チョコレートに込めた本音と嘘
2月に入ると、3年生は自由登校期間になった。及川先輩はほとんど学校に来なくなり、私たちはたまにトークアプリのメッセージで約束して、週末に少しだけお出かけするくらいになった。
会えない時間が増えた分、スマホに届く彼からのメッセージの頻度は、以前よりも少し増えた気がする。本当に他愛ない内容だけど、その通知が来るたびに、私の心臓は律儀に跳ねて、そしてすぐにチクリと痛んだ。
そんな中、やってきたのがバレンタインデー問題だ。
街には可愛いラッピング用品やチョコレートが溢れている。クラスの友達も、誰に何をあげるかで盛り上がっていた。
(…私は、どうすればいいんだろう)
偽物の私が、先輩にチョコなんてあげていいんだろうか。でも、あげなかったら、「彼女なのに?」と、彼を困らせてしまうかもしれない。
それに…。これが、ファンとして、そして『偽物の彼女』として、私が彼にしてあげられる、数少ないことかもしれない。
感謝と、応援の気持ちを伝える。それだけなら、許されるはずなのでは。
悩みに悩んで、結論が出ないまま数日が過ぎた頃。及川先輩から、メッセージが来た。
『14日、登校日なんだけど、昼休み会う? あ、忘れてるかもしれないけど、その日バレンタインだよー』
探るような、からかうようなメッセージ内容に、思わずスマホを落としそうになる。
なんでこのタイミングでそんなこと…! まるで、私のこと見てるみたいじゃないか…!
『わ、忘れてたわけじゃないです! ちゃんと考えてます!』
パニックになりながらも、なんとか返信する。
『へえ? ま、無理しなくていいけど?』
無理しなくていい、と言いつつ、これは完全に「用意する流れ」である。もう、渡さないという選択肢はなくなった。私は観念して、チョコを準備することにした。
手作りは、さすがに重いだろうし、そもそも私にお菓子作りの才能はない。生まれてこのかた、男子どころか女子にすら手作りで何かをお届けした経験がないのだ。ダークマターを生み出す自信しかない。
だから、市販品を選ぶことに決めた。でも、どんなものがいいんだろう。先輩の好みなんて、牛乳パンくらいしか知らない。かといってこの時期に、「何のチョコが好きですか?」なんて本人に訊くほど、鈍感でも空気の読めない人間でもない……はずだ。
結局、私が選んだのは、駅前のデパートで見つけた、ちょっとお洒落なチョコレートのアソートだった。
そして、ラッピング。いろんな種類があって迷ったけど、ふと目に留まった、可愛いペンギンのイラストが描かれた包装紙を選んでしまった。
私がペンギンの話をする時、いつも笑ってくれるから。少しでも、私との繋がりを感じてほしかったのかもしれない。私なりの、精一杯のユーモアと本音を混ぜたつもりである。
そして、2月14日。久しぶりに学校で会う約束をした日。昼休み、3階の空き教室での二人の時間。お互いの昼食が落ち着いたタイミングを見て、私は緊張しながら、その紙袋を彼に差し出した。
「あの、先輩…これ、バレンタインの…」
「お、サンキュ。ちゃんと用意してくれたんだ? 律儀だねぇ」
彼は、少しだけからかうように笑って、紙袋を受け取った。そして、中身よりも先に、ラッピングに気づいて、きょとんとした顔をする。
「…え、ペンギン?」
「あ、えっと、その…可愛いかなって…」
しどろもどろになる私。すると、彼は、くつくつと喉を鳴らして笑い出した。
「ほんとナマエちゃん、ペンギンネタ好きだよねぇ」
「…いや、別にそういうわけじゃ!」
「ふーん? ま、いっか」
彼は、意外にもそれ以上は追求せず、するりとラッピングを解いて、中のチョコレートを一粒、口に放り込んだ。
「…ん、うまいじゃん。ありがとね」
「いえ…」
普通に喜んでくれたみたいで、少しだけホッとする。お小遣いを叩いて良いお値段のものを選んだ甲斐があった。
「ていうか俺さ、前にも言ったけど、別にペンギンが特別に好きなわけじゃないんだよね」
「まあ…それは知ってますけど…」
「でも、ペンギンのことを語ったり、ペンギンネタで攻めてくるナマエちゃんを見てるのは楽しくて好き」
彼は、こともなげにそう言って、またチョコレートを口に入れた。
(……見てるのが、楽しくて、好き…?)
その言葉に、心臓がドキリとする。
(ああ、まただ。この、思わせぶりな言葉…)
及川先輩はきっと、私がこういう言葉に弱いことを知っている。最後の思い出作りを、もっと完璧にするための、演出なんだ。別れ際の優しさなんだ。期待しちゃダメだ。今、この言葉を信じたら、後でもっと苦しくなるだけだから。
「…っ、あの、本当に、先輩のこと考えて選びましたから! その、日頃の感謝と、あと、これからも頑張ってくださいっていう、応援の気持ちです!」
私は、慌てて付け加えた。あくまで、これは「ファン」からの、感謝と応援の気持ちなのだと。未来の約束なんて、できるはずがないから。期待しかけている自分に、釘を刺すように。
私の、少し必死な言葉に、彼は一瞬だけ、虚を突かれたような顔をした。そして、すぐに表情が曇り、彼の眉間に、深い皺が刻まれたのを見た。
それは、困惑とも、痛みとも、罪悪感とも見えるような、複雑な色。
「…………そっか」
及川先輩は、短くそう呟くと、視線を逸らした。その横顔が、なんだかとても、苦しそうに見えた。
重たい沈黙が、二人の間に落ちる。私は、何か言ってはいけないことを言ってしまったのだろうか、と不安になった。
しばらくして、彼が顔を上げた。表情は、いつもの余裕のある笑顔に戻っていたけれど、目の奥にはまだ、さっきの複雑な色が残っている気がした。
「…ねえ、再来週の日曜、空いてる? デートしない?」
「え……?」
唐突な誘いに、私は戸惑う。でも、断る理由はない。
「あ、はい…大丈夫ですけど……」
「…じゃ、決まりね。場所とか、また連絡するから」
及川先輩は、そう言って、ひらりと手を振ると、「じゃ、俺そろそろ行くね。チョコありがと」と残し、足早に去っていった。一人残された空き教室で、私は彼の言葉を反芻する。
再来週の日曜日? なんでそんな少し先の約束をしたんだろうと頭の中にスケジュールを思い浮かべる。卒業式は、3月1日。その前の、最後の日曜日だ。
(……ああ、そっか)
これが、きっと、最後のデートなんだな。
そう、直感的に理解した。
まるで、遠い国の話を聞いているみたいに、心が静かに冷えていくのを感じた。胸の奥が、また、ぎゅっと締め付けられる。でも、不思議と涙は出なかった。もう、泣くことにも疲れてしまったのかもしれない。
分かっていたことだ。いつか、終わりは来る。私は、ただ、その最後の時間を、ちゃんと「彼女」として過ごすだけだ。
冬の風が、遠くで何かを告げるように、校舎のガラスを揺らしていた。