君に、触れてもいい理由

 カフェを出ると、ひんやりとした冬の夜気が肌を刺した。空気が澄んでいて、ゆっくりと空がオレンジ色に染まりつつある。駅前の喧騒もここまで来ると少し遠のき、辺りはしんと静まり返っていた。

「…で、隣の雑貨屋さんも見るんでしょ?」
「あ、はい! もし、先輩がよろしければ…」
「別にいいよ。女の子が好きそうな雑貨とか、俺が興味持つかは分かんないけどね」

 そう言って笑う先輩。私たちは、カフェの隣にある、温かい光が漏れる小さな雑貨屋さんへと入った。
 店内には、手作りのアクセサリーや、可愛いらしい文房具、いい香りのするキャンドルなんかが、センス良く並べられている。私は、思わず「わぁ…」と声を上げて、きょろきょろと店内を見て回った。先輩は、そんな私を少し離れたところから、壁に寄りかかって眺めている。

「先輩は、何か見ないんですか?」
「んー? 俺は別に。…ああ、でも、これとか、君に似合いそうじゃない?」

 彼が指差したのは、小さな雪の結晶の飾りがついた、シンプルなヘアピンだった。

「えっ?」
「ほら、あててみなよ」

 促されるまま、鏡の前でヘアピンを髪にあててみる。似合うかどうかは別として、可愛いかもしれない。

「…どう、ですかね?」

 ピンをあてたまま、おずおずと振り返ると、彼は「ん、やっぱ似合うじゃん」と満足そうに頷いた。そして、「それ、買ってあげるよ。今日の記念、ってことで」と言う。

「ええっ!? そんな、悪いです!」
「いいからいいから。俺からのプレゼント」

 結局、私はそのヘアピンを買ってもらうことになってしまった。お会計をしてもらって、ヘアピンが入った小さな紙袋を、私は落とさないようにぎゅっと握りしめた。

 雑貨屋さんを出ると、ひんやりとした夜の空気が、火照った頬に心地よかった。駅へと続く道には、日曜の夜を楽しむ人々の姿がちらほらと見える。

(嬉しいな…。でも、なんで先輩、あんなの買ってくれたんだろ…)

 きっと、ただの気まぐれだ。私が子供みたいに雑貨を見てはしゃいでたから、面白いおもちゃを何か買ってあげる、みたいな感覚。うん、きっとそう。それ以上の意味なんて、絶対に考えちゃダメだ
 そんなことを考えていたら、ふと、前方に、以前水族館でも見かけた二人組の姿が目に入った。

(…あ)

 及川先輩のクラスメイトの美人先輩だ。隣には、優しそうな彼氏さんも一緒。二人は仲睦まじげにショーウィンドウを覗き込んでいる。楽しそうな雰囲気がこちらまで伝わってくるようだ。
 私の心臓が、ドクンと嫌な音を立てる。水族館で見た、及川先輩のあの切なそうな表情が脳裏をよぎる。私は、とっさに隣にいる及川先輩の顔色を窺った。

 彼は、確かに一瞬だけ、二人の方に視線を向けた。そして、ほんのわずかに、表情が動いた——ような気がした。でも、それだけ。
 水族館の時のように固まったり、眩しそうに目を細めたりするような、分かりやすい動揺は見られない。すぐに、彼は何事もなかったかのように私に向き直った。

(……あれ?)

 なんだろう。前と、反応が違う気がする。
 及川先輩が何か言おうと口を開いたその時、美人先輩がこちらに気づき、手を振りながら近づいてきた。

「あ、徹くん、ナマエちゃん。二人でデート?」

 天使みたいに可愛い笑顔。一度しか挨拶したことないような私にも、ちゃんと下の名前で呼んで微笑みかけてくれる。やっぱり素敵な人だなあ、と思うと同時に、及川先輩が好きになるのも当然だという気持ちが襲ってくる。少し身構えてしまう私の代わりに、隣にいた及川先輩が少し前に出た。

「やっほー。まあね、そんなとこ」

 驚くほど自然な笑顔で、軽く手を上げて応える。声にも、以前のような硬さはない。

「ふふ、仲良しだね」

 美人先輩が、私たちを見て微笑ましそうに言った。その、一点の曇りもない優しい言葉が、私の胸に罪悪感の棘となって突き刺さる。

(──違うんです。私たちは、仲良しなんかじゃ、ない)

