もう、手を繋ぐ理由がないから


 カフェを出ると、日はもうほとんど沈みかけていて、空は深い紫色に染まっていた。冬の終わりの空気はまだ冷たいけれど、昼間よりは少しだけ、ほんの少しだけ、春の匂いが混じっているような気がした。私たちは、駅へと続く道を歩いていた。

 今日のデートは、いつも以上に「普通」の恋人同士みたいだった。

 午前中に待ち合わせて、一緒に映画を観た。暗がりの中、隣に座る彼の横顔が気になって仕方なかった。手が触れそうで触れない距離に緊張して身体がこわばってしまった。
 カフェでの会話も、他愛ないけれど穏やかで。彼が時折見せる優しい笑顔や、私の拙い話に真剣に耳を傾けてくれる姿に、私は何度も胸を高鳴らせた。

 でも、心では分かっている。きっと、『偽物の恋人』としての関係は、これで最後なんだろう、と。

 卒業式は、もうすぐそこまで迫っている。

「…ねぇ、ちょっとだけ、公園寄ってかない?」

 駅に向かう途中、小さな公園の入り口で、及川先輩がふいに足を止めて言った。公園の中は街灯が少なく、人影もまばらで、とても静かだ。

「え…?」
「少しだけ。話したいことがあるんだ」

 彼の声は、いつもより少しだけ低く、真剣な響きを帯びていた。私の心臓が、ドクン、と大きく跳ねる。

 来たんだ、と思った。この時が。

 私たちは、公園の奥にある、古びたベンチに並んで腰掛けた。目の前には、もう葉を落とした木々がシルエットになって夜空に浮かび、遠くには町の灯りが瞬いている。しんとした静寂の中で、自分の呼吸の音だけが大きく聞こえた。
 隣に座る及川先輩は、しばらくの間、何も言わずに、ただまっすぐ前を見ていた。その横顔は、どこか緊張しているようで、何か重い決意を秘めているように見えた。

 やがて、彼はこちらに体を向け、ゆっくりと口を開いた。

「……ナマエちゃん」
「…はい」
「今日まで、俺の我儘に付き合ってくれて、ありがとう」
「え…?」

 突然のお礼の言葉に、私は戸惑う。

「偽物の彼女、なんて、変なこと頼んじゃって。たくさん、嫌な思いもさせたと思う。…本当に、ごめん」

 彼は、深々と頭を下げた。そんな先輩の姿を見るのは初めてで、私はどう反応していいか分からず、ただ固まってしまう。

「…先輩…?」

 顔を上げた及川先輩の瞳は、真っ直ぐに私を見つめていた。そこには、いつものような余裕も、からかうような色もない。ただ、真剣で、少しだけ苦しそうな光が宿っていた。

「大事な話があるんだ。ずっと、言えなかったんだけど…」

 ゴクリ、と喉が鳴る。私は、彼の次の言葉を、息を詰めて待った。

「俺さ、卒業したら、アルゼンチンに行くんだ」

 ——知っていたはずの言葉。
 いつか、及川先輩自身の口から聞くことになるだろうと、覚悟していたはずの言葉。なのに。
 実際に、彼の声で、彼の口から直接聞くと、まるで初めて聞いたみたいに、全身の血の気が引いていくのが分かった。頭の芯が、ジンジンと痺れる。

「……アルゼンチン…」

 かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど掠れていた。

「うん。向こうのチームで、バレー続けることにしたんだ。プロとして、挑戦したくて」

 彼は、少しだけ早口で続けた。まるで、一度言葉にしてしまえば、もう後戻りできないとでも言うように。

「ずっと前から決めてたんだけど…なかなか、言い出せなくて。特に、君には……」

 及川先輩の言葉が、遠くに聞こえる。目の前が、少しだけ、白んでいくような気がした。

 (…そっか。やっぱり、本当だったんだ…)

 松川先輩たちの会話は、聞き間違いじゃなかった。私の悪い予感は、当たってしまった。

「…ナマエちゃんのこと、利用するみたいな形になったこと、本当に悪いと思ってる」

 及川先輩の声が、静かに降ってきた。その言葉には、言い訳も、取り繕いもない。真正面からの謝罪だった。だからこそ、余計に胸が苦しかった。
 眉間にわずかに皺を寄せたまま、彼はじっと私を見つめていた。
 その瞳の奥にあるのは、後悔。それとも、自責の念だろうか。どちらにせよ、彼もまた傷ついているのだと、伝わってしまって——私は、返す言葉を見つけられなかった。

(…利用された。それは、わかってる。けど…)

