彼の隣は、嬉しくて、痛い

 ──『及川先輩に新しい彼女ができたらしい』

 その衝撃的な噂は、私が教室に到着するよりも早く、翼でも生えているかのように校内を駆け巡っていたらしい。
 らしい、というのは他人事みたいだけど、その「彼女」というのが他ならぬ私自身なのだから、笑えない。

「ナマエ! マジなの!? 及川先輩と!」
「先輩が教室まで来て『彼女だから』って言ったって本当!?」

 及川先輩と設定会議を終えて、一限目が始まる直前に教室に戻ると、友人たちに捕まって質問攻めにあう。特に登校が遅かった子たちは他の友人に話だけ聞いた状態だったので、私の帰りを今か今かと待っていたらしい。私は曖昧に笑って誤魔化そうとしたけれど、クラスメイトたちの好奇の目は誤魔化しきれない。

「おいおい、ミョウジどうなんだよハッキリしろよー!」
「先輩と付き合ってんの!?」

 キラキラした、あるいはニヤニヤした視線が集中する。もう、逃げられない。私は、さっき及川先輩と一応決めた設定を思い出し、意を決して口を開いた。

「……うん。実は…はい」

 かろうじて絞り出した肯定の言葉に、教室が一瞬どよめいた。

「やっぱりーーー!」
「マジかよ!」
「えー! どんな手使ったんだよ!」

 女友達は「詳しく聞かせなさい!」と興奮気味に私の肩を揺さぶり、男子たちも「ヒューヒュー!」と面白そうに囃し立てる。
 どんな手も何も、全部向こうの都合なんですけど。

 その喧騒の中、ふと教室の入り口に目をやると、隣のクラスの女子生徒たちが冷ややかな、明らかに敵意を宿した視線でこちらを睨んでいた。おそらく、及川先輩の熱心なファンなのだろう。私は、気づかないふりをして、すぐに視線を逸らした。

 これから、こういうことが増えるんだろうな。胃が、きりりと痛んだ。

 それから、私の学校生活は一変した。
 今日一日の間だけで、廊下を歩けばヒソヒソと囁かれ、遠巻きに指をさされ、時には知らない上級生女子にトイレで囲まれそうになったり(寸前で逃げたけど)。まさに、動物園のパンダ状態。注目を浴びるのは好きじゃないのに、どこへ行っても好奇と嫉妬の視線がついてくる。正直、精神的にかなり削られた。

「…………はぁ」

 ようやく授業が終わり、最後のチャイムが鳴り響く。喧騒から逃れるように、私は足早に教室を出て、昇降口へと向かった。人混みから解放されて、ようやく一息つける。

(偽物の恋人、か…)

 下駄箱でローファーに履き替えながら、ぼんやりと考える。
 あんなに酷い理由で始まった関係だけど、それでもやっぱり、憧れの及川先輩の「特別なフリ」ができるのは、心のどこかで嬉しいと思ってしまう自分がいる。一日中大変だったけど、先輩の名前が自分と結びつけて語られるのは、少しだけ誇らしいような、くすぐったいような気持ちにもなった。

(…勘違いしちゃダメだ。私は『及川徹の彼女』じゃなくて、『及川徹の厄介ファン避けの盾』なんだから)

 その事実は重く、私の心を曇らせる。
 ああ、もう、複雑すぎる。これが乙女心というやつなのだろうか。私には難易度が高すぎる。
 都合のいい女、という不都合なワードは、とりあえず頭の隅っこに全力で押しやった。

「…よし、帰ろ」

 無理やり気持ちを切り替えて、私は昇降口のガラス扉を抜けた。夕暮れ前の、少し気だるい放課後の空気。早く家に帰って、お母さんのご飯を食べて、何も考えずに寝てしまいたい。
 そう思った、まさにその瞬間だった。

 ──グイッ!!!

「ぐえっ!!?」

 突然、後ろから首に何かが巻き付き、私は文字通りカエルが潰れたような声を上げた。
 え、何!? 首絞め!? 及川先輩の過激ファンにとうとう襲われた!?

