止まっていた時間の先で

 熱狂が、まだ体育館の空気に渦巻いている。
 今日の試合も、なんとか勝つことができた。チームメイトたちとハイタッチを交わし、コートに一礼する。アルゼンチンに来て、もう何年になるだろうか。言葉も文化も違うこの国で、必死にボールを追いかけ、少しずつ、本当に少しずつだけど、自分の居場所を築き上げてきた自負はある。

 観客席からは、まだ興奮冷めやらぬ声援が飛んでくる。俺の名前を呼ぶ声も多い。ファンサービスも兼ねて、手を振りながらゆっくりとコートを一周する。
 日本の、あの青葉城西での日々が、時々、遠い昔のことのように思い出される。あの頃の仲間たち、ライバルたち、そして。

 ——俺の隣で、恥ずかしそうに、だけど幸せを噛み締めるように微笑んでいた、あの子の顔が浮かぶ。

(……いや、感傷に浸ってる場合じゃないな)

 頭を振って、思考を断ち切った。過去は過去だ。俺は今、ここで戦っている。
 ファンに声をかけられ、サインを書きながら会話をしていたとき、ふと観客席の一角に目が留まった。横目でそちらを見ると、アルゼンチンでは珍しい、黒髪のアジア系の顔立ちの、おそらく日系人だろう観客がいた。こんな遠い国まで、バレーを見に来てくれたのかな、それとも、こっちに住んでいる人なのかな、なんて、ぼんやり思った。
 その人物は、少しだけ周りの熱狂から浮いているように、どこか遠慮がちに、でも真っ直ぐにこちらを見つめていた。そして、その手には。

 見覚えのある、ターコイズブルーと白のタオルが握られていた。

(……え?)

 嘘だろ? あれは、青葉城西のタオルだ。なんで、こんなところに?
 心臓が、ドクン、と大きく跳ねた。まさか、とは思う。でも、あの少し緊張した様子の強張った肩に、一生懸命タオルを握りしめる手の感じは。

 思わず、顔を向けて凝視する。観客席の喧騒の中で、その人物と目が合った。大きな瞳が、驚きに見開かれる。そして、彼女の口から、数年ぶりに聞く、あの独特の、間の抜けた叫び声が上がった。

「ヒョエッ!?」

 間違いない。あの子だ。
 ナマエちゃんだ。

(——なんで)

 なんで、君が、ここにいるんだ? アルゼンチンだぞ? 地球の裏側だぞ?
 思考が追いつかない。頭の中が真っ白になる。驚きと、混乱と、信じられない気持ちと、そして、心の奥底から堰を切ったように込み上げてくる、熱い何か。

 彼女の顔が驚きから恐怖に近いようなパニックの色に変わったのを、見逃さなかった。気づけば俺は走り出していた。チームメイトの呼び止める声も、ファンからの声援も、もう何も聞こえない。ただ、観客席の、あの一点だけを目指して。
 感情のままに、俺は観客席へと続く階段を駆け上がろうとした。周りの奴らが何か言ってる気もするけど、今はどうでもいい。早く、彼女のところに行きたかった。

 しかし。

 俺が観客席に辿り着くより早く、彼女はくるりと背中を向け、信じられないスピードで人混みの中へと逃げ出したのだ。

「…は!? ちょっと! 待ってよ!!」

(嘘だろ!?)

 俺は慌てて後を追うが、試合後の興奮した観客たちの間をすり抜けるのは容易じゃない。アルゼンチンのやつらは体格もいいし、熱狂的なファンはなかなか道を開けてくれない。

「Permiso! Disculpe! (どいて! すみません!)」

 スペイン語で叫びながら、必死で人波をかき分ける。でも、あの小柄な体は、まるで魚みたいに人混みを縫って、あっという間に見えなくなってしまった。

「………………くそっ!!」

 ついに彼女の姿を完全に見失い、俺は思わずその場に立ち尽くして悪態をついた。

「逃げ足早すぎるだろ、あのアホ! 普通、こういう時は感動の再会! 涙! ハグ! だろーが!! なんで逃げるんだよ!!!」

 日本語で悪態をつく俺に、周りの観客が、何事かと訝しげに目線を送る。ここがまだ熱が冷めやらない試合会場だということを完全に失念していた。危ない危ない、取り乱しすぎた。頭を冷やそうと、胸に手を当てゆっくりと呼吸をする。

 なんで逃げた? 俺に気づいてなかった? いや、確実に目は合った。じゃあ、なんで。会いたくなかった、とか?

(…ここまで来て…そんなこと、あるか?)

