海神の約束



ざざーん、ざざーんと遠くから波の音が聞こえる。
それだけで、後は静かな海だった。
波打ち際を歩く。
波が足元に寄っては、砂を攫って戻って行く。
わたしは、攫われた砂の下から現れた貝殻を拾って耳に当てる。
コォォ...と聞こえた貝殻の音は、まるであの日の君からのメッセージのようだった。






「すみませーん」

誰もいない海辺で声が聞こえた。
振り返ると、スニーカーを手に持って、濡れないようにダメージジーンズの裾を上げた男の人がわたしに手を振って歩いてくる。
わたしは、その場で立ち止まる。

「なんですか?」

距離が近くなって、返事をする。

「この辺で、足洗えるとこってない?」
「確か、あっちの方に」

わたしは、振り返って自分の向かっていた方向を指差す。

「おっ、逆方向じゃなくてよかった」と彼は、そう言ってわたしを見る。

「ありがと」

たいしたことはしていない、とわたしは首を振ると、再び浜辺を歩き出す。
向かっている方向が同じなのだから、彼と足跡を並べて。

「俺、黒尾。君は?」
「.........、ジュン」
「ジュンちゃんは、どこ向かってんの」

黒尾、と名乗った男性は警戒する必要はない。と言った風に笑う。

「散歩」
「散歩か。もっと寒いかと思ったけど、意外とまだイケるもんだな。お陰で、こんな目にあったけど」

黒尾の手に持っているスニーカーは、砂まみれでぐったりと濡れていた。
猫みたいな人だ、というのが彼の第一印象。
好奇心は猫をも殺す、なんて言葉があるけど、この場合は好奇心は猫をも濡らすと言った感じ。
穏やかな海は突然、びっくりする波を起こす。

「この辺の、人じゃない?」
「東京住んでんの。今は親戚の家に来てるだけ」
「ふぅん」

秋はだんだん冬に向かっていて、海風は冷たくなってきた。
もうすぐ、日が落ちる。
青かった海が、赤くなってゆっくりと黒く染まっていく。

黒尾が会話を繋ごうと、東京や自分の話をするのを並んで聞きながらわたしは相槌を打つ。
彼は、高校2年生で子供の頃からずっとバレーをやっているという。
親戚の集まりの為にこの辺の週末は、毎年ここへ泊まりに来る。
この海には、家でバレーボールを触っていても、いつも練習に付き合ってくれる幼馴染がいなくて出来ることが限られるからと散歩に来て、好奇心から波打ち際に近寄ったら靴が汚れてしまって困っていた、とのこと。
わたしの中に、彼の情報が蓄積されていく。

「東京とか、行ったことない?」
「ここから出たことないから」

わたしは、この海以外の景色を見たことがない。
彼はとてもお喋り、という印象はないが何か会話をしていないと落ち着かない風に見える。

「じゃあさ、来年もいる?」
「いるよ」
「こっち来たら、また此処に来るから」
「...わかった」

その、約束が何を意味するものかはよくわからなかったけれど、わたしは今までがそうであったように、これからも此処にいるのだろう。
離れることも、動くことも出来ずに。

しばらく歩いたところで、この海の終わりを告げる防波堤が見えた。
立ち止まると彼は「どうした?」と言う。
わたしは、無言で海に真っ直ぐ伸びる防波堤の逆、陸地の方を指差す。
そこには、海水浴で来た人が利用できる簡易シャワーや水道がある。

「ここまで一緒に来てくれて、ありがとな」
「ううん」

わたしたちは、寄せては返す波を背にそちらへ向かう。
水道に着いて、黒尾が蛇口をひねるとバシャバシャと海とは違う、綺麗な水が出てきた。

「洗っても、また歩けば無駄だとは思うけど...っと」


乾いてきた砂を落としてから、軽く靴を洗って足を洗う。
濡れた靴に、濡れたままの裸足を突っ込むのは変な感じがしたが、とりあえず帰ることには問題がないだろう。
「ありがとう」と改めてお礼を言おうと振り返ったが、そこにはジュンと名乗った女子は居なかった。
いつのまに?という疑問を抱きながら周りを見るが、姿も見えなければ気配すらない。
突然、耳に入った車のエンジン音で我に帰る。
辺りは、暗くなってしまったし、この辺に住んでいるというのだから俺が変に探して迷うよりも問題はないだろうと判断して、家に帰る。










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