“偽物の彼女”はじめました
──目の前の及川先輩から突然告白された。
…いや、うん、何を言ってるか分からねぇだろうが安心してほしい、私も何を言われてるかこれっぽっちも分からねぇ。思考回路は完全にショートして、目の前の光景がやけにスローモーションに見える。
季節はもう秋も終わりかけ、冷たい風が吹き始めた昼休みの渡り廊下。私は日直という役割のせいで担任に頼まれ、大量の資料を運ぶ羽目になっていた。その時、元々備わってない運動神経のせいか、乾燥した空気のせいか、見事に足を滑らせバランスを崩すと、紙束を床一面にぶちまけたのだ。
ああ、私のバカ。最悪だ。床に散らばる自分のドジの残骸を前に、泣きそうになりながら拾い集めていると、すっと影が差した。
「大丈夫? 手伝うよ」
聞き覚えのある、少し甘くてよく通る声。恐る恐る顔を上げると、そこには制服姿の及川徹先輩が立っていた。
春高予選が終わって引退されたから、もうあの白とターコイズブルーのジャージ姿を見ることはないんだな、なんて場違いなことをぼんやり考える。少し伸びたチョコレート色の髪が、太陽の淡い光を受けてキラキラしている。
「あ、あの、すみません! 大丈夫です!」
慌てて立ち上がろうとする私を制して、及川先輩は床に膝をつき、慣れた手つきでプリントを集め始めた。
その指先の綺麗さに見惚れている場合ではない。私も慌てて四方に散らかった紙束を回収する。
「手伝っていただいて、ありがとうございます!」
なんとか拾い集めたプリントの束をぎゅっと抱え直し、私は深々とお辞儀をした。顔を上げると、完璧な爽やかスマイルが待っていた。…はずだったのに。
「ねぇ、ナマエちゃん、だっけ?」
「へっ!? あ、はい! そうですけど…なんで私の名前…」
一学年下の、ただの顔見知り程度の後輩ファン。その他大勢。差し入れやプレゼントなどは贈る勇気がないので、試合を見に行ってるくらい。……のはずなのに。名前を呼ばれた衝撃で、耳の奥で自分の心臓がドクン、と大きく鳴った。手汗がじっとり滲む。
及川先輩は、窓の外に広がる青い空に一瞬目を細め、何かを振り払うようにふっと息を吐くと、ニコッと、それはそれは美しく微笑んだ。
「俺と付き合ってみない?」
「………………………ひょえっ!?」
思考が停止する。声は見事に裏返り、間抜けすぎる音が口から漏れた。目の前がチカチカする。
つ、付き合う? え? 誰が? 私が? 及川先輩と? なんで? パニックになった頭は、支離滅裂な言葉を紡ぎ出す。
「つ、付き合うって、あの、えっと、プリント整理とか、そういうボランティア的な意味合いでの『お付き合い』ですか……?」
混乱しすぎて、自分でも意味不明な解釈を口走る。目の前の国宝級イケメン(私調べ)の先輩は、一瞬ポカンとした顔をして、それから、さも可笑しそうに天を仰いで笑う。う、顔が良い。
「あははっ、何それ新しい! 残念ながら違うなー」
楽しそうに否定して、私の目を真っ直ぐに見つめてくる。やめて、心臓が持たない。
「男女として、ってこと」
……だんじょとして。
その言葉の重みが、じわじわと頭に染みてくる。
無理だ。ありえない。だって、だって、この人は、あの及川徹で。私は、ただのモブで。こんなの、あまりにも釣り合わない。世界線のバグだ。
「なっ、なんでですか!? 無理です無理です! 及川先輩がこんなモブ女に告白するとか解釈違いです!! 神に誓ってありえません! 私なんかじゃ先輩にふさわしくないです! ごめんなさい!!!」
早口でまくし立て、何を言ってるか自分でも分からないまま、私は後ずさる。目の前の及川先輩は、私のそんな反応が予想外だったのか、微笑んだ顔のまま固まった。ピシリ、という音が聞こえた気がする。
そうだ、これは現実じゃない。きっと疲れてるんだ。早く自分の教室に帰ろう。うん。
「ご、ごめんなさい失礼します!!」
ほとんど悲鳴のような挨拶を残し、私は踵を返して全力で走り出した。
「……へっ!?」
後ろで、呆然としたような、聞いたことのないくらい間の抜けた及川先輩の声が聞こえた気がしたけど、振り返る余裕なんてあるはずもなかった。
——そして放課後。
夕暮れ時の教室は、部活に行く生徒たちと、帰り支度をする生徒たちのざわめきで満ちている。私はと言えば、昼休みの奇行を思い出しては机に突っ伏し、深い深いため息をつく作業を繰り返していた。
「ナマエー、帰ろー」
「…うん…もうちょっとだけ、こうさせて…」
友達の呆れた声が頭上を通り過ぎていく。その時だった。
教室の後ろのドア付近が、急に騒がしくなった。女子たちのひそひそ声と、男子の「マジかよ」みたいな声。なんだろう、と重い頭を上げると、信じられない光景が目に飛び込んできた。
「ナマエちゃんいる?」
入り口で教室を覗き込んでいるのは、紛れもなく及川先輩だった。なんでここに。
教室が一瞬シン、と静まり返り、全ての視線が彼に釘付けになる。そして、ゆっくりと、その複数の視線は、私の方へとスライドしてきたのだ。嘘でしょ?
