ECHOES.



「貴鬼くん、そろそろ寝ようか」
ムウと目くばせを交わしたなまえがそう言うと、彼は素直に頷く。
「うん。オイラ歯みがきしてくる」
洗面所駆けていった姿を見て、ムウは苦笑した。
「いつもあれほど聞きわけが良ければいいのですが」
「普段はちがうんだ?」
「ええ。このくらいの時間になるとかえって目が覚めるてしまうのか、あの手この手を使って起きていようとするものだから・・・」
昼間は貴鬼の修行と聖闘士の責務を果たし、夜は修復士として作業をしなければならない。
そんな姿をたびたび目にしてきたものだから、都合がついた時は彼の手伝いをしている。
孫弟子を可愛がるシオンは五老峰に行っているため、今夜は貴鬼の相手が仕事だった。
「すみませんね。いつもあなたの大事な時間を奪ってしまって」
「ううん。貴鬼くんはいい子だもの」
ムウはオーバーワークなの、とたしなめると、「そんなことは」と彼は首を振る。
「聖闘士として与えられた責任ですから」
「だけど、城戸グループの仕事だってやっているでしょう。ムウが倒れたら、一番悲しむのは貴鬼くんだよ」
そうですね、とムウは笑った。
「もっとも、財閥の資産のおかげで賄われていることもありますから、やらないというわけにもいかないし」
「でも、ムウがなにもかも背負い込む必要はないの。・・・もう少し、頼ってくれてもいいのに」
「それはもちろん。あなたが来てくれるようになってから、本当に驚くほどはかどっていますから。感謝しています、なまえ」
「・・・本当に?」
「ええ。だからそんな悲しそうな顔をしないで」
立ち上がったムウはなまえの隣に座り直す。
「せっかくのホットミルクが冷めてしまいますよ」
「あ、うん。飲んじゃうね」
すっかり忘れていた手の中のマグカップに気づかされ、なまえは口をつけた。
「あ・・・甘い。ハチミツ?」
「ええ。あの子はこれが一番好きですから」
ムウのマグにはブラックコーヒーが入っている。
「遅くまでやるの?」
「さあ、どうでしょうか。うまくいけばいいのですけどね。なにせこうも頻繁に直すとなると血が足らなくて」
夜な夜なバケツを持ったムウが血液を求めて聖域をさまよっているという噂は、どうやら本当らしかった。
「た、大変だね・・・」
「そろそろ壊した本人の血を提供してもらうことにしましょうか」
ムウがため息をついていると、ドアが開いて貴鬼が戻ってきた。
「なまえお姉ちゃん、終わったよ!」
「じゃあベッドに行こうか。ムウ、頑張ってね」
「ええ、ありがとう。貴鬼、あまり遅くまで起きてなまえを困らせてはだめですよ」
はいムウ様!と彼は元気よく言った。
「これは、しばらく寝そうにないですね・・・」
「平気。私もお昼寝をしてきたから」
なまえの言葉にムウは「頼もしい」と笑顔を見せた。
部屋に入ると、勢いよく貴鬼はベッドにダイブした。
「やったあ!」
「もー、貴鬼くん。ベッドはトランポリンじゃないんだよ?」
「分かってるよー。へへ、オイラ嬉しいんだ」
「どうして?」
「だってさ。今夜はずっとなまえお姉ちゃんと一緒にいられるんだよ」
目をきらきらさせてそう言われてしまっては、苦笑するしかない。
「ありがとう。ね、貴鬼くん」
「なあに?」
明かりを小さくしながら、なまえは「なにかお話しようよ」と声をかける。
「いいよ。なにがいい?」
「じゃあね・・・貴鬼くんの将来の夢を聞かせてほしいな」
ほらおいで、と横になって掛け布を持ちあげると、彼はそこに潜りこんだ。
「オイラの夢はね、ムウ様みたいな立派な聖闘士になること!」
「そっか。うん、きっとなれるよ」
「ほんと?」
「本当。私も大人になった貴鬼くんに会ってみたいな」
赤毛の利発な少年はどのように成長するのだろう。
「きっとオイラ、どの黄金聖闘士たちよりも強くなってみせるよ。アテナと、それからなまえお姉ちゃんのことを守るんだ」
それから、それから。
いつしか彼の声は寝息へと変わる。
なまえの意識も、夜の中へと溶けていった。

