甘い時間に、ほろ苦い気持ち

 日曜日のお昼過ぎ。約束の時間よりやっぱり少し早く着いてしまった私は、駅前の時計台の下でそわそわと落ち着きなく待っていた。カレンダーはもう十二月に入った。空は冬らしく澄み渡っているけれど、風は冷たい。
 マフラーに顔をうずめながら、私は期待と緊張でドキドキする心臓を必死に落ち着かせようとしていた。

(今日の先輩は、どんな服かな…)

 そんなことを考えていたら、不意に視界の端に、明らかに周りとは違うオーラを放つ人影が入ってきた。ハッとして顔を上げる。

「ごめん、待った?」

 そこに立っていたのは、息を呑むほど格好いい及川先輩だった。
 上品なキャメル色のトレンチコート。首元には、ふわりと巻かれたマフラーからのぞく、オフホワイトのハイネックセーター。そして、コートの裾から伸びる、チノパンに包まれた、ありえないくらい長い脚…!

(……スーパーモデル…………)

 どっからどう見ても、ファッション雑誌から抜け出してきたとしか思えない。なんだこの完璧なスタイルは。光り輝いて見える。後光が差してる。

(…だめだ、我慢できない…!)

 気づけば、私はコートのポケットからスマホを引っ張り出し、カメラアプリを起動していた。そして、無我夢中でシャッターボタンを連打する。
 ──カシャカシャカシャカシャッ!!!

「え、ちょっ、ナマエちゃん!? 何いきなり!?」

 突然の連写に、及川先輩は驚いた顔をしている。でも、そんなのお構いなしだ。私はこの尊いお姿を一枚でも多く記録に残すという使命がある。

「もー、撮るならさぁ、もっとマシな顔の時に撮ってよね」

 彼は、呆れたように言いながらも、まんざらでもない様子で、くいっと顎を上げ、ポケットに片手を入れてモデルみたいなポーズを決めてみせた。
 分かってる! この人、自分が最高に格好いいって分かってるんだ!

「〜〜〜〜〜〜っっっ!!!!!」

 ──カシャカシャカシャカシャカシャカシャッ!!!!!!
 私は、声にならない奇声を発しながら、さらに激しくシャッターを切った。もう、指が止まらない! 至高! 眼福! これぞ国宝!

「………はぁ」

 ひとしきり連写し、撮れた写真を確認して、私は深く、深く満足した。うん、今日も及川先輩は最高にかっこいい。これで今日の目的は達成されたと言っても過言ではない。

「…ふぅ。では、先輩、今日はありがとうございました!」

 私は、満ち足りた気持ちでスマホをしまい、くるりと踵を返して、その場を後にしようとした。今日のミッションはコンプリートだ。

「って、おいおいおい!!!」
「ぐえっ!!?」

 去ろうとした私のマフラーごと首根っこを、後ろから伸びてきた大きな手が容赦なく掴んだ。うぐっ、苦し…。

「ちょっ、どこ行くの!? デートこれからでしょ!」

 呆れ果てたような、それでいてやっぱり面白そうな声が頭上から降ってくる。

「は、離してください! 目的は達成しましたので!」
「目的って写真撮ることかよ! 俺は!? 俺とのデートは!?」
「それはまあ、その、オプションで…」
「オプションってなんだよ!」

 お互いに本気で言い合いをしている。はたから見たら痴話喧嘩なのかもしれないけど、その実はただの憧れの人とその限界オタク。

「はぁ…。はいはい、及川さんがかっこいいのはよーーーく分かったから。 ほら、行くよ」

 彼は、やれやれとため息をつきながら、私の首根っこを掴んでいた手を離し、そしてそのまま、ごく自然な動作で私の手を握った。

「ひょえっ!?」

 突然の、温かい感触。大きな手のひらが、私の冷たくなった手をすっぽりと包み込む。一回目のデートの帰りにも手を繋いだけど、その時とは違う。もっと、当たり前みたいな、力強い繋がり方。
 心臓が、またしても跳ね上がる。顔に熱が集まるのが分かる。

「な、な、な、なんですか!?」
「ん? だから、カフェ行くんでしょ?」

 彼は、私のパニックぶりを見て、楽しそうに目を細めている。

「ほら、行くよ。俺のおすすめのプリン、売り切れたら知らないからね?」

 有無を言わさず、彼は私の手を引いて歩き出した。繋がれた手は、思ったよりもずっと温かくて、ドキドキして、恥ずかしくて、でも、離したくなくて。
 私は、真っ赤な顔のまま、スーパーモデルみたいな「偽物の彼氏」に手を引かれて、賑わう日曜日の駅前を歩き始めたのだった。

 繋がれた右手から、彼の体温がじわじわと伝わってくる。大きくて、少しだけゴツゴツした、男の子の手。そしてバレーを愛している人の手。この手で、この指で、何千何万回という回数、ボールを上げ続けてきたのだろう。
 心臓が、さっきからずっと、うるさいくらいに鳴り続けている。顔もきっと真っ赤なままだろう。モデルみたいにかっこいい及川先輩を見つめる周りの通行人の視線が気になるけど、今はもう、どうでもよかった。ただ、この繋がれた手の感触だけが、私の世界の全てみたいだった。

