また会える日までの宿題

 卒業式が終わった後の、ざわめきと感傷が入り混じる独特の空気の中、私は一人、3階の空き教室に来ていた。及川先輩からの『今から少しだけ会える?』というメッセージに応えて。
 窓際に立ち、眼下に広がる光景を無表情で見下ろす。胸に花のコサージュを付けた三年生に、下級生が泣きながら何かを伝えている。

 私は、最後に及川先輩に何を伝えることができるのだろう。

 教室に差し込む日差しには、もう冬の厳しさはなく、柔らかい春の温かさが滲んでいた。風はまだ少し冷たいけれど、木々の匂いには、もうすぐ訪れる新しい季節の気配が混じっている。

 コツ、と軽い靴音がして、彼が現れた。胸に花を付け、卒業証書の筒を片手に持った、制服姿の及川先輩。いつもより少しだけ、表情が硬いように見えるのは、気のせいだろうか。

 この白いブレザーを羽織っている姿を見るのも、今日で最後になるんだ。

「…待たせた?」

 少しだけ掠れた声で問いかけられる。

「いえ、私も今来たとこです」

 私の声も、ほんの少しだけ震えていたかもしれない。彼の姿を直視するのが怖くて、少しだけ視線を逸らしながら答えた。先輩は私のそばに歩み寄ってくると、同じように窓の外へと目を向けた。その横顔を見た瞬間、ふいに胸の奥がきゅっと締め付けられる。

 ——この教室。
 初めて彼に呼ばれて、緊張しながらついてきた場所。何もなかった“最初”の私たちが、ゆっくりと距離を縮めていった、始まりの場所だ。

「……卒業、おめでとうございます」

 私が先に口を開くと、彼は「ん、ありがと」と短く答えて、少しだけ遠い目をした。ほんの一瞬、まぶしさを避けるように目を細めて、手に持った卒業証書の筒をぎゅっと握りしめる——その手の甲に、力が入っているのが見えた。

「……ナマエちゃん」

 急に呼ばれて、心臓が跳ねる。でも、名前を呼ぶ声は優しくて、どこか切なげだった。

「はい」
「……本当に、色々とね。ありがとう」

 及川先輩は、真っ直ぐに私を見て、少しだけ照れたように、でも真剣な声で言った。その一言に、先日の公園での会話の続きと、今日という日の特別な感謝が込められている気がした。

「…こちらこそ、ありがとうございました」

 私も、彼に視線を合わせる。涙が滲みそうになるのを、ぐっと堪えた。たくさんの思い出が蘇るけれど、言葉にはしない。言葉よりも、目の奥にある想いが伝わってほしい。彼も、きっとそれを受け取ってくれたのだろう。ふっと、今まで見た中で一番優しい笑顔を浮かべて、「…うん」と小さく頷いた。

 沈黙が訪れる。でも、それは苦しいものではなかった。むしろ、言葉なんていらないほど、心が満ちていた。
 その静けさの中で、私は隣にいる彼の体温を感じる。肩が触れるか触れないかの距離。もうすぐ、それも遠くなる。

(…本当に行くんだな、遠い場所へ)

 ──アルゼンチン。
 地図の上でしか知らないような場所。私には想像もつかないくらい、遠い国。この笑顔をこんなに近くで見ることも、きっとこれが最後になるのだろう。
 名残惜しくて、彼の顔から目が離せないでいると、彼が、ふいに私に向かって一歩、踏み出す。

 私との距離が、ぐっと近づいた。見上げた先には、まっすぐに私を見つめる彼の瞳。迷いのない視線。でも、どこか苦しげな光も揺れていた。その目に、私は吸い込まれそうになる。

「……ねえ、最後にお願い、聞いてくれる?」
「…え?」

 先輩の大きな手が、そっと私の頬に触れた。ひんやりとした指先。でも、すぐに彼の体温が伝わってくる。

「……嫌なことはしないって、約束したよね?」

 あの日の、空き教室での言葉。私は、こくりと頷くことしかできない。彼は、私の瞳を真っ直ぐに見つめたまま、囁くように尋ねた。

「…………嫌じゃない?」

 その問いかけの意味を、私はすぐに理解した。心臓が、大きく、強く、脈打つ。
 顔が熱い。指先が震える。でも、もう、迷いはなかった。私は、震える声で、でもはっきりと答えた。