「え…?」
「あ、いたいた」
「は、はい…?」
及川先輩が、形の良い唇の端を少し上げて、私に向かってくいっと顎をしゃくる。こっちに来い、とでも言うように。
「えええええええええええ!?」
今度こそ、教室は興奮のるつぼと化した。女子の黄色い悲鳴と、男子の野次と、好奇心と嫉妬が渦巻く視線。その全てが、私に突き刺さる。生まれて17年間、陰の者として生きてきた私にはしんどい。胃がキリキリする。
クラスメイトたちの複数の感情が渦巻く視線の集中砲火を浴びながら、私は幽体離脱でもしたかのように、ふらふらと席を立つ。
教室を出ると、及川先輩は何も言わずに歩き出し、私は少し後ろをついていく。彼の歩く速度はリーチの長さゆえか、女子の平均身長である私は小走りしないと着いていけない。まるで、私のことなど気にしていないような足捌きだ。
辿り着いたのは、三階の端の使われていない空き教室だった。使わなくなった机や椅子が乱雑に並べられており、至るところでダンボールが積み重なっていて、資材置き場みたいになっている部屋だ。ドアを開けると、ひんやりとした空気と、カビと埃が混じったような独特の匂いが鼻をつく。
バタン、と無情にもドアが閉められ、私たちは完全に二人きりになった。窓の外の夕陽のオレンジが、室内に差し込んでいる。静かだ。自分の心臓の音だけがやけに大きく聞こえる。私は声を震わせながらも、ここに連れてこられた意図を尋ねた。
「……あの、及川先輩、一体、なんのご用、でしょうか…?」
「ん? さっきの話の続き」
壁に軽く背中を預け、腕を組んだ及川先輩は、こともなげに言った。窓から差し込む西日が、彼の輪郭を縁取っている。
──さっきの話。続き。
私の心臓が、期待で破裂しそうになる。もしかして、やっぱり、さっきのは本気で…? 私なんかが、信じてもいいの…?
「あ、あの、さっきは、本当に、その、取り乱したりして、すみませ…」
「いいよ別に。ああいう反応、新鮮で面白かったし」
昼休みの光景を思い出しているのか、先輩はクスクスと笑って肩をすくめた。
「で、改めて聞くけど」
声のトーンが、少しだけ真剣な響きを帯びた気がした。
「俺と、付き合ってみない?」
夕日に照らされた彼の瞳が、真っ直ぐに私を見つめている。ビー玉みたいに澄んだ茶色に、私の呆けた顔が映っている。今度こそ、聞き間違えじゃない。言葉の意味も、ちゃんと理解できた。
脳内が、一瞬にして沸騰する。頬が熱い。目の前が、幸せなピンク色に染まっていく。あの、憧れの及川先輩が、私に。
「は、はい! あのっ、私なんかで、よければ…!」
自分でも驚くくらい大きな声が出た。食い気味の返事に、及川先輩はふっと笑みを深め、満足そうに頷く。そして。
「ま、W偽物Wの恋人、だけどね」
「…………………………へ?」
世界から、色が消えた。音が消えた。さっきまでの幸福感は、一瞬で凍てつく氷に変わった。
え? いま、なんて? にせもの? フェイク?
