一目惚れ設定はやめてください

 昨日の衝撃的な出来事の後、私は一睡もできずに朝を迎えた。

 ……と言いたいところだが、現実は非情である。お母さんが「昨日なんか元気なかったから!」と妙な張り切り方をして食卓に並べた、山盛りの生姜焼き定食(朝から)をしっかり完食し、なんなら昨夜もいつも通り22時半には爆睡。
 目覚まし時計がけたたましく鳴るまで、一度も目を覚ますことはなかった。

 ──私、もしかして鋼のメンタル…? いや、ただの能天気なのか。

 自分の図太さに若干引きつつも、今日も登校する時間はやってくる。
 とはいえ、制服に着替え、家を出て、見慣れた通学路を歩き、校門が見えてくるにつれて、昨日の出来事がフラッシュバックする。

 空き教室での、あの及川先輩の言葉。
 W偽物の恋人Wという信じられない契約。
 そして、私の「よろしくお願いします!!!」という渾身のお辞儀。

 ああああ、やっぱり思い出したら恥ずかしい!

「……おはよう」
「おはよー! あんた昨日、なんかすごかったらしいじゃん!」

 教室のドアを開けた途端、待ち構えていた友人たちに捕獲された。

「…え、何が?」
「とぼけないの! 及川先輩に呼び出されてたって、もうみんな知ってるんだから!」
「及川先輩に彼女ができたかって大騒ぎだよ!?」
「まさかあんたが相手とか、ないとは思うけどぉー?」

 ニヤニヤと探るような視線。私は必死で笑顔を貼り付け、「い、いやいや、なんでもないって!」と手を横に振る。しかし、私の挙動不審な態度は、さらに友人たちの好奇心を煽るだけだった。

「怪しー!」
「なんか隠してるでしょ!」
「白状しなさい!」

 私が口ごもっていると、周りにいた他のクラスメイトたちも「なになに?」「昨日のって、やっぱ及川先輩となんかあったの?」と集まってきて、あっという間に私は質問攻めの中心人物になっていた。
 女子のキラキラした(友人以外からは嫉妬の炎が見え隠れする)視線と、男子の面白がって囃し立てる声。胃が痛い。

「おいお前ー、マジで及川先輩とデキてんのかよー?」
「昨日のってまさかの告白? ないない!」
「そりゃないだろー。及川さんがこいつとか、罰ゲームかよ!」

(誰だ、いま罰ゲームって言ったやつ! 後で絶対覚えとけよ!)

 と心の中で叫ぶが、口からは「あ、あはは…」と乾いた笑いしか出ない。だって実際はもっとひどい理由なんだもん…。

「えっと、その、昨日のは、ちょっと先輩が私に用事があって…」

 私が必死で言い訳を考えていると、それまで騒がしかった教室が、ふいにシン、と静まり返った。教室中の視線が、一斉に教室の後方入口へ向かう。
 何? と思って振り返ろうとした、その瞬間。私の頭の上に、ぐっと重みがかかった。見慣れた制服の白い袖。そして、頭上から降ってくる、低くて甘い声。

「その通りだよ」

 え…?

 心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。恐る恐る見上げると、そこには、私の頭に腕を置いて、完璧な笑顔でクラスメイトたちを見下ろす、及川先輩が立っていた。
 見慣れているはずのブレザー姿なのに、他のどんな男子生徒とも違う、圧倒的なオーラを放っている。

