プロローグ


 私は昔、活発で、運動が好きで、勉強はちょっと苦手で、食べることが大好きな、そんなごく普通のありふれた子供だった。
 今でも大して変わらないとは思うが、成長と共に昔のままではいられないことも多くある。
 人が変わるきっかけなんて、案外そこら中に転がってると実感している。





 昔の話。幼い頃の私はバレーが大好きで、同じくバレーが大好きな近所の男の子とよくバレーをして遊んでいた。男の子のおじいちゃんがママさんバレーのコーチを務めていて、男の子と一緒に連れて行ってもらってバレーの練習に参加していたこともあった。
 身体を動かすのが楽しくて、ほぼ毎日どろんこになって家に帰っては母に怒られていた記憶が強く残っている。

 学校の女の子たちは漫画、アニメ、アイドル、可愛い小物や文房具などの話をよくしていたが、私は近所の男の子とバレーをするのがいちばん楽しくて大好きだった。
 学校の女の子たちと話すのも楽しいし、その子たちが興味を持っている対象に全く興味が湧かないわけでもない。それなりに同じもの、同じことを共有し、共感して楽しくお喋りして、鬼ごっこやケイドロなどの外遊びもしていた。
 それでも、なによりも日々優先していたのは“バレー”だった。

 ――将来は強い学校に行って、レギュラーになって、全国大会にも出て、たくさん試合するんだ!

 そんな思いを胸に、2メートルまで身長を伸ばしてやるんだと決意して、毎日牛乳を飲み、ご飯もたくさん食べ、遅くとも22時には寝る生活を送っていた。
 幸い私の成長は早い方で、同級生の女の子たちに比べて抜きん出た身長を持っていた。
 同じクラスの男の子に身長の大きさをからかわれたりもしたが、私の方が身体も大きいし、昔は気も強かったので男の子と喧嘩をしても負けたことはなかった。

「どうだ! 身長どんどん伸びてるぞ! あんたよりおっきいもんね!」

 勝ち誇った態度で、近所の男の子によく身長勝負を持ちかけてはドヤ顔をしていた。
 ぐぬぬぬ……と、悔しそうに歯を食いしばる男の子の顔を今でも覚えている。

「くっそー! バレーでは負けねえからな!」
「バレーでも負ける気はないね!」

 早食い、かけっこ、木登り。何でもかんでも勝負を仕掛けては、どっちが勝ちかを決める。特にバレー勝負では絶対にお互い勝ち譲ることはなかった。
 そういう毎日が、心から楽しかった。

 転機が訪れたのは小学四年生の頃。家庭の事情で、東京に引っ越すことが決まった。
 私は小学五年生に上がるタイミングで、新しい学校へ転校することになった。

「はっ……はなれても、友達だよね! バレーずっと続けてよね……!」
「あたりまえだッ! 次会ったときはぜってぇ負けねーからな! 身長だって、おまえよりおおきくなってやる!」

 別れ際に、男の子の前で鼻水を垂らし泣きじゃくった記憶は、今思い返しても恥ずかしい。鼻水と涙でぐちゃぐちゃになった真っ赤な顔を晒して、男の子の袖をシワができるほどぎっちり掴み、イヤイヤ期の子供のように泣き喚いていた。



 時が経ち、東京の小学校へ転校した初日。
 新しい学校生活に胸が躍ると同時に、心細い気持ちも抱えて新しいクラスへ足を踏み入れた。
 黒板の前に立つと、先生に自己紹介を促される。新しい面々を前にして緊張の糸をほぐそうと大きく息を吸い込み、気合いを入れて声を出した。

「あっ……桂千早です! 宮城から引っ越してきました! よろしくお願いしぁっっっす!!」

 ――ドサドサドサッ!