 及川先輩は、特に何も言わず、でもしっかりとした足取りで私をリードしてくれる。その横顔は、楽しそうにも、少しだけ照れているようにも見えた。…いや、照れてるなんて、絶対気のせいだ。


 数分ほど歩いて、私たちは目的のカフェに到着した。駅前のメイン通りから少し入ったところにある、レンガ造りのお洒落な外観のお店だ。新しいお店らしく、窓もピカピカで、中からは温かそうな光が漏れている。
 ドアを開けて中に入ると、コーヒーの良い香りと、甘いお菓子の匂いがふわりと漂ってきた。店内は、木の温もりを感じる落ち着いた雰囲気で、日曜の午後ということもあってか、ほぼ満席に近い状態だった。カップルや、友人同士らしい女の子のグループが多い。

「わ、結構混んでるね」
「人気なんですね…」

 店員さんに案内されて、私たちは窓際の二人掛けのテーブル席に着いた。席に着く直前、及川先輩は、ごく自然な仕草で、繋いでいた手をそっと離した。
 なんだか、ほんの少しだけ、名残惜しい気がしてしまった私は、やっぱりどうかしている。

 メニューを開くと、コーヒーや紅茶の種類が豊富で、ケーキや焼き菓子もたくさん並んでいる。そして、その中にあった。『当店自慢 とろけるカスタードプリン』の文字。写真も載っていて、見るからに美味しそうだ。

「俺、プリンとコーヒーにするけど、ナマエちゃんは?」
「あ、じゃあ、私もプリンと…えっと、カフェラテで」
「はいよー」

 注文を終えると、ふと沈黙が訪れる。周りの楽しそうな話し声が、逆に私たちの間の静けさを際立たせる気がした。

「…あの、さっきはすみません、写真撮りまくっちゃって…」

 気まずさに耐えかねて、私が切り出すと、及川先輩は「ん?」と首を傾げた。

「別にいいけど。そんなに俺の私服、良かった?」
「はい! めちゃくちゃかっこよかったです! 家宝にします!」
「あはは、また家宝? 君、家宝いくつあるのさ」

 楽しそうに笑う先輩。その笑顔を見ると、少しだけホッとする。

「先輩こそ、なんで私の好み、分かったんですか? このカフェと隣の雑貨屋さん、ちょうど行きたいなって思ってたところで…」

 勇気を出して聞いてみると、彼は「えー? なんでだろーね?」と、またしてもはぐらかすような笑顔を見せた。

「まあ、エスパー及川さんにかかれば、彼女の好みなんてお見通しってことだよ」

 絶対嘘だ…。もしかして、私の好きそうな場所を探してくれてたとか…? いや、流石に妄想が過ぎるだろう。粗方、花巻先輩あたりに「最近どこかいい感じのカフェとか知らない?」って聞いて、適当に教えてもらっただけなんだ。それで、「ちゃんと彼女の好みとか考えてあげる、デキる彼氏」を完璧に演じてるんだ。うん、絶対そう。そうに決まってる。
 変に期待するだけ無駄だ。追求しても、きっと教えてくれないだろうし。彼は、自分の手の内を簡単には明かさない人だ。

 そうこうしているうちに、注文した品が運ばれてきた。艶やかなカラメルソースがかかった、見るからにプルプルとしたカスタードプリン。そして、可愛い猫のラテアートが描かれたカフェラテ。

「わぁ…! 美味しそう…!」
「でしょ? ここのプリン、マジで美味いらしいから」

 及川先輩も、自分のコーヒーとプリンを前にして、少しだけ嬉しそうだ。私たちは、それぞれスプーンを手に取り、プリンを一口食べた。

「……!!!」

 濃厚なカスタードの風味と、ほろ苦いカラメルのバランスが絶妙だった。なめらかな舌触りで、本当に「とろける」みたいだ。

「おいひい…!」

 口をもぐもぐさせながら私が言うと、先輩は満足そうに笑った。美味しいプリンのおかげか、さっきよりも会話は少しだけ弾んだ。学校のこと、最近一気に寒くなってきたこと、テレビで見たお笑い芸人のこと。
 他愛ない、当たり障りのない話。でも、彼とこうして向かい合って、笑いながら話している時間が、なんだか信じられないくらい幸せで、貴重なものに思えた。

(…楽しいな…)

 カフェラテの泡を口につけながら、ふと思う。彼のキラキラした笑顔を間近で見られて、くだらない話で笑い合っている。まるで、本物の恋人同士みたいだ。
 そう思った瞬間、チクリ、と胸が痛んだ。