 教室は、一瞬の静寂の後、大爆発した。

「きゃああああああああ!!!!」 
「おいマジかよ!!!」
「え、今の『その通り』って…!?」

 悲鳴と興奮と嫉妬が渦巻くカオスの中、及川先輩は全く動じず、完璧な爽やかスマイルを崩さない。

「この子、俺の彼女だから。悪いけど、あんまり困らせないでやってくれる?」

 そして、私の肩をぐっと引き寄せると、クラス全員に聞こえる声で宣言した。

「よろしくね」

 私は羞恥と混乱と、ほんの少しの優越感で完全に思考停止していた。顔から火が出そうだ。

「じゃ、そういうわけだから」

 及川先輩は、集まった視線をものともせず、私の腕を掴んだ。思ったより力が強い。

「ちょっと来て、ナマエちゃん」
「へ!? あ、あの、もうすぐ朝のHRが…!」
「いいから、早く」

 有無を言わさぬ口調。私は、まるで親猫に首根っこを掴まれた子猫みたいに、なすすべなく教室から連れ出された。廊下ですれ違う生徒たちの、「え!? あの二人って…!?」みたいな視線が、背中に突き刺さる。

 もう私の学校生活、終わったかもしれない…。

 連れてこられたのは、案の定、昨日と同じ、三階の空き教室だった。埃っぽくて、ひんやりとした空気が漂っている。バタン、と乱暴にドアが閉められ、ようやく腕が解放された。

「はぁ…。だから言わんこっちゃない。ちょっと、約束守ってよ、ナマエちゃん」

 近くのパイプ椅子に腰掛けた及川先輩が、やれやれとでも言うように息をつく。その表情は呆れているようで、やっぱり少し面白がっているようにも見える。

「まさかとは思ったけどさ。君、全然嘘つけなさそうだし、変なところで正直そうだから。心配になって来てみたら、案の定クラスメイトに囲まれて墓穴掘りかけてるんだもん」
「だ、だって、なんて説明したらいいか分からなかったんです! 突然すぎるし!」
「そこはアドリブ利かせるの! 『そうそう、昨日から付き合っててー』とかさ」
「そんな器用なことできません!」
「…まあ、昨日はちゃんと話す前に別れちゃったからね。悪かったよ」

 及川先輩は意外にも素直に謝ると、ポンポンと、向かいに置いた錆びたパイプ椅子の座面を叩いた。

「とりあえず座りなよ。ちゃんと『設定』、詰めないとね。こういうのは最初が肝心なんだから」

 ……設定。そうだ、これは全部「フリ」なんだった。昨日決まったばかりの、私たちの歪な関係。私はおずおずと椅子に座った。及川先輩の長い足を投げ出すように組む仕草が、様になりすぎていて腹立たしい。

(それにしても、今日の及川先輩もかっこいいな…制服姿、やっぱり最強…。ちゃんと着てるだけなのに、なんであんなに隙がないんだろう…って、違う! 違う私! 設定を考えないと!)

 私はブンブンと頭を振って、内心の(不適切な)賛美を追い出す。目の前の「偽物の彼氏」は、すでに何かを考え込んでいるようだった。これから、一体どんな無茶な設定を押し付けられるんだろうか…。

「まず、俺たちの馴れ初め設定から決めないとね。こういうのは、ディテールが大事だから。一応、告白は、俺からしたってことにする」
「えっ、あ、はい…」

 決定事項は、いつも突然だ。私はこくこくと頷くしかない。

「だってさ、ナマエちゃんから告白してきたってことにしたら、『あの子でもOKなんだ』『押せばいけるんだ』って勘違いする女子が絶対出てくるでしょ?」

 言いながら、彼はやれやれと肩をすくめる。その仕草には、「モテる男はつらいよ」的な、若干、いや、かなり鼻につく芝居がかった色が見えた。

「ただでさえ面倒なのに、これ以上余計な手間が増えるのはゴメンだからね。俺が選んだって形にしとけば、まだ諦めもつくでしょ」

 その理由は、やっぱり自分本位すぎる。でも、理屈は通っているのがまた腹立たしい。

(確かに、先輩の人気は凄まじいし、変な誤解が広まったら大変だよね…って、納得してる場合じゃない! 利用されてるんだってば私!)

