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 午後の柔らかな陽光が、大きな窓から静かに差し込む。アンティーク調の家具で統一された店内は、コーヒーの芳醇な香りと、控えめなジャズの音色に満たされている。壁一面の本棚には様々なジャンルの本が並び、訪れる人は皆、思い思いの静かな時間を過ごしていた。カウンターの中でカップを磨く。私はそんな穏やかなカフェの空気が好きだった。
 カラン、とドアベルが鳴る。反射的に顔を上げると、見慣れた背の高い男性が立っていた。彼──私が内心「窓際の人」と呼んでいる常連客──は、いつも通り軽く会釈だけすると、窓際の、少し奥まった定位置へと向かう。

 彼は週に何度かやってくる。おそらく仕事の合間か、次の打ち合わせまでの時間調整なのだろう。
 席に着くとすぐに、鞄からタブレット端末や書類、そして年季の入った黒い革の手帳を取り出し、眉間にわずかに皺を寄せながら仕事モードに入る。彼が頼むのはいつもブラックコーヒー。そして、作業に集中している間は、ほとんど表情を変えることがない。

 淡々としていて、ミステリアス。でも、不思議と冷たい印象はなかった。
 私がコーヒーを運んだ時や、会計の時、そして店を出ていく時には、いつも真っ直ぐに目を見て、静かに、けれどはっきりとした声で「ありがとうございます」と言ってくれる。
 笑顔こそないけれど、その丁寧な言葉と仕草に、私はいつも密かな好感を抱いていた。落ち着いた雰囲気で素敵だな、とは思うけれど、あくまでも「感じの良い常連さん」。それ以上の感情は、なかったはずだった。


 その日も、彼はいつものようにタブレットと向き合い、時折手帳に何かを書き込んでは、また考え込むような仕草を繰り返していた。

 どれくらい時間が経っただろう。
 ふと彼が時計を確認し、急に立ち上がった。少し慌てたように荷物をまとめ、レジで「ごちそうさまです」とだけ告げて、足早に出ていく。何か急ぎの用事でも入ったのかもしれない。

(忘れ物、大丈夫だったかな……)

 なんとなく気になりながら、彼が座っていた席を片付けようとテーブルへ向かうと、椅子の上に厚めの茶封筒が一つ、ぽつんと置かれているのが目に入った。
 表には宛名ラベルが貼られ、明らかに個人的なものではなく、仕事の大切な書類だとわかる。

「あっ……!」

 思わず小さな声が出た。さっきの彼のだ。慌てて店のドアを開けて外を見るが、彼の姿はもう見当たらない。どうしよう、きっとすごく大事な書類なのに。

「おや、忘れ物かい?」

 カウンターの奥から、店長の穏やかな声がした。恰幅のいい、穏やかなおじさまだ。

「さっきのお客様だね。時々、外で電話してるの聞くけど、アカアシって名乗ってるよ。たぶん封筒に書いてある会社の人だろうね」

 店長に言われて封筒のラベルを見ると、有名出版社の文字と、部署名、そして『担当:赤葦 京治』という名前が印字されていた。

(あかあし……きょう、じ?)

「この会社って…あの?」
「そう、大手さんのね。編集者さんなんだろうねぇ、いつも忙しそうだ」

 大手出版社。やっぱり、私とは住む世界が違う人なんだな、と少しだけ思う。
 でも、今は感心している場合じゃない。店長に促されるまま、封筒に書かれていた代表番号に電話をかける。緊張しながら事情を説明すると、電話口の女性は丁寧に対応してくれたが、「赤葦はあいにく、ただ今別の打ち合わせで社外に出ておりまして…」とのことだった。戻り時間も未定だという。

 手の中の茶封筒がずしりと重い。いつも眉間に皺を寄せて仕事に向き合っていた彼の真剣な横顔が目に浮かぶ。きっと、これがないとすごく困ってしまうだろう。そう思うと、居ても立ってもいられなくなった。
 壁の時計を見ると、もうすぐ勤務終了時間だ。ふと、この出版社のビルが、私の帰り道の乗り換え駅の近くだったことを思い出す。

