膨れ上がる想いを隠して
ようやく訪れた休憩時間。私は、クラスメイトに「あとは任せた!」と叫び、急いでトイレに駆け込んだ。
鏡に映る自分の顔は、お化けメイクこそ落としたものの、若干やつれている気がする。さっきの密着ドキドキ&おでこキス事件のせいだ。思い出すだけで顔が熱くなる。
深呼吸を一つして、私はスマホを取り出し、及川先輩にメッセージを送る。
『休憩に入りました。どちらにいらっしゃいますか?』
うん、完璧な業務連絡。すぐに既読がつき、『体育館の入り口あたり』と返信が来た。
体育館か。正直、少しだけ気が重い。さっきのご友人たち——岩泉先輩たちがまだいたら、どうしよう。でも、約束は約束だ。私は意を決して、文化祭の喧騒の中を体育館へと向かった。
体育館の中からは、ズンズンと重低音と、アップテンポなバンド演奏の音が漏れ聞こえてくる。どうやら軽音部のライブ中らしい。
入り口付近には、音漏れを聞きに来た生徒や、休憩している生徒たちで少しだけ人だかりができていた。その人だかりの端に、やっぱりいた。一際目立つ、長身のグループ。
「あ、お疲れー」
私に気づいた及川先輩が、ひらりと手を振る。その隣には、やっぱり岩泉先輩、松川先輩、花巻先輩の姿が。うぅ…気まずい…。
「お、お疲れ様です…!」
私はぺこりと頭を下げる。三人にも、「お疲れ様です」と挨拶すると、松川先輩と花巻先輩は「おー」「お疲れー」と軽い感じで返してくれたけど、岩泉先輩だけは、ジッと、少しだけ探るような目で私と及川先輩を交互に見て、「…おう」と短く答えた。
及川先輩とは、誰にも話さないって約束したけど、もしかして岩泉先輩には私たちが偽物の恋人だということを感づかれてるのでは? という、確信にも似た疑問が出てくる。
クラスメイトの美人先輩への及川先輩が隠してる気持ち、知ってそうだもんなぁ、岩泉先輩は。
「及川の彼女ちゃん来たし、俺らも適当に楽しんでくるわ」
「お邪魔しましたー」
「…じゃあな、クソ川」
先輩たちは私に気を遣ってくれたのか、軽く挨拶をして体育館の中へと戻っていった。岩泉先輩の最後の視線が、やっぱり少しだけ気になったけれど。
「んじゃ、行こっか」
及川先輩は、何事もなかったかのように私に声をかけ、文化祭の喧騒の中へと歩き出した。
私たちは、特に目的もなく、校内をぶらぶらと歩いた。手を繋ぐことを提案されたけど、それは全力で拒否をした。
こんな人混みで手を繋ぐなんて、見せびらかしてるみたいになる。それこそ及川先輩の過激ファンに刺されかねない。例えば、模擬店のスタッフに及川ファンがいて、包丁でぶすり、という可能性もなくはないだろう。私だって、命は惜しいのだ。
美術部の展示を覗いたり、書道部のパフォーマンスを遠くから眺めたり。廊下ですれ違う生徒たちの視線は感じるけれど、もう慣れた。いや、慣れたくないけど、気にしないフリはできるようになった。
「あ、たこ焼き! いい匂い!」
中庭に出ると、模擬店のいい匂いが漂ってきた。ソースと鰹節の香ばしい香り。思わず子供みたいにはしゃいでしまう。
「食べる?」
「はい!」
私たちは、ほかほかのたこ焼きを一パック買って、パイプ椅子と簡易な折りたたみテーブルで作られた近くのテラス席に腰を下ろした。
「はい、あーん」
「ひょえっ!?」
突然、及川先輩が爪楊枝で刺したたこ焼きを私の口元に持ってくる。
な、なんですかその少女漫画みたいな展開は!
「いえ! 自分で食べれます!」
「えー、つまんないの」
私が慌てて自分の爪楊枝でたこ焼きを刺すと、彼はつまらなそうに自分の口に放り込んだ。心臓に悪い…。
(でも…なんか、こうしてると、本当にカップルみたいだな…)
一つのたこ焼きを二人で分け合って食べる。周りの喧騒。隣にいる彼の存在。さっきまでの疲れも忘れて、私の心はふわりと浮かれそうになる。
(ダメだ、流されちゃダメ! これは、いつもの先輩の意地悪だ。私が面白いから、そうやってからかってるだけ。そうだ、これは『ごっこ』。本気にした方が負けなんだから…! そもそも及川先輩はあの先輩のことが…)
必死で自分に言い聞かせ、浮かれそうになる気持ちを抑え込む。嬉しい。でも、これは嘘。切ない。苦しい。私の表情は、きっと数秒のうちに、天国と地獄を行ったり来たりしていたんだろう。目の前で、及川先輩が、突然ぷっ、と吹き出した。
「え?」
「あはは! 何その顔! すごいことになってるけど!」
先輩は、私が何か言う間もなく、ついには声を出して笑い始めた。人の顔見て笑うなんでひどい! と思いつつ、私の目は太陽みたいに輝く及川先輩に釘付けだ。
(すごい…ただの学校のテラス席なのに、及川先輩が笑ってるだけで、なんかオシャレだしキラキラして見える…。まるでパリのカフェみたいだ…。パリのカフェ、行ったことないけど…)
そのあまりにも素敵なご尊顔を前に、場違いな現実逃避を始めていた頃。
「はー、面白い」
ひとしきり笑った及川先輩は、テーブルに肘をつき頬杖をついた。ニヤリ、とその薄くて形のいい唇が楽しそうに吊り上がる。そういう仕草、いちいち様になるから、反則だと思う。
「本当、見てて飽きないよね、君」
…はい、出ました。そのセリフ。珍獣か何かを見るような目で言われているのは分かる。分かっているけど。それでも、「見ててくれてる」という事実が、今は少しだけ、嬉しい。
「…どうも、ありがとうございます」
私は、少しむっとしながらも、そう返すしかなかった。すると、彼は、さらに楽しそうに目を細めて、追い打ちをかけるように言ったのだ。
「本当、可愛いなぁ」
その声は、からかっているようでもあり、でも、ほんの少しだけ、本音が混じっているような気もして。私の心臓がまたうるさく鳴り始める。
「あ、あの、先輩…!」
私は、これ以上勘違いする前に、慌てて口を開いた。
「別に、そこまで恋人のフリしなくても、大丈夫ですよ? 毎日一緒に帰ったりしてますし、こうやって二人でいるだけでも、周りには十分それっぽく見えてると思いますし…! わざわざ、そんな、恋人みたいなセリフ言わなくても…」
私の遠慮がちな言葉に、彼はきょとんとした顔をした。そして、次の瞬間、心底不思議そうな顔で、こう言ったのだ。
「え? 別にフリとかじゃなくて、言いたいから言ってるだけだけど」
「……………………………………へ?」
時が、完全に止まった。いや、止まったのは私の思考回路だけかもしれない。周りの文化祭の喧騒──他の生徒たちの笑い声や、どこかのクラスの呼び込みの声、遠くで鳴っているらしい音楽。それらが全て、現実味のない、遠い世界の音のように聞こえる。
目の前には、頬杖をついて、完璧な笑顔を浮かべている及川先輩。今、この人、なんて言った…?
『フリじゃなくて』?
『言いたいから言ってる』?
(うそだうそだうそだ! 絶対嘘! からかってる! 私の反応を見て楽しんでるんだ! そうに決まってる! …でも、でももし、万が一、億が一、ほんの少しでも、本気、だとしたら…? いやいやいや! ないないない! 私が相手だよ!? あの及川先輩が!? 天地がひっくり返ってもありえない!)
頭の中で、天使と悪魔──というか、ファン心理と乙女心と現実主義が大論争を繰り広げている。顔が、燃えるように熱い。
心臓は、暴れ馬みたいに胸の中で跳ねている。完全にキャパオーバーだ。
「………あの」
かろうじて、蚊の鳴くような声が出た。
「…ど、どういう、意味、ですか…?」
声が、情けないくらい震えているのが自分でも分かった。私の必死の問いかけに、目の前の先輩は、楽しそうに目を細めただけだった。意地悪な、猫みたいな笑み。
「んー? だから、そのままの意味だってば」
全然答えになってない。
「そ、そのままって…! だって、私たちは、その、偽物の…!」
「偽物だけど?」
「偽物なのに、可愛いとか、言いたいから言うとか、そんな…!」
「なんで? 偽物だったら、可愛いって思っちゃいけないの?」
「うっ…!」
き、詭弁だ! でも、言い返せない…!