「……ったく。朝の約束、もう忘れてんの?」

 頭の上から降ってきたのは、過激ファンではなく、ここ二日間で聞き慣れてしまったような呆れ声。及川先輩だ。
 見上げると、彼は私の首に自分の腕をがっしりと回し込み(ほぼヘッドロックに近い気がする)、ジトリとした目で私を見下ろしていた。

「それに、俺が朝送ったメッセージ、ガン無視だし。君さぁ、ほんっとーに、彼女としての自覚あるわけ?」
「め、メッセージ…?」

 言われて、私はハッとした。そういえば、朝、トークアプリのアカウントを交換したんだった。一日中パンダ状態で、スマホを確認する余裕なんて全くなかった。

「す、すみません! 全然気づかなくて…!」
「だろうね。教室での様子見てたら、そんな余裕なさそうだったし」

 呆れつつも、少しだけ声が優しい。…気がする。

「ま、そういうわけで、約束通り一緒に帰るよ」

 首に回された腕が解かれ、私はようやく解放される。ぜえぜえと息を整えながら、私は忘れていた約束を思い出す。そうだ、「予定がない時は一緒に帰る」んだった。

「あ、あの、すみません、忘れてて…」
「別にいいけど。……で?」
「はい?」
「手、繋ぐ? 一応、まだ人通り多いけど」

 及川先輩は、悪戯っぽく笑いながら、自分の手を差し出してきた。大きくて、綺麗な手。今朝、空き教室で触れた温かさが蘇る。心臓が、またドキドキと音を立て始める。でも。

「……いえ、あの、今はいいです! 人目もありますし!」

 私は、咄嗟に後ずさって、その手を拒否してしまった。
 人前で手を繋ぐなんて、そんなの、私にはまだハードルが高すぎる。それに、本当の彼女じゃない私が、そんなことしちゃいけない気がした。

「ふーん? 人目があるからこそ、じゃない? まあ、いいや」

 及川先輩は、特に気にした様子もなく、あっさりと手を引っ込めた。その態度は、本当に興味がなさそうで。
 分かっていたはずなのに、胸の奥が、またチクリと痛んだ。やっぱり、私はただの「フリ」の相手で、先輩は別に、私と手を繋ぎたいわけじゃないんだ。

「…じゃ、帰ろっか」

 彼は何もなかったかのように歩き出す。私は、少しだけ距離を置いて、その後ろをついて歩いた。夕暮れの帰り道。目の前には憧れの人がいるのに、私たちの間には、まだ見えない壁がある。
 気まずい沈黙が続く。何か、話さないと。
 そう思った時、及川先輩が、ふと私を振り返って口を開いた。

「……そういえばさ、ナマエちゃんって」
「は、はいっ!?」

 突然話しかけられて、私の声は盛大に裏返った。恥ずかしい。

「好きな食べ物とかあんの? なんか、そういう普通の質問、してなかったなと思って」

 彼は、前を向いたまま、まるで独り言のように呟いた。

 好きな食べ物…? え、なんで急にそんなことを?

 私の疑問を見透かすように「彼女のこと、知っとかないと、おかしいでしょ」と当たり前のことのように続けられる。戸惑いつつも、私は正直に答えることにした。嘘をついても仕方ないし。

「えっと…あの、お恥ずかしいんですけど…駄菓子、とか…好きです」
「駄菓子?」

 及川先輩が、立ち止まって、意外そうに私を振り返る。

「うん。特に、う〇い棒のめんたい味とか…あと、キ〇ベツ太郎とか…」

 言えば言うほど、自分のチョイスが子供っぽくて恥ずかしくなってくる。
 ああ、もっとお洒落な食べ物を言うべきだった…! マカロンとか! アサイーボウルとか! 食べたことないけど!!

 私の答えを聞いて、及川先輩は一瞬きょとんとした顔をした。そして次の瞬間、こらえきれないというように、ぶはっ、と吹き出す。

「あははは! 駄菓子! しかも、う〇い棒? 渋い! めっちゃウケるんだけど!」

 ひとしきり笑った後、彼は「いいねー、そういうの」と楽しそうに言った。

「ちなみに俺は牛乳パンが好き」

(牛乳パン…! 可愛い…!)

 意外な好物に、私は心の中でガッツポーズをする。なんだか、ほんの少しだけ、彼との距離が縮まったような気がして、嬉しくなった。空気が、少しだけ和んだ気がする。

「面白いね、ナマエちゃん。なんか、食べ物の好みもそうだけどさ…」

 及川先輩は、楽しそうな表情のまま、言葉を続けた。そして、その瞳が、悪戯っぽく細められる。

「行動も結構、予想外だよね?」

 …ドキッ!!!
 その言葉が、どの出来事を指しているのか、私にはすぐに分かった。和んだはずの空気が、一瞬で張り詰める。顔が、また熱くなってきた。

「あの時のこと、やっぱ聞いてもいい?」

 彼は、歩きながら、私の顔を覗き込むようにして尋ねた。その表情は、からかっているようでもあり、純粋な好奇心のようでもあり、もしかしたら、少しだけ真剣なのかもしれない。

