冬の優しさは、痛みだけ残した
身を切るように冷たい風が吹く。私はマフラーに顔を半分うずめながら、及川先輩の少し後ろを歩いていた。放課後、一緒に帰る。それは、あの衝撃的な事実を知ってしまってからも変わらない、私たちの間にある「日常」だった。
『——及川のやつ、マジで行くんだろ? アルゼンチン』
『ああ、もう腹決めたって言ってたぜ』
あの日、廊下で聞いてしまった花巻先輩たちの言葉。その事実は、まるで鋭い氷の欠片のように、まだ生々しく胸に突き刺さっている。思い出すたびに、心臓がきゅうっと縮こまるような痛みに襲われる。
でも、私は彼に何も言わない。問い詰めない。ただ、知らないフリを続ける。
(先輩に、自分の口から打ち明けられる、その日まで。私はちゃんと、『都合のいい偽物の彼女』でいる)
——そう、決めたのだから。惨めでも、それが今の私にできる、唯一のことだから。
「ねぇ、今日の全校集会さ、めっちゃ眠くならなかった?」
前を歩いていた先輩が、ふと足を緩めて私に話しかけてきた。彼の声に、ハッと現実に引き戻される。
「あ、はい! 校長先生の話、いつもより長く感じました…」
「だよねー。俺も途中で寝ちゃいそうになったよー」
彼は、いつものようないたずらっぽい笑顔を私に向ける。その表情は、一見、以前と何も変わらないように見える。でも。最近の先輩は、少し変わった気がするのだ。
まるで、私との間に残された時間を惜しむかのように。そして、私を利用していることへの罪滅ぼしでもするかのように、以前よりも、ずっと優しい。
たとえば、私が通りすがりに「可愛い」とつぶやいたカフェに、週末ふいに「そこ行ってみる?」と誘ってくれたり。
また別の日には、以前ぽろっと話した好きな作家の名前を覚えていたのか、本屋の袋を手に「この作家好きって言ってたよね」と差し出してくれたこともある。中には、ずっと気になってた新刊が入っていて、思わず言葉に詰まってしまった。彼は「たまたま見かけたから」なんて、いつもの調子でさらりと言っていたけれど——あの時、私がどんなにその本を読みたがっていたか、ちゃんと覚えていてくれたのかもしれない。
そして、今日の帰りもそうだ。
「ほら、手、冷たいじゃん。ちゃんと手袋しなきゃダメでしょ」
彼は徐に私の手を取ると、自分のコートのポケットから、まだ温かい使い捨てカイロを取り出して、私の手にそっと握らせてくれた。
「あ…ありがとうございます……」
じんわりと伝わる確かな温かさに、胸がきゅっと締め付けられる。嬉しい。ううん、嬉しいはず、なのに。
(…どうして、今さらそんなに優しくするの。どうせ、もうすぐ遠くへ行っちゃうくせに。私を置いて)
そんな、子供じみた意地悪な考えが、どうしても心の隅をよぎってしまう。だって、その優しさの一つ一つが、「どうせ別れる私への、期間限定の親切」のように思えてしまって、苦しいのだ。
元々、私たちの関係は卒業までって分かってたのに。それなのに、こんなに裏切られた気持ちになるのは、きっと卒業しても、ファンとしてなら近くに行けると思ったからだ。だから、海外に行くという先輩に、勝手に苦しさを募らせてしまっている。
「先輩は、いいんですか? カイロ…」
「俺? 平気平気。これくらい」
彼は、へらりと笑って見せるけど、白い息が彼の言葉の裏にある寒さを物語っている。私は、もらったカイロを強く握りしめる。彼のくれる温かさが、今は少しだけ、痛い。
まるで、彼の嘘に甘えてしまう弱い自分を、責めているみたいで。
「………」
「………」
また、会話が途切れる。私たちは、黙って夕暮れの道を歩いた。冬の日は本当に短い。もう、空は深い藍色に染まり始めていて、遠くに見える山の稜線が、くっきりと切り取られた影絵のように黒々と横たわっている。
(先輩は、今、何を考えてるんだろう…)
アルゼンチンのこと? これからの準備のこと? それとも、クラスメイトの美人な先輩のこと?
聞きたいことは、喉まで出かかっているのに、聞けるはずがない。だって、私にはその資格がないのだから。私は、彼の未来には含まれていないのだから。
「…ねえ」
不意に、彼が足を止めた。私もつられて止まる。
「はい?」
彼を見ると、彼は、どこか遠くを見るような、少しだけ寂しげな目をしていた。街灯に照らされたその横顔が、冬の澄んだ空気の中で、やけに綺麗で、そしてひどく切なく見えた。
一瞬だけ、愚かな期待が胸をよぎる。彼の本当の気持ちを、ほんの少しでも、聞けるのかもしれない、と。でも、彼はすぐに、ふっと息を吐いて、いつもの軽い笑顔に戻って言った。
「…いや、なんでもない。早く帰ろっか。暗くなると、もっと冷えるしね」
「………はい」
やっぱり、彼は何も話してはくれない。私には、本当の心の内側なんて、決して見せてはくれないんだ。
分かっていたはずなのに。期待した自分が馬鹿だったと、頭では理解しているのに。胸の奥が、またチクリと鈍く痛んだ。私は、努めて明るい笑顔を作り、彼に頷き返す。唇の端は、ちゃんと上がっているだろうか。
彼が本当のことを話してくれる、その日まで。私は、彼の隣を歩ける、この残り少ない時間を、ただ大切に噛みしめようと思った。たとえそれが、彼にとっては都合の良い、嘘でできた時間だとしても。私にとっては、もう二度とない時間なのだから。
冬の冷たい風が、まるで私たちの心の隙間を通り抜けるかのように、音を立てて吹き抜けていった。