02


 あの日、窓際の彼──赤葦さんの手帳を届けてから、数日が過ぎた。いつも通りの穏やかな時間が流れるカフェ。午後の少し落ち着いた時間帯に、カラン、とドアベルが鳴り、待ちわびていたはずの、けれど今は一番会うのが気まずい人が姿を現した。

(あ……赤葦さん)

 どくん、と心臓が大きく跳ねるのを感じ、咄嗟にカウンターの下に隠れたくなる。そんな子供じみた衝動をなんとか抑え込み、震えそうな声を平静に装って「いらっしゃいませ」と声をかける。彼は私の緊張など露知らず、いつものように軽く会釈を返すと、窓際の定位置へと向かう。すぐに鞄から仕事道具を取り出す、見慣れたはずのその一連の動作が、今はやけにスローモーションで見えた。
 私も普段通りに、注文されたブラックコーヒーを彼の元へ運んだ。

「……どうぞ」

 そっとカップをテーブルに置くと、彼が顔を上げた。

「あ、どうも。……それと、この前は本当にありがとうございました。助かりました」

 真っ直ぐに私を見て、改めて丁寧にお礼を言われる。予想はしていたけれど、改めて向けられる真摯な感謝の言葉に、やはり少しだけ胸がドキッとした。

「いえいえ、とんでもないです。無事にお届けできてよかったです」

 きっと、ひどくぎこちない笑顔だったに違いない。そそくさとカウンターに戻り、息を吐く。
 カウンターの中から彼の様子を窺う。タブレットの画面を真剣な眼差しで追い、時折何かを打ち込んでいる。以前よりも彼の背景──大手出版社の編集者であること──を知った今、その姿を見ると、ただ「集中しているな」と思うだけでなく、「忙しいんだな」「大変な仕事なんだろうな」と具体的な想像が膨らむ。
 出版社というと、昼も夜もなく忙しいイメージがあるけれど、そういえば学生時代はバレーボールをしていたと言っていた。あのすらりとした体躯も、ハードな仕事に耐えられる体力も、その頃に培われたものなのだろうか。そんなことを、ぼんやりと考えていた。

 しばらくして、彼が伝票を持ってレジに立った。いつものように淡々とした表情でお金を差し出す。私もいつものように対応しようとした、その時だった。

「あの」

 不意に、彼の方から声がかかる。少しだけ改まったような、それでいて迷うような響き。

「……?」

 顔を上げると、彼は少しだけ視線を彷徨わせながらも、意を決したように口を開いた。

「先日の、お礼と言ってはなんですが……もしよろしければ、近いうちに何かご馳走させていただけませんか」
「えっ?」

 予想外すぎる申し出に、思考が真っ白になる。
 お礼? 食事? 私が? 彼と?

「い、いえ! そんな! お客さまの大切な忘れ物をお届けしただけですし、気になさらないでください!」

 ぶんぶんと音が聞こえそうな勢いで手を横に振る。店員として当然のことをしただけだ。それに、彼と二人で食事なんて、そんなことになったら心臓がもたない。

「でも、本当に助かったんです。あの日、あの書類がないと、かなりまずいことになっていたので」

 彼は意外にも引き下がらず、真剣な表情で言葉を重ねる。その瞳は「これは社交辞令ではない」と雄弁に物語っていた。どうしよう、と焦りが背筋を駆け上った時、不意に横から穏やかな声が割って入った。

「いいじゃない。せっかくそう言ってくださってるんだから、ご馳走になっておいでよ」

 いつの間にか隣に来ていた店長が、にこにこと人の良さそうな笑顔で言う。

「いや、でも店長……」
「遠慮することないって。赤葦さんでしたっけ? よろしく頼みますよ」

 店長は私に有無を言わさず、赤葦さんに向かって父親のようににっこり笑いかける。

「あ……はい。よろしくお願いします」

 店長に名前で呼ばれたことに、赤葦さんは一瞬だけ驚いたように目を丸くしたが、すぐに頷いた。もう、断れる状況ではなくなってしまった。

「それで、いつ頃が都合いいかな?」

 店長は満足そうに微笑むと、私に向き合って尋ねてくる。

「あ、えっと……私は特にいつでも大丈夫なので、赤葦さんのご都合の良い時で……」

 しどろもどろになりながら答えると、彼は少しだけ考える素振りを見せた後、きっぱりと言った。

「そうですか。……では、急で申し訳ないんですが、今日の夜はいかがですか? あと一件だけ打ち合わせを済ませれば、終わりなので。終わったら、またここに迎えに来ます」
「えっ、今日!?」

 あまりに急な展開に、素っ頓狂な声を上げてしまった。
 今日? あと数時間後には、彼と二人で食事に……?
 頭が混乱する。でも、彼の真っ直ぐな視線と、「ぜひ」という無言の圧力に、私は抗えなかった。

「……は、はい。わかりました……」
「よかった。では、後ほど」

 その言葉と共に、彼の口元がほんのわずかに緩んだように見えた。それは笑顔と呼ぶにはあまりにささやかだったけれど、私の胸を温めるには十分すぎるほどの威力があった。
 そして、「ごちそうさまでした」と改めて告げて、彼はカフェを出ていった。

 カラン、とドアベルが鳴り、彼の姿が見えなくなる。私はまだ呆然としたまま、ドアを見つめていた。

「よかったじゃない、ミョウジさん」

 隣で、店長がやっぱりニコニコしている。

「店長!」
「だって、赤葦さん、君のこと気になってるみたいだったからさぁ。きっかけ作ってあげないと」
「そ、そんなこと……お礼ってだけですって!」
「えー! 先輩、あのイケメン常連さんとご飯行くんですか!? やったじゃないですかー!」

 休憩から戻ってきた大学生のアルバイトの女の子が、目をキラキラさせながら話に加わってくる。こういう恋愛話が大好きな女の子だから、勝手に話が飛躍しそうで慌てて否定する。

「ちょっと! だから、そういうのじゃなくて、お礼だって……!」

 必死に否定するけれど、自分の顔にじわじわと熱が集まっていくのがわかる。心臓も、さっきからずっと落ち着きなく早鐘を打っている。

(……どうしよう、今日、夜……)

 否定しながらも、頭の中では勝手に「髪、ちゃんとしていかなきゃ」「というか、まず化粧直ししなきゃ!」なんてことを考えてしまっている自分に気づいて、さらに顔が熱くなるのだった。

メランコリー