「なんで、俺の前に飛び出してきたの? あのファンたちの前にさ」

 聞かれた。やっぱり、気になってたんだ。
 あの時のこと。体育館裏での、私の無謀な行動。
 私は、道端で立ち止まりそうになる足をなんとか動かしながら、言葉を探して口ごもった。

「あ、あれは、その……」

 夕暮れの風が、私の頬を冷たく撫でていった。
 先輩は、私が先輩のファンだってこと、もちろん知ってる。ファンなら、憧れの選手が困っていたら助けたいと思う気持ちは、たしかにある。でも、あの時の私は、それだけじゃなかった。

(だって、普通じゃないよね、私…)

 思い出すだけで、耳まで熱くなる。女子の集団に、何の策もなく、ただ感情だけで突っ込んでいくなんて。ファンとして、というより、もっと個人的な、強い衝動。

(だって、あの時の先輩の顔…すごく、困ってて、辛そうで…)

 見ていられなかった。あの、いつも自信に満ちているはずの人が、あんな顔をしているなんて。他の誰かがどう思うとか、自分がどうなるとか、そんなこと考える余裕なんて全くなくて。ただ、守らなきゃ、って。放っておけないって、思ったのだ。
 それは、「ファン」という言葉だけでは片付けられない、もっと身勝手で、どうしようもない気持ち。だって、本当は、彼は私にとって、ただの「憧れの先輩」じゃなくて「好きな人」なのだから。

(…ダメだ、言えない)

 こんな気持ち、絶対に知られてはいけない。もし本当の理由を知られたら、きっと、及川先輩は、この関係をやめてしまう。この関係は、私が彼のファンであるから成り立っているのだ。私が、彼に本気の片想いをしていると、知られるのだけは避けたい。

 どうしよう。なんて答えればいい?

 ──「ファンだからです!」

 その言葉が、頭に浮かぶ。今、彼を悩ませているのは、その「ファン」なのに。私がそう言ったら、彼はまた嫌な顔をするかもしれない。 でも…他に、なんて言えばいい?「好きだから」なんて、絶対に言えるはずがない。
 先輩が私を選んだのは、私が「恋愛的に好きじゃない、都合のいいファン」だと思っているから。だったら、私は、その「都合のいいファン」を演じ切らないと。この関係を、続けるために。

 私は、必死で喉の奥のつかえを飲み込んだ。

「……ファン、だからです。憧れの先輩が、あんな風に困ってるのを見たら…助けなきゃって思うのは、普通じゃないですか…?」

 絞り出した声は、自分でも驚くほど震えていた。これは嘘じゃない。でも、本当の全部でもない。
 私の答えを聞いた及川先輩は、一瞬きょとんとして、それから「ふーん」と続けた。

「まあ、俺のファンなら、助けたいって思ったのも、当然か」

 その言葉に、胸がチクリと痛んだ。 違う、そうじゃない。でも、その誤解が、今の私と先輩を繋ぐ唯一の命綱だった。

 及川先輩はそれ以上は追及してこなかった。私が内心ホッと胸を撫でおろしていると、彼は何かを思い出すように空を見上げた。帰り道の人通りも、さっきよりまばらになってきた。

「ナマエちゃん、けっこう俺のツボにハマるんだよね」
「へっ!?」

 突然の言葉に、私はまた素っ頓狂な声を上げる。
 私が? こんなどこにでもいるモブ女子のどこが?

「だって、好きな食べ物聞いたら『う〇い棒めんたい味』とか言うし。あまり出てこないよそれ」

 くつくつと喉を鳴らして笑う先輩。それは、褒めてるんだろうか。それとも、ただ単に変なやつだと思ってるんだろうか。後者のほうが強い気がする。私は少し不満げに唇を尖らせた。

「…普通ですよ、私は」
「普通の子は、あんなことしないっての」

 あっさりと返される。まあ、それは否定できないかもしれない。

「…なんか、他に面白いこととかしてないの? 趣味とかさ。意外と、盆栽とかやってたりしない?」
「盆栽!? しませんよ! なんですかそのイメージは!」
「えー、だってなんか、タケノコのスタンプとか送ってくるし」
「あれはフォルムが芸術的で…!」
「はいはい」

 私の必死の反論は、あっさり流された。悔しい。

「ま、君の私生活には、これから徐々に踏み込んでいくとして…」

 怖いこと言わないでください!

