知らなければ良かった、のに
冬休みは、あっという間に終わってしまった。でも、私にとっては、夢みたいにキラキラした時間だった。及川先輩とは、クリスマスイブのデートの後も、何度か一緒に出かけたのだ。
水族館に「リベンジしたい」と言われて、今度はちゃんと予習して臨んだペンギンコーナーで、やっぱり蘊蓄を披露して爆笑されたり。駅前のカフェで新作のプリンを分け合って食べたり。隣町の大きな本屋さんまで、お互い好きな漫画を買いに行ったりもした。
表面上は、普通の恋人同士みたいな、穏やかで、楽しい時間。
もちろん、これが「偽物」だってことは分かってる。でも、それ以上に、彼が見せてくれる優しさや、私だけに向けられる(気がする)笑顔、時々送られてくる他愛ないトークアプリのメッセージが、私の心をどんどん満たしていったのだ。
それに、彼からの甘いスキンシップはクリスマス以降も続いていて、ここ最近は出かける時は必ず手を繋いでくれるし、別れ際に人気のないところで優しくハグしてくれるのも習慣のようになった。
(もしかしたら、なんて…)
淡い期待が、胸の中で少しずつ膨らんでいくのを止められない。先輩の中で、私も少しは特別な存在になれてるんじゃないかって。この「偽物」の関係が、いつか「本物」になる日が来るんじゃないかって…。
そんな、浮かれた気持ちを抱えたまま迎えた、3学期の始まり。卒業式まで、あと残りわずか。先輩と一緒にいられる時間も、あと少しだ。
その日、私は日直の仕事で少しだけ帰りが遅くなり、一人で廊下を歩いていた。夕暮れにはまだ早いけれど、冬の日は短く、窓の外はすでに薄暗くなり始めている。暖房の効いた校舎の中も、放課後の今は少しだけひんやりと感じられた。
階段を降りて、昇降口へ向かおうとした、その時。階段の踊り場の少し先、廊下の角から、聞き覚えのある声が聞こえてきた。
「——及川のやつ、マジで行くんだろ? アルゼンチン」
「ああ、もう腹決めたって言ってたぜ」
(……え?)
アルゼンチン? 及川先輩が?
心臓が、ドクン、と嫌な音を立てた。
足を止め、息を潜めて、壁の影にそっと身を寄せる。声の主は、やっぱり、松川先輩と花巻先輩だった。二人は、私には気づいていない様子で、廊下の窓から外を眺めながら話している。
「つーか、準備とか間に合うのかね? 卒業してすぐだろ?」
「なんか、入畑先生の知り合い辿って色々準備してるっぽい」
「あいつ、ほんとに海外行くんだな…」
松川先輩の声が、どこか寂しげに響いた。
「まあ、あいつならどこ行ってもやってけるだろ。…多分」
「『多分』ってなんだよ、花巻」
「いやー、だって、南米だぜ? メシとか大丈夫かなって」
「あはは、確かに」
(アルゼンチン…海外…南米……卒業してすぐ……?)
頭の中で、断片的な単語がぐるぐると回る。意味が、分からない。理解が追いつかない。私の混乱なんて気づくはずもなく、花巻先輩は、さっぱりとした調子でパンと手を叩いた。
「ま、でも、あいつが決めたことだしな。俺らは応援するしかねーよ」
「だな。送別会、盛大にやってやろうぜ」
「おう」
二人の先輩は、そんな会話をしながら、私の隠れている壁のすぐそばを通り過ぎ、昇降口の方へと歩いていった。足音が遠ざかっていく。
廊下には、私一人だけが取り残された。
シンと静まり返った廊下に、自分の心臓の音だけが、やけに大きく響いている。
(……アルゼンチン?)
