“偽物”から、“本物”へ

 あの日、体育館裏で及川先輩を見送った日。私は唇に残る感触と、手のひらに握りしめた小さな箱の重み、そして胸の痛みを抱えながら家に帰った。

 ドラマや漫画なら、きっと主人公は憔悴しきってご飯も喉を通らない、なんて展開になるのだろう。でも、現実は非情である。
 私はお母さんが作ってくれた温かい夕飯のカツ丼を普通に完食し、お風呂に入って、いつもより少しだけ早く布団に入って、気づいたら朝までぐっすり眠っていた。
 ……うん、我ながら本当に図太い。全然繊細になれない自分に、ちょっとだけ引いた。

 でも、心の中の痛みは、やっぱり消えてはくれなかった。
 それからの私は、まるで何かに取り憑かれたように勉強に打ち込んだ。机に向かっている間だけは、胸の痛みを忘れられるような気がしたからだ。まあ、忘れることなんて、できるわけなかったんだけど。
 ふとした瞬間に彼の言葉や笑顔を思い出しては、一人で赤面したり、ため息をついたり。

 先輩が雑貨屋さんで買ってくれた、あの雪の結晶のヘアピン。クリスマスにくれた腕時計。そして、卒業式の日にくれた、あの小さな銀色のピアス。時々くれたお菓子……の、綺麗に洗って消毒した空袋。(だって捨てられないじゃないですか!)
 それらは全部、私の宝物専用のクッキー缶の中に、大切に、大切に保管した。我ながら、ちょっと行動が気持ち悪い気もするけど、ファンとはそういう生き物なのだ。

 そんな私の、ある意味不純な動機による猛勉強は、意外な結果をもたらした。成績はやけに上がり、親や学校の先生はやたらと喜び、気づけば私は地元の国立大学の外国語が専門的に学べる学部に進学することが決まっていた。

 ピアスは結局、高校を卒業してすぐ、ドキドキしながら開けた。彼が「似合う」って言ってくれたから。いつか、もし再会できた時に彼が見てくれるかもしれない、なんて淡い期待を込めて。

 大学では、元々得意だった英語を中心に様々な言語や文化に触れた。授業は面白くて、新しい友達もできた。バイトも頑張って、貯めたお金でたまに海外旅行にも行った。ブラジルに行った時は、ちょうどリオオリンピックの時期で、バーの大きなスクリーンで男子バレーの試合が流れていた。
 一緒に行った友達と「わー! すごい!」なんて言いながら観戦したけど、コートの中で躍動する若い日本代表選手を見て、心のどこかで、私より年下なのに、すごいなぁ、なんて、ぼんやりと思った。もちろん、そこに彼の姿はなかった。

 第二外国語は、迷わずスペイン語を選んだ。理由は…まあ、その、ファンとして、もしかしたら、いつか、地球の裏側まで応援に行く日が来るかもしれないからと。その時のために、一応、備えておこうかなと思っただけで。あくまで、一応、だ。 ……うん。
 大学生活は、充実していた。でも、心のどこかには、いつも彼の姿があった。

 SNSで検索すると、海外でプロとして活躍する彼のアカウントが見つかる。そのなかには、試合中の真剣な横顔やチームのメンバーと笑い合う、変わらないあの素敵な笑顔の先輩が映っている。良かった、と思うと同時に、どうやらファンらしき美人な外国人女性と彼が隣り合う写真が流れてきたときには、少し胸が痛んだ。

(……新しい恋とか、してるのかな)

 耳元で光るピアスが、彼のことを思い出させた。

 そして就職活動。私が選んだのは、海外事業部を多く展開している少し大きめの会社だった。もちろん、そこには邪な気持ちが全くなかったわけではない。万が一、億が一、海外赴任とかになって、彼のいる国に行けたりしたら、なんて、そんな夢みたいなことを考えなかったと言えば嘘になる。

 幸い(?)、語学能力が評価され、私は希望通り国際系の部署に配属された。しかも担当は、なんと中南米地域。

(…これはもう、運命では?)