「とりあえず、今度の日曜、デートね」
「ひえっ…!?」

 "デート"。その今まで生きてきた中で一番縁遠いワードに大袈裟なくらい飛び跳ねる。

「デート!? ほ、ほんとに行くんですか…?」
「当たり前でしょ。恋人なんだから」

 その言葉に、ドキッとする。そうだ、私たちは(偽物だけど)恋人、なんだった。

「場所は追って連絡するから、ちゃんと予定空けとくように。あと、俺からのメッセージ、ちゃんと見て返事してよね。未読スルー禁止」

 釘を刺すような口調。はい、としか言えない。
 そんな会話をしているうちに、私たちは駅前のロータリーに着いていた。私の最寄り駅だ。思ったよりもあっという間だった。
 及川先輩は、ロータリーにある時計台の前で足を止める。先輩の最寄りはこの駅より少し離れたところにある地下鉄だったはず。会話に夢中ですっかり頭から抜け落ちていた。
 わざわざここまで送ってくれたらしい。すごいナチュラル。さすが恋愛マスター。…と勝手に思ってる。

「あ、あの、先輩、今日はありがとうございました! 送っていただいて、すみません!」

 私が慌てて頭を下げると、彼は「んー」と軽く手を振った。

「別に? そんな遠くないし」

 ぶっきらぼうな言い方。でも、わざわざ遠回りしてくれたんだ。そういう、さりげないところ、ずるいと思う。

「じゃあ、俺こっちだから」

 彼が踵を返そうとしたので、私も「お疲れ様でした!」ともう一度頭を下げる。気分はまるでひと仕事終えた組長を労う、ヤの付く人たちの中の三下だ。
 すると、彼は数歩歩いてから、ふと立ち止まって振り返った。駅前のオレンジ色の街灯が、彼の整った顔に陰影を作る。そして、その唇に、人を食ったような、ニヤリとした笑みが浮かんだ。

「あ、そうだ」
「は、はい?」

 なんだろう、嫌な予感しかしない。

「じゃあね、俺の『大事な』彼女さん?」

 わざとらしく「大事な」の部分を強調して、彼は楽しそうに片目をつぶってみせた。その仕草は完璧にアイドルみたいで、キラキラしている。
 その言葉の裏にある皮肉や、からかいの色に気づかないほど、私は鈍感じゃない。でも。

 それでも、「大事な」って言われたこと。「彼女」って呼ばれたこと。
 その事実に、私の心臓は律儀にも、ドキドキと音を立ててしまうのだ。

 私が何も言い返せずに赤くなって固まっていると、及川先輩は満足そうに「じゃ、また明日」と軽く手を振って、今度こそ本当に夕闇へと消えていった。彼の後ろ姿が見えなくなるまで、私はその場に立ち尽くしていた。

「はぁ……………」

 電車の少し硬いシートに体を預け、窓の外を流れる見慣れた街の景色を眺めながら、私は今日何度目か分からない、深くて重いため息をついた。

 本当に、とんでもない一日だった。朝からクラス中の注目の的になり、及川先輩に(偽物の)彼女宣言をされ、空き教室で秘密の会議をして、一緒に帰ってきて…。まるでジェットコースターみたいだ。

(利用されてるだけなのに…)

 頭の片隅で、冷静な自分が囁く。そうだ、これは全部フリなんだ。及川先輩はしつこいファンに困っていて、私はそのためのカモフラージュ。都合のいい存在。分かってる。ちゃんと分かってるはずなのに。
 さっきの、駅での別れ際の言葉が、耳の奥でリフレインする。

 ──『俺の『大事な』彼女さん?』

 あの意地悪な笑顔。あの声色。全部、私をからかうためのものだって分かってる。でも、思い出してしまうと、やっぱり顔が熱くなって、心臓がドキドキとうるさいのだ。
 私は、そっと自分のスマホを取り出した。トークアプリの通知。…そうだ、朝のメッセージ、まだちゃんと見てなかった。
 トーク画面を開くと、そこには短い一文が表示されていた。

『今日、放課後一緒に帰るから。昇降口で待ってる』

 送信時刻は、一限目が終わった直後くらい。たったそれだけの、業務連絡みたいなメッセージ。でも、それを見ているだけで、私の胸がきゅん、と甘酸っぱい音を立てた。ダメだ。こんなの、期待しちゃダメなのに。
 私は、誰にも見られないようにこっそりと、そのメッセージが表示された画面をスクリーンショットした。
 だって、記念、だから。うん。ファンとして、これは家宝レベルの記録だから。決して、浮かれてるわけじゃない。断じて。

 利用されてるだけ。都合のいい偽物の彼女。そう自分に言い聞かせても、胸の奥のドキドキは、なかなか収まってくれそうになかった。
 電車が、がたん、と大きく揺れた。私はもう一度深いため息をつき、窓の外の黒い闇に目を向けた。

 私の偽物の恋人生活は、まだ始まったばかり。



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