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パルス歴三二一年、三月末。
王太子アルスラーンの名において発せられたふたつの布告が、国内の諸候たちの元に届けられた。
ひとつは、「ルシタニア追討令」。もうひとつは「奴隷制度廃止令」だった。
それらにともない、なまえはナルサスの指示によって布告を書き写したり、慣れぬ筆を用いて地図を起こすという作業も多くなる。
朝食を終え、いくつかの仕事をしていたら昼食を食べそこねてしまい、次に顔を上げた頃には夕食という日さえある。
しかしこれまで蓄えた知識を活かす場を得たということでもあり、ありがたいことだった。
あいかわらずのらりくらりと過ごすギーヴにからかわれるのを交わして、なまえが曲がり角を折れた時だった。
松明がゆれる。
見上げたなまえは、意思を持ったふたつの光が急に視界の端に現れたのを見て息を飲んだ。すると、意外にも相手のほうが焦ったような声で身分を明かす。
「すみません。ジャスワントです」
「あ・・・ジャスワントさんですか。びっくりした」
いいえ、と返事をした彼は、相手が流ちょうに母国語を使うのを聞いてなつかしさがこみあげる。
「なまえ様は、アルスラーン殿下のご友人だと聞いています」
それに対し、なまえは思わずしどろもどろとした返事を返した。
「友人、というのはおこがましいと思っているんです・・・」
「そうなのですか?」
不思議そうに首をかしげた彼は気になっていたことを尋ねる。
「なまえ様は、シンドゥラへ来たことがあるのですか?」
「いいえ。私はここだけです」
「そうでしたか。あまりにも上手に私の国の言葉を話すので、シンドゥラ人かと思いました」
彼が真顔で言った言葉が冗談であることを知って、反応に困ったなまえはあいまいに微笑んだ。そして正直に自分の秘密を打ち明ける。
「私の耳には、どこの国の言葉も同じように聞こえるみたいなんです」
「なんですって。本当に、」
あっけにとられるジャスワントだったがそう感じるのも無理のないことだった。
「では、ルシタニア語も?ミスル語も?」
「多分ですけど」
すごいすごいと彼が興奮の色を見せた頃、扉が開いてナルサスが顔を出す。
「ジャスワント、もう少し静かに・・・」
「ナルサス様。なまえ様はすごい方なんです」
彼は、途方にくれているなまえとジャスワントの顔を見比べて苦笑を浮かべた。
「ああ、分かっているとも。だが今は夜だ。殿下もお休みになっていることだし、ちょうどいい、彼女を部屋まで送ってさしあげてくれ」
分かりました、と頭を下げたジャスワントにともなわれなまえはようやく部屋へと戻ることができた。
ふたりの姿を見送った後、扉を閉めたナルサスは明かりのついた部屋へ目を向ける。
「・・・さて、殿下」
ひどいなあナルサスは、とアルスラーンは困ったように笑う。
「私はまだ起きているというのに」
「眠ってはいないというだけで、じゅうぶん休まれています。ですから、これは嘘というほどのものではありません」
肩をすくめたアルスラーンは杯の中身を揺らした。小さな水面に波紋が刻まれる。
「なまえ殿はとても上手く仕事をこなしてくれています」
「うん、見ていて分かるよ。本当に助かっている」
「このまま何事もなければ、我々が王都を取り戻す日もそう遠くはないでしょう」
ナルサス、とアルスラーンは彼を呼んだ。
「もしそうできたとして、彼女のことはどうなるのだろう」
「もし、ではなくそうなさるのです、殿下。お言葉にお気をつけください。それからなまえ殿については、その時に考えることにいたしましょう」
彼がわざと濁したのを知って、不思議に思ったアルスラーンは尋ねる。
「なぜ?」
「不確定要素が多すぎるからです。特にいちばん大きいのは、なにかのきっかけであの方が帰ることができるかもしれないということ」
「ナルサス」
「殿下。現実に目をお向けください。この世界にとって彼女の存在は許されるものではありません」
「でも、今こうしてここにいるではないか。私もあちらの世界に何度も行っている」
「たとえば短い時間であったからかもしれない。理由は私にも分かりません。ですが」
言葉を切ったナルサスは事務的な口調で告げた。
「突然やって来たのなら、突然帰ることになっても不思議ではない」
「・・・それは」
「殿下は、誠意をこめて彼女のためにできるすべてのことをやっておられます。身を保証し、食事や衣服をそなえ、仕事や居場所まで与えている。じゅうぶんではないでしょうか」
それは違う、とアルスラーンはかぶりを振った。
「私は・・・時々考えてしまうんだ。それこそがあの人を苦しめているんじゃないかと」
ナルサスは驚いた顔をする。
「この世界に居心地の良さを感じてくれれば、少しでも気が楽になるのではないかと思っていた。でも、そうではないみたいだ」
先日のふたりきりの部屋での出来事が彼にそう思わせているのだった。あの時ちゃんと向き合っていれば、こんなふうに感じることはなかったかもしれない。
「では、殿下はどのようにお考えなのです」
ナルサスの問いに、アルスラーンは答える。
「分からない。とにかく、もう一度なまえと話しあってみることにするよ」

