昼、社食で買ったおにぎりを食べながら出かかった大きな欠伸を噛み殺す。
すぐに出て行けとは言わないからせめて奴を上手く手懐けないと、このままじゃ身体が保たない。
かと言って人間の躾方法なんて検索する勇気もない、とりあえずブラウザを開いて「大型犬、しつけ」と検索してみた。


「なまえちゃーん、お疲れ様」

「ひ、」


頬にヒヤッとした感覚して肩が跳ね上がる。振り向いたら同じ部署の先輩が立っていた。


「缶コーヒーあげる」

「あ、ありがとうございます」

「犬飼ってんの?スマホちょっと見えちゃった」

「あぁ、犬ー…というかそうですね、うん。まあ、あんまり可愛気はないですけど」

「もしかして言う事聞かない系?大型犬とかだと最初は大変だよね。でも懐くとやっぱ可愛いもんだよ」

「先輩、犬飼ってましたっけ」

「昔実家でね、俺が一番好かれてたんだ。飴と鞭を上手く使いわければ案外上手く行くもんだよ」

「飴と鞭、ですか」


良い事した時には褒める、悪い事したら叱る、みたな話だよね。そんな単純な手が通じるのか…?というか奴が、褒められるようなことなんてあったけ。


「よかったら他にも俺が色々教えてあげよっか」

「いえ、もう充分なのでー…」

「釣れないなぁ。久々に付き合ってよ、コレ」


手で飲みのジェスチャーをされて顔が引き攣る。
入社した時から私はこの人が苦手だ。よく誘ってくるくせに酒癖も悪いし。でも先輩だし、お世話にはなってるし、無下にも出来ず結局毎回頷いてしまう。

頭の片隅に浮かんだ神威くんの顔。私もあれくらい図太く生きられたらな。






その日の晩。なんとかサシ飲みに耐え、お開きになった頃には終電ギリギリだった。時計を見ながら走って駅に向かう途中で、パキッと足元から良い音がしたと思ったら同時にバランスも崩れた。
見たらパンプスのヒールが見事に折れていた。


「もー…最悪」


どうしよう。と言っても裸足は絶対やだし、電車は捨ててどっかでタクシー拾って帰るしかない。イタイ出費だ。
折れたヒールをタオルに包んでアンバランスな状態で再び歩き始めた時、後ろから誰かに肩を掴まれた。


「なまえちゃぁん大丈夫?よかったら俺が金出すから、泊まってく?」

「せ、先輩…帰ったんじゃ…?」

「こんなチャンスなかなかないからさぁ。引き返してきたんだけど、正解だったね」


折れたパンプスを見て下品に笑う酔っ払いを見たら、神威くんの顔がいかに綺麗だったかを思い出した。
ぐいぐい腕を引かれ、途中脱げてしまったパンプスも恐怖で拾う間も無く、薄暗いネオン街に引きずり込まれてく。

こんな時に思い出すなんて自分でも都合が良いのはわかってる。けど、助けてほしい。

真っ先に口が動いてしまった時点で、多分敗北したのは私の方だ。


「助けて…っか、っ神威くん…」

「呼んだ?」

「っひ、」


まさかコンマ2秒で返事が返ってくるとは思わず、自分で呼んだくせに飛び上がってしまった。
やっほーなんて呑気に手を振りながら前方から歩いてくるのは紛れもない、神威くんだ。
なんでいるの?と私が聞く前に、先輩は私と神威くんを交互に見ながら怪訝そうな顔で「知り合い?」と尋ねてきた。
弟…なーんて一瞬誤魔化そうとも考えたが、よく考えたらこんな奴に体裁なんて気にする必要もない。迷わず即答してやった。


「大型犬ですね、昼間話してた」

「え…?」

「ははっどうも、番犬です。いい加減離してもらっていいかな?」


それ、俺の飼い主なんだ。

何故かノリノリの神威くんが私の腕を掴んでた先輩の手をすかさず捻り上げ、軽々と持ち上げた。
声にならない悲鳴を上げる先輩とは対照的に神威くんはニコニコいつもの笑顔を浮かべていたが、やがて薄く開いた瞼。

初めて見る神威くんの瞳は、深いブルーの、とても綺麗な色をしていた。


「次、俺の飼い主に変なちょっかいかけたら…殺しちゃうぞ」

「ひっ…」

「か、神威くん!ありがとう、もう充分だから!帰ろう」

「はぁい」


珍しく聞き分けが良い。慌てて駆け寄ると何事もなかったように先輩を解放して、今後は私に向き直った神威くん。そして迷わず腹部に回ってきた腕が、米俵でも担ぐように今度は私の身体を持ち上げた。
その細い腕のどこにそんな力があるのか知らないが、身体は宙ぶらりんなのに安定感がすごい。


「ちょ、大丈夫!自分で歩けるから…は、恥ずかしいって」

「でも靴ないでしょ、どこで落としてきたの?」

「……この道の、もうちょっと先」

「りょーかい」

「…ねえ、神威くん」


あの日助けた恩義なのだろうか。相変わらずその笑顔の下に、何を考えているかなんてわからないけど。


「都合の良い時だけ縋ってごめん。今日は助かった…ありがとう」

「ははっ。ほんとはなまえのカードで買ったピザ、取りに行く途中だっただけなんだけど」

「なに?」

「嘘。帰り遅かったら探しに来てよかったよ、初めて名前で呼んでもらえたし」



神威くんを、拾う。




さらりと放たれた一言に、ちょっとだけ胸に矢が刺さってしまった。
なんだか私の方が飴と鞭食らってないかなこれ。


「なまえに拾われた日もこんな天気だったよね。今にも雨降りそうな微妙な感じ」

「ロマンチックの欠片もないね。神威くん血まみれだったし死んでるのかと思ったよ」

「あの日は寝不足だったからさ、起きて知らない部屋いた時は流石に驚いた」

「え、あれって気絶とかじゃなくて…寝てただけ?」

「当たり前だろ。俺、擦り傷すらもらった事ないから」


ちょっと可愛い、とか安易にときめいてしまったが、人生は重要な選択肢の連続とは…よく言ったものである。誰が言ってたんだっけな。

露草

もどる