繋がった記憶
本日、及川先輩との、二回目の(偽物の)デートの日。私はまたしても、待ち合わせ時間の三十分も前に、駅前の時計台の下に到着してしまった。
秋も終わりかけの空は高く澄んでいるけれど、空気はひんやりとしている。土曜日の駅前はそこそこ賑わっていて、行き交う人々の中で一人、所在なく時間を潰すのは少しだけ気まずい。
ショーウィンドウに映る自分の姿を見る。…うん、やっぱり普通だ。昨日、クローゼットの前であれこれ悩んだ結果選んだ、前回のデートよりは、ちょっとだけお洒落したつもりのチェック柄のワンピースも、こうして見ると普段着と大差ない気がする。
(先輩、どんな服で来るんだろう…)
そんなことを考えていたら、不意にすぐ近くで声がした。
「あ、いたいた。お待たせー」
ハッと顔を上げると、息を呑むほど格好いい私服姿の及川先輩が、にこやかに立っていた。首元まですっぽり覆う深いグレーのタートルネックが、彼の白い肌とすっきりしたフェイスラインを強調している。その上に、上質なキャメル色のチェスターコートが無造作に、でも計算されたように軽く羽織られていて…。
(な、なんか今日の先輩、すごくない…!?)
内心の動揺が声に出なかっただけ、自分を褒めたい。細身の黒いパンツは、ただでさえ長い脚をさらにスラリと見せていて、足元は歩くたびに鈍い光を放つ黒の革ブーツ。全体の色数が抑えられているせいか、洗練された大人の男の人の色気を感じる。
いつものキラキラしたオーラとは違う、静かで、でも抗えない魅力がある。…って、また内心でファッションチェックしてる!
「どしたの、固まっちゃって。俺の私服、どう?」
悪戯っぽく笑いながら、彼は聞いてくる。分かってる、どうせ褒め言葉しか期待してないんでしょ!
心とは裏腹に、口からはスラスラと言葉が滑り出てくる。
「か……っ、かっこいいです!! 完璧です! そのキャメルのコート! 羽織ってるだけなのに、なんでそんなに様になるんですか!? すごく上品で…! あと中のグレーのタートルネック! 首元が隠れてるのが逆に大人っぽくて、その…すごく知的な感じで…! フェイスライン綺麗だなって…。あと…」
「……ア、ウン。そうだった、君はそういう子だったね。ありがと…」
またしても、私の溢れ出るファン魂と語彙力に、及川先輩は若干引いているようだった。もうちょっと普通に褒められないものか、私は…。
気を取り直して電車とバスを乗り継いで着いた隣町の水族館は、思ったよりも大きくて立派だった。週末ということもあって、家族連れや私たちみたいな(本物か偽物かはさておき)カップルで賑わっている。
入り口を抜けると、ひんやりとした独特の空気と、青く照らされた大きな水槽が目の前に広がり、思わず「わぁ…」と声が漏れる。
「どっか見たいとこある?」
「い、いえ! どこでも!」
「はいはい、知ってた」
及川先輩は呆れたように笑って、「じゃ、こっちから順に見てく?」と歩き出す。私は少しだけ距離を置いて、彼の後をついていった。
色とりどりの熱帯魚が舞うサンゴ礁の水槽、ゆらゆらと幻想的に漂うクラゲの展示、巨大なタカアシガニ。一つ一つの水槽を覗き込むたび、私は素直に感動していた。及川先輩も、時々「うわ、これデカ!」とか「こいつ面白い顔してんなー」とか、子供みたいにはしゃいだりしていて、その無邪気な横顔を見ていると、なんだかこっちまで楽しくなってくる。
映画館の時とは違って、会話も自然と生まれて、少しだけ、本当に少しだけだけど、普通のデートみたいだな、なんて思ってしまった。