 そして、社会人になって数年が経ったある日。部長に呼び出された私は、衝撃的な辞令を言い渡されたのだ。

「ミョウジさん、来月からアルゼンチンの事業部に行ってもらいたいんだが。君は英語もスペイン語も堪能だと聞くし…どうかな?」

 ——アルゼンチン。
 一瞬、耳を疑った。嘘みたいだ。でも、部長の顔は至って真面目だ。断る理由なんて、どこにもなかった。

「Sí, señor! Con mucho gusto! (はい、部長! 喜んで!)」

 気づけば、私は満面の笑みで、流暢なスペイン語で快諾していた。部長は、私の仕事への熱意に、いたく感動していた。

「お、おお…すごいな君、気合入ってるなぁ!」

(…いや、仕事への気合じゃないんですけど……まあ、いいか!)

 こうして、私のアルゼンチン生活は、突然に、でもどこか必然のように始まったのだった。

 初めての海外生活は想像以上に大変だったけど、それ以上に刺激的で楽しかった。言葉には不自由しなかったし、陽気なアルゼンチンの人々は私を温かく迎え入れてくれた。仕事も、やりがいがあった。
 もちろん彼のことは、ファンとして引き続きチェックを続けていた。名前を検索すれば、SNSだけじゃなく、彼がプロのバレーボール選手として、このアルゼンチンで活躍している情報がすぐに出てくる。

(すごいな、先輩。本当に、世界で戦ってるんだ)

 そして、アルゼンチンに来てから3ヶ月ほど経った、ある週末。私が住んでいる街から、そう遠くない場所にある大きな体育館で、彼の所属するチームの試合があることを知った。

(…行ってみようかな)

 別に、会いに行くとか、そういうんじゃない。ただ、彼がどんな風にプレーしているのか、この目で見てみたかった。彼が、ちゃんとこの異国の地で、「生きてる」ことを確認したかった。そして、このピアスが似合う自分になれているか、少しだけ確かめたかった。

 そして、やってきた試合当日。
 私は、クッキー缶の奥底から、大切に保管していた、あの青葉城西時代の応援タオルを引っ張り出してきた。ちょっと黄ばんでるかもしれないけど、気にしない! これぞ古参アピールだ!

 会場は、地元のファンたちの熱気でむせ返るようだった。コートの中で躍動する彼の姿は、高校時代よりもずっと逞しく、力強く、そしてやっぱり、誰よりも輝いて見えた。サーブも、トスも、スパイクも、全部がパワーアップしている。相手コートの動きやチームメイトの思考をすべて読んでいるような、華麗なセットアップは相変わらずだった。むしろ、さらに研ぎ澄まされているように見えた。
 でも、時折見せる、あの負けず嫌いな表情や、仲間を鼓舞する姿は、あの頃のままだ。

(すごい…! 先輩、ちゃんとここで、生きてるんだ…!)