 でも、「先輩が選んでくれた」って事実は、偽物でも、やっぱり嬉しくて胸の奥がキュッとなる。ダメだ私、ほんとチョロすぎる。

「わ、分かりました…。それで、構いません…」

 私が俯きがちに答えると、及川先輩は「よし」と小さく呟き、指を自身の顎に当てた。綺麗な指の形に見惚れている場合ではない。

「じゃあ、その『俺からの告白』のきっかけ、どうしよっか。何かドラマチックなやつがいいよねぇ」

 少し楽しそうな声色。完全に他人事だと思っている顔だ。

「やっぱ、例の体当たり事件使う? 『あの夕暮れ、君が身を挺して俺を守ってくれた瞬間、俺の心は奪われたんだ…』みたいな?」
「ずぇっっったい嫌です!!!」

 私は思わず立ち上がりそうになるくらいの勢いで叫んだ。あの黒歴史を、そんなキラキラした少女漫画風に捏造してたまるか!

「えー、じゃあさ、『一目惚れ』ってことにでもしとく? ベタだけど、分かりやすいじゃん。『埃っぽい廊下の隅でプリントを拾う君の姿に、俺は運命を感じたんだ…』的な?」

 キラッと効果音が鳴りそうな完璧なウィンクを飛ばしてくる。その破壊力に一瞬クラッとしそうになるが、提案内容は断固として受け入れられない。

「現実味がミジンコほどもありません!!!」

 私は再び全力で、そして今度は語彙力を失いながら拒否する。

「わ、私に!? 及川先輩が一目惚れ!? そんなの、万が一にもありえません! 宇宙の法則が乱れます! そんな嘘、秒で見抜かれて笑いものになります! 絶対やめてください!」
「……そこまで言う? 俺の見る目がないって言いたいの?」

 少し不満そうに唇を尖らせる先輩。いや、そういうことじゃなくて…。

「なんかさー、もうちょっとこう、ドラマチックで、みんなが『へぇー!』ってなるような、都合のいい嘘ないわけ?」

 無茶ぶりにもほどがある。そんな都合のいい嘘、あるわけないじゃないですか…。私が黙って考え込んでいると、及川先輩は「あ!」と何か思いついたように手を叩いた。

「じゃあ、『共通の友人の紹介』ってのはどう? 無難じゃない?」
「きょ、共通の友人なんて、いませんけど…!」
「そこは適当にでっち上げるんだよ! 『中学の時の知り合いでさー』とか言ってさ」
「そ、そんな嘘、絶対バレます!」

 うーん、と二人で唸る。設定会議、早くも最大の難関だ。どうしよう。何か、何かいい案はないものか。必死で頭を捻っていると、ふと、ある考えが頭をよぎった。
 これは…もしかしたら、使えるかもしれない……? いや、でも、さすがに……。

「あの…先輩」

 おずおずと、私は口を開いた。

「な、馴れ初めなんですけど……」
「うん? なんかいい案思いついた?」

 期待のこもった目で私を見る及川先輩。いや、そんな期待されるような案じゃないんですけど……。

「私が……その…たまたま、先輩の何か『弱み』を握ってしまって…」
「……うん?」
「それで、口止め料代わりに、こう…お付き合いを強要している…というのは、どうでしょうか……?」

 …………シン。空き教室に、重い沈黙が落ちた。及川先輩は、目を丸くして、完全に固まっている。やっぱりダメ、ですよね。

「………………はああああああ!?!?」

 次の瞬間、及川先輩の絶叫が教室中に響き渡った。

「弱み! 俺に!? 俺にそんなもんあるわけないだろ!! 大体なんだよその設定、俺が脅されて付き合ってるってこと!? 俺のイメージ最悪じゃんか! そんなの、誰に言えるか! 却下!! 絶対却下!!!」

