ちょっとだけ本物みたいで

 文化祭が終わってから、私たちの間には新しい「日常」が生まれていた。
 それは、昼休みになると、人目を避けるようにして、三階のあの空き教室で一緒にお弁当を食べること。この時間は、今の私にとって特別なものになっていた。

 今日の昼休みも、私たちはいつものように、その少し埃っぽい空き教室にいた。
 窓から差し込む冬の柔らかい日差しが、床に長い四角を描いている。窓の外からは、昼休みを楽しむ生徒たちの賑やかな声が遠くに聞こえるけれど、この教室の中だけは、時間がゆっくりと流れているような、不思議な静けさがあった。
 及川先輩は、窓際の席に座って、ぼーっと外を眺めている。時々、スマホを取り出して何かを確認しているけれど、クラスや廊下で見せるような、キラキラした笑顔や、周りを巻き込むような明るいオーラは、ここではない。気を抜いた、少しだけアンニュイな、素に近い及川先輩。

(…はぁ、尊い…)

 私は、その向かいの席でお弁当の卵焼きを突きながら、彼の横顔を盗み見る。人気者の仮面を外した、無防備な姿。これを毎日見られるなんて、なんて贅沢なんだろう。まさに特等席だ。できれば毎秒シャッターを切りたい衝動に駆られる。もちろん、そんなことできないけど。

「…ん? 何、人の顔じっと見て」

 不意に視線が合って、私はビクッと体を震わせた。

「い、いえ! なんでもないです!」

 慌てて卵焼きを口に放り込む。あ、今日の味付け、ちょっとしょっぱかったかも…。

「ふーん?」

 疑いの目を向けられた気がするけど、先輩はそれ以上追及せず、おもむろに自分のカバンをごそごそと漁り始めた。そして、取り出したのは。

「はい、これ。あげる」

 ぽん、と私の机の上に置かれたのは、コンビニの袋に入った、数種類のお菓子だった。チョコレート、クッキー、それから、私が前に美味しいって言ったことがある、ちょっとマイナーなメーカーのグミまで入ってる。

「えっ!? こ、これ…?」
「なんか、昨日コンビニ寄ったら目に入ったから。君が好きそうなやつ、適当に選んできた」
「私のため、に…?」
「まあ、ね。駄菓子ばっかじゃなくて、たまにはこういうのも食べなよ」

 ぶっきらぼうな言い方。でも、「私のために選んでくれた」という事実が、私の心臓を鷲掴みにした。

「わーーーっ! ありがとうございます!! すごく嬉しいです!!」

 私は、多分、自分でも引くくらい満面の笑みを浮かべていたと思う。目をキラキラさせて、お菓子の袋を大事そうに抱きしめる。単純かもしれないけど、本当に、心の底から嬉しかったのだ。

 そんな私の、素直すぎる反応を見て。
 及川先輩の表情が、ほんの一瞬だけ、曇ったのを、私は見逃さなかった。優しい笑顔の奥で、彼の眉が、きゅっとわずかに寄せられたのだ。それは、嬉しい、というよりは、何か別の、もっと複雑な感情の色に見えた。
 そして彼は、少しだけ困ったような、照れたような、なんとも言えない声で言った。

「………そんな、コンビニのお菓子で、そんなに嬉しいの?」

 その言葉には、ほんの少しだけ、棘があるような気もした。でも、今の私は、嬉しさでそれどころじゃない。それに、本当の理由なんて、言えるはずがないのだ。あなたが「好き」だから、あなたがくれたものなら、何だって嬉しいなんて。
 だから、私は、ファンモード全開の最高の笑顔で、胸を張って答えた。

「当たり前じゃないですか! 推しからプレゼントという名の公式供給をいただけたんですよ!? こんなの、たとえペットボトルのキャップだろうが、家宝にして神棚に飾ります!! ありがとうございます!!!」

