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 赤葦さんに案内されて訪れたのは、静かで趣のある和食のお店だった。着物を着たお淑やかな女将さんに案内されて着いて行くと、奥の個室へ通された。

 柔らかな間接照明に照らされた、部屋の中。低く構える座卓の上には、椿が一輪、切子の花瓶に差されていた。座卓を囲むように絹素材だろう光沢のある淡い若草色の座布団か敷かれている落ち着いた空間。
 その設えを見ただけで、明らかに高級なお店だと分かってしまい、私は内心悲鳴を上げていた。

(忘れ物を届けただけなのに、こんな素敵なお店に連れてきてもらっていいのかな……)

「こちらへどうぞ」
「……はい…」

 女将さんに促されるままに席に着くと、向かいに座った赤葦さんが、慣れた手つきでメニューを広げ、私に尋ねてくる。

「お料理は、旬のコースで頼んでもよろしいでしょうか?」
「は、はい」

 返事をしながら、そっと手元のメニューへ目を滑らせる。すると、飲み物のページに記載された価格に、思わず息を呑んだ。オレンジジュースに九百円。普段、カフェで提供しているジュースの倍以上の値段だ。
 私は平静を装いながら、メニューをそっと閉じた。赤葦さんから「アレルギーはありませんか?」と声をかけられ、私は笑顔で「はい、大丈夫です」と答えたが、心の中ではすでにパニック状態だった。

(このお店、コース料理は一体いくらするんだろう……)

 冷や汗をかきそうな私とは対照的に、彼は落ち着いた様子で注文を進めてくれる。

「飲み物は何にされますか? ここは梅酒や日本酒が特に美味しいですが…」
「あ、えっと……じゃあ、梅酒をお願いします」

 あまり強いお酒は得意ではないので、無難な選択をする。この時点で、グラス一杯のお酒が自分の普段の夕食代を超えてしまうのではないかという恐怖に震えていた。

「じゃあ、俺は…そうだな……料理に合うおすすめの純米吟醸を一合お願いします」

 女将さんに注文を伝えるその淀みなさに、やっぱり彼はこういうお店にも慣れているんだな、と感じた。女将さんが丁寧に頭を下げて個室を出ていくと同時に、赤葦さんが口を開いた。

「このお店、お酒も美味しいんですが、お刺身が特に絶品なんです」

 にこりともせずに言うけれど、その声には微かな自信が滲んでいる気がした。やっぱり、私とは住む世界が違う人なのかもしれないという思いが、胸の奥を軋ませる。
 さっき駅までの道で少し距離が縮まった気がしたけれど、彼の振る舞いを目の当たりにすると、また少しだけ壁を感じてしまう。「そうなんですね、楽しみです」と返しながらも、赤葦さんの言葉にそれ以上の広がりを持たせられない自分の語彙力のなさに、落ち込んでしまいそうだった。

 今日のカフェのお客さんの様子や、彼の担当作家さんの話など、当たり障りのない会話をしていると、じばらくして、綺麗な切子のグラスに入った梅酒と、陶器の艶やかさが美しい徳利とお猪口が運ばれてきた。

「改めて、先日は本当にありがとうございました」

 赤葦さんがお猪口をそっと持ち上げ、私に向かって軽く傾ける。何度目だろうか、この丁寧なお礼。私も慌ててグラスをそっと持ち上げる。

「い、いえ。こちらこそ、ご馳走になります」

 赤葦さんのお猪口と軽く触れ合わせ、口元へと運んだ。その瞬間、ふわっと立ち上った香りに、思わず息を呑む。
 私が今まで知っていた梅酒の、ただ甘いだけの香りじゃない。完熟した梅の芳醇な果実香に、華やかさが幾重にも重なっているようだ。こんなに豊かな香りの梅酒は、初めてだった。

「──……」

 恐る恐る一口含むと、とろりとした液体が舌の上を滑る。
 濃厚なのに爽やかで、上品な甘さがある。今まで飲んだことのあるどんな梅酒とも違う、深く、澄んだ味わいが口いっぱいに広がった。喉を通った後も、心地よい香りの余韻がふわりと鼻に抜けていく。

「……美味しいです、この梅酒」

 素直な感想を口にすると、赤葦さんは少しだけ目元を和らげ、「良かったです」とホッとしたように言った。
 季節を映した先付けの繊細な彩りや、お椀の蓋を開けた瞬間に立ち上る優しい出汁の香り。そして、赤葦さんが絶品だと言っていたお造りは、艶やかな赤身や光に透けるような白身が美しく盛り付けられていた。
 職人の技が施された一品一品が、緊張でこわばっていた私の心を、魔法のように優しく解きほぐしていく。