 及川先輩と一緒にいるときはすごく楽しい。楽しすぎて、忘れそうになる。この人が、私じゃない誰かを見て、あの切ない顔をしていたことを。

 さっきまでの幸福感が、急速にしぼんでいくのを感じる。美味しいはずのプリンの味が、なんだかよく分からなくなった。
 私は俯いて、カップに残ったラテアートをスプーンで意味もなくかき混ぜた。楽しい時間は、あっという間に終わる。分かってる。分かってるのに…。

「…ナマエちゃん?」

 不意に名前を呼ばれて顔を上げると、心配そうに私を覗き込む、及川先輩の整った顔。その優しい表情に、私の心はまた、きゅうっと締め付けられる。ダメだ、この人にこんな顔させちゃ。私は偽物でも『彼女』なんだから、しっかりしなくちゃ。

「なんでもないです!」

 私は慌てて顔を上げ、できるだけ明るい笑顔を作った。内心の動揺を悟られないように。

「プリンがあまりにも美味しくて、ちょっと感動してただけです。本当に美味しいですね、これ」

 我ながら、分かりやすい誤魔化し方だ。でも、今はこうするしかない。

(そうだ。この関係を利用して、最高の思い出を作るって決めたんだから!)

 内心で拳を握りしめ、私は目の前の先輩に向き直った。

「ふふ、そっか。気に入ったなら良かったよ」

 私の演技に気づいているのかいないのか、及川先輩はふわりと微笑んだ。その笑顔が眩しい。
 少しだけ会話が途切れる。窓の外は、もう徐々に夕方の色に染まり始めていた。冬の日差しは弱く、カフェの暖かな照明が心地よい。コーヒーの香ばしい香りが店内に満ちている。
このまま、当たり障りのない話だけして終わるんだろうか。それでもいいのかもしれない。でも…。
 私は、意を決して、ずっと聞きたかったことを、尋ねてみた。

「あの、先輩は…その、引退されてから、最近はどうされてるんですか? バレー、したくなったりしませんか?」

 彼の「今」に少しだけ寄り添いたい、そんな気持ちから出た言葉だった。ファンとしては、彼の将来のことも気になる。彼はきっと、卒業してもバレーを続けるんだろう。
 私の遠慮がちな問いかけに、及川先輩は一瞬だけ、遠くを見るような目をした。でも、すぐにいつもの調子に戻って、軽く肩をすくめる。

「んー? まあ、たまにしたくなる時もあるけどね。でも、今は色々考えなきゃいけないこともあるし?」

 言葉を濁された。自分の進路については、まだ話したくないのかもしれない。あるいは、私には話せない、秘密があるのだろう。

「俺のことはいいからさ」

 彼は、私の考えを見透かしたかのように、するりと話題を変えた。

「それより、ナマエちゃんは? 来年は受験生でしょ? なんか、将来やりたいこととか、好きなこととかないの?」
「えっ!? わ、私ですか!?」

 まさか、自分の話を振られるとは思っていなくて、私は完全に不意を突かれた。

「えっと、将来とか、まだ全然…。好きなこと、ですか…?」

 うーん、と首を捻る。好きなこと、なんだろう。及川先輩を応援すること以外…。

「…あ、でも」

 ふと思い出した。

「英語、好きです」
「へぇ、英語?」

 及川先輩が、少し意外そうな顔で私を見る。

「はい。…実は、海外の映画が好きで。翻訳された言葉も素敵なんですけど、それじゃなくて、その人たちが本当に伝えたかった言葉のそのままのニュアンスを、自分の耳で直接理解できた時が、すごく嬉しくて。だから、いつか字幕なしで全部理解できるようになりたいし、海外で働いてみたいなあって、ぼんやりですけど思ってるんですよね」

 そこまで言って、私はハッと口をつぐんだ。つい、自分の好きなことについて熱く語ってしまった。先輩は、興味ないかもしれないのに。

「…すみません、なんか、自分の話ばっかり…」

 慌てて謝ると、彼は「ううん」と首を横に振った。その表情は、さっきまでとは少し違う、なんだか、興味深そうな、優しい眼差しに見えた。

「すごいじゃん、ナマエちゃん。ちゃんと目標があるんだね」
「い、いえ! そんな大したことじゃ…!」
「英語話せたら、世界が広がりそうだよね。……俺も、もうちょっと勉強しとけばよかったかな…」

 彼は、窓の外に広がる夕暮れの空を見ながら、ぽつりと呟いた。その横顔には、ほんの少しだけ、影が差したような気がした。
 彼の言葉の真意は分からない。でも、私の好きなことに、彼が少しでも興味を持ってくれたように見えたことが、なんだかとても嬉しくて。私の胸は、また温かいもので満たされていく。

 期待しちゃいけないって分かってる。それでも、及川先輩が時折見せる優しさや、興味深そうな眼差しに、私の心は揺さぶられてしまうのだ。
 カフェラテは、もうすっかり冷めてしまっていたけれど、私の頬は、まだほんのりと熱いままだった。



TOP NEXT

メランコリー