 私の、あまりにもファン心理丸出しの、熱量高めの返答に及川先輩は、一瞬ぽかんとした顔をして、それから、さっきとは違う、もっと素に近い感じで吹き出した。

「…推し!? キャップ!? 家宝!? あははは! 君、ほんっと、そういうとこ…!」

 及川先輩は、ひとしきり私の珍回答に笑い転げた後、ようやく落ち着いたのか、「はー、面白かった」と息をついた。その目元にはまだ笑いの名残が浮かんでいる。
 私も、つられて少し笑ってしまって、なんとなく場の空気が和んだ気がした。先輩が笑ってくれるのは、やっぱり嬉しい。たとえ、その理由が私の的外れな言動だとしても。

 彼が窓の外に視線を移し、何かを考えるように黙り込んだので、私もお弁当の残りを食べ進める。こうやって、沈黙の時間があっても気まずさを感じなくなったのは、いつからだろう。
 不意に、彼が私に向き直った。

「ねぇ、ナマエちゃん」
「は、はい?」

 突然改まったように名前を呼ばれて、私はまた少し緊張する。

「今度の日曜とかって、空いてる?」
「へ…? 日曜日、ですか?」

 予想外の質問に、私は目をぱちくりさせる。日曜日の予定を思い出す。特に何もなかったはずだ。

「……たぶん、空いてると、思いますけど…」
「そっか。じゃあさ…」

 彼は、軽い口調で、さらりと続けた。

「デート行かない?」

 ……………でーと。
 三度目の、その言葉。映画、水族館、そして次。偽物だと分かっていても、彼の口からその単語が出るたびに、私の心臓は律儀に大きく跳ねるのだ。

(ま、また!? 偽物なのに!? でも、断る理由なんて…ない…! 嬉しい…!)

 内心で高速回転する思考と感情。私は、顔が赤くなっていくのを感じながら、かろうじて声を出した。

「え、あ、はい! 大丈夫ですけど…」
「よし来た」

 私の返事に、彼は満足そうに頷く。そして、すぐに次のステップに進んだ。

「じゃあ、どこ行く? なんか希望ある? 今回はちゃんと考えてよね?」

 過去のデートの時、結局私が行き先を決められなくて、先輩が決めてくれていた。そのことをしっかり覚えているらしい。

「き、希望ですか…?」

 私は途端にオロオロしてしまう。及川先輩が行きたい場所、楽しめる場所じゃないと意味がない気がしたのだ。そんなところ、私のゼロに等しい恋愛スキルじゃ思いつかない。

「わ、私はどこでも! 本当に! 先輩のお好きなところで全然構いませんので!」
「えー、つまんないの。またそれ?」

 いつも通り全力で首を振って遠慮すると、案の定、彼は眉をひそめて不満そうな声を出す。

「俺に合わせてばっかじゃ、デートっぽくないでしょーが。少しは自分の意見言いなよ」
「で、でも…! 私なんかが行きたい場所なんて、きっと先輩は楽しくないですよ…!」
「なんで決めつけるのさ。言ってみなきゃ分かんないでしょ?」

 彼はテーブルに肘をつき、じっと私を見つめてくる。その視線に耐えきれず、私はうーっと唸りながら、必死で頭を回転させた。
 えっと、デートっぽい場所…?

「……じゃ、じゃあ…あの、駅前の…公園、とか…? 新しい遊具が入ったって、聞きましたし…」

 我ながら、なんて残念な提案なんだろう。顔から火が出そうだ。

「公園!?」

 及川先輩は、予想通りの反応を見せた。

「まあ、天気良かったら気持ちいいかもだけど…。デートだよ? 遊具で遊ぶの? 俺と?」
「そ、そういうわけでは…!」

 遊具で遊ぶ180cmのイケメン、見たくないと言ったら嘘になる…けどそれは口にしないでおこう。

「もうちょっとなんか、こう…あるでしょ? この前みたいに、意外な蘊蓄披露できるような場所とかさ」

 からかうような口調。ペンギンのこと、まだ根に持ってる…!
 私が「ううう…」と完全に言葉に詰まっていると、彼は「はぁ…しょうがないなぁ」と、わざとらしく大きなため息をついた。そして。

「じゃあさ」

 少し考える素振りを見せてから、彼は言った。

「駅前に新しくできたカフェ、どう? なんか、プリンが美味しいって評判らしいよ。あと、その隣にできた雑貨屋さんもさ、結構可愛いもの置いてるって、うちのクラスの女子が騒いでたけど」
「…………え?」