***

色とりどりの花の群れが、春の喜びにいっそう彩りを添えている。
四月。街道から砂岩で築かれたペシャワール城までの道のりをたどっているのは、アルスラーンによって発せられた声明に応じる各地の諸候や領主と、大勢の兵士たちだった。
「パルスばんざい!王太子殿下に栄光あれ!」
口々に叫び、唱和する声が、波のように途切れることなく響き渡る。広場が歓声に包まれるのを眺めていたファランギースやアルフリードは、その様子に感想を口にした。
「すごいねえ。アルスラーン殿下のためにこんなに大勢の人が力を貸そうとしているんだね」
なまえはただ、目の前の光景に圧倒されるばかりだった。
春風に乗って、アルスラーンを君主としてたたえる声が絶え間なく聞こえてくる。剣や槍、甲冑が光を反射している光景は壮大だった。
アルフリードが、なまえの肩を抱いて励ます。
「あたしたち、いま歴史のたいへんな舞台にいるかもしれないんだね」
いきいきとした生命力を大きく開かれた瞳にみなぎらせ、興奮したように彼女は語る。
「アルスラーンってすごい人なんだ・・・」
彼らを迎える王太子はまるで、瑞々しく若い雄鹿のようだった。彼の手によって、本当に、失われた王都は息を吹き返すのかもしれない。

***

これを機にナルサスは中書令という立場につくことになった。
まずやるべきは大勢の兵力を組織化することであり、さらに文治部門、軍事部門としてそれぞれに責任者を定める。
なまえはあくまでナルサスの書記官という立場で、これまでのような仕事をこれまで以上に行うことになる。
提出された書類のうち糧食を数えた内容に目を通していると、ふと、ナルサスがこちらをふり向いて言った。
「ずいぶんと慣れたようでなによりだ」
「ナルサスさんたちがいろいろと教えてくださったおかげです」
笑顔でそう答えたなまえだったが、彼の次の言葉に表情がくもる。
「しかし君もそろそろ帰る手だてを探さなければならないだろう」
「そう、でした」
思っていたよりも分かりやすい反応を見て、苦笑したナルサスはペンを置く。
「君がこの世界の人間ではないとは今さら信じられなくなってきたな」
「どういうことですか?」
「それほど馴染んでいるということさ。俺としても、今さら手離すには惜しいくらいだ」
生まれた沈黙を破って彼は静かに問いかけた。
「君は、本当は帰りたくないと思っているのではないか」
「・・・分かりません」
相手が瞳に戸惑いの色を浮かべたのを知って、ナルサスは自らの発言に少々とげがあったことをみとめる。
「いや、すまなかった。気にしないでくれ。あまりいじめるのは良くない」
そうして何事もなかったようにふたたびペンを手に持つと、書き物を再開した。
いっぽう、なまえはその瞬間から考えはじめる。
ここでの生活を送っている間に、自分はいつしか思いちがいをし始めていたのではないだろうか。何も持たないはずの身が必要とされるのは喜びだった。しかしそう感じるほどに、もしかしたら「帰りたくない」と思っていたのかもしれない。
願わなければ、扉が開かないことを知っていながら。