 仲良しどころか、偽物だ。この優しくて素敵な人を、私たちは騙している。それに、この人の隣にいるべきなのは、本当はあなたなのに。
 そんな後ろめたさと、どうしようもない劣等感で、私は思わず俯きそうになった。彼の隣に立つ資格なんて、私にはない。

 私がきゅっと唇を噛みしめた、その瞬間。隣に立つ及川先輩の大きな手が、私の背中に、そっと、でも有無を言わさぬ強さで触れた。驚いて顔を上げると、彼は私を見ずに、ただ美人先輩の方を見て、穏やかな声で言った。

「うん。……まあ、俺がベタ惚れだからね」

 頭では『冗談だ』と分かっているのに、彼の言葉は、まるで本当のことみたいに、まっすぐ私の心に届いてしまった。
 そして、及川先輩はゆっくりと私に顔を向ける。その瞳には、もう目の前の先輩の姿は映っていない。ただ、私だけを、真っ直ぐに捉えていた。

 ふわり、と彼の表情が綻ぶ。

 それは、まるでさっきカフェで食べたプリンのように、甘くて、とろけるような笑顔だった。周りの喧騒も、他の誰の存在も全て消し去って、世界に二人きりしかいないかのように錯覚させる、優しさと、ほんの少しの独占欲を滲ませた、私だけのための笑顔だった。

(……………!!!!!)

 な、ななな、今の笑顔は何!?

 私の心臓は、経験したことのないくらい激しく高鳴り、顔が一気に熱くなるのが分かった。
女の先輩は「じゃあね、お邪魔しました」と再び笑顔で会釈して、彼氏さんと一緒に去っていった。私は、まだドキドキがおさまらないまま、呆然とその後ろ姿を見送る。

(今の、何…? 先輩、なんであんな顔したんだろう…?)

 彼の変化に、頭の中が「?」でいっぱいになる。分からない。彼のことが全然分からない。
そんな私の内心を知ってか知らずか、及川先輩は、「ほら」と、ごく自然に私の右手を握った。

「!」

驚いて彼を見ると、彼は前を向いたまま、少しだけ口角を上げて言う。

「…ちゃんと繋いどかないと、迷子になるでしょ? 君」
「な、なりませんよ!」

 からかわれてるのは分かるけど、繋がれた手の温かさに、ドキドキが止まらない。そしてなにより、さっきの及川先輩の笑顔が、頭から離れなかった。

 駅へと続く道は、日曜の夜だからか人通りもまばらで、しんと静まり返っている。街灯のオレンジ色の光が、長く伸びる私たちの影をアスファルトに落としていた。
 隣を歩く及川先輩は、美人先輩と会った後から、少しだけ口数が少ない気がする。彼のあの人への想いを知っているから、私も何を話せばいいのか分からず、繋いでいないほうの左手で、買ってもらったばかりのヘアピンが入った小さな紙袋をぎゅっと握りしめた。

「……こっち、通って帰ろっか」

 ふいに、彼が呟いて、角を曲がった。そこは、駅への近道なのかもしれないけれど、さっき通っていた道よりさらに人通りが少なく、両脇に住宅が立ち並ぶ、細くて静かな道だった。遠くで犬の鳴く声が聞こえる。空を見上げれば、冬の澄んだ空気のせいか、星が降ってきそうなほど綺麗に瞬いていた。
 その道に入ってすぐ、及川先輩が、ぴたり、と足を止めた。

「え?」

 私もつられて足を止める。驚いて顔を上げると、彼は私の方に体を向け、じっと私を見つめていた。街灯の光を背にしていて、彼の表情は影になってよく見えない。でも、その瞳が真剣な色を帯びているのは分かった。

「……あの、先輩…?」

 どうしたんだろう。私の心臓が、ドキドキと早鐘を打ち始める。彼は、何も言わずに一歩、私に近づいた。その距離感に、思わず息を呑む。

(──近い)

 最近、先輩との距離が、なんだかおかしい気がするのだ。トークアプリの雑談や、文化祭の時のおでこへのキス、それ以外でも頭を撫でてくれたりスキンシップが増えた。さっきだって、すごく優しい顔をしていたし…。