 すごい剣幕だ。顔がちょっと赤い。本気で怒ってるらしい。

「そ、そうですか…すみません……」

 しょんぼりする私。やっぱり突拍子もなさすぎたらしい。

「じゃ、じゃあ…」

 懲りずに、私はもう一つの案を口にする。

「実は私たちは遠い親戚同士で、家同士が決めた許嫁だったとか…?」
「どこの昼ドラだよ!!!!!」

 今度はツッコミが速かった。

「もうちょっとマシな嘘つけないわけ!? 君の頭の中どうなってんの!?」

 及川先輩は、わなわなと肩を震わせている。どう見ても呆れられてる。

「うう…だって、他に思いつかなくて……」
「思いつかなくていいんだよそんなトンデモ設定は!」

 及川先輩は、がっくりと肩を落とし、大きなため息をついた。

「はぁ……もういい、分かった! 埒が明かない!」

 彼は、やや投げやりな感じで、パンッと手を叩いた。

「馴れ初めは、もう『秘密』! これで決定!!」
「へ?」
「誰かに聞かれたら、『えー? それは二人だけの秘密だよ♡』って、こう、小首かしげたりして、可愛く言っとけばいいんだよ! 分かった!?」

 なぜか実演付きで説明される。いや、私にそんな可愛い仕草はできませんけど…。

「え、でも、秘密って言ったら、余計に怪しまれませんか…?」
「うるさい! もうこれで行くって決めたの! いいね!?」

 半ばヤケクソ気味に言い放つ及川先輩。もう、考えるのが面倒くさくなったらしい。まあ、トンデモ設定よりはマシなのかもしれない。

「は、はい…分かりました…」

 私が不安げに頷くと、及川先輩はようやく少し落ち着いたのか、「ふぅ」と息をついた。

「あとさ、呼び方変えよっか。いつまでも『及川先輩』じゃ、恋人っぽくないでしょ」
「へっ!?」
「俺のことは『徹くん』って呼んでいいよ。あと、タメ口も許可するから」

 キラッと効果音がつきそうな爽やかスマイルで、とんでもないことを言い出す。

「む、む、む、無理です!! 絶対無理です!!!」

 私は全力で首を横に振った。憧れの、雲の上の存在である及川先輩を「徹くん」!? しかもタメ口!? そんな畏れ多いこと、天地がひっくり返ってもできるわけがない!

「えー、なんで? 恋人なんだから普通でしょ?」
「偽物です! それに、先輩は先輩ですから!」
「何それー、つまんないの」

 及川先輩は心底つまらなそうに唇を尖らせたが、私が本気で嫌がっているのを察したのか、それ以上は無理強いしてこなかった。

「まあ、どうしても嫌ならいいけどさ。もし周りに『なんで呼び方変えないの?』とか聞かれたら、『二人きりの時だけ呼び捨てにしてるんだよね』とか適当に言っとくから。ナマエちゃんもそのつもりで。そういうの躱すのは得意なんだよね、俺」

 悪戯っぽく笑う顔は、やっぱり悔しいくらいにかっこいい。この人は本当に、頭の回転が速いんだな、と感心してしまう。まあ、こうでもないと、県内強豪校と呼ばれるバレーボール部の正セッターは務まらないのかもしれない。

「とにかく、周りから何か言われて詰まった時は、『秘密です』か、埒が開かない時は『及川先輩に聞いて』って言っていいから」
「は、はぁ…」
「じゃ、次は連絡先ね。一応交換しとかないと」

 及川先輩はそう言って、自分のスマホを取り出した。最新機種だ。かっこいい。私はおずおずと、使用期間三年目に入る自分のスマホを取り出す。

「はい、QR」

 差し出されたトークアプリの画面を読み取る。ピコン、と軽い音がして、私のスマホに『及川徹』の名前が表示された。うわあ、本物だ…。変な汗が出てくる。そして、トーク画面に表示された彼のアイコンは夕日の写真。
 てっきり、キメ顔の自撮りとか、バレーしてるかっこいい写真とか、そういうのだとばかり思っていた。意外だ。すごく綺麗な、オレンジと紫が混じった空の写真。
 推しのプライベートな一面を垣間見たような気がして、心臓がドキドキする。