「……どういう、こと、ですか…?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。
「んー、だから、言葉通りだよ。本物の彼女じゃなくて、彼女の『フリ』をしてほしいってこと」
あっけらかんとした口調。悪びれる様子は、微塵もない。
「俺さー、引退してからちょっと面倒なファンが増えちゃってさ。卒業するまで、学校に通う間は彼女がいるってことにしときたいわけ」
言いながら、彼は窓の外に目を向ける。その横顔は、どこか遠くを見ているようで、少し寂しそうにも見えた。
「相手は誰でもよかったんだけど…」
視線が、私に戻る。品定めするような、冷たい光。次いでニコッと音が聞こえそうなくらい眩しい笑顔を見せた。
「君、この前、体育館裏でファンに突っ込んでたでしょ? 俺のこと助けようとして」
…ギクッ!! ま、まさか、あの時のことを言ってる…!?
——あれは確か、数週間前の放課後。
秋晴れの空がオレンジ色に染まり始めた頃だった。私がクラスのゴミ当番で、パンパンに膨れたゴミ袋を両手で抱え、体育館裏手にある少し寂れたゴミ捨て場に向かってとぼとぼ歩いていた時だ。
ふと視線を上げると、少し離れた体育倉庫の近くに、見慣れた…いや、決して見慣れることなんてない、特別な人の後ろ姿があった。夕日に照らされた、しなやかなシルエット。チョコレート色の、少し癖のある髪。──及川先輩だ。
(ああ、今日も今日とてこの世のものとは思えないほどかっこいい…眼福、眼福…)
なんて、心の中で手を合わせながら、気づかれないようにチラチラと視線を送っていたら、なんだか様子がおかしいことに気がついた。
先輩は一人じゃない。制服を着た数人の女子生徒に、囲まれるようにして立っている。それ自体は珍しいことでもないので、いつもなら気にもとめないのだが、微かに聞こえてくる声が、明らかに穏やかじゃない。
「んー、応援してくれるのは本当に嬉しいんだけどね。でもごめん、今は彼女とか作る気はなくてさ」
必死に笑顔を作っているけど、困ったように宥める先輩の声が聞こえる。
「なんでですか!? 及川先輩、もう部活引退したじゃないですか!」
「そうですよ! 前はバレーに集中したいからって断られたのに!」
「私たち、ずっと待ってたんですよ!?」
「別に、ちょっとお茶するとか、遊ぶくらいならいいじゃないですか!」
甲高い声が、まるで尋問みたいに代わるがわる先輩に浴びせられている。
わ、わわ…これは、かなり厄介なタイプのファンだ…。私がいつも遠くから見ているだけの平和な世界とは違う…。
「いやぁ…それはそうなんだけど、今はちょっと進路とかで色々忙しくてさ…。ごめんね?」
先輩が、明らかに困り果てているのが、距離があっても分かった。いつも自信に満ち溢れてキラキラ輝いているはずの、あの綺麗な顔が、曇っている。そんな顔、させちゃダメだ。ファンなら、絶対に。
「なんで!? 試合の後とか、私たちに手振ってくれたじゃないですか!」
「そうですよ! いつも優しくしてくれて! こっちに気があるみたいに思わせといて、ひどくないですか!?」
「えええ…ちょっと、落ち着いてってば、君たち…」
ああ、もう見てられない! 先輩が本当に困ってる! 誰か、助けてあげてよ!
…いや、違う。私が、助けなきゃ!
そう思った瞬間、気づけば私は走り出していた。重いゴミ袋をその場に放り投げるのも忘れて。砂利を蹴る音が、やけに大きく響いた。
「ちょっと!!!!!」
突然響いた私の声に、その場の全員の動きがピタリと止まる。女子生徒たちが、怪訝そうな、あるいは敵意むき出しの顔で一斉に私を振り返る。そして、囲まれていた及川先輩も、文字通り、鳩が豆鉄砲を食らったみたいに目を丸くして、呆然と私を見ていた。
複数の視線を浴びて、ひぃぃっ、と心臓が縮み上がる。や、やっちゃった…でも、もう後には引けない!