 彼のプレーに、私はただただ感動していた。試合は、彼のチームが見事に勝利した。良かった。本当に良かった。

 ——もう、満足だ。彼の元気な姿を見られただけで、十分。
 私は、他の観客たちが興奮冷めやらぬ中、観客席近くでファンサービスを行う彼をじっと見つめる。

 彼に気づかれる必要なんてない。私は、ただの通りすがりのファンなのだから。

 そう思って、少し俯きタオルを握り締めた、その時。なぜか、ふと、コートの方からの強い視線を感じた気がしたのだ。気のせいかな? と思って、何気なく顔を上げる。

 ──そして。
 目が合ってしまった。コートの上で、ファンサービスに応えていたはずの、及川先輩と。

 彼の瞳が、驚きに見開かれるのが、スローモーションのように見えた。

「ヒョエッ!?」

 気づけば、私は、及川先輩に恋人になることを誘われた時と同じ、間の抜けた叫び声を上げていた。



 及川先輩に案内されて入ったのは、少し落ち着いた雰囲気のレストランだった。温かい照明、木のテーブル、壁にはタンゴを踊る男女の写真などが飾られていて、異国情緒が漂っている。周りのお客さんたちが話すリズミカルなスペイン語が、BGMのように聞こえた。
 私たちは、窓際のテーブル席に向かい合って座った。目の前には、数年ぶりにちゃんと見る、及川先輩。
 プロの選手として、厳しい世界で戦ってきたのだろう。高校生の頃の華奢な感じは消えて、肩周りや腕、胸板にも、しっかりと筋肉がついているのがシャツの上からでも分かる。……うわ、なんか、すごい…。思わず、触ってみたい衝動に駆られたけど、必死で抑え込む。

「…何飲む?」

 メニューを眺めながら、彼が尋ねてくる。

「あ、じゃあ、グラスの赤ワインを…」
「お、ワイン? 大人になったねぇ」

 からかうように笑いながら、彼は近くの店員さんを呼び止め、流暢なスペイン語で私と自分の分の飲み物、そしていくつか料理を注文してくれた。その姿が、あまりにも自然で、様になっていて。

(ああ、本当に、先輩はここで生きてるんだな…)

 遠い世界の出来事だと思っていた彼の「今」が、急に現実味を帯びて、胸がきゅっとした。料理が運ばれてくるまでの間、彼は私のことを色々と尋ねてきた。

「で? 改めて聞くけど、なんでアルゼンチンに?」
「あ、えっと、仕事の転勤で…」
「転勤!? すごいじゃん!」
「担当地域が中南米で…その、大学でスペイン語も勉強してたので…」
「え、スペイン語? なんでまた?」
「そ、それは…ファンとして……先輩がアルゼンチンで活躍するかもって思って、一応……」

 恥ずかしさで言葉が尻すぼみになる。私が正直に白状すると、彼は一瞬きょとんとした後、テーブルに突っ伏す勢いで爆笑し始めた。

「……ぶははは! ファンとしてスペイン語!? 君、ほんっと…! あははは!!」

 周りのお客さんが何事かとこちらを見ている。

「どんだけ俺のファンなの!? 最高すぎるんだけど!」

 涙目になって笑う彼。笑われるのは不本意だけど、彼のこんなに楽しそうな顔を見るのは久しぶりで、私もつられて笑ってしまった。同時に、高校時代のお菓子の空き袋を消毒して保管してることは、墓場まで持っていこうと固く決意した。
 ひとしきり笑った後、彼はふと、真面目な顔になった。テーブルに肘をつき、真っ直ぐに私を見つめてくる。