ペンギンのコーナーでは、よちよち歩く姿に二人で笑い、「飼いたい」と言い出す先輩に「無理ですよ!」とツッコんだりもした。偽物だって分かってるのに、この時間がなんだかすごく貴重で、大切に思えてしまう。
一通り見終わって、私たちは出口近くのお土産屋さんエリアへと足を踏み入れた。カラフルなグッズが並び、楽しそうな声が響いている。
「お土産、どうする? なんか見てく?」
先輩がぬいぐるみの棚を眺めながら尋ねる。
「あ、私は大丈夫です」
そう答えて、ふと彼の視線の先を追った、その時だった。
少し離れたレジの近くで、仲睦まじげにお土産を選んでいるカップルがいた。女の子の方は、すらりとした黒髪の美人。優しそうな笑顔が印象的な、この前挨拶をした、及川先輩のクラスメイト——美人先輩だ。そして、その隣には、人の良さそうな雰囲気の男の人がいる。
正直、いわゆる「イケメン」というタイプではないけれど、彼女である美人先輩に向けている表情はとても穏やかで、二人は心から楽しそうに笑い合っていた。傍から見ても、お似合いの、幸せそうな二人。幸い、こちらには全く気づいていない。
隣を見ると、及川先輩が、息を呑むように固まっていた。
彼は、先輩たちの方を、まるで眩しいものでも見るかのように、ほんの少しだけ目を細めて、じっと見つめていた。その横顔には、普段の彼からは想像もできないような、複雑な色が浮かんでいた。憧れ、諦め、そして、ほんの少しの痛み。
──ああ。
その表情を見て、私は確信した。
やっぱりそうだ。彼は、あの先輩のことが好きなんだ。
顔も声も良くて、頭も良くて、友達も多くて、運動神経も抜群で。強豪校のキャプテンで、正セッターで。きっと、私みたいな凡人には分からないような、たくさんの努力と葛藤を乗り越えてきた人。そんな、完璧に見える及川先輩にだって、どうしても手に入れられないものがあるんだ。
その事実に、なぜか私の胸が締め付けられるように痛んだ。
及川先輩は、本当に一瞬だけそうして目を細めていたが、すぐにいつもの人好きのする、完璧な笑顔に戻っていた。その切り替えの早さに、私は内心驚く。
「わー、すごい人だね、土曜日だし。レジも混んでる。お土産、本当にいいの?」
先輩たちにはもう目を向けず、彼は努めて明るい声で言った。まるで、さっきの表情など欠片も存在しなかったかのように。
「…はい。私は大丈夫です」
私も、気づかないフリをした。それが、今の私の、偽物の彼女としての役割だから。
「そっか。じゃあ、外に出よっか」
促されるまま水族館を出ると、ひんやりとした夕暮れの空気が頬を撫でた。空は茜色に染まり、街の灯りが瞬き始めている。水族館の前は、まだ多くの人で賑わっていた。楽しそうなカップル、手をつなぐ家族連れ。みんな、幸せそうだ。
(私たち、どんな風に見えてるんだろう…)
隣を歩く及川先輩との間には、目に見えない壁がある気がする。さっき見た美人先輩たちのような、温かい雰囲気は、私たちにはない。
聞きたい。本当は、聞きたくてたまらない。
──あの人のこと、好きなんですか?
その言葉が喉まで出かかって、でも、飲み込んだ。もし私が本物の彼女だったら、きっと嫉妬して、不安になって、「あの人誰なの?」なんて、彼の心を抉るような質問をしてしまっていたかもしれない。彼が隠したいと思っていることに、土足で踏み込んでしまっていたかもしれない。
でも、今の私は彼を問い詰める権利なんてない。だからこそ、できることがあるのではないだろうか?