「……先輩、あの…最近、どうしたんですか…?」

 思わず、心の声が漏れてしまった。

「なんだか、その…すごく、近い、気がして…」

 言ってしまってから、ハッとして口を押さえる。
 しまった、変なこと言った…! 私の戸惑いの言葉に、彼は一瞬だけ虚を突かれたような顔をしたが、すぐにふっと柔らかく微笑んだ。その笑顔は、なんだか少しだけ、切ないような気もした。

「…そっか。俺、そんなに分かりやすかった?」
「え?」
「……まあ、いいや」

 彼はそう言って、私の質問には答えずにそっと私の頬に手を伸ばした。触れられたことに対する驚きと、指の冷たさに、びくり、と体が震える。

「覚えてる? 俺たち、最初に決めたルール」
「……え?」
「『嫌なことはしない』って、約束したよね?」

 静かな声が、夜の空気に響く。私は、こくりと小さく頷いた。
 触れる前に、毎回のように確かめる彼は、律儀だなと思うと同時に、少し胸が痛む。だって、あれが私たちの偽の恋人でいるときのルールだから。こんな契約のような関係じゃなかったら、もっと躊躇わずに触れてくれるのだろうか。そんな、叶いもしない虚しい願いが胸の中をぐるぐると巡る。

 彼は、私の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、続けた。

「……俺が、君に触れるの、嫌じゃない?」

 静かな問いかけ。それは、私の気持ちを確かめるための、優しい確認。
 心臓が、大きく跳ねる。顔が熱い。指先が震える。でも、もう、答えは決まっていた。

「…………嫌じゃ、ない、です」

 震える声だったけれど、はっきりとそう答えた。俯かずに、ちゃんと目を見て。
 私の答えを聞いて、及川先輩は安心したように、そして本当に嬉しそうに、目を細めた。その瞳からは、いつもの悪戯っぽい光や、人を試すような鋭さが消え、ただひたすらに慈しむような、穏やかな色が宿っていた。
 彼はゆっくりと両腕を広げ、私の体を優しく、でもしっかりと、腕の中に引き寄せる。

「……っ!」

 及川先輩の胸の中に、顔をうずめる形になる。先輩のコートの少し硬い感触。確かな体温。そして、さっきよりももっと近くで香る匂い。トクン、トクン、という彼の心臓の音が、耳に直接響いてくる。それは、私と同じように、少しだけ速い気がした。

(あったかい……)

 冬の夜の冷たい空気の中で、及川先輩の腕の中だけが、信じられないくらい温かくて、安心できる場所に思えた。さっきまでの不安や戸惑いが、彼の体温にゆっくりと溶けていく。
 私はそっと目を閉じて、彼の背中に自分の腕を回した。彼が、抱きしめる腕にほんの少しだけ力を込めたのが分かった。

「…あったかいね、ナマエちゃん」

 背中を少し丸めて、私の肩に顔を埋めた及川先輩が耳元で囁く。

「……先輩も、です」

 私も、小さな声で答える。

 私たちはしばらくの間、ただそうして互いの温もりを感じながら、静かな夜道に佇んでいた。不思議な感覚だった。ただ抱きしめられているだけなのに、今までずっと感じていた彼との間の壁が、音もなく溶けていくような。初めて、心と体が、ちゃんと繋がれたような気がした。
 やがて、彼がゆっくりと体を離した。名残惜しそうな、でも、穏やかな表情で私を見つめている。

「……冷える前に、帰ろっか」

 先輩はそう言って、私の手をしっかりと握った。さっきよりもずっと力強く、温かい手。
私は黙って頷き、手を引かれるまま、再び駅へと歩き出した。
 繋がれた手の温かさと、胸の中にじんわりと広がる、甘くて、切なくて、でも確かな幸福感。

 ──偽物とか、本物とか、もう関係ないのかもしれない。
 これまで、呪文のように自分に言い聞かせてきた言葉。でも、彼の手のひらの確かな温もりを感じている今、そんな区別は、もう何の意味も持たないのかもしれない。

 この幸福感が嘘のはずがない。この愛おしいという気持ちが、偽物のはずがない。
 ただ、今、この瞬間、彼の隣にいられる。それだけで、もう、十分だった。

 冬の星座だけが、そんな私たちを静かに見守っていた。



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