嘘だ。何かの間違いだ。だって、先輩は、そんなこと、一言も…。
(…あ)
思い出した。三回目のデートで、カフェでした、あの会話。
──『俺も、もうちょっと勉強しとけばよかったかなー』
──『英語話せたら、世界が広がりそうだよね』
あの時の、少しだけ遠くを見るような目。
──繋がった。点と点が、線になった。
あの空き教室での、「偽物の恋人」の提案。
『ちょっとした思い出作り』だって、彼は言った。そうか、『卒業してすぐに遠くへ行く及川先輩』との、最後の思い出作り。
水族館で見た、クラスメイトの美人な先輩を見つめる、あの切ない目。彼女には彼氏がいる。諦めなきゃいけない。でも、諦めきれない。だから、彼女への恋心を隠して、距離を置くためのカモフラージュ。どうせすぐいなくなる先輩には、本気にならないだろう後輩ファンが、ちょうどよかったんだ。
そして、いつも彼を悩ませていた、たくさんのファンからのアプローチ。それを躱すための、都合のいいファン避け。体当たりして助けた、ちょっと面白い後輩。自分のことを熱心に応援してくれていた、顔見知りのファン。多少無茶しても大丈夫そうで、言うことも聞いてくれそうな、扱いやすい相手。厄介なファンを近づけさせないための、期間限定の盾。
(そうか、だから、私だったんだ…!)
本当に、私で、都合が良かったんだ。
彼の優しさも、意地悪な笑顔も、時々見せる寂しそうな顔も、頭を撫でてくれた手のひらも、おでこへのキスも、クリスマスにくれた腕時計も、ハグも…。
全部、全部、そういうことだったんだ。
アルゼンチンへ行くまでの、期間限定の、『偽物』の彼女への、完璧なファンサービス。
(……なんだ、私、馬鹿みたい…)
ストン、と。今まで感じていた、彼の言動への違和感、その全ての答えが、一気に腑に落ちた気がした。
冬休み中に、あんなに期待して、浮かれて…本物になれるかもしれないなんて、信じかけていた私が、滑稽だ。期待なんかするんじゃなかった。
ガラスみたいに粉々に砕け散る音がした。
涙は、やっぱり出なかった。
ショックが大きすぎて、感情が追いつかないのかもしれない。ただ、胸の奥が、ぎゅうううっと、息ができないくらい締め付けられて痛い。足元が、ぐらぐらと揺れているような感覚。立っているのが、やっとだった。
気づけば、窓の外はもう、完全な夜の色に染まっていた。遠くに見える山の稜線が、深い藍色の空に黒々と溶けている。冬の空気は、どこまでも冷たくて、痛いくらいに澄んでいた。
どれくらいそうしていたのか、分からない。
冷たい冬の風に吹かれながら、ただアスファルトの一点を見つめていたような気もするし、何も考えずに、ただ家までの道を歩き続けたような気もする。周りの景色も、行き交う人の声も、何もかもが遠い世界の出来事のようだった。
気づけば、私は自分の部屋のベッドの上にいた。いつの間に帰ってきたんだろう。制服のリボンを緩め、カバンを床に放り出したまま、うつ伏せに倒れ込んでいる。窓の外はもう完全な夜で、部屋の明かりもつけずにいるから、室内はひどく薄暗い。
ただ、しんとした静寂だけが部屋を満たしていた。仙台の、この町の夜はいつも静かだ。
(及川先輩…)
ぽつり、と心の中で反芻した途端、今まで必死で押さえつけていた何かが、堰を切ったように溢れ出した。
「………っ、…ぅ……ひっく……」
熱いものが、次から次へと目から零れ落ちて、枕にじわりと染みを作っていく。声を出さないように、唇を噛み締める。でも、嗚咽は止まらない。肩が小刻みに震える。
(嘘だ…嘘だって言ってよ……なんで…なんで私に、何も言ってくれなかったの…? 信じてたのに…! 少しでも、本気になってくれたんじゃないかって、期待してたのに…!)