 …………やっべ、やっちまった。
 
 勢いよく頭を下げると同時に、きちんと閉めていなかったランドセルの中から、教科書やら筆箱やら中身が全部流れ出た。
 「わっ!」という声があちこちから上がり、先生もクラスの子たちも、みんなが驚いているのがわかる。驚きの声に混ざってくすくす笑う声も耳に入った。
 恥ずかしくて顔から火が出そうだった。顔を上げられなくって、頭を下げたまま汗が吹き出ていた。
 引っ越し前の気の強さはどこへ行ったのやら。ガチガチに緊張して、自己紹介は大失敗に終わった。
 それでもクラスの子たちはみんな優しくて、引っ越してきたばかりの私に、休み時間になった途端たくさん話しかけてくれた。私も嬉しくなって、ペラペラとお喋りに夢中になっていた。

「そっか。おかあさんの病気をなおすためにこっちに引っ越してきたんだね」
「そう、東京のおっきい病院じゃないとなおせないってお医者さんが言ってたから。おかあさん一人で東京に来させるわけにもいかないし、家族全員で来たの」
「はやくなおるといいねえ」
「うん! 病気がなおったら、おかあさんとやりたいことたくさんあるんだ! はやくなおってほしい!」

 昼休みはみんなでなにして遊ぶのか。東京の流行りはなんなのか。宮城はどんなところなのか。とにかく時間が許す限りいっぱい喋りまくった。
 みんなが優しく話しかけてくれたおかげで友達もすぐできて、初日の大失敗した自己紹介の苦い記憶は私の中から帳消しされた。

 それから二週間ほど経ち、すっかり私は新しいクラスに溶け込んだ。クラスの子たちと外遊びをしたり、かわいい文房具を見せ合いっこしたり、好きな漫画やアニメの話をしたりと忙しなく交流を重ねた。新しい環境に胸が弾みながらも馴染むことができるのか不安も抱えていたが、ただの取り越し苦労だったようでクラスの子と打ち解けるのは早かった。
 都会っ子はみんなキラキラした人たちだとばかり考えていて、田舎者の私が相手してもらえるのか心配だったが、所詮は杞憂。どこに住んでいようが、子供はあまり変わらなかった。
 後から聞いたが、初日の大失敗が逆に功を奏して、おもしろい子だと認識されたらしい。元より転校生というだけで興味をそそられる対象だが、初日の私の行動がさらなる興味を加速させたようだ。ナイス私。結果オーライだ。なんて現金なことを考えた。
 初日やらかしたときは惨めな気持ちになっていたくせに、この切り替えの早さが私の良いところとも言える。
 
 東京に来てからも、クラスの子たちのおかげで楽しい毎日を送ることができた。
 ――ただ唯一、バレー仲間がいないことだけが気がかりだった。
 クラスの子たちにバレーは好きか、バレーをやっている子はいるか尋ねても、だれもバレーをやっていないと言う。興味もあまり無さげだった。
 バレーを一緒にやる友達がいないことに一抹の寂しさを感じるたび、宮城に居る近所の男の子の存在を思い出す。

 元気にしてるかなあ……。

 男の子を思い出しては、気が落ち込む瞬間が定期的にやってくる。
 寂しさを紛らわすために毎日部屋の中でバレーボールを使ったボール遊びをしても、一人だからちゃんとしたバレーはできない。

 トスがしたい。
 レシーブがしたい。
 スパイクを打ちたい。
 ブロック練習したい。
 サーブも上手くなりたい。

 頭の中はバレーのやりたいことリストでいっぱいなのに、引っ越したばかりで何ひとつできていない。
 前住んでいた家なら広い庭があったので、ある程度本格的な練習ができた。しかし東京に来てからはアパート住みで、できることといえば部屋でボール遊びをするくらいに限られた。
 東京のバレーのクラブチームとかあれば入りたかったが、日々仕事に家事に育児で忙殺されて目の下にクマができている父の顔や、病院で寝たきりになっている母のことを思えば、とても言えそうになかった。
 もしここで私がクラブチームに入りたいと言えば、きっと父はその願いを叶えてくれただろう。しかし、クラブチームは親の協力が必要不可欠。送り迎えやその他のことで手を煩わせる必要があれば、ただでさえ忙しい父を更に忙しくさせてしまう。病院にいる母にも、時間が空く限り定期的に会いに行きたかった。
 家族のことは心配だし、わがままを言って今以上に負担をかける可能性を考慮すれば、そんな真似はしたくなかった。

