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アルスラーンと、パルスの軍隊が出発してからひと月も経たぬ頃、ペシャワール城では異変が生じていた。
ルシタニアとはことなる敵の大群が押し寄せている。草原の覇者と呼ばれる、トゥラーンの襲来だった。
そびえたつ城壁は堅固なものであり、膠着状態が続いているものの、城を預かっているルーシャンやなまえは動くこともできない。
トゥラーンは、パルスにも勝る騎馬の民である。おそるべき数の戦士が、城を包囲する様は言葉にし尽くせるものではなかった。
日夜、戦闘の音がなまえの鼓膜を刺激する。部屋の中で、今まさに戦う彼らのために何もできない自分が歯がゆかった。
じゅうぶんな休息をとることすら許されない極限状態の中で、ナルサスから預かった仕事を、必死に進めることしかできない。
今度こそ、帰りたいと切に願った。しかし、心のどこかで声がするのだ。
今逃げてはいけないと。
信じてほしいと言ってくれた彼や託された大切な仕事を残して、自分だけ安全な世界に帰ってはいけない。そうすれば、きっと後悔する。
帰れなくなることよりも、帰されてしまうことをなまえは怖れていた。

***

暗闇の中、弓弦の音が響く。戦闘は激しさを増し、なまえもまた必死に迫りくる死への恐怖と戦っていた。
今夜ペシャワールが落ちたら、明日の朝にはみな生きてはいないかもしれない。そうなったらもう二度と、優しくしてくれたあの人たちに会うことができない。
その時、パルス軍にも、彼女にとっても、朝日にも似た吉報がもたらされた。ファランギースと万騎長クバードが合流し、三日後には出立していたパルス軍が戻ってくる。
なまえに会いにきたファランギースは、彼女を目にした瞬間「おお」と声に出す。
「ファランギース!よかった、無事で・・・本当に」
目を真っ赤にして軽装の彼女にすがる相手を抱きしめかえしてやりながら、ファランギースはその背をなだめる。
「よくここまで頑張って耐えたな。こわい思いをしたじゃろう」
「ファランギースこそ・・・こんな危険な中、よく戻って来れたね」
「もうしばらくすれば殿下たちも来られる。それまで我慢できるな」
何度も首を縦に振るなまえを不思議そうな表情で見ている男がいる。
「彼女は何者だ?戦えぬ女がどうしてこんな場所にいる」
もっともなその疑問に対しルーシャンは答えた。
「武器を持たない戦い方もあるのです。彼女はナルサス卿の補佐を務めている方で、今はここでパルスの地図をまとめておられます」
分かったようなそうでないような顔をして、クバードは首をかしげてみせただけだった。

***

翌朝から攻撃はさらに苛烈をきわめた。
城門に丸太をぶつけ、壁をつたって這いのぼる侵入者を、パルス兵は必死に追い散らす。
そしてとうとう三日目、地下道を掘り始めたトゥラーン軍の元に信じられない報せが飛び込んできた。西から来るものと思いこんでいたはずのパルス軍が、シンドゥラを通り、東から姿を現したのである。
こうして、とうとう本陣同士が戦闘を開始した。
前後をパルス軍に挟まれ、苦しい戦いを強いられたトゥラーンはいったん後退を余儀なくされる。
ペシャワールへの入城をはたしたアルスラーンを、大勢の熱狂的な歓迎の声と疲労の色をにじませたルーシャンが出迎える。彼らをねぎらい、あらためて会議を開くことにした後、彼はなまえの元へと向かった。
扉を叩いても返事がないので、ためらいがちにそっと開く。
ファランギースが来たことの安心感が、肉体的にも精神的にもすでの極限状態にあった彼女の意識を解放させていた。
今は深い安らぎを得ている彼女が、すぐそばにアルスラーンが来ていることを知ったらどれほど喜んだだろう。
彼は、いまだ疲労の色を浮かべている頬にそっと唇を寄せると、優しく指先を握りしめた。