「あの、もしよろしければ、私がもうすぐ仕事が終わるので、直接お届けに伺いましょうか…?」

 電話口の女性は少し驚いたようだったが、「大変助かります!」と言ってくれた。

 こうして私は、退勤後、少しだけ緊張しながら、初めて訪れる大手出版社のビルへと向かうことになった。場違いな気がして、ビルのエントランスで少しだけ躊躇する。
 受付で事情を話すと、来客スペースに通され、「赤葦がすぐ参りますので」とソファに案内された。ガラス張りのモダンな空間に、さらに緊張感が高まる。

 数分後、「すみません!」という声と共に、ガラスのドアの向こうから、見慣れた窓際の席の人──赤葦さんが、本当にバタバタと慌てた様子で走ってきた。息を切らし、少しだけ髪が乱れている。

「あのっ、カフェの方ですよね! 本当にすみません、助かりました…!」

 差し出した封筒を受け取りながら、彼は心底ほっとしたような、安堵の表情を浮かべた。いつもカフェで見る、あの涼やかな真顔以外の顔とは違う。少しだけ幼く見えるような、人間味のあるその表情。
 その瞬間、私の世界から、周りの音が消えた。代わりに聞こえたのは、どくん、と大きく鳴った自分の心臓の音だけ。今まで静かな湖のようだった心に、彼という一石が投じられ、大きな波紋が広がっていくようだった。

「いえ、お役に立ててよかったです。大切な書類かと思って」
「ええ、本当に…。何とお礼を言ったらいいか」

 彼は改めて姿勢を正すと、スーツの内ポケットから名刺入れを取り出し、一枚差し出した。

「申し遅れました、赤葦京治と申します。この度は、本当にありがとうございました」

 アカアシ、ケイジさん。
 差し出された名刺には、彼の名前と部署名が印刷されている。私も慌てて自分の名前を名乗った。

「あの、駅までお送りします。わざわざ来ていただいたので…」
「えっ!? いえいえ! とんでもないです! まだ明るいし大丈夫ですよ! お仕事もお忙しいでしょうし…」

 丁重に断ったけれど、「いえ、ぜひ」と彼に少しだけ強く押され、結局、駅までの短い道のりを一緒に歩くことになった。

 外に出ると、空は綺麗な夕焼けに染まり始めていた。並んで歩きながら、ぎこちないけれど、少しだけ雑談をする。
 彼が学生時代、ずっとバレーボールをしていたこと。私が今のカフェで働き始めて、約1年になること。言葉数が多い方ではない私たちだけれど、不思議と会話が途切れても気まずさはなく、むしろ無言の時間さえ心地よく感じられた。

 夕日に照らされた彼の横顔は、カフェで見るよりも少しだけ柔らかく見える。すらりとした身長、すっきりとした涼しげな目元。年齢を聞くと私より4歳下だったが、それよりもずっと大人びて見える、落ち着いた声や雰囲気。駅前の人がごった返す雑踏の中で、彼がさりげなく私を歩道側に誘導してくれた時、その控えめだけれど確かな優しさに、また、どきりとした。

 駅の改札で改めてお礼を言い合って別れる。彼の「本当に、ありがとうございました」という声が、まだ耳に残っている。人混みに消えていく彼の背中を見送った後も、私はしばらくその場を動けなかった。

 手のひらには、先ほど交換したばかりの、彼の名前が刻まれた名刺。まだ少し温かい気がするのは、きっと気のせいじゃない。
 彼の安堵した表情や、夕焼けに染まる横顔、そして不意に見せられた確かな優しさ。一つひとつを思い出すたびに、胸の奥にぽっと小さな灯りがともるように、じんわりと温かくなる。この気持ちが何なのか、今の私にはまだわからない。

(ただの、感じの良い常連さん、だったはずなのに……)

 明日から、あのカフェのドアベルが鳴るたびに、私はきっと今までとは少し違う気持ちで、彼の姿を探してしまうのだろう。そんな予感を胸に、私もゆっくりと雑踏の中へと歩き出した。

メランコリー