「……美味しい」

 ぽつりと感想を漏らすと、向かいの赤葦さんが、少しだけ誇らしげに目を細めた。
 その柔らかな表情に、私の心もさらに和らぐ。気づけば、さっきまでの不安が嘘のように、自然と笑顔で彼と向き合っていた。

「赤葦さんは、学生時代バレーボールをされていたんですよね?」

 少し勇気を出して尋ねてみると、彼は「ええ、まあ」と短く頷いた。

「どちらの学校だったんですか?」
「梟谷です」
「ふくろうだに……って、ええっ!? あの梟谷ですか!?」

 その単語を聞いた瞬間、自分でも信じられないくらい上擦った声が口から飛び出していた。はっと我に返り、慌てて口元を押さえる。バレーボールに詳しくない私でも、その名前は聞いたことがある。全国レベルの強豪校のはずだ。

「すごい! もしかして、レギュラーだったり…?」
「……一応、レギュラーでセッターを」
「レギュラーでセッター! すごいですね!」

 私は思わず身を乗り出してしまい、彼は少しだけ困ったように苦笑した。そこから、彼の高校時代の話になった。全国大会のこと、他校との合宿のこと、個性的なチームメイトのこと──特に、絶対的エースだったいう先輩の話を、彼は懐かしそうな口調で語ってくれた。
 その声からは、今でもその人を慕っているのがありありと伝わってきた。

 「すごい人なんですけど、少し気まぐれなところがあって」と、僅かに困ったように眉を下げながらも、普段の彼からは想像もつかないほど、生き生きとした表情で語るその姿に、私は相槌を打つのも忘れて聞き入ってしまう。きっと、彼にとってかけがえのない青春そのものだったのだろう。そして、そんなふうに誰かのことを熱っぽく語る彼の顔を、私はとても素敵だと思った。





 カフェでいつも見ている彼女は、物静かで、穏やかで、少しミステリアスな印象さえあった。年上らしい落ち着きと、丁寧な接客。それが彼女の全てだと思っていた。

 けれど、今、目の前で話している彼女は、お酒の効果もあるのだろうか、驚くほど表情が豊かだった。俺の拙いバレーの話に、目をキラキラさせて驚いたり、感心したり。特に、木兎さんの突拍子もないエピソードを話すと、声を立ててきゃっきゃと楽しそうに笑うのだ。その屈託のない笑顔は、カフェで見せる穏やかな微笑みとはまた違った魅力があって、見ているこちらの心まで軽くなるようだった。

(……かわいいな)

 そう感じていることに、自分でも少し驚く。彼女の笑顔につられて、俺の口元にも、いつの間にか微かな笑みが浮かんでいたらしい。

「あ、わらった」

 不意に、彼女が小さな子供のようにそう呟いた。

「え?」

 思わず聞き返す。彼女は「あっ」と口元を押さえ、少し顔を赤らめた。咄嗟に漏れた声だったようだ。

「い、いえ……あの、赤葦さん、そんな風に笑うんですね。初めて見ました」

 少し照れたように、でも嬉しそうに言う彼女の言葉に、今度は俺の方がドキッとする番だった。そんなふうに、自分の表情を見られていたのか。そして、彼女に笑った顔を見られてドキッとしている自分自身にも、内心で戸惑いを覚える。

「……お酒、お好きなんですか?」

 少しだけ気まずくなった空気を変えようと、彼女の梅酒のグラスが空きかけているのに気づいて尋ねてみた。

「あ、いえ、たしなむ程度です…。実は…元々はあまり好きじゃないんですよね」

 彼女は少しだけ遠い目をして言った。

「前の職場が、結構飲み会が多くて……。断り切れずに付き合っているうちに、ちょっとお酒に対して苦手意識ができちゃって」
「前の職場……」

 詳しいことは聞かなかったが、その言い方から、今のカフェとは違う、もっと体育会系というか、コミュニケーションが密な職場だったのだろうと想像する。
 出版社も、作家さんとの付き合いや部署の飲み会、接待など、酒席が多い。俺自身も会話を盛り上げたりするのが得意な方ではないので、彼女の気持ちが少し分かる気がした。

「……そうですか。今日は、無理なさらないでくださいね」

 気遣うように言うと、彼女は慌てて首を横に振った。

「いえ! 今日は全然違います! 美味しいお酒に、美味しいお料理、それに赤葦さんとのお話が楽しくて、なんだかテンション上がっちゃってるだけなので!」

 そう言って、へへ、と悪戯っぽく笑う顔は、やっぱり四つも年上には見えなくて。

 ──その時、はっきりと自覚した。俺はこの人のことが、気になっている。ただの感じの良い店員さん、ではない。もっと知りたい、もっと近くにいたい、と。

 初めて感じるこの強い感情に、少しだけ戸惑いながらも、俺は目の前の彼女から目が離せなくなっていた。

メランコリー