額に残る熱に惑わされて
季節は十一月も半ば。
冬の厳しい寒さが到来してきている頃。青葉城西高校では文化祭が開催されるため、学校全体がそわそわと浮き足だっている空気が充満していた。
私といえば、文化祭の準備をしつつ、頭にあるのはもちろん『偽物の彼氏』のことばかりだ。
あの水族館デートでの「声バレ」事件以来、及川先輩の私に対する態度が、ほんの少しだけ、変わった、ような気がする。いや、気のせいなんかじゃない、確実に変わった。まず、スキンシップが、前触れなく、そして若干ぎこちなくも増えた。
放課後、一緒に帰る約束をして昇降口で待っていると、人混みの中から私を見つけた先輩が、近づいてくるなり、わしゃわしゃと遠慮なく私の頭を撫でてきたり。別れ際に駅の改札で「じゃあね」って言う代わりに、ポンポン、と軽く頭を叩いてきたり。
心臓に悪いからやめてほしい。けど、正直めちゃくちゃ嬉しい。
以前のような計算された感じや、からかうような色合いが薄れて、なんだか少しだけ、不器用な優しさが垣間見える気がするのだ。いや、これも私の願望が生んだ幻覚かもしれないけど。
そして、トークアプリのメッセージ。相変わらず放課後の待ち合わせ時間の共有とか、業務連絡がメインではあるけれど、そこに時々、本当に時々だけど、雑談が混じるようになったのだ。
『おはよ。今日寒いから、マフラー忘れないようにね』
『おやすみ。ちゃんと布団かけて寝ろよー』
『この前話してた駄菓子、コンビニにあったから買ってみた。まあまあイケるね』
みたいな。たったそれだけの、短いメッセージ。でも、それが送られてくるたびに、私の心臓は律儀に跳ねて、スマホの画面を何度も見返してしまう。
(んんんん? な、なんでこんなメッセージを…? 偽物の彼女に、おはようとかおやすみはまだしも、雑談とかする必要、あります…!?)
戸惑いと疑問で頭がいっぱいになるけれど、嬉しくて。でも結局「ありがとうございます!」とか「先輩も風邪ひかないでくださいね!」とか、当たり障りのない返信しかできない。
だって、もし「どうしたんですか?」なんて聞いて、「別に? なんとなく?」とか返されたら、私が勝手に舞い上がってる痛い子みたいじゃないか…。──とりあえずトーク画面はスクショした。
意地悪なところや、人を食ったような態度は相変わらずだ。でも、何かが違う。以前のような、私を完全に「都合のいい駒」として見ているような冷たさが、少しだけ和らいだような、そんな気がするのだ。
(…ううん、考えすぎだ。期待しちゃダメ。私は偽物なんだから)
そう自分に言い聞かせる日々が、文化祭の準備期間と共に過ぎていった。
そして、待ちに待った、そして少しだけ憂鬱だった文化祭当日。私たちのクラスの出し物は、定番だけどやっぱり盛り上がる「お化け屋敷」だ。私は、なぜか脅かし役に任命されてしまった。
普段おとなしいから、ギャップで怖がらせられるだろう、というクラス委員の謎理論により。言い返せる気力も気合もない。
「うらめしや〜〜〜」
「きゃああああああ!」
「で、出たーーー!」
教室を改造した真っ暗な通路の、ちょうど曲がり角。私は、白い三角頭巾(もちろん手作り)をつけ、顔にはうっすらとドーランを塗り、ボロボロの白装束(これも自前)を纏い、渾身の演技で来場者を脅かしていた。手応えは上々だ。
さっき入ってきたカップルなんて、女の子の方が彼氏に泣きついていた。
(ふふふ、我ながらなかなかの才能かもしれない。驚いた人の悲鳴を聞くのって、ちょっとクセになるかも…)
私はすっかり悦に入っていた。次のお客さんが、角を曲がってくる気配がする。
(よし、また最高に怖がらせてやる…!)
息を潜め、タイミングを見計らって、私は勢いよく飛び出した。
「うらめしやーーーーー!!!!!!!」
渾身の裏声。そして、両手をだらりと前に突き出し、よろよろと迫る。どうだ怖いだろう、と言わんばかりの脅かし演技である。しかしそんな私の気合とは裏腹に、思った通りの反応は返ってこなかった。
「うわっ!?」
「………」
「………」
「………」
あれ? 反応が薄い? しかも、なんか人数多くない?
