フラグを立てるな!1



黒板の内容を書き写しながらぼんやり数える。
弱虫ペダルの世界に飛ばされて4か月が経った。
すごい、こんなことって本当にあるんだ!と舞い上がったのは最初だけで、今はひたすら授業についていくのに必死の毎日を送っている。
おかしい、こんなはずじゃないのに・・・トリップってもっときらきらしてるものだと思ってた。
ここへ来る前は社会人だった日々を思うと、授業を受けることは懐かしくもあり新鮮でもある。ただし内容を除けば。
微分積分、化学式、英文法、ありおりはべりいまそかり。高校の勉強なんてとっくに忘却の彼方だ。
午後に小テストがあるのを思い出して胃がキリキリしている私を見て、隣の席のクラスメートが「あのよ」と話しかけてくる。
「##NAME2##ってそんなにガリ勉だったか?」
「だってなにも分かんないんだもん」
「なにもって・・・そこそこ点は取れてんだろ」
カバンからお昼を取り出しながら田所くんは首を傾げた。
彼の言うとおり、小テストならなんとかついていけた。授業中はひたすらノートを取り、家では参考書を広げて習ったことだけを頭に叩き込む。出題範囲が狭いからなんとかできることだ。
けれど今は12月中旬。期末テストの厚い壁が立ちはだかっている。
「私はもうだめかもしれない・・・骨は拾ってね」
田所くんは呆れたような顔をしてみせた。
「うわー本物の田所迅くんだ!」なんて遠くから眺めてはしゃいでいたことが懐かしい。

***

4か月前の出来事だった。
目が覚めた時、ここが自分の部屋ではないことに気付いてぞっとする。
なんで、どうして。見覚えのない空間に血の気が引いた。お酒は飲んでいないから酔って誰かのお世話になるはずもない。
まさか誘拐・・・?いやでも普通に家で寝た。だけど今いるのは誰かのベッドの上だ。
どうしよう、こわい。体がふるえる。
気配のない部屋の中を目だけで観察した。テーブルの上には出しっぱなしのノート。中身を確かめるため手を伸ばす。
「え・・・」
表紙に私の名前が書いてある。字もそっくりだ。
突然、機械音のメロディーが鳴り響いた。
息をのむ。
心臓が口から飛び出そうになるのをこらえ、必死に音の出所を探す。枕元に置かれた携帯だった。
ガラケーの操作に戸惑いながら、なんとかアラームを止める。ロックは、かかっていないようだ。
画像フォルダを開いた瞬間思わずそれを取り落とす。
「なんで、」
自分が写った写真がたくさん入っている。それも隠し撮りとかじゃなくて、カメラ目線でさも友だちと一緒に撮りました、みたいなものばかりが。格好は学生服だったり、私服だったりいろいろだ。でも、一緒に写っている子たちはみんな知っている人じゃない。
気持ち悪い・・・そうか、
「そっか、夢なんだ」
だからさっきから変な、ありえないことばっかり起きてるんだ。そう考えると力が抜けていく。どうせならもっと楽しい夢がいいのに。羽が生えて空を飛ぶとか、好きなキャラクターが出てくるとか。
ぱらぱらとノートをめくってみる。
「へえ、まじめに書いてるなあ」
夢の中の私えらい。ちゃんと勉強しているらしい。自分の夢だっていうのに書いてある数式が全然理解できない。ふしぎだ。
すると今度はコール音が鳴った。なんか、リアルな夢だなあ。
こわいような、どきどきするような気持ちで電話に出てみる。
「はい」
”あっなまえー?なんで今日来てないの、休み?”
女の子の声が当たり前のように私の名前を呼んだ。
「あの、」
”先生が心配してたよ、いつもなら無断欠席なんてしないのにって。連絡入れてみてくれって言われたからかけたけど大丈夫?もしかして動けない?”
「あ、や、えーと・・・うん平気」
”ほんとー?午後からは学校来れそう?休む?”
学校。そっか、夢の中の私は学生なんだ。
「えっと、今日は休もうかな。先生に言っておいてもらえる?」
んー、と相手は間延びした声で答えた。
”明日は?”
「明日?は、分かんない・・・けど」
風邪?と聞かれ適当に相槌を打つ。
”大変そうならお見舞い行くからね”
「ありがとう、たぶん大丈夫」
”無理しないでゆっくり休んでね。じゃあまた”
ぷつりと切れた通話。思わずため息が出た。
「もーどういうこと・・・ほんと分かんない・・・」
こんな夢、早く醒めてほしい。

