遠くから響く音


最初はただのうるさい女だと思っていた。


いつ出現するか分からないハノイの騎士とのデュエルに備えるため、授業中や休み時間は寝て過ごしている俺に対して名字名前はいつもことある事に話しかけてきた。


「おはよう藤木くん」

「次の授業、移動教室だよ?」

「今日朝ごはん抜いちゃってお腹ペコペコなんだよね〜」

「藤木くんって犬派?猫派?私はね〜」

「新作のフラペチーノ美味しそうだよね!藤木くんって甘いものとか好き?」



毎日毎日よくそこまで話題が尽きないなと尊敬するほどだ。俺によく話しかけてくる島でさえここまで話しかけに来たりはしない。


名字は俺がどれだけ無視しようが、露骨に嫌そうな顔をしようが気にすることなく話しかける女だった。だから慢心していたんだろう、俺がどんな態度をとっても名字は気にすることはない、と。



その日は無性に苛々していた。いつ現れるかもいつ終わるかも分からないハノイの騎士とのデュエルもロスト事件をフラッシュバックしては飛び起きることにもAIが朝からうるさいことにも、些細なことさえも積もりに積もって自分の中での苛々を抑えられなくなっていた。そんな時だった


「藤木くんおはよ〜!」


名字の底抜けに明るい声が酷く耳障りだった。俺は机に伏せていた顔を上げることも挨拶に対し返事をすることもせずに寝たフリを続けた。


「藤木くん?どっか具合でも悪いの?大丈夫?」


俺を案ずる名字の優しい声色でさえも今の俺には俺めがけて突き刺してくる数多のナイフのような鋭さを持っていた。



「うるさい。毎日毎日話しかけてきて迷惑なんだ、いい加減にしてくれ。俺に関わるな」


ハッとした。俺は、今、何を言ったんだ。
無意識に言葉が出ていた。


さすがに言いすぎたと思い、すまない、と声をかけようと名字の顔を見ると酷く傷ついた表情をしていた。その表情を見た俺の口は急に言葉を発する力を無くしたかのように固く閉じられてしまった。


「藤木くんがそう思ってるなんて知らなかったの、ごめんなさい。毎日しつこく話しかけるなんてほんと迷惑だよね、もう話しかけないから、ごめんね」


それだけ言い残し名字は自分の席へと戻ってしまった。朝の賑やかなHRの前に起きたこのやり取りを見ていたのは、たまたま近くにいた島だけであった。

「おい藤木、今のはさすがにねーぞ。名字すげえ悲しんでただろ。後でちゃんと謝っておけよ」

俺は島の言ったことに返事を返しただろうか、気がついたらHRも終わり授業が始まるところであった。

きちんと謝罪しよう、そう思っているが普段名字は友達と行動することが多くその日はもう名字と話すチャンスは訪れなかった。

次の日になってもまたその次の日になっても中々名字と話す機会が巡ってくることはなく時間だけが過ぎていった。

名字はあの日から俺に話しかけることをやめた。当たり前だろう、あそこまで言われて仲良くしたいと考えるはずがない。むしろ俺は今のままでもういいのではないか、と思う様になった。一つ、俺は睡眠時間を確保することができる。二つ、名字は嫌なことを言った相手との接触が無くなる。三つ、それはお互いに利益がある。


「おい藤木お前まだ名字に謝ってないのかよ」
「うるさい島には関係ないだろ」
「お前そんなんだと名字が誰かに取られちゃうぜ?」
「なんの事だ」
「今まで名字とお前がずっと話してたから名字のこと狙ってる奴らは今がチャンスだとばかりに名字に対して熱烈なアプローチかけてるらしいぜ」
「俺には関係の無いことだ」
「ふーん、名字と喋ってる時のお前いつもより優しい顔してたからいい感じだと思ってたんだけどよ」
「くだらないことを言うな」

そーかよ、それだけ言うと島は何処かへと行ったらしい。

少しだけ気になり名字の様子を確認した。知らない男と仲良さげに話していた。自分のクラスメイトの顔も名前も覚えていないから今名字と喋っている男がクラスメイトなのかすら分かっていない。

ただ名字とそいつが仲良く喋っている様子に酷く腹が立った。元々そこは俺の場所だった。その笑顔を向けられるのはお前じゃなくて俺だ。フツフツと怒りが湧いてくる。名字と話している男が酷く憎い。俺の、俺の居場所を、その笑顔を返せ。




あぁでも手放したのは自分であった。





酷く後悔が押し寄せる。今のままでいい?そんなの強がりだ。本当に今のままでいいと思っているなら名字のことを考えているはずがないし、相手の男に対して腹を立てることもない。理解しているのだ名字が取られたような感覚になって悔しいと。

そこからの俺の行動は早かった。話している二人の間に無理やり入り名字の腕をとり教室から出て屋上まで走りだした。途中名字と話していた男が何か言っていたがそんなこと知ったことではなかった。

屋上まで一気に駆け上がると俺達は息を整えた。そんなに運動が得意ではない俺と一緒に走るのは名字にとってそこまで苦痛ではなかったらしい。
なんと切り出そうか迷っていると、先に口を開いたのは名字であった。

「どうしたの藤木くん、私になにか用事?」
「あの時のことを謝りたいと思っていた」
「ううん、私がしつこすぎたのが悪かったから藤木くんは悪くないよ」
「そんなことない」

いつもよりはっきりとした口調で返した俺の返事に俯いていた名字は顔を上げた

「正直最初はしつこいと思ったこともある。しかし、途中から俺はお前と話すことに楽しさを感じ始めたのに気がついた」
「うん」
「あの時は本当に悪かったと思っている。許してくれ」
「いいよ、謝ってくれてありがとう。これからも藤木くんに話しかけてもいいかな?」
「もちろんだ」





「それと、」
「うん?」
「名字にもう1つ言わなければならないことがある」
「なあに?」


「俺は名字の事が好きだ、俺と付き合ってくれないか」
「ほんとに?」
「本当だ」
「ほんとのほんとに?」
「あぁ。俺が名字を好きだと思った理由は三つある。一つ、名字と話すのはとても楽しい。二つ、俺以外の男と仲良く話してほしくない。三つ、最近話していなかったがいつも名字のことを考えていた。これによって導かれる結論は俺は名字の事が好きだという事だ」
「私も藤木くんとお話するの大好きだよ。他の人、じゃなくて、藤木くんがいいの。これからももっとたくさん藤木くんとお話したいし色んなところに出かけてみたいなあ。だから、こちらこそよろしくお願いします」


名字、いや、名前はいつもの様に底抜けに明るい声で俺が願っていた言葉を返してくれた。



遠くから授業開始のチャイムの音が鳴り響く。
今だけは何もかも忘れて幸せにひたっていてもいいだろう。



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