目が暗闇に慣れてきて、目の前にいる人物たちのシルエットがうっすらと見えてくる。
(四人組…?)
しかも、なんか、やけに背が高くてガタイがいいような。その中の一人が、お化け屋敷備え付けの懐中電灯の弱い光を、私の顔に向けた。
「………………え? ナマエちゃん?」
聞き覚えのある声。呆気にとられたような響き。懐中電灯の光が眩しくて目を細める。そこに立っていたのは。
「お、及川先輩…!? い、岩泉先輩も、松川先輩も、花巻先輩も…!?」
嘘でしょ!? なんで青城元バレー部の3年生レギュラーメンバーたちが、揃いも揃ってこんなところに!?
「……ぷっ」
誰かが噴き出す声がした。多分、花巻先輩だ。
「あはは! マジか! 及川の彼女ちゃん、お化け役やってたの!?」
続けて松川先輩が面白そうに言う。
「つーか、今の脅かし方、結構ガチだったぞ。岩泉なんかちょっとビビってたし」
「なっ! ビビってねーわ!!」
岩泉先輩が、薄暗い中でも分かるくらい顔を赤くして反論している。私は、自分の白装束に三角頭巾という今の格好と、さっきの渾身の「うらめしや」を思い出して、顔から火が出そうになった。最悪だ。最悪すぎる。
憧れの人である及川先輩の友人たちとのファーストコンタクトが、こんな状況だなんて。しかも、全力で脅かした後って。もう生きていけない…。
「ははっ、ウケる」
及川先輩は、私の絶望などお構いなしに、心底楽しそうに笑っている。
「ナマエちゃん、脅かすの上手じゃん。本気すぎない?」
「ア、ドモ…」
私はもう、力なく答えることしかできない。「誰か私を成仏させてください」と心の中で手を合わせる。ああ、もう帰りたい…。
「おいクソ川、いつまでも遊んでねーで、さっさと行くぞ。後ろつっかえんぞ」
岩泉先輩が、呆れたように及川先輩を促す。
「はーいはい。じゃ、岩ちゃんたち先行っててよ。俺、ちょっとこの『可愛い彼女』のお手伝いしてくからさ」
及川先輩は、しれっとそう言って、岩泉先輩たちの背中を押した。
「はあ? 手伝いって…おい、花巻押すな!」
「はいよー、じゃあ俺らは先行くわー」
「暗闇で変なことすんなよ及川ー」
岩泉先輩の抗議の声も虚しく、三人はぞろぞろと暗闇の奥へと消えていった。取り残されたのは、私と、及川先輩と、そして気まずい沈黙。
「…あの、先輩、手伝い、とは…」
「ん? だって面白そうだったから?」
彼は悪戯っぽく笑うと、私が隠れていた通路のくぼみを指差した。そこは、次のお客さんを脅かすための待機場所で、大人一人がやっと入れるくらいの狭いスペースだ。
「俺もここで一緒にお客さん、驚かしてあげよっか?」
「えっ!?」
「ほら、早く入って。次来ちゃうよ」
有無を言わさず、彼は私をくぼみの中に押し込み、自分も滑り込んできた。
「きゃっ!?」
狭い! 近い! 暗い!
ただでさえ狭いスペースに、長身の及川先輩が入ってきたものだから、私たちの体は必然的に密着状態になった。彼の腕が私の肩に触れて、体温がじかに伝わってくる。さっきまでとは違う、甘くて少し大人っぽい香水の匂いがふわりと漂ってきて、私の心臓は完全にキャパオーバーを起こしていた。
(ち、近い近い近い! 無理無理無理! 先輩の匂い…! いい匂いすぎる…! これ何の香水!? 教えてほしい! ていうか売ってほしい! 絶対買うのに…! いやいやいや、落ち着け私! これは事故! 不可抗力なんだから!)