「千早ちゃーん! はやくはやく!」
「いま助けに行くよー!」

 昼休みの時間、クラスの子たちと外でケイドロをして遊んでいても、家族とバレーのことが頭から離れなかった。
 みんなと同じ時間を共有しているはずなのに、まるでテレビを観ているかのように自分だけ違う時間を過ごしている気分が不思議で、なんだかモヤモヤした。

「……ごめん! わたし疲れちゃった! ちょっとキューケイしてくる!」

 胸になにかがつかえて、遊びに集中できない。ケイドロの勝敗が決まった時点で友達に断りを入れて木陰に座り、一息つくことにした。

 ……おかあさんのビョーキはなおる。ゼッタイなおる。

 自分に暗示をかけるかのように、ひたすらその言葉が頭の中でぐるぐる巡っていた。

 なおる。なおる。ゼッタイなおる。なおったら、またおとうさんと三人でごはん食べて、バレーの試合を観に行って……やることたくさんある。なおる。ゼッタイになおる。ゼッタイ、ゼッタイ、ゼッタイに、

「――バレーがしたい」

 ボソッと、思わず口をついて言葉が出た。

「…………バレー?」

 ふと後ろから、か細い声が聞こえてきた。
 びっくりして振り向いてみれば、猫背になって身を縮こまらせて、ギョッとした様子でこちらを向く男の子が木の後ろに隠れていた。
 特徴のある猫目と視線がかち合うと、まるで「しまった」とでも言いたげなバツの悪そうな顔をしてすぐさま目を逸らし、手に持ってるゲーム機をカチカチ触り始めた。

 なんか……見たことある子だな。

 記憶の中にあるはずだけど、正確な記憶がどれなのか掴めない。正体がハッキリしない感覚が落ち着かなくて、うーんと首を傾げながらアレじゃないコレじゃないと記憶を探る。じーっと私に見つめられて、男の子はかなり気まずそうだった。

「いま、バレーって言った?」

 そう聞いてみれば、男の子はビクリと体を震わせたかと思えば、私をガン無視した。明らかにバレーの単語に反応したのに、どうやら男の子は何事もなかったことにしたいらしい。

「バレーって言ったよね?」

 私はというと、何事もなかったことになんてできなかった。こちとらバレーに飢えている健康優良児だ。(勉強はイマイチだがそれについては触れないでおく)
 私の健やかなバレー生活のために、バレー仲間が欲しいと切望中だ。男の子は無視を貫くつもりだろうけど、こちらは引くつもりなかった。

「それ、なんのゲーム?」

 やり口を変えて、男の子が食い付きそうな話題を出してみる。少しだけ有効だったのか、チラリとこちらに視線を向けてくれた。

「……………………ハイパーモリオ……ブラザーズ」
「あっ! それわたしもやってる!」

 男の子は、仕方なくといった感じで答えた。
 反応してくれたことが嬉しくて、人の半分くらいの幅を空けて男の子の隣に座り、画面を覗き込む。思いっきり嫌そうな顔をされたが、逃げる様子はない。
 ゲームをプレイする手元と画面を真剣に眺めてみると、男の子はやりづらそうな表情をしたが、プレイ中に話しかける方が邪魔になりそうだったのでキリの良いところで終わるまで待つことにした。
 しばらく黙って見ていると、男の子は見事ステージをクリアした。
 今が好機だ。さらに会話を試みようと、ゲームの話を広げてみる。

「ここめっちゃ難しいステージじゃない? わたしまだクリアできてないんだよね。ゲームうまいね!」
「………あ、ありがとう」
「わたしゲームへたくそでさ、このステージの溶岩が難しくてクリアできないの。どうすればクリアできる?」
「………じゃあ、もう一度やってみるから、見てみる?」
「うん! おねがい!」

 私の押せ押せな態度に男の子は色々諦めたのか、観念した様子だ。無視を決め込むようなら、これ以上邪魔をしないつもりだったが、会話を続けてくれたので私も話を振り続けた。

「わっ、すごい! そうやるんだ!」
「ここのコインはタイミングを見て取りに行かないと、すぐ溶岩に当たって終わり。溶岩が下がり始めたタイミングで、一度も立ち止まらずに走り切って」

