私の知らない顔をした横顔

 初めてのデートから二週間。及川先輩との「偽物の恋人」ごっこは、あれから特に甘い展開を迎えることもなく、淡々と続いていた。
 宣言通り、放課後は予定がなければ一緒に帰り、メッセージアプリでの連絡は相変わらず業務的。帰り道の会話も、基本的には先輩が主導権を握っているけれど、前よりは少しだけ、スムーズに言葉を交わせるようになってきた…気がする。
 たまに、私の的外れな発言に先輩が本気で笑ってくれることもある。まあ、九割は笑われているだけな気もするけど。

 校内での「及川先輩の彼女」という肩書きは、すっかり定着したらしい。遠巻きの視線やヒソヒソ声には、慣れたくなかったけどもう慣れた。あの隣のクラスの女子に呼び出された体育倉庫での一件以来、直接的な嫌がらせを受けることもなくなった。
 それは多分、及川先輩自身が、あの時キツく言ってくれたことと、もう一つ。

「おーい、ナマエちゃーん」
「ひゃっ!?」

 昼休みの、人でごった返す廊下。購買でパンを買って教室に戻ろうとしていたら、不意に後ろから声をかけられ、肩を軽く叩かれた。驚いて振り返ると、そこにはやっぱり、及川先輩が立っていた。
 最近、先輩はやけに頻繁に私のクラス周辺に出没するのだ。昼休みに「様子見に来た」と言って現れたり、移動教室の時に廊下で待ち構えていたり。その度に周りは大騒ぎになるし、私の心臓はいくつあっても足りない。

「せ、先輩、どうしたんですか?」
「ん? いや、別に? ちょっと顔見ただけ。今日の帰り、どうする? 俺、岩ちゃんたちとバレー部に顔出すから少し遅くなるかもだけど」

 周りの生徒たちが私たちをチラチラ見ているのを知ってか知らずか、彼はごく自然に、恋人同士みたいな会話を振ってくる。

「あ、私は特に予定ないですけど…先輩が遅くなるなら、先に帰ってますよ?」
「ふーん? 俺のこと待たないんだ?」

 意地悪く口の端を上げる。またからかってる…。私が「だって、別に…」と言い返そうとした、その時だった。
 及川先輩の視線が、ふと私の後ろに向けられ、その表情が一瞬、本当に一瞬だけ、固まったのを、私は見逃さなかった。

「──徹くん!」

 柔らかくて、鈴を転がすような、綺麗な声。及川先輩の肩がわずかに強張った気がした。私も、声のした方を振り返る。そこには、綺麗な女の人が立っていた。胸元で切り揃えられた長い黒髪がさらりと揺れて、大きな瞳は優しげに細められている。たしか、及川先輩のクラスメイト。美人で、性格も良くて、男女問わず人気があるって有名だ。
 そして、彼氏持ちだということも、私みたいな目立たない人間の耳にも入るくらい。

「あ、どうしたの?」

 及川先輩の声が、いつもより少しだけ、硬い。

「ごめんね、探してたんだ。五限目、先生の都合で多目的室に変更になったって。連絡回ってきた?」
「マジ? 聞いてないや。サンキュ」
「ううん。忘れずに移動しないとね」

 二人の間には、クラスメイトらしい、気安い空気が流れている。でも、どこか、ほんの少しだけ、及川先輩からはぎこちなさも混じっているような感じがして、違和感を覚える。
 美人先輩(勝手にそう名付けた)の視線が、不意に私に向けられて目が合う。彼女は、驚いたように少し目を見開いた後、ふわりと花が咲くように微笑んだ。

「あなたが、もしかして噂の、徹くんの彼女さん?」
「へっ!?」

 ま、まさか、こんな美人で有名な先輩にまで私のことが知られてるなんて!
 内心、冷や汗がダラダラ流れる。どうしよう、こんなモブ女が彼女なの? って顔されたら。

「あ、あの、えっと…」

 私がしどろもどろになっていると、及川先輩が、いつもなら馴れ馴れしく肩でも組んできそうな場面なのに、ただ少し強張った表情で、私を一瞥もせずに、短く答えた。

「うん。…まあね」

 その返事は、驚くほど素っ気なくて、硬い声音だった。いつもの「そーだよー! この子、俺のだから!」みたいなノリは、微塵もない。美人先輩は、そんな彼の様子に一度だけ目を瞬かせ不思議そうな顔をしたが、すぐにまた優しい笑顔に戻った。

「そっかー! 名前なんていうの?」
「あ、ミョウジナマエです…!」
「ナマエちゃんね! よろしくね」
「は、はい! よ、よろしくお願いします!」
「かわいいね、徹くんの彼女さん。大事にしなよ?」

 悪意なんて全く感じられない、本当に優しい声。今まで、興味本位か悪意しか向けられてこなかった私にとって、その言葉は予想外で、素直に胸にじんわりと温かいものが広がった。

「じゃあ、私行くね。徹くん、授業遅れないようにね!」

 先輩は、私にまで丁寧にぺこりと頭を下げると、颯爽と廊下を歩き去っていった。絹みたいな髪が揺れる、綺麗な後ろ姿。通るところ全てを浄化していきそうな、女神みたいな人だ。
 私は、その背中を見送りながら、隣に立つ及川先輩に、感動のままに話しかけた。

「わー…! 噂に違わずめっちゃいい先輩ですね! 美人で優しいなんて、完璧じゃないですか!」

 しかし、返ってきたのは、驚くほど抑揚のない声だった。

「…うん。そうだね」

 え? と思って隣を見ると、及川先輩は、美人先輩が消えていった廊下の先を、じっと見つめていた。その瞳には、私が今まで見たことのないような、複雑な色が浮かんでいる気がした。切ないような、諦めたような、でも、どこか熱を帯びたような…。

(………あ)

 その瞬間、私の頭の中で、何かがカチリと繋がった。もしかして。もしかして、及川先輩は──。

「………良かったね、ナマエちゃん」

 不意に、いつもの軽い雰囲気の笑顔が私の目の前に現れた。及川先輩が、私の顔を覗き込んできたのだ。さっきまでの複雑な表情は、もうどこにもない。

「学校公認って感じで、『彼女』認定、どんどん広がってるじゃん。これで厄介なファンも減るでしょ」

 ニヤリと、意地悪く笑う。いつもの、先輩だ。私が知っている、あの食えない笑顔。

 だけど、さっきの、美人先輩の後ろ姿を見つめていた、あの表情。あの、どうしようもなく切なくて、でも目が離せないような、強い感情を宿した瞳。

 それは、私がいつも、及川先輩を見つめる時の気持ちと、なんだかとても、似ていた気がしたのだ。胸の奥が、またチクリと痛む。

 分かってしまったかもしれない。知りたくなかった、彼の秘密の一端に。



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