***

濡らしたタオルで体を清めながら、ゆっくり湯船に浸かりたい、とぼんやり考える。
この世界に馴染むことに必死だった。そう望まなければ、生きていけないと思っていた。
けれど、帰りたいと心の奥底から願わなければ、決して扉は開かない。・・・矛盾している。
このまま二度と元の世界には戻れなかったとしたら、自分はどうなってしまうのだろう。急にこわくなって、目を瞑った。
自らを抱きしめながら暗闇の中にいると、扉を叩く音が聞こえて顔を上げる。自分の格好に気づいてあわてて身支度を整えると、「どうぞ」と声をかけた。
てっきりファランギースやアルフリードだと思っていたなまえは、そこにいるのがアルスラーンであることを知って驚く。
「どうしてここに?」
「あなたと話したくなって。来てしまった」
しかし、こんな遅い時間に彼が出歩くことを良しとする者はいないのではないか。そう尋ねると、アルスラーンは「だからこっそり来たんだ」と答える。
その表情はまるで、いつか城を抜け出した時のようであったためなまえも自然と笑顔を浮かべた。
「入って」
部屋の明かりをしぼり、できるだけ暗闇の中で招き入れる。アルスラーンはなまえの手を取ると自分の口元へ引き寄せて言った。
「なまえ。あなたの本当の気持ちを教えてほしい」
「どういうこと、」
戸惑って聞き返すと彼は答える。
「ここにいることが、本当はあなたにとってつらいのではないかと・・・そう考えている」
「それは・・・」
「いつか帰ってしまうかもしれない存在だとナルサスに言われた。でも、私は・・・」
アルスラーンの指がなまえの腕に触れる。
「行ってほしくない。ずっとそばにいてほしい。なまえを愛している」
彼の発する一言一言がなまえの胸を貫く。初めて、彼が自分のために抱く愛情がこんなにも深いものであることを知った。
「なまえはちがう?元の世界と私などとでは比べようもないけれど」
その問いに、なまえはずっと誰にも言わなかった想いを口にする。
「アルスラーンが愛してる。私も、本当はずっと一緒にいたい。・・・帰れるかどうかも分からない」
そのことなら、そう彼が言おうとするのを制して、なまえは続ける。
「お願い、聞いて。アルスラーンの気持ち、本当に嬉しい。でも私ひとりのものじゃないから」
たとえ帰ることが叶わなかったとしても、気持ちが通じ合っていたとしても、彼には王太子という身分がある。
なまえには何もない。
「私は大丈夫。多分ひとりでもなんとかなると思う。だめならそれは仕方のないことだから」
「なにを馬鹿なことを。なまえ、私があなたを放り出すはずがないだろう。・・・必ず守ってみせる」
無理だよ、となまえは涙声で頭を振った。
「無理だよ、アルスラーン・・・できるわけない。認められることなんてないよ」
「なまえ。私を見て」
滲んだ視界に映る彼の青い瞳を見上げる。
「信じてほしい。私のことを」
「・・・っ」
「あなたを決して悲しませはしない。約束する。ずっとそばにいる」
「で、も」
「たとえまた離れる時があっても、心はずっと共にいる。・・・私のことを気にかけてくれるのは嬉しい。でもあなたを失ってしまうなら、そのほうが私にとってずっとつらい」
アルスラーンは言葉を紡ぐ。
「愛している、なまえ。今も、これからもずっと」
「・・・信じて、良いの?」
「もちろん。大丈夫だ。絶対に」
力強く告げたアルスラーンに対し、ようやくなまえは笑顔を見せる。
「ごめん、本当にいろいろ迷惑ばっかりかけて」
「こちらこそ。なまえ、シンドゥラに行っている間に感じたことがあるんだ」
そこで言葉を切ると、彼は穏やかに微笑んだ。
「私なたについてもっと知りたい。好きな物、嫌いな物・・・この世界に来て感じたことを、教えてほしい」
「もちろん。なんでも聞いて」
離れていた時間を埋めるように、ふたりは遅くまで語り合った。