 男の子は私が苦手な部分を細かく丁寧に説明してくれて、意外と優しい子だった。
 説明もわかりやすいしゲームも上手い。上手い人のプレイを見ていると、自分も同じようにできそうって思えるのはなんでだろうか。私がつまずくところを難なくこなすゲーム捌きに感心してしまった。

「すごーい! あっという間にクリアしちゃった! ほんとゲームうまいんだね!」
「そ……それほどでも」

 私の褒め言葉に照れくさくなったのか、男の子は頬をかきながらモジモジした。少しだけ打ち解けられたのかもしれないと思った。そうだとしたら嬉しかった。
 目が泳ぎまくっている男の子の顔を改めて見れば、さっきまで霧のかかっていた記憶がハッキリしてきて、喉元まで出かかった。絶対にこの男の子を見たことあると確信しているが、やはり正体は掴めない。

 なんか見覚えあるんだよなあ……。

 男の子の特徴を一つひとつ頭の中に列挙し、それを判断材料におぼろげな記憶を漁る。
 猫背。俯きがちな目。ゲーム。大人しい性格――

「……あっ、思い出した! きみ、おなじクラスの子だよね?」

 私が声をあげて物理的に距離を詰めると、男の子はまたビクリと肩を震わせ、たじろいだ。それから恐る恐るこちらを向き、体をきゅっと縮こませる。特徴のある猫目には怯えが見えた。まるで猫を前にして恐れをなしたネズミのような態度だ。ネズミというより猫っぽいのになと思ったが口にはしなかった。

「なんか見たことあるなあって思ってたの!」

 時間をかけて男の子の正体に気付き、先ほどまで喉元に引っかかっていた記憶が明瞭になる。爽快な気分だった。
 入学してから一週間くらいでクラスメイトの顔と名前を覚えたつもりが、この男の子とは関わったことがないので思い出すまで時間を要した。

「わたし桂千早! 転校してきたばっかりの! わかる?」
「あ、えと……あ………うん………」
「あっ、それでさ、さっき言ってたことなんだけど、バレーやってるの?」
「や……あの………トモダチと……バレー、やってはいる……」
「ほんと!? わたしバレー仲間が欲しかったの! ねっ、嫌じゃなかったらさ、ちょっとだけいっしょにバレーやってくれない?」
「え、えぇ………?」
「引っ越してからだれともバレーできてなくてさ、最近ずっと物足りないの。ちょっとだけ! おねがい! このとおり!!」

 両手を合わせて頭を低く下げ、心の底から懇願した。
 しばらく頭を下げたがなにも反応がないので、片目を開けて男の子の顔をチラ見すると、苦虫を噛み潰したような、今まででいちばん嫌そうな顔をしていた。
 本気で嫌だと顔が物語っていた。だれかにこんな反応をされた経験がなかったために、その反応を見て一瞬固まった。そして取り繕いもしないその顔を見た途端「あ、これ本当にダメなやつだ」と瞬時に察した。

「………ごめん。ずうずうしかったよね。ゲーム、見せてくれてありがとう。ジャマしてごめんね」

 さすがの私も察して、これ以上は踏み込んでダメだと身を引いた。バレー仲間をようやく見つけたと浮かれるあまり、男の子の気持ちを疎かにしていたかもしれないと反省する。反省し始めたら急速に頭が冷えていき、周りが見えていない自分を恥ずかしく思った。
 だんだんと顔に血が集まっているのがわかる。男の子に紅潮した顔を見られないよう、私は顔を背けた。
 先ほどまで遊んでいたクラスの子たちの輪に戻ろうと思い、尻に付いた砂埃を払って立ち去ろうと背を向けたとき――、