***

暗闇の中に、生き物に似た気配を感じる。
あるいは、それはおそれと不安のためかもしれない。
目をこらしていると、さやさやとした音は実は枝葉が奏でているものであることを理解した。
周囲にあるものの輪郭が、ゆっくりと浮かび上がってくる。 
やがて、雲の切れ間から差しこんだ月の光が、静かに足元を照らした。
そこでようやく、自分が夢を見ているのだと感じる。
「これは、夢」
自分の声が、やけにはっきりと聞こえた気がした。
「(貴鬼くんと一緒にベッドに入って、いつの間にか寝ちゃったんだ・・・)」
ゆっくり歩き出すと、裸足にざらついた地面の感触がやけに鮮明に感じる。
「痛っ、」
小さな石のかけらを踏んで思わずしゃがみこんだ。夢の中にいるはずなのに、まるで刺さるような痛みだった。
その時、
「誰だ」
弾かれたようになまえは顔を上げる。
声がした後ろを振り向けば、誰かがこちらへ近付いてくるのが分かった。
木々の陰に隠れて姿は見えない。
けれど、月明かりに照らされているこちらは、相手からは丸見えだった。
「(大丈夫、これは夢、これは夢・・・!)」
念じるかように何度もくり返していると、声の主が息を飲んだ気がした。
「・・・まさか」
ようやく、なまえは相手の顔をたしかめる。
強い意志を秘めたアメジストの瞳、広い額、特徴的な眉。
「貴、鬼くん・・・?」
驚がくの表情を浮かべた端正な面差しの青年は呟く。
「なぜこんな場所に。あなたは今」
そう言いかけて、一瞬はっとしたように目を見開いた相手になまえはおそるおそる尋ねる。
「まさか・・・貴鬼くんなの?」
「そうです。貴鬼くん、と呼ばれるのは久しぶりですが」
「でも、これは夢の中でしょう?本当に大人の貴鬼くんと話しているみたい」
戸惑うなまえの言葉がおかしかったのか、彼はふっと表情を和らげて聞き返した。
「あなたの知っている貴鬼は、まだ子供ですか?」
なまえが頷いたのを見て、しばらく考え込むそぶりを見せた貴鬼は言った。
「とにかく、私の部屋へ戻りましょう。ここからそう遠くはありません」
「貴鬼くんの、部屋?」
「ええ。ここは森の中、いつまでもいるのは危ない」
夢の中なのに危ないなんて、頭ではそう考えながらもなまえの足は歩き出す貴鬼の後ろを追いかける。
「あ、」
「え?」
「そういえば裸足でしたね。気付かずにすみません」
そう言うやいなやしゃがみこむ相手に面食らうものの、実際、暗闇を歩きまわって怪我をしない自信もない。
起きた時どんな顔をしたら良いものか、なまえは広い背中の上で思いを巡らせた。

***

案内されたのは白羊宮とは違う場所だった。
暖かさを感じる落ち着いた室内は、ムウのよく整頓された仕事場の雰囲気を思わせる。
暖炉の傍へなまえを案内した貴鬼は、火にかけていたポットからホットミルクを注いで手渡した。
「どうぞ。身体が冷えたでしょう」
「ありがとう。好きな飲み物は変わらないんだね」
それを聞いてわずかに目を見開いた彼は、ごまかすようにしてマグを口に運ぶ。
ホットミルクの中に隠された蜂蜜の甘さを味わいながら、幼い貴鬼と目の前にいる成長した彼の共通点をなまえは探していた。
外見的な特徴は一致しているが、あの元気にはしゃぐ少年がこんなに穏やかな表情をするように成長したのを知り不思議な気持ちになる。
もしも貴鬼が牡羊座を継いだのならムウはどうしたのかという疑問や、これまでの経緯を聞いてみたい気もしたが、ここが夢の中だというならそれらすべてを抜きに貴鬼ともっと話をしたい。
「寝る前にはいつも、ムウ様が用意してくれていましたから。今でも習慣になっているんです」
ふいに、貴鬼の純粋な宝石のような瞳が彼女を射抜く。
「子供の頃の私は、あなたの目にはどんな風に映っていましたか」
「どんな・・・とても可愛いよ。ムウのように強い聖闘士になりたいって言ってた」
「まるで子鬼みたいでしょう。泣き虫で、甘ったれで・・・いつもムウ様の背中を見ていた」
立ちあがった彼はなまえの隣に席を移す。
そうして顔を近付けると、まじまじと見つめて呟いた。
「本当に、あの時と変わらないなんて・・・」
あの時とは、いつのことだろう。
しかし、なまえが口を開くよりも貴鬼の方が先だった。
「私はあなたのことが大好きでした」
突然の告白は当時を邂逅したからだと思ったなまえは答える。
「嬉しい。私も」
「今でもずっと」
ほんの一瞬、唇が重なる。
「・・・貴鬼くん」
「私はこの時が来るのを知っていた。あなたが教えてくれたから」
「教えた・・・?」
「そう。本当はたくさん伝えたい言葉があるけれど、それはもっと未来で」
ふっと意識が溶けてゆくのを感じて、アメジストの輝きを瞳に焼き付つける。
未来ってなんだろう。
一度も名を呼ばなかった彼がなまえ、と言う声が聞こえた気がした。

***

「えーっ!本当に大人になったオイラと話したの」
大きな目をぱっちりと開けて貴鬼は驚きと期待に満ちた表情を浮かべている。
「ねえ、オイラどんな風になってた?ムウ様みたい?」
その問いに、なまえは首を横に振った。
「ううん。ムウとはちょっと違うかな」
彼女の答えを聞いてしゅんとしてしまった少年の頭を撫でてやりながら別の言葉をかける。
「でも、すごく優しかった。・・・また会いたいな」
ここではないどこか遠くに思いを馳せた彼女だけが知る、未来の自分を貴鬼は思い浮かべた。


- 129 -

*前次#


ページ: