05

 赤葦さんとの会話は、驚くほど弾んだ。美味しい和食と、梅酒を飲み終わったあとに彼が選んでくれたすっきりと飲みやすい日本酒も手伝って、気づけば私の心にあった壁はすっかり溶けてなくなっていた。
 楽しい時間はあっという間に過ぎるもので、ふと赤葦さんが腕時計に目を落としたのを見て、私も現実へと引き戻される。時刻はもう、九時を回っていた。

「わっ、もうこんな時間…! 赤葦さん、明日もお仕事ですよね? 遅くまで引き止めちゃってすみません!」

 私はシフト制だから明日は休みだけれど、彼はきっと違うはずだ。編集者という仕事は忙しいと聞く。慌ててお開きを促した。

「時間、あっという間でしたね。私、楽しくてつい喋りすぎちゃって……ごめんなさい」

 お酒が入っていたとはいえ、普段の自分からは考えられないほど饒舌になっていた気がする。急に恥ずしくなって、照れ隠しのようにに苦笑いを浮かべた。

「いえ」

 返ってきたのは、いつもの落ち着いた、少し低めの声。たった一言。そのあまりに淡々とした響きに、私の心はひやりと冷える。

(やっぱり……喋りすぎて、嫌がられちゃったかな…)

 せっかくの楽しい時間が、最後の最後で台無しになってしまった。後悔と不安が、さざ波のように胸に広がる。
 そんな私の内心を知ってか知らずか、彼は「そろそろ出ましょうか」と、女将さんを呼んで会計を済ませてくれた。彼がさっとカードで支払いを済ませるのを見つめる。値段は見えなかったけれど、きっと安くはないだろう。

 そうだ、これは忘れ物を届けたお礼なのだ。
 今日一日で、赤葦さんとの距離がぐっと縮まった気がしていたけれど、その行動は私たちの間にある「きっかけ」を思い出させ、同時に「これで終わり」なのだと告げているようにも感じられた。

 だけど、彼と話す時間は本当に楽しかった。少しだけ寂しい気持ちと、温かい満足感が入り混じった、ふわふわとした頭で考える。

 帰り支度をして立ち上がると、ふと背後の大きな窓の外に目を引かれた。引き寄せられるように近づいたガラス戸の向こうには、ライトアップされた小さな日本庭園が広がっている。丁寧に手入れされた苔や石、静かに水を湛える小さな池。
 そして、夜空には冴え冴えとした月が浮かび、その光が池の水面にゆらゆらと映り込んでいる。都会の真ん中にあるとは思えないほど静かで、美しい佇まいだ。

 まるでここだけ時間が止まっているみたいで、外の喧騒や、私の胸の中の小さな感傷さえも、どこか遠くへ洗い流してくれるような気がした。

 綺麗──素直にそう思った。心がすうっと静かになっていくようだった。時間を忘れて、この美しい月と庭を眺めていたくなるくらいに。
 そんな思いが胸に込み上げてきて、ふと、学生時代に習った俳句の一節が頭に浮かんだ。

「……名月や、池をめぐりて…」

 ぽつり、と思わず声に出して呟いていた。下の句がすぐに出てこない。松尾芭蕉の、美しい月を見て詠んだ句だったはずだ。この景色を見つめている、今の気持ちにぴったりな気がした。
 ふと、隣に静かな気配を感じて視線を向ける。いつの間にか、赤葦さんも私と同じように、月光に照らされた庭を見つめていた。その横顔は、静かな水面のように穏やかで、吸い込まれそうになる。そして、彼は私の呟きを聞いていたのか、それとも彼も全く同じ句を思い出していたのか、静かに、でもはっきりと、その続きを口にした。

「……夜もすがら、ですね」

 彼の声は、先程までと変わらない静かなトーンだったけれど、どこか柔らかい響きが含まれているような気がした。

 どちらからともなく視線を交わす。言葉はない。
 けれど、今、同じ月を見て、同じ池を見て、同じ句を共に心に浮かべているのだという事実が、確かに存在していた。
 それは、ゆっくりと、そして確実に、何かが変わろうとしている予感を、私の胸に呼び起こした。






 お店の重厚な扉を開けて外に出ると、さっきまでの静謐な雰囲気が嘘だったかのように、夜の喧騒が一気に私たちを包み込んだ。
 少し離れた大通りからは車のクラクションや緊急車両のサイレンの音が聞こえ、近くの居酒屋やカラオケ店からは、陽気な大学生や酔ったサラリーマンたちの大きな話し声や笑い声が響いてくる。

(……現実に戻ってきちゃった)

 さっき、赤葦さんが俳句の続きを口にした瞬間の、あの不思議で特別な空気。それが、この賑やかさの中に溶けて消えてしまいそうで、なんだか無性に名残惜しい気持ちになった。

「駅まで送ります」

 隣を歩く赤葦さんが、静かに言った。

「いえ、そんな! もう十分ご馳走になってしまいましたし、ここからなら一人で大丈夫ですから」

 これ以上、彼に時間を使わせるのは申し訳ない。そう思って反射的に断ったけれど、彼は少しだけ困ったように眉を寄せた。

「ですが、この時間ですし、何かあったら心配なので」

 真っ直ぐな瞳でそう言われてしまうと、もう断る言葉が見つからない。それに、まだ離れたくないと思っている自分がいた。
 彼の隣を歩くこの時間が、少しでも長く続けばいいのに、と考えて、ボーッとしてしまっていた、その時だった。