「……でもさ、ナマエちゃん」
「は、はい」
「あの時は…本当にごめんね」

 彼の声は、静かで、どこか痛みを伴っているような声音だった。

「君のこと、偽物の彼女にして…利用するみたいな形になっちゃって。また、ちゃんと謝りたかったんだ。ずっと」

 彼の真摯な謝罪の言葉に、私の胸が傷を思い出してズキリと痛む。でも、もうあの頃の私じゃない。

「…いいえ。…確かにつらいときもあったけど、でも、先輩の『彼女』でいられた時間、本当に、宝物みたいに思ってますから」

 私は、精一杯の笑顔で答えた。嘘じゃない、本当の気持ちだった。
 彼は、私の言葉に少し驚いたように目を見開いて、それから、何かを確かめるように、ゆっくりと言った。

「…ていうかさ、ずっと気になってたんだけど」
「へ?」

 彼は、私の耳元に視線を向けた。

「そのピアス。……やっぱり、あの時のやつ?」

 心臓が、ドクンと大きく跳ねる。

「…は、はい…そうですけど……」
「ふーん? 本当に、開けたんだ。俺が言ったから?」

 彼の声は、からかうようでありながら、どこか熱を帯びている。

「そ、それは…その…似合うって、言われたので……それに、先輩がくれたものだから……」

 声が、どんどん小さくなる。恥ずかしくて顔が上げられない。

「…そっか」

 彼は、満足そうに、そして、とても愛おしそうな顔で私を見た。

「…うん、やっぱり、すごく似合ってるよ。あの時に想像してたより、もっと」
「……っ」

 彼に直接褒められた。胸の奥が、じんわりと温かくなる。見てほしかった。このピアスをつけてる自分を。似合う自分になれてるかな、と、ずっと、ずっと不安だったのだ。
 安堵と充足感に肩の力を抜いたとき、彼は、改めて私に向き直り言葉を続けた。

「………ファン、でいいの?」

 ドクン、と心臓が大きく音を立てた気がした。人より何倍も洞察力のある先輩は、私の虚勢を見透かすような質問を続けてくる。

「君は、わざわざ地球の裏側まで来て、俺のタオル持って応援してくれてるけど」

 彼の瞳が、真剣な光を宿して、私を射抜く。

「本当に、ただの『ファン』で、それで満足なわけ?」
「———……」

 揺らめく照明が、彼の整った顔立ちをやわらかく照らしている。異国情緒漂う音楽がどこかで流れ、周囲に響くスペイン語の会話さえも、まるで彼という存在を引き立てるためにあるように思えた。眩しいくらいに、目が離せなかった。

 もう、誤魔化せない。……そして、誤魔化さない。
 そう決めた私は、胸の奥でひとつ静かに息を整える。震える唇に、まだ迷いが滲む。それでも、ずっと言えなかった言葉を——心の底からの本当の気持ちを、ようやく彼に向けて放った。

「………………恋人に、なりたいです」

 声が、震えた。視界が、滲む。でも、続けた。今、言わないといけないと思った。

「偽物じゃなくて。今度こそ、本当の、先輩の恋人に…してください」

 彼の顔が、ふわりとやわらぐ。
 心に張っていた何かがほどけて、安心したように微笑んだその表情は、今まで見たどの笑顔よりも静かで、やさしかった。まるで、長い間探し続けていた宝物を見つけたような、そんな顔だった。

「………当たり前じゃん」

 その声は少し掠れていて、けれど、確かに私の胸に届いた。

「俺だって、ずっと思ってたよ……本物で、ちゃんと、俺の隣にいてほしいって」

 ふと目を伏せた彼は、一瞬言葉を探すように黙ってから、まっすぐこちらを見つめ直す。

「遠回りさせて、たくさん傷つけてごめん」

 彼はそっと、テーブルの上でぎゅっと拳を握っていた私の手に触れた。その温もりが、私の緊張をゆっくりと解きほぐしていく。
 ——ああ、やっと、苦しい思いをせずに彼に触れてもらえる。

「……俺の恋人に、なってください。ナマエちゃん」



 夜風が、火照った頬に心地よい。さっきまでの出来事が、まだ夢みたいで、アルコールも相まって、ふわふわとした足取りで彼の隣を歩く。レストランの温かい光を背に、私たちは人通りの少ない石畳の道をゆっくりと進んだ。見上げれば、南半球の、見たこともないような星空が広がっている。

(……恋人……? 私が? 及川先輩の? え? こいびと? 恋人って、そもそもなんだっけ? 手を繋いだり…キスしたり…する関係? え? ほんとに? 私が??)

 頭の中で、「恋人」という文字がぐるぐると回り始め、だんだんそれが何なのか分からなくなってきた。ゲシュタルト崩壊って、こういう時に使う言葉なのかもしれない。

「…明日、オフだからさ。もしナマエちゃんも休みなら、だけど」

 隣を歩く彼が、不意に口を開いた。

「おでかけしようか? まだ来たばっかりであんまりここらへん知らないでしょ」
「へっ!? あ、はい! 明日、お休みです!」

 混乱した頭のまま、私は食い気味に答えていた。明日も会えるという事実に、先ほどまでのゲシュタルト崩壊なんてどっかに行って、瞳を輝かせてしまう。

「ふはっ、相変わらず素直だねぇ、君は」

 彼は楽しそうに笑って、私の頭をくしゃりと撫でた。その自然な仕草に、心臓がまた大きく跳ねる。大人になった先輩は、昔より更にかっこいい。

「そういうとこ、本当に可愛いって思うよ」
「〜〜〜〜〜っ!!!」

(か、か、可愛い!?!?!?)