 都合のいい考えかもしれない。でも、数年ぶりの再会だ。とにかく、彼女がここにいる理由を知りたい。

 諦めきれずに、俺は会場の出口へと向かった。もしかしたら、外で待っているかもしれない。あるいは、迷子になっているか。あの子なら、ありえる。キョロキョロと辺りを見回しながら、人でごった返す出口付近へと歩を進める。その時だった。

「きゃっ、すみま…えっと、perdón, perdón! (ごめんなさい、ごめんなさい!)」

 聞き覚えのある、少しだけ焦ったような日本語と、戸惑ったように続くスペイン語が聞こえてきた。声のした方を見る。
 ——いた。やっぱり、あの子だ。ナマエちゃんだ。

 彼女は、出口に向かおうとして、体の大きなアルゼンチン人の男性に真正面からぶつかったらしく、必死にジェスチャーを交えながら謝っていた。相手の男性は「No pasa nada! (大丈夫だよ!)」と陽気に笑っているが、彼女はペコペコと頭を下げ続けている。
 しかも、その後ろには、さらにガタイの良い男たちが数人連なっていて、彼女は人間で出来た“壁”に阻まれ、出口に進めず困惑しきっていた。必死に背伸びして隙間を探そうとしているが、全く意味をなしていない。

「………………ぷっ」

 思わず、笑いが込み上げてきた。

(あーあ……ほんっと、変わんないなぁ、あの子は)

 数年ぶりに見た彼女は、少しだけ大人っぽくなった気もするけど、根本的なところは何も変わっていない。一生懸命で、不器用で、そして、やっぱりどこか面白い。
 俺は、勝手に持ち上がろうとする口角をなんとか抑えながら彼女のもとへと歩き出した。

「Ey, muchachos! Están bien? (やあ、みんな! 大丈夫?)」

 俺が、彼女を囲んでいる男たちに声をかけると、彼らは「Oh, Oikawa! (おぉ、オイカワ!)」と気さくに振り返った。今日の試合で活躍した俺の顔は、会場の多くの人が知ってくれているらしい。

「Parece que esta chica quiere pasar, podrían dejarla pasar? (この子、通りたいみたいだけど、通してあげてくれないかな?)」

 軽く顎でナマエちゃんの方を示しながら笑顔でそう言うと、男たちは「Ah, claro, claro! Perdón, señorita! (ああ、もちろん! ごめんよ、お嬢さん!)」と、陽気に道を空けてくれた。

「……え? あ…」

 突然道が開けて、左右を見回しながらきょとんとしている彼女。俺はそばに行くと、徐にその腕を掴んだ。

「ほら、行くよ」
「ひゃっ!? せ、先輩!?」
「いいから、早く」

 状況が飲み込めていない彼女を強く引き、人混みを抜け、選手や関係者しか使わない通路へと向かう。彼女は「え? え?」と戸惑いの声を上げながらも、必死で俺についてきた。いくつかの角を曲がり、少し薄暗い廊下を進む。そして、一つのドアの前で立ち止まった。控室だが、今は誰も使っていないはずだ。

「ここ、入って」

 俺がドアを開けて促すと、彼女はおずおずと中に入った。俺も続いて中に入り、ドアを閉める。外の喧騒が嘘のように遠ざかり、部屋に静寂が訪れた。蛍光灯の白い光だけが、俺と、目の前で固まっている彼女を照らしている。

 ——ナマエちゃん。
 数年ぶりに間近で見る彼女は、やっぱり少し大人びていた。高校生の頃のあどけなさは薄れて、ちゃんとした「女性」の顔になっている。
 綺麗になった、と思った。

 その時、ふと、彼女の耳元で何かが小さく光ったのに気がついた。目を凝らすと、それは小ぶりな銀色のピアスだった。

(……嘘、だろ)

 俺が、あの卒業式の日に渡したものとよく似ている。まさか、本当に開けたのか? 俺のために?それを身に付けて、ここに来てくれていた?
 言葉をなくす。心臓が音を立てて跳ねる。嬉しさ、驚き、そして——込み上げてくる、どうしようもない後悔。

 あの頃の俺は、自分の都合ばかりで彼女を振り回していた。彼女が自分の“ファン”でいてくれることを、都合よく利用した。「偽物でいいから」なんて言って、勝手に彼女を引っ張り込んで。
 好きだったやつへの気持ちを整理するための“踏み台”にしたのに、気持ちを整理するどころか、この子にひどく惹かれて、勝手に触れて、恋人みたいに振る舞っていた。

 何も言わない彼女に甘えて。未来も語らず、気持ちも隠して。アルゼンチン行きさえ、黙ったままで。そのくせに、最後の最後で、まるで本物の恋人みたいなキスまでした。

(…俺は、ずっと最低な男だったな)

 それでも彼女は、何も責めずに、こうして、ピアスをつけて俺に会いに来てくれた。

 彼女は、どこまで健気なんだろう。情けない。悔しい。苦しい。なのに、嬉しいなんて思ってしまう自分が、もっと嫌になる。でも、だからこそ。
 ——今度こそ、ちゃんと。

 俺は目を伏せて、呼吸をひとつ静かに整える。彼女は、そんな俺の気持ちには気づいていないようで、大きな瞳を不安げに彷徨わせ、緊張でぎゅっと両手を握りしめている。
 その様子は、あの頃のままだった。ほっとしたような、でも拍子抜けしたような、そして、胸の奥が妙にざわつくような、複雑な気分になる。