彼の心の傷に触れるんじゃなくて。彼の秘密を暴こうとするんじゃなくて。ただ、今、辛そうな顔をしている彼を、この状況からそっと助け出すこと。
今日のデートが、彼にとって少しでも嫌な思い出にならないように。彼のプライドを、これ以上傷つけないように。
そのための、一番優しい口実を。
私は、意を決して、隣を歩く彼の少し前を塞ぐように立ち止まり、彼の顔を見上げた。
「あの、先輩」
夕暮れの光の中で、彼の茶色の瞳が、少しだけ驚いたように私を見つめ返した。
「もしかして疲れちゃいましたか? 人、多かったですもんね。そろそろ帰ります?」
できるだけ、自然な声色を心がけた。「あの先輩がいたから」なんておくびにも出さず、あくまで人のせいにする。彼が言い訳しやすいように、逃げ道を用意する。それが、今の私にできる最大限の気遣いだった。
彼は一瞬きょとんとして、私の言葉の意味を探るように目を瞬かせた。そして次の瞬間、まるで「しまった」とでも言うように、慌てて完璧な笑顔を貼り付けた。
「ん? いやいや、全然疲れてないけど? なんで?」
その声は、いつもよりほんの少しだけトーンが高くて、早口だ。明らかに動揺を隠そうとしている。
「いえ、さっき、お土産屋さんで少しぼーっとしてたみたいだったので…」
「あー、あれね!」
彼は、何かを誤魔化すように大げさに手を振る。
「あれはさ、ペンギン見てたら、あまりにも可愛すぎてさー! うっかり自宅で飼えないかなー、とか本気で考えちゃって! でも冷静に無理だよなーって現実思い出して、ちょっと黄昏てただけだって!」
分かりやすい嘘。でも、私はそれに乗っかる。
「ペンギン、飼うのは相当大変ですよ? まず、温度管理が非常に難しいんです。それに食事も新鮮な魚が大量に必要で匂い対策も大変だし…あと鳴き声も結構大きくて近所迷惑ですし、水質管理も…」
「え、ちょ、ナマエちゃん!? 何そのガチなペンギン蘊蓄!?」
私がペンギン情報を早口でまくし立てると、及川先輩は目を丸くして、盛大に吹き出した。
「あはははは! ペンギン博士!? 君、ほんっと面白いんだけど!」
お腹を抱えて、涙目になって笑う先輩。その屈託のない笑顔は、一見すると本物みたいだ。
「はー、笑った笑った…」
ひとしきり笑い終えた彼の笑顔の奥に、でも、やっぱりまだ、ほんの少しだけ寂しそうな影が残っている。その影を、私は見逃すことができなかった。
「…先輩、本当に元気ですか?」
私は、もう一度、そっと尋ねた。
「だから、何言ってんの。元気だってば」
彼は少しむっとしたように言い返し、わざとらしく胸を張る。
「ほら、こんなスーパーイケメン完璧人間の及川さんの隣を歩けるんだよ? ナマエちゃんも、しっかり堪能しないと!」
いつもの飄々として周りを煙に巻く先輩からは想像もつかないような、必死の空元気。その時、私の口から、思わずずっと心の中で思っていた言葉がこぼれた。
「……でも、先輩は、最初からスーパーイケメン完璧人間の及川さんじゃなかったですよね」
「…………え?」
歩き出そうとした彼の足が、ぴたり、と止まる。驚いたように、私を見つめてくる瞳には、いつもの余裕がない。
「……なに、それ。俺のこと、いつから見てたの?」
声が、少しだけ掠れている。まるで『みんなの人気者の及川徹』の仮面を剥がされて怯えてるようだ。
私は、少し恥ずかしくなりながらも、真っ直ぐに彼の目を見て、続けた。
「私が見てたのは、私が入学してからですし、試合とか、ほんの一部だけです。だから、偉そうなことは何も言えないんですけど……それでも、見てれば分かります」
でも、あなたは、ただかっこいいだけじゃない。
「周りの人が、先輩のこと『天才』とか『完璧』とか言うのを聞くと、いつもちょっとだけ、違うのになって思ってました。先輩は、すごく努力の人だから。夜遅くまで体育館の電気がついてるの、何度も見ました。試合中、誰よりも声を出して、最後までチームを励ましてたのも、見てました。だから…」
私は一度言葉を切り、必死に、一番伝えたかった言葉を探す。
「だから、先輩の努力を見てきたファンとして、簡単に『完璧』って一言で片付けられちゃうのは、すごく嫌なんです。だってそれは、先輩が必死に頑張ってきた時間を、無かったことにするのと同じじゃないですか。努力を否定してるみたいで…」
私の言葉が、冬の始まりの静かな空気の中に、自分でも驚くほど、はっきりと響いた。
その瞬間、隣の先輩が、ハッとしたように息を呑んだのを、私は見逃さなかった。大きく見開かれた瞳が、私を──いや、私の言葉そのものを捉えようとするかのように、じっと見つめている。
「……先輩?」
及川先輩の突然の変化に、私は戸惑いの声を上げる。彼は、すぐには答えなかった。何か遠い記憶の扉が、彼の内でゆっくりと開いていくような、そんな気配がした。彼の視線が、ほんの少しだけ揺らぐ。
やがて、先輩は掠れた声で呟いた。
「………その言葉…俺、前にも聞いたことがある気がするんだ…」
「え…?」
「……インハイの後、体育館の近くで」
彼の言葉に、私の記憶の片隅が、チクリと疼いた。インハイの後…体育館の近く…?