「……………………あの、さ」

 ぽつりと、か細い声が背後から聞こえた。
 振り向けば、男の子はもじもじしながら、何か言いたいけど言いづらいといった様子だ。
 たった今、自分の行いを恥じて反省している最中に、そんな態度をされたら何か責められるのではないかと思い身構えた。何を言われても落ち込む自信しかなかった。
 ハラハラしつつ、静かに黙って、男の子が紡ごうとしている言葉を待つ。そしてようやく心が決まったのか、男の子の口が開くのを見て、恐ろしさで全身が硬直した。
 ごめんなさいごめんなさいごめんなさい!!と、咄嗟に心の中で謝罪の言葉を繰り返し唱えていると、男の子の口から出た言葉は予想外のものだった。

「か、河川敷で、いつもバレーやってて。トモダチに聞いてからだけど、オッケーもらったら、いっしょに、やる……?」

 一瞬、理解が遅れた。お誘いの言葉だとゆっくり理解すれば、責められると思い硬直した体が次第に緩まっていく。

 "いっしょにやる?"

 男の子がしどろもどろに紡いだ一言が、ここ数日で心に溜め込んだ寂しさや不安を溶かし、代わりに暖かいものが胸いっぱいに広がっていった。
 答えは、ひとつだ。

「――うん!! いっしょにバレーやる!!!」

 じわじわとこみ上げる涙を我慢し、震える唇をぐっと噛んで、泣くのをこらえながら力強い返事をした。
 私の大きな声に驚いたのか、男の子はまたビクリと肩を震わせ、今にもシャーシャー威嚇する猫みたいな警戒を見せた。

 ……またやってしまった。

 これからは怖がらせないよう急に大声を張り上げるのをやめようと思った。反省は重なるばかりだ。

「あ、ちゃんとトモダチがオッケーって言ってくれれば、ね! ダメならダメでいいよ!」
「あっ………うん………」

 まだ確約されていないことを忘れない。その友達がノーと言えば、わたしは仲間に交ざれない。
 それでもこの瞬間、私の気分は満たされていた。砂漠にいる人がコップ一杯の水を口にしたときの感動とはコレなのかと、見当違いな想像をふくらませるほどに。
 今にも小躍りしたくなる気持ちを抑え、ひとつ気になったことを聞いてみる。

「そういえばクラスの子たち、だれもきみがバレーやるって知らなかったけど、話してないの?」
「……話すように見える?」
「ううん。見えない」

 それからも私と男の子はひとしきり会話を続けた。ゲームの話から始まり、バレーの話題も振ってみた。と言ってもほぼ私からの一方通行だったが、とりあえず逃げないだけ良しとした。
 その後、男の子とは一旦別れて、先ほどまで遊んでいたクラスの子たちと合流し、ケイドロを再開。最終的に自チームの勝利を収めた。

 後日、登校した朝のこと。
 男の子は、クラスで私と目が合ったのに直接言いに来ないで、胸の前で小さくオッケーサインをした。
 それが意味するのはひとつしかない。参加オッケーの返事だ。先日の反省を生かして歓喜をそのまま口に出さず、心の中でガッツポーズした。
 男の子の返事の仕方を見て、普通に話しかけてきてくれればいいのにと思ったが、クラスの中で私に話しかけるのがよっぽど嫌なのだろう。なにかを避けている様子が感じ取れた。幸い私たちの言葉のない会話はクラスメイトたちの目に入ることなく、二人だけで完結した。
 それから男の子は私の席の隣を通る際に、紙切れを机の上にさりげなくサッと置いた。なんだろうと思い、置かれた紙切れを見る。

『今日の学校の帰りに かせんじき ついてきて でもはなれてね』

 それはメモだった。今日の放課後にバレーをする場所まで案内してくれるということだろうか。
 直接言いに来ないのといい、一緒に行くわけでもなく離れて付いてこいという要求といい、案外おもしろい子なのかなと思った。
 関わってから間もないが、なんとなく男の子の性格を掴んだ気がした。

 そして、その日の放課後。件の河川敷にやってきた。
 目の前にいたのは、なぜか渋い顔をして猫目を細めている男の子と、けらけらと笑う特徴的なツンツンした髪型の男の子。私はその独特な頭を見て、すぐさまツンツン頭くんとあだ名をつけた。
 ツンツン頭くんがこちらをじっと見ると、今度は隣にいる男の子を見て「ブフッ」と吹き出す。なにを思われていたのか、このときは知らなかった。

