ファンで、恋人で、幸せで
アルゼンチンでの私の住まいは、街の中心から少し離れた静かな住宅街にある、モダンなマンションの一室。広さはほどほどだけれど、開放感のある間取りと大きな窓がお気に入りだ。窓から見えるハカランダの並木は美しく、日々の疲れをそっと癒してくれていた。
夜の帳がすっかり降りて、部屋の明かりだけがぼんやりと周囲を照らしている。その部屋の、少しだけくたびれたソファに、今、私と及川先輩が並んで座っているなんて、ほんの数日前までは想像もできなかったことだった。
「ねぇ、これ見てくださいよ先輩」
テーブルの上に広げたのは、私が大切に集めてきた雑誌の切り抜きを収めたスクラップブック。得意げに開いてみせると、隣に座りテレビを見ていた彼は「なになに」と覗き込んできた。
「この前の試合後のインタビュー記事です! この及川先輩、最高にカッコよすぎませんか? この自信に満ちた、少し不遜なくらいの表情がたまりません。あと、見てください、この腕の筋肉の浮き出方。まさに芸術です。すべてが美しい……」
熱っぽく語り始める私を、彼は呆れたように、でもどこか面白そうに遮った。
「はいはい、ストップ。……ねえ、俺、そんな顔してる?」
「してました! ファンの目は誤魔化せません。この角度、この光の加減、すべて計算されているかのようで……」
「されてないからね? ていうかさ、そんな切り抜きじゃなくて、目の前に本物がいるんだけど。もっとこっち見たら?」
そう言って、彼は私の肩にこてんと頭を乗せてきた。耳元で囁かれる甘い声に、心臓が跳ねる。分かっている。分かっているけれど、これはまた別の話なのだ。
「いや、あの…お布施せずにファンサをもらうのは、ちょっと論外で……」
「はぁ? おふせ?」
やばい、息をするようにオタク用語を使ってしまう。
変な汗を流して固まる私を見て、先輩はくすくすと楽しそうに笑いながらも、その目の奥にはどこか懐かしさがにじんでいる。やがて笑みが静かに和らぐと、先輩はふと真面目な声で言った。
「君さぁ、しんどい時とかつらい時、どうしてたの? …俺と偽物の恋人だった時とか」
彼の声は静かだったけれど、その奥に滲んだ感情が、やけにまっすぐに胸に届いた。一瞬、息を呑んでしまう。
「無理して笑ってた時もあったでしょ。俺のせいで」
その言葉に、胸の奥がちくりと痛んだ。切なくて、苦しくて、でも必死に気持ちを隠していた日々。もう、隠す必要はないんだ。
私は少しだけ俯いて、正直な気持ちを口にした。
「……あの頃は、先輩にとって私は、都合のいいファンのひとりなんだろうなって……。だから、『好き』だって気持ちは、絶対に出さないようにしていました。先輩の前では平気なふりをしてたけど…一人になると、落ち込んだりしてました」
声が、微かに震える。言い終わると、隣から大きなため息が聞こえた。次の瞬間、私は強い腕で、ぎゅっと抱きしめられていた。
「……っ」
「……ごめん」
低い声が、私の髪をくすぐる。
「本当に、ごめん。気づいてやれなくて。いや、気づいてたのに、向き合わなかった。最低だよね、俺」
その声には、深い後悔の色が滲んでいた。抱きしめられる腕の強さと、伝わってくる彼の体温に、胸がじんわりと熱くなる。慣れないそれに戸惑いながらも、私はそっと彼の背中に腕を回した。
「ううん、もういいんです。今が、最高に幸せですから」
彼の胸に顔をうずめたまま呟いた言葉は、紛れもない本心だった。しばらくして、彼がゆっくりと体を離す。「そういえばさ」と、彼は少し照れたように言った。
「今日ここに来る前に、岩ちゃんに『彼女ができた』って報告したんだよね。それが君だって言ったら、めちゃくちゃ驚いてた」
その名前に、私は高校時代を思い出す。偽の恋人だったあの頃、よく及川先輩のそばにいた岩泉先輩の、探るような、怪しむような視線。何か言いたげにこちらを見ていた目は、きっと私たちの関係を疑っていたのだろう。
「岩泉先輩、何か言ってませんでしたか…?」
恐る恐る尋ねると、彼は苦笑した。
「『今度は本当なんだろうな』って釘を刺されたよ。あの頃、俺がクラスメイトの女子を好きだったの、岩ちゃんにはバレてたみたいでさ。だから、なんで突然君と付き合いだしたのかって、結構しつこく聞かれてた」
「……やっぱり」
「だから、今日はちゃんと言ってきたよ」
彼は私の目をまっすぐに見て、言った。
「『今度は、本当だから。ずっと大切にしたい子なんだ』って」
その言葉に、胸がいっぱいになる。嬉しくて、なんだか泣きそうで、彼の顔をまともに見られない。
彼はそんな私の様子を愛おしそうに眺めると、私の顔を覗き込む。その瞳は、とても優しくて、熱を帯びていた。
「……ねぇ」
「はい?」
「これからも、俺の一番のファンなわけ?」
「…!! もちろんです! 世界で一番のファンです!」
私が胸を張って答えると、彼はまた「はぁ…」と呆れたように息をついた。だけど、きっと私の答えなんて分かってたのだろう。予想通りすぎて拍子抜けしたような、けれどどこか安心した顔だった。
「そこは、『恋人』って言ってほしかったんだけど?」
「いえ、私は恋人である前にファンなので! 及川徹という存在の素晴らしさを、一番近くで享受し、記録し、後世に伝えていく義務が……!」
「義務ってなんだよ」
彼は笑いながら、私の頬を軽くつねった。その仕草すら、どうしようもなく甘い。彼は私の頬を撫でながら、じっと目を見つめてくる。その瞳にはもうからかいの色はなく、真剣で、少し熱っぽい光が宿っていた。
「……ねぇ」
「は、はい……」
先輩の声に含まれる甘さが、さっきまでと部屋の空気をガラリと変えた。心臓が、また大きく音を立て始める。
「……今日、泊まっても、いい?」
「………………え?」
(泊まる? ここに?)
意味を理解した瞬間、顔に一気に血が上るのが分かった。言葉にならない悲鳴を上げてソファの端に後ずさろうとする私を、彼は力強い腕で捕まえて離さない。
「なに、その反応。……もしかして、こういうの初めて?」
にやにやと意地悪く笑って聞いてくる。声も出せずに、こくこくと必死で頷くことしかできない。彼はほんの一瞬、言葉を失ったように私を見つめて、それから、そっと目を細めた。
「そっか」
彼は私の耳元に唇を寄せ、ゆっくりと囁く。
「──やばいな、それ」
耳に響く掠れた声は、聞いたこともないほどに色気を含んでいて、ぞわりと鳥肌が立つ。
「……可愛すぎて、今夜、俺、止まれないかも」
「!!!!」
(毎秒が新規絵…! 供給過多…! でも、こんな、こんな幸せそうで、甘い顔で笑う先輩は、ファンには絶対に見せない顔だ…!)
私は、彼の腕の中で真っ赤になりながら、心の底から思った。先輩を、ずっと応援していて、本当によかった、と。
“好き”という気持ちは、ずっと前から胸にあった。それが恋から愛に変わって、今、ようやく彼の隣にいられる。
でも変わらないものもある。
私は、彼のファンでいることを、やめない。誰よりも近くで、誰よりも深く、彼のすべてを愛していく。
これからも、世界で一番の愛を込めて——私は、及川徹のオタクを続けます。