「あの時、周りの奴らが好き勝手言ってる中で…『努力を否定するのは間違ってる』って、そう言って、俺たちのこと庇ってくれた声があったんだ。誰かは分かんなかったけど…ずっと、忘れられなかった声…」
彼の言葉は、引き金になった。忘れようとしていた、あの夏の日の記憶が、鮮やかに蘇ってくる。
──あれは、忘れもしない、インターハイの県予選の決勝で白鳥沢に負けた日。
応援席で泣き腫らした私は、重い足取りで帰り支度をしていた。選手たちは、きっと私なんかよりずっとずっと落ち込んでいるはずだ。そう思ったから、私はただ俯いて廊下を歩いていた。
体育館裏を通って、昇降口へ向かう、少し人気のない階段の近く。そこで、応援に来ていたらしい在校生の、心ない会話を耳にしてしまったのだ。
『またうちの学校負けたねー。もう白鳥沢には一生勝てねーんじゃね?』
『つーか、結局及川だよな。あいつ、いっつも最後の最後で詰めが甘いっつーか』
『分かる。見た目と人気はすげーけど、土壇場でウシワカに勝てない時点で、やっぱ実力はその程度なんだろ』
『主将があれじゃ、チームも可哀想だよな』
──その瞬間、カッと頭に血が上った。悔しくて、悲しくて、息が詰まるほどの怒りが、腹の底から突き上げてきた。
違う。そんなんじゃない。あなたたちに、先輩の何が分かるっていうの。
誰よりも声を出し、誰よりも仲間を鼓舞し、誰よりも勝利を渇望していたあの背中。最後のボールが落ちた瞬間の、悔しそうな顔。
それを見ていたくせに。どうして、そんな残酷な言葉が吐けるの。気づけば、私は声のする方へ向かって叫んでいた。
『……そんなこと言うのやめてください!』
驚いて振り返る数人の生徒たち。でも、もう止まれなかった。
『負けたのは事実です…! 白鳥沢が強かったのも、事実です! でも、負けたからって、選手の皆さんの努力まで否定するのは間違ってます!』
及川先輩たちの努力を、何も知らないあなたたちが、面白半分で踏み躙っていいはずがない。
『同じ学校だからこそ、バレー部がどれだけ頑張っていたか、分かるはずです! なのに「実力はその程度」なんて、簡単に言わないでください!』
内情なんて知らない。主将としてのプレッシャーなんて、想像もできない。でも、私が見てきたものは、嘘じゃないのだ。
そこまで一気に言い切って、ハッと息をついた時だった。廊下の向かい側の窓ガラスに、反射して映る人影に気づいた。嘘…あれは…。
こちらを見て目を見開く及川先輩の姿だった。きっと、廊下の角から自分たちのことを指す言葉を聞いて、驚いているのだろう。
(今の聞かれた!? あの酷い言葉も…!)