内心で激しくパニックを起こし、現実逃避のために香水のブランド名を必死で推測していると、耳元で、彼の低い声が囁いた。
「………ねぇ」
囁かれた、低くて、少しだけ掠れた、甘い声。私の心臓は、文字通り、飛び跳ねた。ひゅっ、と息を呑む音が、静かな暗闇に響いた気がする。
私が返事もできずに及川先輩のほうへ視線を送ったまま硬直していると、彼が顔をこちらに向けていた。暗闇に目が慣れてきて、すぐ隣に彼の顔があるのが分かる。整った鼻筋、長いまつ毛。
息がかかるほどの距離。さっき感じた、甘くて少し大人っぽい香水の匂いが、より濃く感じられて、頭がクラクラする。
「………ナマエちゃん」
再び、囁くような声で名前を呼ばれる。
「は、はいっ!」
裏返った声で返事をすると、彼はくすりと小さく笑った。
「そんなに緊張しないでよ」
「だ、だって、ち、近い、です…!」
「近い? …ああ、ごめんごめん。狭いもんね、ここ」
そう言いながらも、彼は一向に距離を取ろうとしない。むしろ、わざと私の肩に自分の腕が触れるように寄ってきた。
(うわあああ! やっぱりこの人、確信犯だ!)
パニックになりそうな私を、彼はじっと見つめてくる。暗闇の中でも、彼の瞳が真剣な光を帯びているのが分かった。それは、いつもの余裕綽々な光とは違う、もっと熱っぽさを宿している気がした。
「……こうしてるとさ」
彼が、ゆっくりと口を開く。その声は、やっぱり甘い。
「なんか、本当に恋人同士みたいだね」
その言葉に、私の体温が一気に上昇するのが分かった。顔が、耳が、首筋まで、きっと真っ赤になっているに違いない。暗闇で、本当に良かったと心から思う。
「な、ななな、何言ってるんですか先輩! わ、私たちは偽物で…!」
慌てて否定しようとした私の言葉を遮るように、彼の指が、そっと私の頬に触れた。
「ひゃっ!?」
冷たい指先が、熱を持った私の肌に触れて、びくりと体が震える。彼は、私の頬についたお化けメイクのドーランを、親指で優しく拭うような仕草をした。
「…うん、やっぱり可愛いよ、ナマエちゃんは」
「…………え?」
「お化けの格好してても、可愛い」
真顔で、そんなことを言う。心臓が、うるさいくらいにドキドキしている。嘘だ。絶対嘘だ。いつものように、からかってるだけなんだ。そう分かっているのに。
彼の指が、頬から、私の耳の後ろの髪へと、ゆっくりと滑る。そして、数本、指に絡め取るようにして、優しく梳いた。その、何気ない仕草に、全身の力が抜けそうになる。
「………先輩…?」
かろうじて絞り出した声は、自分でも驚くほど、か細かった。
「ん?」
彼は、私の髪を指で弄びながら、顔をさらに近づけてくる。もう、鼻先が触れそうなほどの距離だ。彼の瞳が、すぐそこにある。吸い込まれそうだ。
(ダメだ、ダメだダメだ! これは偽物の関係! 彼は私を利用してるだけ! 期待しちゃダメだ…!)
頭の中では警報が鳴り響いているのに、体は全く動かない。彼の瞳から、目が離せない。
「………『嫌なこと』、してないよね?」
彼は、私たちの「ルール」を口にした。声は、やっぱり甘い。でも、その瞳の奥には、私がどう反応するか、試すような光が宿っている気がした。こんな、心臓が破裂しそうで、頭が真っ白になるような状況が、「嫌じゃない」わけがない。だって、本当は、私は、あなたのことが——。
私が答えられずにいると、彼は、ふっと息を吐くように笑った。そして。
「………じゃあ」
彼の顔が、さらに、ゆっくりと、近づいてきた。
私の思考は、完全にショートした。パニックでぐるぐるしている私の目の前に、彼の顔が──その時。
「……うわっ! なんか音した!」
「きゃー! もうやだー!」
「!!」
突然、こちらへ続く廊下の向こうから、けたたましいドンドンという物音と、次のお客さんらしき男女の悲鳴が聞こえてきてそちらを振り返る。現実の音が、一気に私の意識を引き戻す。
ハッとして隣を見ると、及川先輩も動きを止め、わずかに眉をひそめていた。彼の唇は、私の唇まであと数センチ、というところで止まっている。
……危なかった……いや、危なくなかったのか?
