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珍しく教室に忘れ物をした。部室に到着する前に制服のポケットの中に手を入れるとそこにあるべきものがなかった。

「山口、先行ってて。スマホ教室に忘れたみたいだから取って来る」
「分かった。先輩達には話しておくよ」

そう言って山口と別れて教室へと戻った。外は大雨。うるさい雨音を立てながら物凄い勢いで雨が、というよりも水が降って来ていた。そういえば台風が近づいて来てるんだっけかと今朝の天気予報を思い出しながら僕は階段を上る。その時、影山とすれ違った。お互いの存在に気付いてからなんとなく足を止めた。影山は僕の2段上に立っていて、眉間に皺を寄せながらこっちを見下ろす。その眼力には迫力があった。どうやら機嫌が悪いようだ。

「何やってんだよ」
「そっちこそ」

何をしたわけでもないのに影山はケンカ腰で僕を睨み付けて来る。
まだ何にもしてないのに…。
思わずため息が出た。

「教室にスマホ忘れたから取りに来ただけ。王様こそ、放課後にこんなところにいるなんて珍しいね。日向はとっくの昔に部室に着いてもう着替え終わってると思うけど?」

僕はいつも通りに彼を挑発をする。わざと彼が嫌がるような呼び方を選び、ふっと口角と片眉を上げて嘲笑うように。だけど、影山から返って来た反応は拍子抜けするようなものだった。

「…ああ、そうかよ」

投げやりに言って視線を逸らすと影山は急ぐようすもなく階段を下りて行った。おかしいと感じた。いつもの彼なら日向の名前を聞いただけで感情的になってしまう。"そうかよ"なんて、そんな安い言葉ひとつで片づけたりはしないだろうし、急ぐこともなく階段を下りて行ったりなど絶対にしない。何かがあったと考えた方がいいだろう。しかし別に彼に何があろうが自分にとっては関係はない。だが、この場合例外というものがただひとつ存在する。なんとなく嫌な予感がして僕は少し足早で階段を上った。そして2階の廊下で僕が見たもの。それは、窓の近くに小さく丸まってしゃがみこむ雪森の姿だった。
―――やっぱり。
頭の中で思い描いていた嫌な予感が的中したことに胸がずっしりと重くなった。立ち止まって遠くからその姿を見つめる。彼女はどうやら泣いているようだった。うつむきながら小さな手で必死に涙を拭っている姿が見える。泣き声は大きな雨音にかき消されて聞こえないが、なんとなく分かる。幼い頃から同じ時間をたくさん共有してきた彼女の泣き声を僕は知っている。何度も何度も耳にしてきたその声。大人に近づくにつれていつからか耳にすることはなくなっていったけれど、今でもはっきりと思い出せる。雪森が泣いているところを見るのは本当に久しぶりだった。最後に見たのはもう中学の始めの頃だったかもしれない。そんな彼女を泣かせた犯人はひとりしかないだろう。
僕は雪森に声を掛けようとしてそれをしなかった。だって知っているから。自分は彼女の気持ちを全部知っている。雪森は、影山のことが好きだった。雪森が好きなのは自分ではなく、影山だった。今、彼女が涙を拭ってほしいのはきっとこの手じゃない。自分がついさっきすれ違ったあの男の手だ。考えただけで腹の奥の方から湧き上がって来る焼けるような感情。そして思い出す。彼女の笑顔を。今までに見たことがない程きらきらとした笑顔を。そしてさらに胸を焦がした。自分は10年以上一緒にいてそれでも引きだすことが出来なかった彼女の笑顔を影山はほんの僅かな時間であっという間に引きだしてしまった。悔しいと、思った。心の底から悔しいと。だけど、それと同時に諦めがついた。雪森が自分をそういう風に見ていないことはずっと前から分かっていた。それでもなんとなく諦めることが出来ずにここまでずるずると叶うはずもない好きだという気持ちを引きずって来て、もう5年以上が経つ。丁度いいじゃないか、これで諦めるきっかけが出来た。そう言って無理やり自分を納得させて、ずっと抱えてきた彼女への気持ちを封じ込めた。それが今、ふつふつと蘇る。怒りとともに。
走りだした時にはスマホのことなんて頭の中になかった。全力で階段を駆け下りて全力で走る。今ならまだ校舎の中にいるはずだ。僕は影山を探した。

