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 "どうして"なんて、今更考えたところで結末はもう変わらない。口から滑り落ちた言葉が戻って来ることはないし、それによって生まれてしまったこの気まずい空気が消え去るなんてこともありえないだろう。
 想いを告げる前に私の中に芽生えていた仄淡い期待は、一瞬にして弾けてしまった。現実はやっぱり残酷だったと、つい先ほど思い知らされて、目が覚めた。私は初めて人を好きになって、そして、初めて失恋をした。

 8月ももう少しで終わりを迎える。今朝の天気予報で、宮城県に今年最大級の台風が近づいてきているとお天気お姉さんが言っていた。そのため窓の外は雨。ザァザァと激しい音を立てて滝のような雨が空から降って来ていた。
 学校の2階の廊下。1メートルくらいの距離をあけて私と影山くんは立っていた。私はうつむいているから、影山くんがどんな表情をしているかは分からない。だけどこれだけは分かる。私たちの間に流れる空気は、重い。この場の湿気をたっぷりと吸ってしまったように空気には重みがあった。私はぎゅっと唇を噛みしめてこみ上げて来る涙と押し寄せる後悔を必死に堪えていた。握った拳は小刻みに震えていた。

"好きです"

 たったの4文字の言葉を口にした途端、彼は目を大きく見開いて驚きを露わにした。私が何をやってしまったのか、どれほど大きな失態を犯してしまったのか気付くまでには1秒もかからなかった。私は自分の内に秘めていた募りに募った想いを、なぜかなんの前触れもなく口に出してしまったのだ。
 好きだった。バレー一筋で、掲げた目標に対して真剣でまっすぐで、ただそれだけを見つめてひたむきに頑張っている。そんな影山くんを好きになってしまった。普段はぶっきらぼうだけど、バレーの話をしながら目を輝かせて生き生きとする彼に胸がときめいてしまった。歓喜に溢れる笑顔も、悔しさに満ちた背中も、ボールを追いかける真剣な眼差しも、私には全部が格好良く見えてしまう。あの日、私が体育館へ足を運んだ時からずっとそうだ。昼休みにサーブを打っている彼を見たあの瞬間から私の日常は大きく変わった。

―――初恋だった。

 だけど私は自分の中の気持ちを自覚してから固い誓いを立てていた。頑張っている彼の邪魔だけはしたくない。だから気持ちは絶対に伝えない。そう固く決めていた…はずだった。はずだったのだ。それなのに、私は溢れた感情を抑え込むことが出来なかった。廊下で見かけた彼の大きな背中を見て、話したいと思った。ほんのちょっとでいいから、言葉を交わしたいと思ってしまった。いつものように胸がぎゅっと苦しくなる。放課後にたまたま見かけただけ。たったそれだけで顔を見たい、声が聞きたい。こっちを向いて欲しいだなんてわがままが自分の中で疼いてしまう。好きになればなる程どんどんわがままになっていってしまう。そんな自分が堪らなく嫌だった。
 そして、今日。ほんの10分ほど前。今朝のことがあって浮かれてしまっていた所為だろう。
"―――影山くん"
 放課後の廊下。私は彼を呼び止めてしまった。
 すべて終わってしまっただろう。こんな私がそばにいれば影山くんにとって邪魔になってしまうはずだ。それに、今まで通りに普通に接することが出来るか、話しかけた時に彼はどんな反応をするのだろうか、考えただけで怖くて怖くてたまらない。せっかく築いたこの関係も、私が自ら崩してしまった。なんてばかなんだろう。

「雪森」

 長い沈黙を経て、影山くんが口を開く。うるさい雨音の中でも彼の澄んだ声は私の耳によく届いた。

「俺にはバレーがある」

 彼はきっぱりと言いきった。
"バレーがある"
 分かっていた。分かっていたことだ。影山くんにとって一番大切なのはバレーボール。恋愛なんて頭の片隅にすらない。分かり切っていた。だけど、それでもやっぱり涙がこぼれそうだった。胸が痛くて痛くて、張り裂けてばらばらになってしまいそうだった。

「それにわりぃけど、そういう目で見られんのも正直迷惑だ」

"迷惑"

 その部分だけ綺麗にはさみで切りとったみたいにはっきりと頭の中で響いた。そしてついに、涙がこぼれた。
 ごめんね。ごめんね、影山くん。好きだなんて口に出して、ごめんね。

「……ご、めんね……」

 震えそうになる声を抑えてようやく絞り出したごめんねはやっぱり誤魔化せない程に涙で染まっていた。情ない。自分が勝手に気持ちを伝えておいて期待通りの応えが返ってこなかったからといって涙を流すなんて。情ないし、ずるい。私は唇をぎゅっと噛みしめて必死に涙を堪えた。だけど胸の中の痛みは唇を噛みしめた程度の痛みでは誤魔化すことが出来ず、涙はぽろぽろと零れ落ちる。

「……いや………。俺、部活に行くぞ」

 返事に困ったような声が上から降って来て間もなく、影山くんは私の横を通り過ぎていった。少しだけ顔を上げると、まるでスローモーションみたいにゆっくりと影山くんが近づいて来る。影山くんはまっすぐと前を見て居た。私の方は、見ない。"行かないで欲しい"なんてこの期に及んで思ってしまう自分に気付いて、益々自分がきらいになった。言えない。言えるはずもない。だって、言ってはいけないのだから。私には彼を呼び止める資格などない。

 影山くんは行ってしまった。私は薄暗い廊下にただひとり、ぽつんと立っている。みっともなく涙を零しながら。 終わってしまった。本当に、すべてが終わった。何をしてるんだろうと、後悔をしてその場にしゃがみこむ。そして両手で溢れる涙を拭いながらむせび泣く。頭の中で蘇ってくる昨日までの戻らない時間を思い出すと、もっともっと涙が出た。廊下ですれ違うだけでどきどきして、目が合うと顔が熱くなって、少し話せただけで嬉しかった。もう二度と、あんな日々は帰って来ない。願っても、願っても過去という時間は手に入らない。こんな都合のいい時ばかり神様という存在を頼ることはずるいことだ。だけど、願わずには居られなかった。

 窓の外は雨が降っている。さっきよりも強い雨が。私の僅かな泣き声は激しい雨音にかき消される。このまま彼への気持ちも全部流れて消えてしまえばいいのに。
 叶わないことばかり願ってしまうのは仕方がないことなのだろうか。
神様どうか、あの日に帰して

2016 04/11

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