悲しくて、悔しくて、腹立たしくて、そして、どうしようもなく、惨めだった。
冬休み中の、あの楽しかった時間は? あの優しい言葉は? 全部、全部、期間限定の、最後のファンサービスだったの? ——私を騙して。
「……ひどい……っ」
枕に顔を押し付けて、声を殺して泣いた。子供みたいに、わんわん泣いた。涙は、なかなか止まってくれそうになかった。
どれくらい泣いただろうか。
涙が少しだけ枯れてきて、しゃくりあげるリズムもゆっくりになってきた頃、私はぼんやりと天井を見上げた。暗闇に目が慣れて、見慣れた自分の部屋の天井がぼんやりと見える。
(……でも)
ふと、思う。
(先輩は、自分で決めたんだ)
アルゼンチンへ行くこと。それは、彼が選んだ道なんだ。きっと、たくさん悩んで、考えて、覚悟を決めて。私なんかが知らない、たくさんの葛藤があったはずだ。
彼は、いつだってそうだった。どんなに高い壁があっても、どんなに苦しい状況でも、決して諦めずに、前だけを見て進んでいく人。世界を見てるんだ。 私みたいな、この小さな町の、小さな世界しか知らない人間とは違う。
(私には、止められない。邪魔しちゃいけない。だって、私は結局、彼にとってその程度の存在なんだから)
そうだ。私は、彼の「偽物の彼女」。彼が決めたことに、口を出す権利なんてない。できることは、ただ一つだけ。
「大丈夫…」
私は、自分に言い聞かせるように、小さく呟いた。
思い出すんだ。あの体育倉庫の裏で泣いていた私を、先輩が屋上に連れて行ってくれた、あの日。
あの時、私は決めたはずだ。『偽物だっていい。利用されてるって分かっててもいい』。『私もこの「偽物の恋人」という立場を利用して、憧れの人との、この奇跡みたいな時間を、かけがえのない「思い出」にするんだ』って。
(そうだ。ただ、あの時の決意に、戻るだけ)
いつの間にか、浮かれて、期待して…本物になれるかもしれないなんて、信じかけてた。馬鹿みたいだ。
もう、期待はしない。彼が望んだ、『都合のいい偽物の彼女』を、最後まで完璧に。彼がアルゼンチンへ発つ、その日まで。それが、私にできる唯一のこと。利用されてるって分かってても、最後まで演じきってやる。それが、私の最後の意地だ。
──だけど。
(つらい、なぁ…。期待した分だけ、余計に…)
決意とは裏腹に、また涙が滲んできそうになる。胸の奥が、ぎゅっと締め付けられて苦しい。
その時、枕元に放り出してあったスマホが、ブブッと短く震えた。トークアプリの通知だ。まさか、と思って画面をタップすると、表示された名前は、やっぱり。
──『及川徹』
心臓が、また嫌な音を立てて跳ねる。メッセージを開く指が、少しだけ震えた。
『明日の放課後だけど、俺バレー部に顔出すね。終わるの待つ?』
悲しいくらいに、いつも通りの彼からのメッセージ。さっきまでの涙が、急速に冷えていくのを感じた。
私は、深呼吸を一つして、濡れた指先でスマホを操作する。そして、いつもの、当たり障りのないスタンプと、短い言葉を打ち込んだ。
『了解です! 図書館で勉強して待ってますね!』
——心にもない言葉。本当は、さっきの松川先輩たちの会話の内容が本当なのかと、問い詰めたくて仕方ないのに。
送信ボタンを押す。トーク画面には、すぐに既読の文字がついた。スマホをぎゅっと握りしめて小さく息を吐く。天井が、なんだか歪んで見える。
(大丈夫。私なら、できる。ちゃんと、『彼女』でいられる…。彼が望む、完璧な偽物として。この胸の痛みも、涙も、全部隠して…)
そう、自分に言い聞かせながら、私はただ、暗い部屋の中で、じっと息を潜めていた。