彼は、私の混乱ぶりを心底楽しんでいるように見える。頬杖をついたまま、キラキラした瞳で私を見つめてくる。その視線が、なんだかすごく、居心地が悪い。心臓が、変な音を立てている。
「ま、難しく考えなくていいんじゃない?」
彼は、ふわりと笑って、あっさりと言った。
「俺が、可愛い後輩でカノジョのこと、見てて飽きないなー、可愛いなーって思った。ただそれだけだよ」
結局、核心には触れずに、煙に巻かれただけな気がする。嬉しいような、がっかりしたような、でもやっぱりドキドキは止まらなくて、頭の中はぐちゃぐちゃだ。
この最高にかっこよくて最高に意地悪な先輩に、私なんかが口で勝てるわけなんて無かった。
「うっ……。あっ、たこ焼き、冷めちゃいますよ!」
私は、この変な空気を断ち切るように、少し大きな声で言った。まだ半分以上残っているたこ焼きを指差す。
「あ、ほんとだ」
及川先輩は、私の分かりやすい話題転換に、特にツッコむこともなく乗ってくれた。そして、新しい爪楊枝でたこ焼きを一つ刺すと、「ナマエちゃんも食べなよ」と私の口元に…は持ってこずに、自分の口に放り込んだ。…うん、知ってた。
私も慌ててたこ焼きを頬張る。美味しいはずのたこ焼きが、今はどんな味なのかよく分からない。ただ、さっきの彼の言葉と、表情と、声が、頭の中でぐるぐると回り続けていた。
『言いたいから言ってるだけ』
あの言葉の、本当の意味は、何だったんだろう。結局、真意は分からないまま。
でも、私の心臓は、文化祭の喧騒の中で、まだしばらく、うるさく鳴り続けていそうだった。
△
文化祭の熱気が嘘のように、教室の中は少しだけ静かだった。
クラスメイトたちのほとんどは、外で行われているらしい最後のメインステージ発表を見に行ってしまった。残っているのは、私を含めて数人の、後片付け担当だけ。
片付けがほぼ落ち着いて、最後の片付け担当の子を見送って、私は教室にひとり残り、窓際の席に座り外を眺めていた。
夕暮れの名残りのオレンジ色が空に広がり、校庭に特設されたステージがライトアップされて、眩しく光っている。流行りのアップテンポな音楽が、ここまで微かに聞こえてくる。ステージの前にはたくさんの生徒たちが集まっていて、音楽に合わせて体を揺らしたり、手を振ったりしているのが見えた。楽しそうだ。
まるで、この窓ガラス一枚を隔てて、別世界みたいだった。あちら側がキラキラした「非日常」なら、こちらは祭りの後の、少しだけ寂しい「日常」への帰り道。
(…楽しかった、のかな。今日)
お化け屋敷は大変だったけど達成感はあったし、文化祭デートも…うん、色々あったけど、先輩の隣にいられた時間は、やっぱり特別だった。偽物だって分かっていても。
そんな感傷に浸っていた時、がらっと教室の後ろのドアが開く音がした。振り返ると、息を呑む。
そこに立っていたのは、及川先輩だった。
「…やっと見つけた」
彼は、少しだけ息を切らせているように見えた。
「メッセージ、未読スルー禁止って言ったでしょ」
呆れたような、でも少しだけ優しい声色。
私は慌ててスマホを確認する。お昼のたこ焼きを一緒に食べた時のドキドキを振り切るように担当の役割に集中していたから全くスマホを見ていなかった。
トークアプリを開くと、確かにそこには及川先輩から「今どこにいるの?」「後夜祭行かないの?」「おい、シカトすんな」と、続けてメッセージが入っていた。
彼は、スタスタと教室に入ってくると、当たり前のように私の隣の席に腰を下ろした。そして、私と同じように、窓の外のステージに視線を向ける。薄暗くなり始めた教室の中、外からのステージの明かりが、彼の整った横顔を淡く照らし出していた。
「すごい盛り上がりようだね、下」