私は、ずかずかと先輩を囲む女子たちの前に進み出て、仁王立ちになって叫んだ。両手にはパンパンになったゴミ袋を持って。
「そんな、しつこく付きまとって! 害悪ファンみたいなこと言って先輩を困らせるなんて、ファン失格です! ファンなら! 先輩が困ってるって分かりませんかっ!?」
きっと、顔は真っ赤で、声は裏返って、体は小刻みに震えていたと思う。でも、言わずにはいられなかった。憧れの先輩の、あんな困った顔、二度と見たくなかったから。
──って、後先考えずに突っ込んじゃったんだっけ。
あの後、ファンたちは一瞬呆気に取られて、それから「なんなのよアンタ!」みたいに言い返してきたけど、なぜかタイミングよく岩泉先輩が通りかかって事なきを得て…いや、むしろ岩泉先輩に「お前ら何やってんだ!」って一緒に怒られて、私は私でその場から逃げ帰ったんだけど…。
まさか、あの恥ずかしい一部始終を、及川先輩本人がしっかり覚えてたなんて。
もうダメだ。顔が熱い。耳まで真っ赤になっているのが自分でも分かる。穴があったら埋まりたい。
「あの時はどうも。結構派手にやってたよね。見てて思ったわけ。あんな無茶できる子なら、もし俺の『彼女』ってことで、ちょっと厄介なファンに絡まれても、なんか物理的に強そうだし、大丈夫そうだなって」
……物理的に強い…? え、ショックすぎる。
「──それに」
及川先輩は、楽しそうに目を細める。御伽話に出てくる意地悪な猫みたいに。
「君自身も、俺のこと詳しそうだし? 熱心に応援してくれてたみたいだし? 彼女のフリするの、上手そうだなって。だから、思い出作りみたいな感じで、軽く考えてみない?」
「………」
「憧れの及川さんと、偽物だけど恋人になれるチャンス☆って思ってさ。別に君も、本気で恋愛的な目で俺のこと好きなわけじゃないんでしょ? 俺が卒業したあと、あの及川を落とした女ってモテる可能性もあるしさ」
頭の中が、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられる。
厄介ファン避けの、都合のいいダミー。物理的に強そうだから、盾代わり。
私の気持ちを、逆手に取るような言い方。私は、ファンとしてももちろんだけど、1人の男の子としても、先輩のことを追ってきたつもりだったのに。これじゃ、好きになっても無駄だ、と言われてるようなものだ。
ひどい。あんまりだ。涙が滲んできそうになるのを、必死で堪える。
ショックと怒りと悲しさで言葉を失っている私に、及川先輩は追い打ちをかけるように、完璧な王子様スマイルで問いかけた。その瞳の奥は、冷たく光っているように見えた。
「で? どうする? 俺と恋人、なりたくない?」
偽物だけど、という言葉が含まれているのは口にされなくても分かる。
なりたくない?
大好きな及川先輩の彼女に?
「なりたくない…」
「……え?」
「なんて……んなわけあるかい!!!!!」
気づけば、私は空き教室に響き渡るほどの大声で叫んでいた。そして、次の瞬間、勢いよく腰を折り、床に向かって頭を下げていた。
「よろしくお願いします!!!!!」
だって、仕方ないじゃないか。偽物でもいい。期間限定でも構わない。どんなに酷い理由で利用されるのだとしても。
この、ずっと遠い場所から見つめることしかできなかった、大好きな及川先輩の、「特別な存在」になれるチャンスなんだ。たとえそれが、虚像だとしても。逃すなんて、できるはずがなかった。
私の渾身の九十度のお辞儀を見て、目の前の及川先輩が、ふう、と小さなため息を漏らすのが聞こえた。
「チョロすぎでしょ、君……。逆に心配になるんだけど」
その声は、心底呆れているようで、でもほんの少しだけ、困ったような、優しいような響きが混じっているように聞こえたのは、きっと私の気のせいだ。
夕日が長く伸びる埃っぽい空き教室で、私の、期間限定の、秘密まみれの、「偽物の恋人」生活は、こうして、あまりにもあっけなく、そして嵐のように幕を開けたのだった。