「……」
「……」

 気まずい沈黙が下りる。何か言わないと、と思うのに言葉が出てこない。俺は壁に寄りかかり、腕を組んで努めて冷静さを装いながら彼女を観察した。

「……ていうかさ」

 まず、彼女が胸の前で大事そうに抱えているものを指差した。見間違えるはずがない。何度も見た、俺の青春を表す、白とターコイズブルーのコントラスト。

「そのタオル、まだ持ってたんだ? 青城のやつ」

 俺の言葉に、彼女はビクッと肩を震わせ、慌ててタオルを背後に隠そうとした。が、もう遅い。

「は、はいっ! も、もちろんです! 私の大事な、応援グッズですから!」

 顔を真っ赤にして、早口でまくし立てる。その必死な様子が、なんだか懐かしくて、可愛いと思ってしまう自分がいる。

「へぇー?」

 俺は、わざとらしく感心したように声を上げる。

「俺のタオル持って、わざわざアルゼンチンまで応援にねぇ…」

 言葉とは裏腹に、胸の奥が、じわりと熱くなるのを感じていた。

「ほんっと、熱心な『ファン』だこと」

 少しだけ、からかうような響きを込めて、『ファン』という言葉を強調してみる。彼女がどんな反応をするか、見たかったのかもしれない。案の定、彼女は「そ、そうです! ファンですから!」と、ムキになったように言い返してきた。その瞳は、潤んでいるようにも見える。

(ファン、ねぇ…)

 その言葉を、額面通りに受け取るほど、俺もお人好しじゃないつもりだ。しかし今は追及する時じゃない。

 数年ぶりに会った彼女は、相変わらず俺の調子を狂わせる天才だ。
 もっと話がしたいと思った。なんでここにいるのか、どうやって来たのか。俺が日本を発った後、どうしていたのか。聞きたいことは山ほどある。そして、俺が話さなきゃいけないことも。

 俺は壁から背を離し、彼女に向き直った。

「……ねえ」
「は、はいっ」

 まだ少し緊張した面持ちの彼女に、俺はできるだけ普段通りの、軽い口調で言ってみた。

「腹、減ってない?」
「へ?」

 予想外の言葉だったのか、彼女はぽかんとした顔で俺を見る。

「俺さ、試合終わって、もう腹ペコなんだよね。シャワー浴びたら、なんか美味いもんでも食いに行こうと思ってたんだけど」

 俺は、自分の腹を軽く叩いてみせる。

「…もし、君もまだならだけど。ゴハン食べに行かない? 話も、ゆっくり聞きたいし」

 俺の提案に、彼女は数秒間、ぱちくりと目を瞬かせた。それから、少しだけ頬を赤らめて、こくり、と小さく頷いた。

「……はい。私も、お腹…空きました」
「そ。じゃ、決まりね」

 俺は、内心で少しだけ安堵しながら、笑ってみせる。断られたらどうしようか、少しだけ心配していた。

「ちょっと待っててね。シャワーとミーティング行ってくるから。あ、そこ座ってていいよ」

 控え室の長椅子を指差すと、彼女は「あ、はい…」と頷きながら、備え付けの長椅子に腰掛けた。まだ少し、落ち着かない様子だ。
 俺はチームのロッカールームに戻り、手早くシャワーを浴びてユニフォームから私服に着替えた。鏡に映った自分を見る。——ちゃんと、落ち着いて話せるだろうか。
 ロッカールームを出た俺に、すぐさまチームメイトたちがにやけた顔で詰め寄ってきた。

「Che, esa chica es tu novia?(なあ、さっきの子って彼女か?)」
「En serio?(マジで?)」

 矢継ぎ早に飛んでくる質問に、俺はタオルで髪を拭きながら、笑ってごまかす。

「Es un secreto.(秘密だよ)」

 答えをはぐらかす俺に、案の定ブーイングのような不満げな声が上がる。でも、その続きを遮るように、コーチから集合の合図がかかり、今日の試合の振り返りが始まった。プレーの細かい反省点、次回への改善策。集中しなきゃいけないのに、頭のどこかがずっとざわついていた。

(……早く)

 時間ばかりが気になって、落ち着かない。試合の疲れも、もうほとんど感じていなかった。
 ようやく解散が告げられると、俺は一番に立ち上がり、早足で控え室へと戻る。扉を開けると、彼女は行儀よく椅子に座って待っていた。俺の私服姿を見て、少しだけ驚いたような顔をしている。

「ごめん、お待たせ。行こっか」
「は、はい!」

 俺たちは、静かになった体育館の廊下を歩き、関係者用の出口から外に出た。ひんやりとしたアルゼンチンの夕方の空気が、火照った体を冷ましてくれる。街の灯りが遠くで輝き始めていた。
 隣を歩く彼女の、緊張している面持ちの横顔を盗み見る。聞きたいことも、話したいことも、たくさんある。

 ——あんな別れ方をして、何も言えなかった俺だけど。
 それでも、もし、君があの頃と同じ気持ちでいてくれるなら。今度こそ、ちゃんと伝えたいと思った。

 俺たちの、止まっていた時間が、今、また動き出そうとしていた。



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