「じゃ、なんか送っといて。登録しとくから」
「あ、はい!」

 慌ててスタンプを開く。えっと、最初のメッセージ、いや、スタンプは何がいいんだろう? あんまり馴れ馴れしいのはダメだし、かといって業務連絡みたいなのも…。
 悩みに悩んだ末、私が持っている中で一番当たり障りがなさそうで、かつ、ちょっと面白いかもしれないと思った「シュールなタケノコが何か物思いにふけっているスタンプ」を送信した。我ながら謎チョイスだ。
 ピロン、と及川先輩のスマホが鳴る。画面を見た彼は、一瞬きょとんとした後、ぶはっ、と吹き出した。

「何これ! タケノコ!? ナマエちゃん、センスやばいんだけど!」

 ひとしきり笑った後、「ん、登録しといた」とスマホをポケットにしまった。笑われたのはちょっと恥ずかしいけど、なんだか少しだけ、彼との距離が縮まったような気がして、胸が温かくなった。

「あ、大事なこと決めなきゃ。スキンシップとかね」
「ひゃっ!?」

 突然の単語に、私の体はびくっと跳ねた。す、スキンシップ!?

「恋人の『フリ』をするわけだからさ。周りに見られてる時とか、多少、体に触れたりすることもあると思うけど、一応、心の準備だけしといて」
「む、むむむ、無理かもしれません…!」
「大丈夫だって」

 私の動揺を楽しんでいるかのように、彼は目を細める。さっきの教室での、腕乗せや肩寄せを思い出す。きっと。あれもわざとだったのだろう。

「ま、心配しなくても、お互い嫌なことはナシってことで。俺だって、嫌がる子に無理やり触るほど、人でなしじゃないつもりだし?」

 最後の「つもり」って何ですか。でも、その言葉に、強張っていた肩の力が少しだけ抜けた。嫌なことはしない。そのルールは、今の私にとって命綱のようなものだ。

(…でも、嫌じゃなかったら…? いやいやいや! なに考えてるの私! この人は私の恋心なんて知らないんだから!)

「と・に・か・く!」

 及川先輩は、パン、と軽く手を叩いて私の思考を中断させた。その音は、空き教室に妙に大きく響いた。

「周りから見て、ちゃんと恋人っぽく見えるように、そこんとこよろしくね! ナマエちゃんも、ただ俺の後ろに突っ立ってるだけじゃなくて、ちゃんと彼女らしい態度、取るように!」

 少し強い口調。これは命令だ。

「む、む、む、無理ですってば!」

 私は反射的に、ほとんど悲鳴に近い声で反論した。

「わ、私、自慢じゃないですけど、その…恋人なんて、生まれてこのかた、いたことないですし、どうすれば『彼女っぽい』のか、サッパリ、皆目、見当もつきません!」

 これは紛れもない真実だ。私の恋愛偏差値は測定不能レベルなのだ。

「はぁ? マジで? この俺が直々に選んであげたっていうのに、そんなレベルなの?」

 及川先輩は、心底呆れた、という風に眉を寄せた。人選を間違ったと思われてそうである。勝手に選んだくせに、そんな理不尽な。すると次の瞬間。
 すっ、と彼の大きな手が、向かいから伸びてきた。白い指が、膝の上で拳を作っていた私の手首を、思ったよりも優しい力で掴む。

「えっ!?」

 驚いて顔を上げると、真剣な眼差しと目が合った。心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。
 彼は、私の手をゆっくりと引き寄せ、そして、ためらうことなく、私の指の間に、彼の長い指を、一本、また一本と、滑り込ませてくる。…いわゆる、恋人繋ぎである。

(!!!!)