血の気が引いた。どうしよう。先輩、傷ついてないといいけど。勝手に先輩たちの気持ちを代弁するような、私の生意気な言葉も、聞かれてませんように。私は、心の中で必死に願いながら、その場から逃げるように走り出した。
あの時、彼が、私の声に気づいて、声の主を探そうと、追いかけてきていたなんて、全く知りもしないで──。
「………っ」
蘇った記憶に、私は息を呑んだ。そうだ、あの時、私は確かにそう言った。
目の前の彼を見ると、彼は、まさに過去の記憶と、目の前の私を結びつけ、全てを確信したような、強い光を目に宿して、私を真っ直ぐに見つめていた。その瞳には、驚きと、戸惑いと、そして今まで見たことのないような、深い感情の色が浮かんでいた。彼は、震える唇で、言葉を紡ぐ。
「………まさか、」
その声は、確信に満ちていた。
「……あれは、君、だったの?」
静寂の中に、彼の問いかけが、重く、そして優しく響いた。私は、彼の言葉の意味をようやく理解し、ただ、その熱っぽい視線を受け止めることしかできなかった。心臓が、大きく、大きく脈打っていた。
言葉が出てこない。肯定も否定もできないまま、ただ彼を見つめ返す。彼の瞳の奥で、驚きと、戸惑いと、そして何か…探していたものを見つけたような感情が揺れているのが見えた。
私が、小さく、本当に小さく頷くと、彼は息を呑み、それから、まるで長い間抱えていた重荷を下ろしたかのように、ふっと息を吐いた。
「……そっか」
彼は、掠れた声で呟いた。そして、私から視線を逸らさずに、言葉を続ける。
「…ずっと、気になってたんだ。あの声」
その声は、ひどく真剣で、どこか感傷的な響きを帯びていた。
「…あの時、俺、結構キてたからさ。…だから、すごく…」
彼は言い淀み、少しだけ視線を彷徨わせた後、もう一度、私を真っ直ぐに見つめて、言った。
「………ありがとう」
たった一言。でも、その言葉には、たくさんの感情が込められているのが分かった。及川先輩の「ありがとう」が、私の胸の奥に、温かく、じんわりと染み込んでいく。あの夏の日、何も考えずに叫んだ言葉が、ほんの少しでも、彼の支えになっていたのかもしれない。そう思うと、なんだか、泣きそうになった。
「…っ」
私が言葉に詰まっていると、彼は、ハッとしたように少しだけ照れたような顔になり、ふいっと視線を逸らした。そして、わざと明るい声を作って、私の頭を軽くポン、と叩く。
「…まぁ、まさかあの時の声の主が、こんな変なスタンプ送ってくる子だったとは、思わなかったけどね!」
「へ!? ひ、ひどいです!」
「あはは、冗談だって」
及川先輩は、そう言って笑うけれど、その耳はやっぱり少し赤い気がした。
車のヘッドライトが流れ、街灯が頼りなく道を照らす。さっきまでの張り詰めた空気は、少しだけ和らいでいる。でも、二人の間には、今までとは明らかに違う、もっと別の、温かくて、くすぐったいような、新しい空気が流れ始めていた。
「………帰ろっか」
先に沈黙を破ったのは、及川先輩だった。
努めて普段通りの口調。でも、その声は、やっぱり少しだけ震えているような気がした。彼は、ゆっくりと歩き出す。その歩調は、さっきよりもわずかに遅い。
私も、何も言えずに、黙って彼の隣を歩き始める。
私たちは手を繋がなかった。彼も差し出してこなかったし、私も、今はそれでいいと心から思った。前回のデートでは、偽物だって分かっていても、あの温かい手に触れたくて仕方がなかったのに。
でも、今は違う。
さっき先輩がくれた、「ありがとう」という言葉の熱が。あの、戸惑ったような、優しい瞳が。まだ胸の奥でじんわりと燃えていて、嬉しくて、照れ臭くて、隣を歩く彼の顔をまともに見られないくらいだった。
物理的な温もりなんかじゃなく、もっと確かな何かが、今、二人の間に流れている。ぎこちない沈黙と、繋がない手の距離。
私たちの何かが、変わったのは、気のせいじゃないのかもしれない。