 一気に顔に熱が集まり、私は俯いて口をパクパクさせることしかできない。無理だ、語彙力が完全に蒸発した。

「あはは、顔真っ赤」

 彼の声が、どこまでも楽しげに響いた。その直後、そっと指先が伸びてきて、私の頬に触れようとする——その動きに、はっと我に返る。

「あ、あの! きょ、許可は!!!」

 思わず、私は叫んでいた。頭より先に、口が動いた。昔の“偽物の恋人”時代のルール。ふたりの間だけの、あの頃の決まりごと。あれがまだ、私の中に染みついていたらしい。

「………は?」

 及川先輩は、私の頬に触れようとしていた手をぴたりと止め、目を丸くして私を見ている。そして、数秒後、状況を理解したのか、盛大に吹き出した。

「あはははは!! 許可!? まだ言ってるのそれ!?」

 お腹を抱えるほど笑いながら、及川先輩は顔をくしゃくしゃにして、まるで高校生の頃みたいな笑い方をしていた。あの頃のままの無邪気さと、今の大人びた表情が不思議と同居している。
 恥ずかしくてたまらないのに、その笑顔がどこか懐かしくて、胸の奥がふっと温かくなった。

「もう本物の恋人なんだから、いらないっての、許可なんて」

 笑い声の余韻がまだ残る中で、さらりと、けれど確かに彼はそう言った。

「ひえっ…」

 喉の奥から情けない声が漏れる。
 そ、そうだった…もう私たち、“偽物”じゃないんだ…。本物の恋人には、そんな取り決めなんて、きっと最初から存在しないのだ。恋愛偏差値の低さが高校生から変わってないという現実を突きつけられる。

「…ていうかさ」

 彼は、ニヤリと意地悪な笑みを浮かべた。あ、この顔は、何か企んでる時の顔だ。

「じゃあ聞くけど?」
「は、はいっ!?」

 思わず背筋を伸ばしてしまう。彼の視線が真っ直ぐに刺さってきて、それだけで体が熱くなる。

「俺が、君に触れるの。それって、君にとって『嫌なこと』なの?」
「……!!!!」

 あの“ルール”を、こんなふうに逆手に取ってくるなんて、卑怯すぎる。でも、答えは決まってる。決まってるけど、それを言葉にするのが、どうしてこんなにも難しいんだろう。

「い、嫌じゃ、ない、です……けど…!」

 しぼり出すような声は、あまりにか細くて、自分でも情けなくなる。視線を合わせることなんて到底できず、ただただうつむいたまま、頬の熱がどんどん増していくのを感じた。
 きっと今の私は、人生で一番、真っ赤な顔をしている。

「ふーん? 嫌じゃないんだ?」

 彼は、満足そうに頷くと、さらに意地悪く続ける。こういうときの及川先輩は、誰よりも生き生きしているのは相変わらずらしい。

「まあ、別に、俺は許可制でもいいけど? 君がどうしてもって言うなら」
「へ?」
「その代わり、毎回ちゃんと確認するからね?  『手、繋いでいい?』『ハグしていい?』『キスしていい?』って。その度に、ナマエちゃんは『はい、してほしいです』って、ちゃんと言ってくれるんでしょ?」
「〜〜〜〜〜〜〜〜!!!」