「今日はよろしくおねがいしまっス!」

 バレー仲間がいる現状に嬉しさが隠せなくて、顔の緩みが収まらなかった。私の顔を、じとりとおもしろくなさそうに見つめる猫目でさえもかわいいもんだと思えた。
 ふっ、と笑ってみせると男の子はなおさら顔を歪ませたが、それさえもおもしろく感じた。つい最近まで自分の図々しさに反省していたというのに、現状に浮かれて、すでにそれを忘れて余裕綽々だった。

「ぶっは! すげえ顔してんぞ!」

 ツンツン頭くんに指摘され、男の子の顔は歪みが増していく。おもしろくなさそうな男の子とは反対に、私はずっとニコニコしていた。

「ねえ……学校からここに来るまで、もうちょっとどうにかならなかったの? うしろが気になってしかたなかったんだけど…」
「ごめん! みんなの前で話しかけられるの嫌そうだったし、アレしかできなかった!」

 河川敷に来るまで、私はクラスメイトに悟られないよう帰宅を装って、教室を出た男の子の後ろを付いて行った。直接的な接触を避けて、十人ぶんくらいの人の距離を取り、辺りをキョロキョロしながら男の子の姿を視界に捉え、時おり猫背の背中を凝視して追いかけた。さながらストーカーのごとく。
 その逆に目立つ追いかけ方が嫌だったのか、河川敷に着いた頃にはこれでもかというくらい男の子の眉間にシワが寄っていた。
 だとしても、私は引っ越してきたばかりで東京の道を知らない。土地勘が皆無である。男の子の『離れて』という要求に応えつつ道案内してもらうしか方法が無かったのだから、やむを得なかった。

「もうすこし、自然にしてほしかった……」
「むずかしいよー!」

 よっぽど堪えたらしい。男の子の眉間のシワはひたすら深まるばかりだ。

「クラスメイト連れてくるって聞いてめずらしいなって思ったら、女子ってのもビックリしたわ。よろしくなー」

 いまだ眉間のシワが取れない男の子とは反対に、ツンツン頭くんは朗らかに笑っていた。見た感じ、とっつき易い印象を受けた。

「こちらこそ急なのにまぜてくれてありがとう! その髪型ツンツンしておしゃれだね。自分でやってんの?」
「いや……これただの寝ぐせ……」
「ブッッッ!!!」

 さっきまでの険しい顔つきが一変し、突然吹き出して猫目が笑った。今まで見た男の子の表情は『怯え・緊張・不愉快』のいずれかだったので、初めて見る男の子の顔に驚いて「あっ、笑えるんだ」と、つい失礼なことを思ってしまった。
 改めて自分の行動を思い返して、乗り気じゃないクラスメイトを相手に、よく一緒にバレーやろうなんて声をかけられたなと己の無鉄砲さに呆れる。
 ツンツン頭くんが「笑うなよ!」なんて言って男の子を小突く。仲良さげな二人を見ていると、宮城にいる幼なじみの存在がまた頭をよぎって、ほんの少しだけ羨ましさと寂しさが胸の中を占めた。

「俺の寝ぐせはもういいから! はやくバレーやろうぜ!」

 ツンツン頭くんが焦ったように発したその一声で、渇望していたバレーの時間が始まった。
 棒で作ったネットモドキを挟んで、互いにボールを相手に飛ばす。
 トスをして、レシーブをして、スパイクも試してみて、ブロックを抜けられて悔しくて、たまにサーブが決まって嬉しくなる。
 ウキウキ。ワクワク。心踊る時間が続いた。
 久々に感じる腕と手のひらに走る痛みが、たまらなく心地よかった。

「お前すげえな! うまいじゃんか!」

 ツンツン頭くんだってボールをしっかり拾いまくって上手いのに、真っ直ぐに褒められてより一層嬉しさが高まった。

 ――楽しい。すごく楽しい。

 一人でボールに触れる時間も好きだ。ボールにすら触れないより、一人でもボール遊びが出来るだけマシだった。
 でも、やっぱり、誰かと一緒にやるバレーがいちばん楽しいと心から実感した。

