえる為の処置で、滝川が指揮下の軍勢を鳥羽街道上を行軍体制のまま放置していたのと比べると、伊地知の手腕は際立っていたと言えましょう。
 こうして伊地知隊が夕方になり布陣を終えると、滝川の方も痺れを切らし鳥羽方面軍に攻撃を命じます。しかし鳥羽街道上に行軍体制のまま放置されていた旧幕府軍が戦闘体制に展開する前に、薩摩藩城下士小銃五番隊の大砲が先に砲撃を開始し、その初弾が幕府陸軍砲兵の大砲に命中し爆発した事を合図として鳥羽伏見の戦いが始まったのです。

 上記の通り激昂し出撃したと言っても旧幕府軍は実際に戦闘するとは思ってなく、自分達が出ていけば薩長連合軍が逃げ出すとは思っていたらしく、この鳥羽街道上でも戦闘体制は取らず行軍状態のまま待機していたので、薩摩藩の砲撃を受けても直ぐに展開する事が出来ずに逆に混乱に陥ります。しかしそのような旧幕府軍の中でも、見廻組が勇敢に反撃を開始しますが、幾ら勇敢でも刀槍部隊でかつ密集隊形で突撃しようとする見廻組を鳥羽街道上に展開する薩摩藩4個中隊相当は猛射撃で応戦し、見廻組は多くの死傷者を出し敗走します。
 その後体制を整えた幕府歩兵第一連隊が今度は攻撃を開始しますが、散開せずに行軍隊形のまま前進したため、鳥羽街道上に展開する薩摩藩兵4個中隊相当と、上記の通り鴨川左岸に待機する城下士小銃隊六番隊と、鳥羽街道東側の藪の中に待機する外城一番隊の十字砲火を受け大打撃を受けます。正面からの射撃なら幕府歩兵隊も反撃出来たでしょうが、正面からだけではなく、左右からも射撃を受ける二重の十字砲火を受けては流石の幕府歩兵隊もなすすべきもなく、幕府歩兵第一連隊は過半数が戦死すると言う壊滅状態に陥ります。
 この第一連隊を壊滅させた後、それまで防戦だった薩摩藩兵も攻勢に移り前進を開始します。これに対し旧幕府軍も桑名藩兵の砲撃と伝習隊のシャスポー銃による射撃で迎え撃ち、しばらくは一進一退の攻防戦が行われますが、長州藩第三中隊(整武隊)の別働隊に側面を突かれた事により旧幕府軍もついに力尽き後方陣地に撤退します。



伏見方面の戦い
 一方の伏見方面では薩長連合軍は御香寺を中心に布陣して、薩摩藩兵は吉井友実指揮の元に5個中隊相当(城下士小銃隊一番隊・同ニ番隊・同三番隊・同四番隊・外城五番隊)と、長州藩の第六中隊(第二奇兵隊)と第二中隊(遊撃隊)が布陣します。
 この伏見でも旧幕府軍と薩長連合軍は睨み合いを続けていましたが、鳥羽方面の銃声が聞こえ始めると両軍とも攻撃を開始します。この伏見の戦いは市街戦で、まずは旧幕府軍の遊撃隊や新選組、更に会津藩兵の別選隊等の刀槍部隊が白兵突撃を試みますが、薩長連合軍の猛射撃に撃退されたので、その後道に簡易陣地を設けたり、畳の陰から攻撃をしましたが、高所を抑えてる薩長連合軍は頭上から射撃するため、徐々に旧幕府軍は押され始めます。更に薩摩藩砲兵隊の砲撃により旧幕府軍の本営とされた伏見奉行所などが砲撃され炎上すると、闇夜の中薩長連合軍から旧幕府軍はよく見えますが、旧幕府軍から薩長連合軍は見えないと言う状況に陥り、ついにこの伏見方面の旧幕府軍も敗走します。
 ただ旧幕府軍もただ一方的に敗れた訳ではなく、会津藩兵が長州藩第二中隊参謀の後藤正則を討ち取るなど一定の戦果も挙げています。





龍雲寺(りゅううんじ)は西に伏見市内を見下ろす丘陵地にある。境内には鳥羽・伏見の戦いの際に、薩摩軍の大砲が置かれた。


王政復古の大号令が出された直後、旧幕府側は不満をつのらせていたことから、大坂城にいた徳川慶喜は、薩摩を討つために上洛を決意。
慶応4年(明治元年・1868)正月2日の夜、先導隊である会津兵200名が伏見の京橋に上陸した。
一方本隊は鳥羽街道と伏見街道を北上。翌3日、両軍は鳥羽付近でにらみあい、午後4時すぎ幕府軍が進軍しようとしたところへ薩摩藩がアームストロング砲を発射。戦いの幕は切って落とされました。
伏見奉行所に立て籠っていた新撰組をはじめ旧幕府軍へも、御香宮を陣地としていた薩摩・長州などの新政府軍が攻撃を開始。御香宮北の竜雲寺に陣取っていた薩摩郡が伏見奉行所をめがけて砲撃し、大手筋と大和街道をはさんで両軍が激突します。

旧式の兵器しかもたない幕府軍は剣豪たちを先頭に敵陣へ決死の切り込みを開始。新撰組も薩摩の陣へおどり込みましたが、やがて退散します。

その時に薩摩の砲弾が奉行所に命中し炎上。伏見の町は戦火に包まれました。


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