「——危ないっ!」

 低く鋭い声と共に、ぐいっと強く腕を引かれた。何が起こったかわからず、彼の胸に軽くぶつかるような形になる。すぐ横を、かなりのスピードを出した自転車が、謝る素振りもなく走り去っていった。

「……っ、すみません、前を見てなくて…!」
「いえ…。怪我はありませんか?」

 赤葦さんは私の腕を掴んだまま、少しだけ険しい表情で自転車が走り去った方を見ていたが、すぐに私に向き直る。その声には、こちらの身を按じる優しさが滲んでいた。

「だ、大丈夫です! 助けていただいて…ありがとうございます」

 自転車にぶつかりそうになったことへの驚きと、それ以上に、赤葦さんに腕を強く引かれ、守られたことへの喜びと興奮で、心臓が早鐘を打っている。掴まれた腕が熱い。
 彼は私の腕を離したが、まだ私の顔をじっと見ている。なかなか歩き出さない私を不審に思ったのだろう。

「……本当に大丈夫ですか? もしかして、酔ってしまいましたか?」

 心配そうに、赤葦さんが少し屈むようにして私の顔を覗き込んできた。整った顔が、すぐ目の前にある。

(ち、近い……!)

 咄嗟に息を止めてしまう。きっと、さっき飲んだお酒のせいだけじゃなく、今のドキドキで顔が真っ赤になっているはずだ。
 赤葦さんに心配をかけたくない。早く返事しないと、と私は必死で平静を装いながら、彼の瞳を見つめ返した、その時。

 ──時が、止まったような気がした。

 彼の眼差しが、静かに私を捉えている。夜の喧騒も、周りの人々の声も、遠くに聞こえる。
 ただ、目の前にある彼の深い色の瞳だけが、私を離さない。彼も何か言いたげに、でも言葉を探すように、じっと私を見つめている。

 このまま、酔っ払ったふりをして、もう少し一緒にいてほしいと言ったら、赤葦さんは、なんと言うのだろう。

 そんなズルい考えが、一瞬、頭をよぎる。でも、すぐに打ち消した。ダメだ、私の方が年上なのに。そんな情けない姿は見せられない。それに、今日のこれは、あくまで「お礼」なのだから。

「……だ、大丈夫です! ちょっと驚いただけなので。すみません、行きましょう」

 私は無理やり笑顔を作って、彼に背を向けた。このままじゃ、本当に酔いに任せて何か言ってしまいそうだから。一歩踏み出し、早足に駅へ向かおうとした、その時。

「——あの」

 背後からかけられた声に、足が縫い付けられたように止まる。振り返ると、彼は何かを堪えるように一度唇を引き結び、それから、決意を固めた瞳で、私を真っ直ぐに見据えた。街灯の光に、彼が強く拳を握りしめているのが見える。

「……今日の食事、その…俺は、とても楽しかったです」
「えっ……」
「それで…もし、ご迷惑でなければ、また、こうしてお食事に誘っても……よろしいでしょうか?」

 予想していなかった言葉に、私の心臓がまた大きく跳ねる。

「え、でも…そんな何度もお礼をしていただくわけには…」
「お礼とは、別で。……単純に、俺が、ミョウジさんともっと話したいと思ったので」

 その真剣な眼差しに、彼の言葉が本心だと、なぜか確信できた。私が喋りすぎたかと不安になった時の彼の淡々とした返事は、もしかして、もっと話したいけれどどう伝えればいいか分からず、言葉に詰まってしまったからなのかもしれない。

 嬉しさと安堵で、胸がいっぱいになる。

「……はいっ、ぜひ…! 私も、とても楽しかったですから!」

 今度は、心からの笑顔で頷くことができた。

「…ありがとうございます」

 その言葉と共に、彼の表情が、ほんのわずかに変化した。いつも冷静さを湛えている涼やかな目元が、ふ、と優しく細められる。そして、すっと一文字に結ばれていた唇の片端が、ゆっくりと持ち上がった。

 ——あ、また笑った。

 ほとんど表情を変えない彼がくれる、たった一つの笑顔の破壊力。胸が高鳴る、なんて生易しいものじゃない。心臓を直接、優しい手でぎゅっと掴まれたみたいに、甘い痺れが全身に広がっていく。

「……連絡先を、お聞きしても良いですか?」

 赤葦さんはそう言って、スマホを取り出した。私も慌てて自分のスマホを取り出し、連絡先を交換する。指先が微かに震えていることに、彼は気づいただろうか。

 ──【赤葦京治】

 彼の名前が登録された画面を見つめながら、今日一日で、その距離が信じられないくらい縮まったことを実感する。ただの常連さんだった赤葦さんと、これから個人的に連絡を取り合って、また会えるかもしれない。現実味がなくて、夢みたいだと思った。

 胸いっぱいの幸福感を抱えながら、私たちは再び駅へと向かって歩き出した。さっきまでの喧騒は変わらないけれど、私の心には、静かで温かい光が灯っているような気がした。

メランコリー