***

アルスラーンたちの身が無事であったことに、なまえは心から安堵した。
あいかわらず城を取りまく環境は変わらなかったが、以前よりもずっと心強く感じるのは、それだけ彼らを頼りにしているからだろう。
なまえがナルサスにできあがった地図を手渡すと、彼はしばらくの間それを眺めていたが、やがて、
「君は期待以上に良くやってくれた」
と感想を述べた。
「良かった・・・」
思わず彼女が口にした感想を聞いてナルサスは苦笑する。
眠れぬ夜をくり返したため以前よりも少しやつれてはいるものの、瞳に宿る強い輝きは失われてはいない。
ナルサスの中では、ルシタニア軍の反応の鈍さや、ギーヴからなんの連絡もないことも気がかりではあったが、それらは現状に対し決して悲観的な要素ではなかった。
事態を好転する手立てはいくらでもあったが、ルシタニア軍が退行するパルス軍を追ってこない理由、すなわち王都で何が起きているのかを彼は知らない。

***

ペシャワールを境に、以前としてにらみ合いは続いている。
他国の富を略奪し、気前よく部下に分配するというのがトゥラーンのやり方だった。現国王のトクトミシュとしても、今回の進行で益を得なくては国王とはいえ味方からの支持を受けることはできない。
ナルサスとしては持久戦に持ちこむ考えだったがやがてそうもいかなくなる。いきり立ったアルスラーンはすかさず戦場に身を投じ勇敢に戦った。
城内で無事を願うことしかできないのがなまえには歯がゆかった。けれど自分には自分の役割があることを思い出し、彼らが帰還するのを信じて待つ。
その後、戻ってきたアルスラーンの隣に見慣れた姿が立っていることに気づいて、思わず口元を押さえた彼女は呟く。
「ギーヴ!・・・」
「厄介な時に、厄介な者が戻ってきたものじゃ」
ファランギースはやれやれとばかりに嘆息してみせる。
「なまえも気をつけろよ。しばらく見ない間になおさら女好きに拍車がかかったかもしれぬからな」
ふたりのやりとりを壁に寄り掛かって立っているクバードはずっと観察していた。
ナルサス卿の補佐という立場にいるあの頼りない女は、一体どういう理由があってパルス軍の中にいるのだろう。
しかしそんな考えは次の瞬間にはどこかへ行ってしまっていた。
潤いを求めてファランギースへ近寄れば、いつの間に現れたギーヴとかいう輩が彼女を離そうとはしない。
「ファランギース殿は俺に会えて本当は嬉しいのに照れておられるのだ」
「嬉しくなどないのだから照れる理由もない」
「そのとおりだ。おぬしこそ彼女から見た自分の立場を知るべきではないのかな」
「クバード卿。お言葉はありがたいが、それをあなたが言う筋合いもないと思われるが」
穏やかな口論とは裏腹に、彼らの間を飛び交う火花が見えたような気がして、なまえは思わず苦笑いを浮かべた。