***

あれから4か月、まだ夢の中にいる。
醒めるどころかいっそうリアルになっていくのがこわい。
ため息をつけば「大げさだな」と田所くんは笑う。
「大げさじゃないよ、こっちっは死活問題なんだからね!」
「そうカリカリすんなって。ま、これでも食っとけよ、腹が膨れりゃおさまるだろ」
パン一個でおさまる事態なら苦労してないんだよこっちは、なんてむっとしながら「ありがとう」と受け取る。もっとも彼は私が悩んでる理由が小テストだと思ってるからしょうがないけど。
「田所くんとこのパンはやっぱりおいしいなあ・・・一度でいいからずっと食べてみたかったんだ」
「そう思ってたなら来ればよかっただろ?」
「諸事情によりそれは不可能だったの」
ふーん、と彼は分かったような分からないような顔をした。
「来週からテストが始まるね」
「だな・・・赤点だけは回避しねえと部活に影響が出るからな・・・」
今度こそふたりそろってため息をついた。
「ね、自転車競技部ってどんな感じ?」
「どんなって?」
「や、ほら練習とか、試合とか」
「今の時期は室内練習がほとんどだな。たまに校外に走りにも行くが、天候が変わりやすいしあんまり集中はできねえ」
ふーん、とパンをかじりながら頷く。
私がこっちへ来た時はすでにインハイは終わっていた。金城が、古賀が、大怪我をした悪夢のような試合が。
来年は田所くんたちにとって最後の夏、そして坂道たちと全国の頂点を獲る夏だ。
「がんばってね」
「ん?」
「来年。3年じゃん」
「おう。来年こそ俺たちが優勝する」
「私も応援に行くね」
そう言うと彼はきょとんとした表情を向けてくる。
「おまえ来るのか?」
「行っちゃだめなの?」
「いいけどよ・・・いや、なんでもねえ。応援、来てくれよな」
「もちろん!行く行く」
帰れなくて絶望の日々だけど、これだけは感謝している。なんたって3日間通して感動しかないあの試合を生で観戦できるのだ。しかも運が良ければ一瞬だけでも箱学や呉南の選手の姿も拝めるかもしれない。
もはやそれだけを楽しみに今を生きている。あと田所パンも。
「##NAME2##、そんなにロードに興味あったか?去年までさっぱりだったじゃねえか」
「えーとそれはほら、勉強にいそしむ日々を送っていたから」
「だよなあ。勉強得意だったはずなのにここにきてテストで頭抱えてんだから不思議だぜ」
そう言って田所くんはもしゃもしゃと残りのパンを胃におさめた。豪快な食べっぷりは気持ちがいいぜ。
そんなことを考えながら私は教科書を取り出して机に広げた。昼休みを返上して復習をしとかないと。

***

学校から寄り道もせずまっすぐ家に帰る。
買い物は週末にすませてあるため問題はない。生活費も通帳にあるし、つつましく暮していれば困らないはずだ。
風呂上がり、炭酸水片手にベッドに倒れこんだ。
「あー疲れた!お酒飲みたいー」
本当の私は成人済みである。元の世界では気楽にお酒を飲んでいたけどここではそうもいかないため炭酸水でごまかしていているのだ。
つらい。アルコールが恋しい。
ちなみにこっちの##NAME2##なまえについて分かったことがいくつかある。
両親は仕事の関係で別の土地で暮らしているため学校の近くに部屋を借りていること。いやなんでだよ。
一緒に引っ越せばいいのにと思ったけど、どうやら提案したのは私らしい。(先日の両親とのオンライン通話で聞いた。)
引っ越しが決まったのが合格が決まった後だったため、不慣れな場所でばたばたとやっていくよりも第一志望だった地元の高校に通うほうを選んだのだそうだ。
なんとなくだけど、そんな申し出を許容されているあたりきっとこの世界の私は真面目なんだろうな、なんて思った。冷蔵庫の中もきちんと整頓されてるし。
「私って誰なんだろ・・・」
ふとこぼれた言葉だったが意外と心にこたえた。
この世界にとって私ってなんだろう?
どんなふうに生きていけばいいんだろう。
このままずっと帰れなくて、大人になって、そして。
そこまで考えて頭を振った。これ以上はやめよう。へこむから。
最初は不安で毎日べそべそ泣いていたけど、いつからか冷静になれた。そしていくつかの仮説を立ててみた。
ひとつめ。私とこの子の中身が入れ替わった。
だとしたらこの子は元居た世界での私の生活を送っているのか・・・高校生がいきなり社会人をやらされるなんて酷だ。もしそうなら早く元に戻ってあげたい。
ふたつめの仮説は、私の本来の体は意識がない状態で、代わりにこの体をのっとっている。この子自身の意識は分からない。
みっつめはあんまり考えたくはないけど、あっちの私は死んでしまい、何かのはずみでこの子の中に入ってしまった。
正直なところ、理由なんてどれでもよかった。でもやっぱり死んでるのはやだな。帰れるものなら帰りたい。
だってどんなにリアルでも、ここは私にとって現実じゃない。大好きな弱ペダだって読めない。インハイだって2年目の途中で止まってる。
だから、帰れないならせめてそれを教えてほしい。
そうすれば諦めがつくし、この世界でどうにかやっていこうという気持ちにもなるかもしれない。
ため息がこぼれた。
今の私はなにもかもが中途半端だ。


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