 どうしても、聞いておきたいことがあった。胸の奥で、ずっと引っかかっていた小さな棘。それを確かめない限り、このまま終わることなんて、できなかった。

「……ファン避け、だけじゃ、なかったんですよね…?」

 声に出した瞬間、指先がかすかに震えた。自分でも気づかぬうちに、息を止めていたらしい。問いかけるというより、祈るような気持ちだった。

 その言葉に、及川先輩の瞳がはっきりと揺れた。肩がわずかに跳ねて、呼吸が詰まる音が聞こえる。目が合った瞬間、彼の中に浮かんだ迷いと動揺を、私は確かに見てしまった。

「先輩には、他に…ずっと、好きな人が、いたから…。だから、私を『彼女』にしたんですよね?」

 言葉にした途端、心が締めつけられるように痛んだ。
 事実を確かめたくて聞いたはずなのに、それを認めてほしくない気持ちが、喉の奥でつかえている。

 及川先輩は、はっきりと驚愕を露わにした。目を大きく見開き、完璧だったはずのポーカーフェイスが、みるみる崩れていく。

「………な、んで…それを…」

 動揺がありありと声に表れていた。私が知っているなんて、夢にも思わなかったのだろう。
 私は、彼の目を真っ直ぐに見つめ返した。もう、誤魔化したり、知らないフリをしたりするのはやめようと思った。これが、最後なのだから。

「……クラスメイトの、あの人のこと、ですよね…?」

 名前は出していない。それでも、彼には、誰のことを指しているのかすぐに伝わったのだろう。
 その一言を口にした瞬間、彼の動きがぴたりと止まった。そして、何かを諦めたように、ふっと肩の力を抜いた。観念したような、それでいて、どこかホッとしたような、複雑な表情。

「…………バレてたんだ」

 彼は、力なく笑って、夜空を仰いだ。冬の澄んだ空気に見える星が、やけに綺麗だ。

「……うん。ずっと、好きだったよ。あいつのこと」

 静かな声。言い訳も、飾りもない。ただ、ありのままの気持ちが乗った、まっすぐな言葉だった。

「正直、あいつへの気持ちを諦めきれないのが、つらくて。それが、知らないうちに態度や顔に出るのが怖くてさ……君に“偽物の彼女”をお願いしたんだ」

 目を伏せる彼の表情は、どこか苦そうだった。それだけ、長い間ずっと、想いを抱えていたのだと伝わってくる。

 ——ズキリ、と胸が痛んだ。
 どれほど、先輩はあの人のことを想っていたんだろう。私にはきっと、一生触れられない場所が、そこにあった。

「…でもね」

 彼は、再び私に向き直る。彼の瞳には、どこか静かな決別の色が宿っていた。

「あいつには、ちゃんと好きなやつがいたし。俺が入る隙なんて、最初からなかったんだ。…それに」

 言葉を一拍、止めてから彼は、はっきりと続けた。

「もう、ちゃんと吹っ切れたんだ。今は、違う」

 ──今は、違う。
 その言葉が、私の心にじんわりと染み込んでいく。あの先輩のことが好きだったのは本当。でも、それはもう過去のこと。
 この恋が叶うはずがないと、自分の心に鍵をかけてしまった、一番大きな理由だったものが、今、彼の口から、確かに否定されたのだ。

 嬉しい、というよりは、なんだか、胸のつかえが取れたような、不思議な安堵感があった。と同時に、じゃあ、今、彼の心はどこにあるのだろう、という新たな疑問と、それでも変わらない「別れ」という現実が、また胸を締め付ける。

「だから、ごめん。君には、本当に、酷いことをしたと思ってる。ファン避けなんて建前で、自分の気持ちの整理のために、巻き込んじゃって…」

 彼は、心から申し訳なさそうに、もう一度深く頭を下げた。私は、静かに首を横に振った。

「…謝らないでください」

 彼の本音が聞けた。それだけで、もう十分だった。
 たとえそれが、別れの直前だったとしても——胸の奥が、少しだけ温かくなった。

「………知って、ました」

 私は、さっき言えなかった言葉を、今度こそ口にした。

「先輩が、遠くへ行っちゃうかもしれないってことは、少し前に…偶然」

 私の言葉に、彼はまた目を見開く。

「………そう、だったんだ…。気づいてて、何も言わずに…?」

 私の告白に、及川先輩は驚きと、深い後悔の色を瞳に浮かべて、言葉を失っていた。きっと彼は、私が何も知らずに“偽物の彼女”を演じ続けていたと思っていたのだろう。
 それがすべて、自分の勝手な都合だったことを、今になって痛感しているかのように。

 私は、小さく首を横に振った。

「…いいんです。先輩が決めたことなら、私が何か言えることじゃないですから」

 できるだけ、穏やかな声で言う。本当は、心臓が張り裂けそうなくらい痛いけれど。
 彼は、何か言いたそうに唇を開きかけたが、結局、ふっと力なく笑って、俯いた。長い前髪が、彼の表情を隠してしまう。