 一瞬で、思考が吹き飛んだ。想像しただけで、頭から湯気が出そうなくらい恥ずかしい。顔が熱すぎて、もう全部がどうでもよくなりそうだった。

「た、た、たしかに……それは、ちょっと、いや、かなり恥ずかしい、です……」

 言葉をかろうじて紡ぎながら、私は両手で顔を覆った。視線を合わせるなんて到底無理。今すぐこの場から消えてしまいたいくらい。

「でしょ?」

 悪びれもなく、彼は楽しそうに笑う。
 そっと伸びてきた指が、くしゃりと私の髪を撫でた。

「頭いいのか悪いのか、ほんと分かんないよね、君って」

 その声は、呆れているようで、でも、すごく優しくて。

「………でも、そういうところが、」

 彼が少しだけ身をかがめて、そっと私の顔を覗き込む。思わず動きを止めた私の耳元で、低く、静かに囁いた。

「本当、好き」

 顔を上げると、そこには、今まで見た中で一番優しい、とろけるような笑顔の彼がいた。その瞳には、もう何の迷いも、嘘もなかった。ただ、私への確かな愛情だけが、そこにはあった。私の心臓が、喜びで破裂しそうになる。嬉しくて、涙が溢れてきた。

「……っ!」

 言葉にならない私を見て、彼は「あーあ、泣かせちゃった」なんて苦笑いしながら、今度こそ、何の確認もなしに、私の頬に優しく手を添えた。そして、指先でそっと、私の耳のピアスに触れた。街頭の灯りを反射して、キラリと光る小さな銀。

「……ねぇ、これ」

 彼の声が、すぐ耳元で、優しく響く。

「開けるの、痛くなかった?」
「え…?」

 予想外の問いかけに、私は目を見開いた。彼の指先が、ピアスホールとその周りを労わるように、そっと撫でる。その瞳には、愛しさとは別に、ほんの少しだけ、痛みを気遣うような色が浮かんでいた。まるで、「俺のために、身体に傷をつけさせてごめん」とでも言うように。

 痛くなかった、なんて言ったら嘘になる。初めてピアスを開けた時は、数日ジンジンと痛んだし、怖かった。
 でも、そんな痛みなんて、彼が「似合う」と言ってくれたこと、彼との繋がりが形になったことの喜びに比べたら、何でもなかった。むしろ、この小さな痛みが、彼を想う私の覚悟の証みたいで、少しだけ誇らしかったくらいだ。

 私は、涙で濡れた瞳のまま、彼を見上げて、小さく、でもはっきりと首を横に振った。大丈夫です、と伝えるように。それを見た彼は、一瞬だけ息を詰めて、それから、安堵したように、ふっと息を吐いた。

「……そっか」

 彼は、もう一度、私の耳元のピアスにそっと触れながら、私の顔を覗き込むように、腰を折る。及川先輩の端正すぎる顔が、吐息さえ伝わりそうな近さにある。

「約束、守ってくれてありがとね」

 彼の言葉と、すぐ間近にある彼の顔。その距離感に、次に何が起こるのかを悟ってしまい、私は思わず息を止め、ぎゅっと目を閉じた。緊張で、肩がわずかに強張る。
 でも、それと同じくらい、彼の温もりに、もっと触れてみたいという気持ちが、胸の奥から強く込み上げてくる。閉じられた瞼の裏で、期待に心臓がドキドキと大きく鳴っていた。

 すぐそばで、彼がふっと息を漏らして、小さく笑ったような気配がした。私のこの、怖さと期待が入り混じった複雑な気持ちが、彼にはお見通しなのかもしれない。

「……許可、もう取らないからね」

 その声は、悪戯っぽく囁くようでいて、どこか私の本心を見透かしているような、優しい響きを持っていた。

 彼の唇が、ゆっくりと、私の唇に重ねられた。
 あの日、卒業式の日に触れた唇と同じ。でも、あの時の、切なくて、まるで餞のようだった触れるだけのキスとは、全然違う。もっと深く、もっと甘く、彼の確かな愛情が、熱と共に伝わってくる。

 アルゼンチンの星空の下、私たちの「本物の恋」が、ようやく始まったのだ。



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