「…お、お客さん、来たみたいですね!」
私は、この好機を逃すまいと、慌てて彼から距離を取ろうとした。でも、狭い空間ではそれも難しい。
「…ちっ。タイミング悪いなぁ」
及川先輩が、心底残念そうに舌打ちするのが聞こえた。まるで、私にキスするタイミングを邪魔されて苛立ってるみたいで、ドキッとする。
「せ、先輩! ど、どいてください! お仕事の時間です!」
私は半ば彼を押し出すようにして、隠れ場所の定位置に戻る。心臓はまだバクバクと暴れているし、顔はきっと茹でダコみたいに真っ赤なはずだ。でも、今はそれどころじゃない。脅かし役として、仕事はきっちりこなさなくては。
先輩は渋々といった顔で、くぼみの影になる場所に体を縮こめて座り込んだ。
息を殺して待っていると、やがて角から男女のカップルが現れた。よし、今だ!
「うらめしやーーーーー!!!!!」
私は、さっきまでのパニックが嘘のように、再び渾身の演技で客の前に飛び出したのだった。
「………はぁ」
なんとかそのカップルを悲鳴と共に送り出し、私は隠れ場所の壁にずるずると寄りかかった。疲れた…。精神的にも、物理的にも…。
隣を見ると、及川先輩が、しゃがみこんだまま、腕を組んで面白そうに私を見ていた。さっきの甘い雰囲気はどこへやら、いつもの意地悪そうな笑みが浮かんでいる。
「……」
「……」
気まずい。ものすごく気まずい。さっきの、あの、キス寸前の空気は一体何だったんだろう。
「…ぷっ。あはは!」
先に沈黙を破ったのは、やっぱり及川先輩だった。
「いやー、今の脅かしっぷりもなかなかだったね。プロじゃん」
「か、からかわないでください…!」
私は、俯いて消え入りそうな声で言った。もう、恥ずかしくて彼の顔が見れない。
「ま、邪魔者も入ったことだし? 俺はそろそろ帰るね」
「は、はい……」
帰る、という言葉に、私はホッとしたような、でも同時に、ほんの少しだけ、名残惜しいような、複雑な気持ちになった。心臓は、まだ落ち着いてくれない。ドキドキと早鐘を打っている。そんな私の内心など、この先輩はお見通しなんだろう。
「……顔、真っ赤だよ」
「!?」
「ま、俺みたいなイケメンとこんな狭いとこにいたら、仕方ないか」
彼は楽しそうに笑って、私の頭を軽くポンポンと叩いた。
「あとで休憩時間、あるでしょ? ちょっとくらいなら付き合ってあげるからさ。一緒に回らない?」
「へ…?」
予想外の誘いに、私は顔を上げる。彼の瞳は、やっぱり悪戯っぽく細められているけれど、冗談を言っているようには見えない。
「あっ、わかりました! 行きます!」
断る理由なんて、あるはずがなかった。大好きな及川先輩と、文化祭を回れるなんて。私は、考えるよりも先に、勢いよく返事をしていた。
「ん。よろしい」
彼は満足そうに頷くと、クスッと笑った。
「じゃあ、休憩時間になったら連絡してね。 お化け役、頑張って」
そう言って、彼は隠れ場所からひらりと身を乗り出した。
「あ、はい! ありがとうございます!」
私も慌ててお礼を言う。彼がそのまま去っていくのかと思った、その時。及川先輩はくるりと振り返ると、一歩、私に近づいた。そして、私の両肩に、そっと手を置いた。
「え…?」
次の瞬間、チュッ、と柔らかい感触が、私のおでこに。
………………………………へ?
え? いま、何が…?
私が完全にフリーズしている間に、彼は「じゃあね」と、今度こそ本当に、悪戯っぽい笑顔を残して、暗闇の中に消えていった。
……………………………。
……………………………。
(………………キス、された…………? おでこに…………?????)
理解が追いつかない。思考が停止する。
私は、おでこに触れた柔らかな感触と、彼の残した甘い香りを反芻しながら、その場に立ち尽くしていた。心臓の音が、さっきよりもっともっと、うるさい。
「きゃああああああああ!!!!!」
「な、なんだ!? 幽霊が死んでるぞ!!!!」
どうやら、次のカップルのお客さんが来たらしい。私の放心状態を見て、本物の幽霊の死体だと勘違いしたようだ。その絶叫が、お化け屋敷の中に響き渡る。幽霊は既に死体では、というツッコミは心の中に留めておく。
そして、その声は、きっと廊下の向こうで足を止めた及川先輩の耳にも届いたのだろう。
「…ぶっ、…あっははは!!」
遠くから、彼の盛大な吹き出し笑いが聞こえた気がした。