「……ほんと、ごめん」

 絞り出すような声だった。

「君には、最後まで、酷いことばっかりしちゃったな…」
「そんなことないです!」

 私は、思わず大きな声を出していた。及川先輩が、驚いて顔を上げる。

「酷いことばっかり、なんて…そんなことない」

 私は、真っ直ぐに彼の目を見て、繰り返した。

「偽物だって分かってました。先輩が、他の誰かを好きだったんだろうなってことも、気づいてました。私が、都合がいいから選ばれたんだろうってことも…分かってました」

 そのすべてを、ずっと分かっていた。分かっていて、それでも、隣にいたかった。
 言葉にするのは、思ったよりもずっと苦しくて。喉の奥がぎゅっと詰まって、涙が滲みそうになったけれど——それでも、私は続けた。

「でも、それでも…」

 ぐっと奥歯を噛んで、こらえる。

「先輩の『彼女』でいられた時間は、私にとって、本当に、宝物でした。たくさん悩んだけど…すごく、楽しかったです。だから…」

 ——だから、謝らないでほしい。

 私の必死の言葉に、彼はただ、じっと私を見つめていた。その瞳は、もう揺らいではいない。何か、強い決意を固めたような、静かな光を湛えている。
 やがて、彼はゆっくりと口を開いた。

「……俺もだよ」
「え…?」
「偽物だったけど、君と過ごした時間は…すごく楽しかった。突拍子のないことばっかり言ってくる君を見てると、なんか、調子狂ってさ。……でも、それが面白くて」

 照れたように視線を逸らしながらも、少しだけ笑う彼の横顔が、妙に優しく見えた。

「君がいてくれて、良かったって、本当に思う。……ありがとう」

 ありがとう、という言葉が、私の胸の中に静かに響いた。その言葉だけで、十分だった。私が欲しかったのは、きっと、こういう言葉だったのかもしれない。

「…こちらこそ、ありがとうございました」

 私も、精一杯の笑顔を作って答える。もう、涙は滲んでいなかった。

「先輩のこと、これからも応援してます。アルゼンチンに行っても。日本から」

 今度こそ、本当に、ファンとして、心からのエールを送る。彼は、私の言葉に一瞬だけ驚いた顔をして、それから、ふわりと、柔らかく笑った。

「…うん。ありがと」

 もう、話すことは、何もなかった。私たちは、どちらからともなく立ち上がり、ベンチを後にする。

 駅までの短い道を、今度は本当に、言葉少なに歩いた。いつもなら、帰り道は自然と手を繋いでくれていたのに。でも、もう繋がない。繋げない。
 だって、『偽物の恋人』でいる理由は、もうなくなったのだから。ただ、私が先輩の手に触れたいだけでは、もう、繋いではいけないのだ。

 隣を歩く先輩との間に、見えないけれど確かな距離を感じた。さっきまでの気まずさや重苦しさは薄れていたけれど、代わりに、静かで、少しだけ切なくて、でもどこか温かい、不思議な空気が流れていた。

 駅の改札の前で、私たちは向き合った。

「……元気でね」

 彼が、少しだけ掠れた声で言った。

「…はい。先輩も」
「ちゃんと、ご飯食べるんだよ。駄菓子ばっかじゃなくて」
「…善処します」

 少しだけ、お互いに笑みがこぼれる。

「………じゃあ」
「……はい」

 彼は、何かを言いかけたように見えたけれど、結局何も言わず、ただ、真っ直ぐに私を見つめた。その瞳に宿る感情を、私は読み取ることができない。

 そして、彼はくるりと背中を向けた。

「…! 先輩!」

 思わず、その背中に声をかける。及川先輩はビー玉のような澄んだ瞳を見開き、驚いたように振り返った。

「……卒業式の日、ちゃんとお祝い言わせてくださいね」

 私の、最後のお願い。ファンとして、このくらい言ってもいいだろう。
 彼は、一瞬だけ瞳を揺らし、それから、ふっと、本当に優しい顔で笑った。

「……うん、もちろん。終わったあと、連絡するね」

 それだけ言うと、及川先輩は今度こそ本当に、改札の向こうへと消えていった。大きな背中が見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。

 一人になったホームに、冷たい風が吹き抜ける。

 (卒業式では、会える。でも、もう彼の隣を歩く資格はないんだ…)

 先輩は、行ってしまう。遠い、海の向こうへ。
 もう、簡単には会えない。でも、それでいいんだ。

 (先輩は、世界を見てる人。きっと、もっともっと、大きな舞台で輝く)

 私も、頑張らないと。卒業式で、ちゃんと笑顔でお祝いを言えるように。

 胸の奥が、まだ少しだけ痛む。でも、不思議と、涙は出なかった。私は、静かに息を吸い込み、ゆっくりと前を向いた。

 彼のいない明日が、もうすぐやってくる。



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