***

新月の夜に起こった戦いでは、ナルサスの策によってトゥラーンは自らを攻撃する形で追い払われた。
それから半日後。
「やあ、アルスラーン殿。我が友、我が兄弟よ!」
「お久しぶりです、ラジェンドラ殿。お変わりないようですね」
「ああ、こちらはとりあえず安泰だ。アルスラーン殿のおかげでな」
皮肉ともとれる挨拶にも、アルスラーンは穏やかな表情を崩すことなく相手をしている。それを見ている周りのほうがいてもたってもいられないような気持ちになるのだが、立場をおもんばかっておくびにも出さない。
ラジェンドラは、ファランギースが不在であるのを知って大いに失望した。
「念のためにうかがうが、こちらには他に麗しい女性はおらぬのかな」
ナルサスは答える。
「あいにく今は戦いの最中ですから。シンドゥラとは違って娯楽にうつつをぬかしている余裕はないのです」
短い言葉の中に含められたとげをすべて無視して、ラジェンドラは明るく笑い飛ばした。
「シンドゥラでは、女性も戦意を鼓舞するために必要不可欠な存在なんだがな。しかしこれでは少々つまらない」
こうなることを予想して、ナルサスは事前に部屋からは出ないようなまえに忠告していた。
「アルスラーン殿。本当に女のひとりも隠してはおらぬのか?ひとりもだぞ」
「今は戦をしておりますから」
もしも彼がなまえがいることを知れば大いに目を輝かせるだろう。そして無理にでも隣に侍らせ、馴れ馴れしく接するのは誰にでも予想がつく。
「ふうむ・・・仕方がない。なんならこの俺がシンドゥラの美女を与えようか」
「せっかくのお申し出はありがたいのですが、私には心に決めた方がおります」
アルスラーンの答えに、ラジェンドラとナルサス、ふたりの顔に対照的な表情が浮かぶ。
「本当か、アルスラーン殿」
なぜもっと早く言わぬ、とラジェンドラは彼の肩を抱き寄せて尋ねた。
「それはどこの国の美姫だ。俺の目にまだ止まっていない花がいたとは」
「とても優しく、心の美しい人です。いつも私の身を案じてくれています」
ナルサスはそれ以上のことを掘り下げられぬよう、内心ではどのように助け船を出そうかと考えを巡らせている。
「それで絵姿の一枚もないのか」
「はい。そんなものがなくとも、いつも繋がっていますから」
「相思相愛というやつか。なるほど、アルスラーン殿にもそのような相手がいたとは大いに結構」
俺の考えが浅かったようだ、と彼は言った。
「戦いが終わり、式を挙げる時には盛大に贈り物をさせていただこう。その時に花嫁の顔も拝んでおかねばな。・・・パルスがあればの話だが」
「ラジェンドラ殿」
「おお。どうやら俺は、こちらにこわい男がいるのを忘れていたようだ」
そう言ってラジェンドラは視線を投げかけると、大げさに肩をすくめてみせる。彼が帰って行った後、アルスラーンはナルサスに言った。
「すまないナルサス。私は、」
「良いのです。このことに対して私が口をはさむ権利はありませんので」
「・・・ナルサス」
「シンドゥラの国王が盛大な贈り物をくださると言っているのですから、こちらとしてはせいぜい領地のひとつでも所望することにいたしましょう」
彼がおどけてみせたので、アルスラーンはほっとした表情をする。
「ついラジェンドラ殿の勢いに負けてしまったようだ。あぶないところだった」
「諸外国の言葉だけでなく、地理にも明るいということは伏せたままですから安心でしょう。彼女の知識は、どこの国でものどから手が出るほど欲しいものです」
彼女のような存在がいることを、決して広めてはならない。そのことをあらためて胸に刻んだアルスラーンは、なまえに会いに行くために立ち上がった。

***

六月十六日。
王太子アルスラーンの元に集められた者たちの間に激震が走る。囚われているはずの国王アンドラゴラス三世と、王妃タハミーネが馬車を駆って現れたからだった。アルスラーンの側近である彼らにとって、国王の権力に身をかがめる考えは毛頭ない。
それは、なまえも同じことだった。彼女の存在は国王夫妻に明らかにされてはいないものの、物陰からそっと眺めるだけでも、重々しい雰囲気が伝わってくる。
重々しい外見の国王に対し、ベールの下に隠されている美しい王妃の顔からは、なんの感情も伝わってはこない。ただ、宝石のような瞳だけが冷たい光を放って遠くを見つめている。
その時、突然ナルサスから腕を引かれなまえはふり向く。
「君に話がある、ついてきなさい」
音も立てずに早足で先を行く相手の後ろを、必死に追いかけながら尋ねた。
「なにかあったんですか、ナルサスさん」
「アルスラーン殿下が追放された。すぐにでも城から出て行かれるだろう」
それを聞いてなまえは絶句する。
「そんな・・・どうしてですか」
「国王と王太子、ひとつところに2人の指導者は必要ないということだ。幸い、君の存在は知られてはいない」
知られてはいけない、とナルサスは言った。
「君の才能はアルスラーン殿下のために役立ててほしい。そのためには、このままここにいてはいけない」
「どうすれば良いんですか」
一瞬ののち、なまえは覚悟を決める。
自分の歩む道はアルスラーンと共にあることを、はっきりと理解していた。
「厩舎にエラムとアルフリードがいるはずだ。ふたりの指示を聞いて、用意ができたらふり返らずに走りなさい。絶対に追いつかれてはいけない」
夜明けには殿下の背中に追いつくだろう、その言葉だけを頼りに、ナルサスと別れたなまえは暗闇の中を駆け出した。