 私は、目を丸くして彼を見た。カフェ? 雑貨屋さん? そこは、まさに私が友達と「今度絶対行こうね!」って話していたお店だ。

「君、ああいう雰囲気、好きそうじゃん? なんとなく、だけど」

 彼は、私の驚いた顔を見て、少し得意げに、そしてやっぱり悪戯っぽく笑った。

「な、なんで、それを…!?」
「ん? だから、なんとなく?」

 彼は肩をすくめるだけ。でも、その表情は「君のこと、ちゃんと見てるんだよ」と言っているみたいで…。

「あ、あの! 行きたい、です! すごく!」

 私は、今度こそ迷わず、大きな声で答えていた。嬉しくて、顔がにやけるのを止められない。

「はいはい、決定ね。じゃあ、日曜、お昼くらいに駅前でいい?」
「は、はい!」

 私の嬉しそうな返事に、及川先輩は満足そうに頷いた。その笑顔は、やっぱりどこか優しくて、私の心臓はまだドキドキと音を立てている。

(デート…先輩と、カフェと雑貨屋さん…! まるで、本物のカップルみたい…!)

 私の頭の中は、早くも日曜日のことでいっぱいになっていた。どんな服を着ていこう? 先輩はどんな私服かな? カフェのプリン、美味しいかな?
 そんな私の脳内お花畑状態を打ち破るように、遠くから予鈴のチャイムが鳴り響いた。ハッと我に返る。そうだ、もう昼休みが終わる時間だ。

「あ、やば。もうこんな時間か」

 及川先輩も時計を確認して、椅子から立ち上がった。私も慌ててお弁当箱の蓋を閉める。

「じゃ、俺、教室戻るね」

 彼は、食べ終わったお弁当箱を布で包みながら、軽く手を上げた。その仕草が、なんだかすごく自然で、本当にただの恋人とお昼を食べていた、みたいな気軽さだ。

「あ、はい! 今日も、ありがとうございました!」

 私も慌てて立ち上がり、ぺこりとお辞儀をする。彼は、空き教室のドアに向かいながら、ふと足を止めて振り返った。そして、悪戯っぽく片目をつぶって付け加える。

「日曜、楽しみにしてるから。ドタキャンとか、ありえないからね?」
「し、しませんよ!」
「あと」

 彼は、思い出したように言葉を続ける。

「今日の帰りも、一緒だから。ちゃんと昇降口で待ってること。 メッセージ未読スルー禁止ね」
「は、はいっ!」

 私は、緊張しながらも、力強く頷いた。今日の帰りも、一緒。

「ん、じゃあね」

 彼は今度こそ本当に教室を出ていく。パタン、とドアが閉まる音がして、空き教室にはまた、私一人と、冬の午後の静かな光だけが残された。

「………………はぁ〜〜〜〜〜〜〜」

 私は、その場にへなへなと座り込みそうになるのを、なんとか堪えた。心臓が、まだドキドキとうるさい。顔も、きっとまだ赤いだろう。

(デート…日曜、デートだ…)

 しかも、行き先は、私が行きたかったカフェと雑貨屋さん。先輩が、私の好みを考えて選んでくれた場所。

(嬉しい…)

 素直に、そう思う。偽物だって分かってる。利用されてるだけだって分かってる。先輩には他に好きな人がいるって、多分そうなんだって分かってる。それでも、彼がくれる、ほんの少しの優しさや、特別な時間に、私の心は簡単に浮かれてしまうのだ。

(…ダメだ、期待しちゃダメ)

 私はブンブンと頭を振って、緩みそうになる頬を引き締める。この関係は、先輩が卒業するまでの、ほんの数ヶ月の期間限定なんだ。今、こんなに幸せな分だけ、終わった時、きっとすごく苦しくなる。ちゃんと、割り切らないと。
 私は、机の上に残された、先輩がくれたお菓子の袋を、そっと手に取った。まだ、ほんのり温かい気がした。

 昼休み終了の本チャイムが、校舎に鳴り響く。私は、慌ててお弁当箱とゴミをまとめ、ドキドキとうるさい心臓を抱えたまま、午後の授業へと向かうべく、静かな空き教室を後にした。



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