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甲州勝沼の戦い

 こうして甲陽鎮撫隊を正面の甲州街道と、南方の岩崎山、そして北方の菱山の三方から半包囲する事に成功した谷率いる新政府軍の前軍ですが、甲陽鎮撫隊は前述の通り付近の木を切り倒し街道を封鎖し、その陰や街道脇の焼き払った民家の陰から射撃を行なった為、歩兵が1個小隊しか居ない中央部隊はこれを突破する事が出来ませんでした。このように谷率いる前軍は甲陽鎮撫隊の半包囲には成功したものの、壊滅させる程の決定的な損害を与える事が出来ませんでした。
 一方の甲陽鎮撫隊も瓦解こそま逃れていましたが、半包囲攻撃を受ける事により兵士達の士気は低下し、何より指揮官である近藤が有効な対策を打てなかった為(一応近藤は会津から援軍が来ると隊士に話していましたが、この援軍が来ない事が余計に混乱に拍車を掛けたと言われています)、新規募集の兵士が次々に逃走する危機的な状況に陥っていました。しかし脱走者が続出したものの、まだ一部の隊士(恐らく旧新選組の兵)は戦線を保っていた為、新政府軍の優位は間違いないものの、甲陽鎮撫隊の陣地の突破は出来ないでいました。

 しかしこの一種の膠着状態は、戦場に河田率いる新政府軍後軍が到着した事により、急展開を迎えます。これにより歩兵不足を解消された甲州街道に展開する新政府軍は、河田と谷の指揮のもと一斉に甲陽鎮撫隊の陣地に猛攻を開始します。この新政府軍の猛攻に対し、未だ戦線を守っていた甲陽鎮撫隊の兵達も、遂に支えきれずに突き崩され、また近藤から有効な指示を与えられなかった為体制を立て直す事も出来ず、てんでばらばらに甲州街道を敗走していったのです。
 余談ですがこの河田が率いた後軍の先鋒を勤めていたのは丹波の有志の農民によって編成された山国隊でした、この山国隊は小銃に軍服に果ては食料まで自費で揃えた戦意の高い志願兵による部隊でした。このように山国隊は農民としての誇りを持って資財を投げ打ってまで新しい時代を切り開こうと新政府軍に参加したのですが、かつて農民から武士になる事を夢見て、遂に武士になり、幕府の重鎮となった近藤にとどめをさしたのが、農民としての誇りを持ち続けた山国隊だったと言うのは歴史の皮肉と言うべきものなのでしょうか。
 更に余談ですが、山国隊はこの戦いでは旧式のゲベール銃を装備していましたが、この戦いの終了後鳥取藩から甲陽鎮撫隊が遺棄したミニエー銃20挺を貸出しされ、以降はこのミニエー銃を用いて数多くの戦いを重ねる事になるのも、また歴史の皮肉なのでしょうか。

新政府軍の戦後処理と近藤の最期
 こうして甲陽鎮撫隊を撃破した新政府軍は一部を残敵掃討の為に残した以外は甲府城に帰還し、甲陽鎮撫隊と連携しようとした柴田達旧幕臣60余名を尋問の末に柴田・保々等を斬刑に処し、その首を城下に晒す事により天領の甲府の市民に、甲府が新政府軍の占領下に置かれた事を知らせたのです。
 一方敗れた甲陽鎮撫隊ですが、結局組織が立ち直ることは無く、敗走の末に瓦解します。それでも近藤は新政府軍と戦う事は諦めずに土方と共に新選組を再発足させますが、流山の地で新選組の立て直し中に本陣を東山道軍に包囲された為投降し、遂に四月二十五日板橋の地にて斬首されるのです。

 この後も板垣・谷・河田等が率いる東山道軍は大鳥圭介・土方等が率いる旧幕府軍と宇都宮・日光方面で激戦を繰り返す事になるのですが、詳しくはこちらを参照下さい。


 岩崎山中腹から甲州勝沼(柏尾)古戦場を見下ろした画像です、左の画像が勝沼宿、中は甲陽鎮撫隊が本陣を置いた付近になります。また右は甲陽鎮撫隊が本陣を置いた辺りの拡大画像になります。。それぞれの画像の中央を走っているのが戦闘が行われた甲州街道、手前が中央高速道です。
 画像左奥の山が菱山で、右手前の山が柏尾山になります。土佐軍迅衝隊四番隊と鳥取軍藤田束隊による迂回部隊はこの菱山を突破してし、柏尾山の麓に陣を布く鎮撫隊の背後に回りこむのに成功します。
 一方谷千城率いる本隊は深沢橋(右の画像に写っている橋は現在の物で、当時の深沢橋はもう少し奥にかかっていました。上記の旧甲州街道の小道の辺り)を挟んで柏尾山の麓に陣を布く甲陽鎮撫隊と交戦しました。やがてこの画像では甲州街道を左側から駆けつけて来た河田景与率いる後軍と合流し、一気に鎮撫隊を撃破しました。

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