***

大きな布を身にまとい、愛馬の陰にかくれながらひたすら時が過ぎてゆくのを待つ。
アルスラーンはどうしているだろうと、なまえは幾度となく考えていた。信頼する友さえ連れて行けず、ただひとりで城を後にする心情を思っただけで胸が苦しくなる。
早く追いつきたい。しかしそのためには、この計画を失敗させるわけにはいかないのだ。
「なまえ、寒くない?」
小声で尋ねるアルフリードに「大丈夫」とうなずき答える。
「これからエラムと火をつけるから、騒ぎが起こったらすぐにここから出るんだよ」
「うん。でも、ふたりは本当に平気なの?」
「もちろん。こんなことは慣れてるからね、平気よ。それよりあんたのことが心配だわ」
アルフリードは力のこもったまなざしでなまえの目を見つめる。
「できるわね?絶対に殿下に追いつくんだよ」
「・・・分かった」
相手がしっかりと答えたのを見て、アルフリードは布を巻き直してやると立ちあがった。
「エラム、」
「準備は出来ている。なまえさん、どうかご無事で」
そう言い残すとふたりはあっという間に厩舎からいなくなった。
鳴りやまない胸の鼓動を少しでも鎮めるために、なまえは愛馬の鼻を優しく撫でてささやきかける。
「どうか追いついて・・・お願い」

***

やがて煙が立ちこめてくると、馬たちは一斉に騒ぎ出した。
「もう少し、もう少しだけ待って・・・!」
外のほうから男たちの声が聞こえる。扉が開き、新鮮な空気が流れてきた瞬間、なまえは馬の背に飛び乗った。
「走って!」
まさか一頭が突進してくるとは思わず、兵士たちはあわてて道を開ける。
その内のひとりが「人が乗っているぞ!」と叫んだものの、それが誰であるかまでは分からなかった。
ひたすらに城から離れることだけを考え、なまえは必死に鞭をうつ。友人が命令に忠実であることに感謝しながら走っていると、やがて黒い影と遭遇した。
「なまえ殿か」
その声を聞いて、心から安堵する。
「ダリューンさん!」
「ご無事で本当に良かった。このまま逃げ切りましょう」
暗闇の中で彼が微笑んだのを知って、短く答えようとした瞬間だった。
「どこへ行く、ダリューン卿」
冷たいきらめきを放つ双刀の刃をかざして、キシュワードが彼らの前に立ちはだかる。
「キシュワード卿!」
ダリューンは叫んだ。
「おぬしとまじえる刃は、俺は持たぬ。剣を引いてくれ」
「甘いな、ダリューン卿。それに、そちらはなまえ殿か」
一瞥をくれた彼は馬首をダリューンのほうへと向ける。
「俺には彼女を斬るつもりはない。もっとも捕らえる気ではいるが」
どうするべきか躊躇したのは、わずかな間だけだった。
なまえの乗った馬が闇を斬り裂き駆け抜けてゆくのを眺めていた彼は、苦笑してダリューンに声をかける。
「勇敢だな、あの方は」
「ああ。本当に」
短い会話ののち、彼らは一戦を交えるために身構えた。

***

朝日が昇る。
一晩じゅう、あてもなく馬を駆ったなまえの体力は限界に近づいていたが、神経だけはいまだ張り詰めたままでいる。愛しい人の背中を見つけるまでは、休むことなど出来なかった。
やがて、追いついてくる足音を耳にしてなまえはふり向く。
「あ・・・ダリューンさん、ナルサスさんも・・・!」
なまえ殿、と真横に追いついた彼は疲れの色も見せずに目を細めて言った。
「よく頑張られた。きっともうすぐ、殿下に追いつくでしょう」
はい、と早くも瞳をうるませてうなずく彼女にファランギースは「まだ泣くところではないぞ」と微笑む。
「すぐじゃ。ほら、あそこに人影が見える」
水筒を手にしたアルスラーンが輝いた声で、ひとりひとりの名前を叫んだ。
「ああ、・・・みんな!」
馬を降り、膝をつく彼らにならってなまえもそうしようとすると彼は優しく制する。
「あなたは私に仕えているわけではないだろう?」
それぞれの手を取って立たせて誓った後、アルスラーンは涙を浮かべてなまえに言った。
「本当に、よくここまでついて来てくれた。感謝している」
「アルフリードたちが全部教えてくれたの。それにダリューンさんも」
あの時はすみませんでした、となまえは頭を下げる。
「いいえ、あなたのとった行動は最善でした。あの場にいたままだったら、きっとキシュワード卿の部下に捕われていた」
ひとり荒野をさすらうはずだった前途に、明るい光が差す。
彼らの目的地はギラン。新たな旅立ちが幕を開けた。


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