 触れている部分から、彼の体温が、熱みたいにじわじわと伝わってくる。大きくて、少し骨ばっていて、でも驚くほど温かい手。バレーボールで鍛えられた、硬い皮膚の感触。
 私の心臓は、もう限界だと警鐘を鳴らしている。ドッドッドッと、耳の奥でうるさいくらいに響いている。顔が熱い。呼吸が浅くなる。視界の端が、チカチカする。
 私のガチガチな反応を面白がるように、及川先輩の唇が、ゆっくりと弧を描いた。意地悪な、でもどうしようもなく魅力的な笑顔。

「……ほら。恋人なら、こういうことしたりするでしょ。…練習、しとかないとね」

 及川先輩にとって、こんなことは周りのファンに手を振り返すくらいの造作のないことなのだろう。絡められた指に、くっ、と悪戯っぽく力が込められた。その瞬間、私の思考は完全に停止した。

(うわああああああ! 指! 指が絡まってる! 及川先輩と! 無理無理無理! 心臓爆発する! でも! 手、離したくない! あったかい! かっこいい! 好き! ……じゃなくて!!! これは演技! 演技指導…そうだ、これは先輩からのありがたいファンサービスなんだから! しっかり受け止めないと!)

 沸騰寸前の頭で、必死に自分に言い聞かせる。深呼吸、深呼吸。大丈夫、私はただのファンA。これは夢みたいなファンサ。そう思わないと、やってられない。
 私は、まるで煩悩を払う修行僧のようにゆっくりと息を吐き切ると、そのまま深々と頭を下げた。

「………ご、ご指導痛み入ります…。こ、光栄です…。ファンサービス、ありがとうございます……」

 平静を装うのに必死で、声は上ずっている。

「………………」

 一瞬の、完全な沈黙が、空き教室に落ちた。窓の外から聞こえる、どこかのクラスの朝の挨拶の声だけが、やけにクリアに耳に届く。
 目の前の及川先輩の笑顔が、ぴきっ、と音を立てて固まった。美しい顔に、ほんのわずかに困惑の色が浮かんでいる、ように見えた。絡められた指の力も、心なしか緩んだ気がする。

「………なんかさぁ、全然、甘くなんないんだけど。この子……」

 ボソリと呟かれた言葉の意味は、やっぱり私には分からなかった。
 設定会議もそろそろ終わりか、と思った時、彼がふと、真面目な顔つきになった。

「あ、あとさ、ナマエちゃん。これは最初に言っとくけど」

 改まった口調に、私も姿勢を正す。

「もし、好きな人できたら、ちゃんと言いなよ? 無理にこの『契約』続ける必要ないんだからさ」

 ——え? 他に好きな人? 私が? この、及川先輩を差し置いて? そんなこと、絶対にありえない。
 だけど、それは及川先輩なりの気遣いなのだろう。これだけ色々なことを強引に進めておきながら、そういう良心的なものはあるらしい、という大変失礼なことを考えつつ、思ったままを口にした。

「…はい。分かりました。でも、それは先輩もですよ? もし他に好きな人ができたら…」

 その私の言葉に、及川先輩の表情が、ほんの一瞬だけ、凍りついた。息を呑むような、わずかな硬直。綺麗な瞳が、一瞬だけ揺らいだように見えた。
 でも、それは本当に一瞬のこと。
 すぐに彼は、いつもの自信に満ちた、人を食ったような笑顔に戻っていた。

「は? 俺に限って、そんなのあるわけないでしょー? この俺が、ナマエちゃん以外の女の子を好きになるなんて、ありえないっての!」

(…いや、だから、私のことも好きじゃないですよね…?)

 今の、一瞬の顔は、なんだったんだろう。口にするのも憚れるほどの僅かな揺らぎだった。

「ま、とにかく! そういうわけだから! よろしく頼むよ、『彼女』さん?」

 おどけた口調で、彼は椅子から立ち上がった。ちょうどスピーカーからは一時間目の予鈴の音が鳴り響いている。私も慌てて立ち上がる。設定会議は終わった。けれど、私の胸には、さっきのドキドキとは違う、チクリとした痛みと、拭えない疑問符が残っていた。

 私たちの「偽物の恋人」生活。一体、どうなっていくんだろうか…。



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