影山は丁度靴を履いて玄関を出ようとしていて、僕は声を上げて彼を呼び止める。

「ちょっと!」

誰もいない玄関に声がよく響く。僕が呼び止めたことに気が付くと、影山は振り返り眉間に皺を寄せてなんだよと不機嫌そうに言う。全力で走るなんて慣れないことをするからすっかり乱れてしまった息。それを整えることもせず、僕は影山に向かって言った。

「雪森が……ハァ…ハァ…泣い、てた……」

"雪森にを何したの"
そう口にする代わりに思いっきり影山を睨み付ける。するとそれは彼にも伝わったようで、お前には関係ねえだろと影山はこっちを思いっきり睨み付けてきた。関係ないだろという影山の発言によって、こみ上げてきていた感情に火が付く。

「かんっ、けいないわけ…!ないだろ…!!」

僕は影山に詰め寄ると彼の学ランの胸ぐらを掴んで怒鳴りつけた。

「なんで雪森が泣いてたのかってこっちは聞いてるんだ!関係ないとかどうでもいいから答えろよ!」

自分らしくない乱暴な口調で影山にただ感情をぶつける。もう息が苦しいとかそんなことどうでもよかった。ただ、影山の返答に苛立ってそれだけで頭がいっぱいだった。影山は僕が感情的になったことに驚いたようで一瞬目を見開いたけれど、すぐに彼も理性を繋ぎとめていた糸がぷつりと切れたように逆に僕の胸倉を掴みかえしてきて怒鳴りつけた。

「あいつが好きだって言ってきたから迷惑だって返事したんだよ!」

その言葉に胸に灯った火が一瞬にして燃え上がる。そして自分にしては珍しいほどに冷静さを失い、声を上げた。

「なんでそんな返事したんだ!」
「はぁ!?なんでお前にそんなこと言われなきゃなんねぇんだよ!」
「どうしてそんな言い方しか出来ないのかな王様は!」
「その呼び方やめろ!!」
「だから君は王様なんだよ!」

そうだ、どうしてそんな返事の仕方しか出来なかったんだ。もっと、もっと他に言葉があったはず。世の中にはこんなにも言葉が溢れているのに、相変わらず君の頭の中は空っぽみたいだし、何より無神経過ぎる。そうは、思わないのか。

「なんだと…ッ!」
「前だってそうやって自分の感情ばっかりで周りが見えなくなったからあんな試合になったんじゃないの?」
「…あ?」
「君はいつもそうだ。君が変わらない限りそうやってきっとこの先も大事なものを見落として行くんだよ」
「…お前に何が分かんだよ!」

今にも僕に殴りかかりそうな影山は悔しそうな顔をしていた。眉間に皺を寄せ、唇を噛みしめ、心底悔しいって、悔しくて悔しくて堪らないって、そんな顔をしていた。ほら、気付けよ。いい加減。君は、今自分がどんな顔をしているか分かっているのか?なんで自分で気付かない。こんなにも顔に出ているのに、どうして自覚しない。あんな言い方しか出来なかった事が悔しいんだろ?雪森を泣かせたって知って、そんな自分が嫌で嫌で堪らないんだろ?

君は、雪森のことが
―――好きなんだろ。

それを自覚していないからあんな接し方をする。気持ちに応えられもしないくせに。それがどれだけ彼女にとって酷なことか、君には分かるのか?ねぇ、王様。だから君は王様なんだよ。

「……ッ」

影山はそれ以上は何も言わなかった。そして荒っぽく僕の胸倉から手を放すと、僕も手を放す。しばらくの間、僕たちはお互いに目を逸らして黙り込んだ。そして影山は踵を返して玄関を出て行った。

ひとりになった僕は影山の胸倉を掴んだ手を見つめる。初めて人の胸倉を掴んだ。その感触は決して良い物とは言えない。ふいに頭の中を過ぎるのは雪森が小さくなって泣いている姿だった。自分はあの時、どうするべきだったのだろうか。こうやってここまで来て影山に感情をぶつけてみたけれど、果たしてそれは今必要なことだったのだろうか。今、本当に必要だったことは、もしかすると雪森の涙を拭ってやることだったのかもしれない。そうすれば、少しは自分のことも見てくれるようになったかもしれないのだから。なんて、まだ諦めきれていない自分に気付いた僕はそんな自分を嘲笑った。
涙を拭えなかったこの手

2016 04/11

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