「…………嫌じゃ、ない、です」

 かすれるほどに小さな声だったのに、それでも彼にはちゃんと届いていた。私の言葉を受け取った及川先輩は、ふっと目を細め、静かに、安堵のように息を吐いた。その表情は、満足そうでありながら、どこか切なげで。
 今にも壊れてしまいそうな空気の中で、彼がそっと顔を近づけてくる。目蓋を下ろす。そして——。

 柔らかくて、温かい感触が、私の唇に、そっと触れた。

 ほんの一瞬。触れるだけの、優しいキス。彼の唇は、少しだけ震えていて、それでも確かな温もりを残してくれた。香水のほのかな残り香と、頬に感じる彼の指のあたたかさ。耳の奥で、自分の鼓動だけがやけに大きく響いていた。
 時が止まったみたいだった。世界には、私と彼だけしかいないような気がした。

 ——ゆっくりと、彼の唇が離れていく。
 目を開けると、すぐそこに及川先輩の顔がある。その瞳に映る私は、どんなふうに見えているんだろう。怖くて、でも見逃したくなくて、私は視線を逸らせなかった。彼も、何かを噛みしめるように私を見つめていたけど、不意に自分のポケットに手を入れる。

「…あ、そうだ。これ、渡しそびれてた」

 呟くように言って、先輩が差し出してきたのは、小さな白い箱。シンプルで、けれど丁寧に包まれたその箱を、私は戸惑いながら受け取った。

「バレンタインの、お返し」
「えっ…?」

 予想外の出来事に、私は目を丸くする。彼は、その箱を私の手のひらに乗せた。

「開けてみて」

 促されるまま、震える指でリボンを解き、そっと箱を開ける。中に入っていたのは、小ぶりで上品な、銀色のピアスだった。光を受けてキラキラと輝いている。

「ピアス…。でも、私、穴…」

 開いてない、と言いかけて、言葉に詰まる。彼は、そんな私を見て、少し意地悪そうに、でもやっぱり優しい笑顔で言った。

「うん、知ってる。開いてないでしょ」
「………」
「でもさ、これ、絶対ナマエちゃんに似合うと思って」

 そう言って、及川先輩は私の耳たぶを、軽く指で示す。その指の動きが、あまりに自然で、だけど意味深くて。心がまたざわめく。

「卒業したら、空けなよ」

 その言葉は、軽い響きなのに、有無を言わせないような、不思議な力を持っていた。

(……ずるい)

 心の中で、そう呟く。そう言われたら、きっと私は、開けてしまう。彼が「似合う」って言ってくれた、それだけで。そんなの、約束みたいなものじゃないか。

 これは、命令? それとも、未来への希望だと受け取っていいの?

 ピアスの箱を両手で包み込むように持ち直しながら、私は黙って彼の顔を見上げる。何も言わなくても、彼にはそれで十分だったらしい。

「…………じゃあね」

 今度こそ、本当の別れの言葉だった。
 及川先輩はそう言って、私から一歩だけ距離を取る。その指が、手が、ゆっくりと離れていく。あたたかさが名残惜しくて、私は思わず、息を止めてしまった。

 彼が、くるりと背を向ける。その背中に、私は呼びかけるように、でももう戻ってこないことを分かっている声で言った。

「……さようなら、及川先輩」

 私も、震える声で、そう呟いた。手の中の小さな箱を、ぎゅっと握りしめる。

 ——これが、本当のさよならだ。
 及川先輩は、一度も振り返らずに、教室から歩き去っていく。卒業証書の筒を握りしめた、大きな背中。春の日差しが、彼の旅立ちを照らしているようだった。その背中が見えなくなるまで、私はずっと、その場に立ち尽くしていた。

 唇に残る、微かな感触と温もり。そして、手のひらに残る、小さな箱の重み。込み上げてくる涙。

(いってらっしゃい)

 心の中で、もう一度、彼に語りかける。

(偽物だけど、私の恋人だった人。…そして、本当に、好きだった人)

 胸は痛いけど、不思議と、絶望感はなかった。彼女としてはお役御免だけど、ファンとして応援することは許してくれたし、それに、こんな「宿題」まで置いていったのだから。

 ピアスが入った箱をギュッと抱き締める。私は、涙をぐっと拭うと、窓の外の、高く、青く澄み渡った早春の空を見上げた。よし、と小さく呟く。

 彼に、また会える日まで。私も、前を向いて、頑張ろう。ピアスを開けて、彼が「似合う」と言ってくれた自分に、ちゃんとなろう。

 彼のいない、新しい季節が、もうすぐそこまで来ていた。



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