「…そうですね」
今日の先輩は、お化け屋敷に現れたときからずっと、なんだかいつもと違う感じがした。
今も、普段の彼ならもっと軽口を叩いてきそうなのに、どこか雰囲気が違う気がする。うまく言えないけれど。
「……で? 楽しかった? 文化祭」
彼が、窓の外の風景を見下ろしたまま、尋ねてきた。
「あ、はい! その、お化け屋敷は…一生分の悲鳴を浴びましたけど…」
私が正直に答えると、彼は一瞬きょとんとした後、やっぱり「ぶはっ!」と吹き出した。
「あはは! 一生分て! 大げさだなぁ、君は!」
及川先輩は、ひとしきり楽しそうに笑った後、「でも、まあ」と窓の外のステージから、ゆっくりと私に向き直った。夕暮れの淡い光が、彼の表情を柔らかく照らしている。
「今日一日、俺の『彼女役』、お疲れ様」
「え…?」
予想外の労いの言葉に、私は目をぱちくりさせる。彼の声は、いつものからかうような響きではなくて、驚くほど穏やかで、優しかった。
「…いつもと違う空気の中だったし、結構大変だったでしょ。周りの目とか、色々」
「あ…いえ、そんな……」
「それに」
彼は、ふっと目を細めて、少しだけ意地悪そうに、でもやっぱり優しい声色で続ける。
「君のお化け役、なかなかサマになってたよ。本気でビビった」
「からかわないでください!」
顔が熱くなる。まさか、そんな風に言われるなんて思ってもみなかった。
「からかってないって。俺のカノジョさんは、何にでも一生懸命だよなあって思っただけ」
そう言って、彼は、ふわりと、私の頭に大きな手のひらを乗せた。
「…………っ!」
突然のことに、私の体は完全にフリーズする。頭に乗せられた手のひらから、彼の体温がじんわりと伝わってくる。それは、放課後の別れ際にたまにしてもらう「じゃあね」の代わりのポンポン、よりは、もっと、労わるような、優しい感触。
「………先輩…?」
かろうじて絞り出した声は、やっぱり震えていた。彼は、答えずに、ただ、私の髪を軽く撫でた。その手つきは、驚くほど自然で、そして、どうしようもなく、優しい。
(なんで…)
なんで、そんな顔をするんですか。なんで、そんな声で、名前を呼ぶみたいに、優しく触れるんですか。
(──ダメだ)
分かってる。全部、分かってるはずなのに。
これは偽物で、彼は私を利用してるだけで、彼には他に好きな人がいて。頭では理解しているのに、心が言うことを聞かない。
彼の、ほんの少しの変化に。彼の、不意打ちの優しさに。
私の心は、いとも簡単に、揺さぶられてしまう。偽恋人なのに、気持ちがどんどん膨らむ。
私はただのファンで、恋愛感情よりも憧れの気持ちの方が強くて、先輩にとって都合が良くて、何かあっても大丈夫そうで。だからきっと、選ばれた。それだけのはずなのに。
きっとこの関係は、及川先輩はファン避けだって言ってたけど、本当は、彼があの綺麗な先輩への気持ちを隠すための、ただのカモフラージュなんだ。彼はそういう人だ。
誰よりもプライドが高く、自信家で、意地っ張りで、だけど誰よりも繊細で、ギリギリの場所にいつもいる。遠くからでも、ずっと見てきたから、そのくらい、分かる。
けど、それでも。
この、期間限定の、嘘でできた関係に、私は甘えてしまう。彼の隣にいられる奇跡に、期待してしまう。
だって、彼から与えられる言葉が、私を見つめる瞳が、今、私の髪に触れている温かい手のひらが、あまりにも本当の恋人みたいで、誤解してしまうのだ。
この心地よくて、でも息が詰まるほど苦しい沼から、私はもう、抜け出せないのかもしれない。
窓の外からは、まだ文化祭の終わりの喧騒と、楽しそうな音楽が聞こえていた。それは、今の私の心とは裏腹に、どこまでも明るくて、遠い世界の出来事のように感じられた。