***

王都エクバターナに向けて出兵する2日前のことであった。
アルスラーンの話し合いの同席者として、ナルサスはダリューン、キシュワード、ファランギース、ギーヴ、ルーシャンを選ぶと、彼らの顔を順に見渡す。銀仮面の件について話し始めた彼は、思いもよらぬ言葉を口にした。
「銀仮面の人物の正体は、ヒルメス王子と申します」
その人とはアルスラーンにとって従兄であり、現国王であるアンドラゴラスの兄、オスロエスの息子だった。オスロエスが急死したため、アンドラゴラスが王の座を継いだのだが、その経緯に不審な点が多いことは、宮廷に仕える者の間にあって公然の疑惑にも近い。
詳しい事情を知らないアルスラーンのために、ナルサスは前後関係を説明する。
「・・・事実なのか?」
こればかりは分かりませぬ、そう首を振った軍師が語る言葉の先が、彼の耳にはどこか遠くの国の言葉であるかのように響いていた。

***

その夜、忘れかけていた事件が急展開を見せた。
突然現れた黒い影が倉庫に火を放ち、そしてとうとう追い詰められ、もう片方の腕も切り落とされたのだ。片腕の不利をおぎなうために毒手に改造されたそれを見て、集まった者たちはその執念に驚く。翌朝、水底から上がった死体は顔がつぶされており、とうとう身元は判別できなかった。
そして、出征前夜。
士気が高まっている前夜祭でのにぎやかな雰囲気の中で、ギーヴとイスファーンの間には不穏な空気が流れ始めていた。
「きさま、俺の兄を射殺したというのか」
一瞬、呆然とした瞳に、血の色をした激情が混ざる。周りがその様子をはやし立て、ギーヴはますます鋭い舌鋒を浴びせた。
「周囲に味方が多いと強気になる奴」
騒ぎを制したのは、意外にも女の声だった。
「双方、剣を引け!王太子殿下の御前なるぞ!」
なまえは、その場面には立ちあってはいない。後になり、彼がいない理由を知って驚いたのだ。
苦虫を噛んだような表情をイスファーンが浮かべているのも、これで納得がいく。
「そんな・・・たった、それだけで」
アルスラーンをこれまで支えてくれた大切な存在が仲間同士の争いでいなくなってしまうことは、決して嬉しいニュースではない。当然、今回の出兵にも参列しない彼女にナルサスはそっとささやく。
「あれは演技だ」
「え?」
王都やルシタニア軍の内情を探らせるのがその理由のひとつだったが、新旧の家臣に生まれるべきではない争いの芽を前もって摘んでおくことも必要だった。
「そうだったんですね。良かった」
「君にはいつも後始末ばかりを頼んでしまうな。本当に申し訳ないと思っている」
「そんなこと。できることしかできませんから」
彼女の返答にナルサスは「そうだな」と笑う。
「本当に君は成長した。手放すのは惜しい」
視線をそらしたなまえは言い過ぎです、と口にする。
「そんなふうに言われてしまったら・・・帰りたくなくなります」
まるで冗談のようにそう言った相手にナルサスは目を細めた。
「もしも帰りたくないと願うなら、本当になるのか?」
「それは・・・分かりません」
「君がそれでも良いのなら、案外ここでの生活も性に合っているのかもしれないな」
そう言って歩き去っていたナルサスの言葉が、なまえの頭でくり返される。
しかし、その意味を考えていると地図をまとめる手が止まってしまうので、しばらくの間は忘れておくことにした。

***

送り出す側に立つのは二度目だったが、あの時の不安な気持ちはなくなっていた。
アルスラーンは一度、彼女に向かって大きく手を振る。
この先に控えるチャスーム、そして聖マヌエルというふたつの城塞を攻略するにあたって、数々の戦いを生き抜かなければならない。
そして再び出会う時、多くの経験を積んだ彼にさらなる大きな試練が与えられることを、その時はまだ知らなかった。


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