「えっ……なんで、泣いてるの?」

 突然そう言われて男の子の顔を見れば、猫目が大きく開いて愕然としていた。隣でツンツン頭くんも同様に手を止めて驚いている。
 慌てて自分の目に手を当ててみると、たしかに大粒の涙が溢れていた。

「あ、あれ? なんでだろ……うわ、えっ、ちょっと……ご、ごめん! タンマ!」

 いつの間に泣いてたんだろうか。指摘されるまで気付かなかった。

「うっ……ほんと、ごめん……止まらなくて……なんで今…!」

 泣いていると気付くと、もっと涙が溢れて止まらなかった。バレーをやる手を止めてパニックになっている二人をよそに、私は涙を止めることに必死になった。
 せっかく楽しくバレーをしていたのに、自分が泣いたせいで中断させてしまって、急に泣き出してしまったのが嫌になる。申し訳なさと羞恥心がない交ぜになり、わけがわからなくなってさらに涙が止まらなくなっていた。

「ごっ、ごめぇん!! すぐ泣き止む…泣き止むからァ…!!」
「い、いや、大丈夫! 大丈夫だから落ち着けって!」
「えっと………ティッシュあるよ………」

 ツンツン頭くんが泣き止まない私をなだめてくれて、その隣で男の子がティッシュを差し出してくれる。ティッシュを受け取ったときに見た大きく開いたままの猫目には、困惑と焦りの色が含まれていた。
 泣いている女子を囲む男子たち。傍から見ればイジメの光景にしか見えないだろう。実際は三人でアタフタしているだけなのだが。
 人に見られて変に誤解されたら、たまったもんじゃない。いまだ流れ続ける涙をいち早く止めるために深呼吸をたくさんすれば、次第に落ち着きを取り戻した。

「ご、ごべん……急に泣いちゃって……」
「いや、いいって。でも、どうしたんだよ急に」
「鼻水出てるよ…ティッシュもっと使う?」
「うん…ありがとう…」

 ティッシュを一袋使い切る勢いで、何度も鼻水をブー!っとかむ。べしょべしょになった滑稽な顔を晒したのが恥ずかしくて、目と鼻だけではなく顔も赤くなっているのがわかる。
 私の言葉を待っているのか、ふたりは黙って様子を見ていた。
 なにか言わねばなるまいと思い、泣いてしまった原因を足りない頭をぶん回して考え、口に出す。

「あ、あの……引っ越してきたばかりで、色々不安で、大好きなバレーをやる友達もいなくて……久々にだれかとバレーをしたら、楽しくて、うれしすぎて泣いちゃった……のかも、しれない」

 綺麗にまとまらない理由を述べると、二人はポカンとしてこちらを見ていた。
 恥ずかしい。とにかく恥ずかしい。急に泣いたのも恥ずかしいが、嬉しすぎて思わず泣いてしまったのだと理解すれば、理由がしょうもなさすぎてまた羞恥心が込み上げてきた。

「「…………………ブッッ!!!」」

 二人の顔が見れなくてしばらく顔を伏せていると、ふたつの方向から同時に吹き出す音が聞こえた。
 驚いて顔を上げると、一方は顔をくしゃくしゃにして「ぶひゃひゃ」と変な笑い声を上げ、もう一方は猫目が弧を描いて笑いをこらえていた。予想外の反応に、何が何だかわからなくて困惑した。

「ぶっひゃひゃひゃ! うれしナミダかよ! ビックリしたじゃんか!」
「ふっ…ふふ……バレーやるのがうれしすぎて泣くって、なにそれ…イミわかんない…」

 腹を抱えて笑い続ける二人を眺めながら、私は呆気に取られていた。今度は私がポカンとした情けない顔をしていただろう。涙はとっくに止まっていた。
 笑われているとようやく理解したとき、先ほどとは違う種類の羞恥心が込み上げてきて、顔がカッと熱くなった。

「わ、笑わないでよ! 泣くつもりなんてなかったんだから!」
「ひゃーっひゃっひゃ!!!」
「ふぐッ……! ふ、ふふ…ハッ……」
「笑うなーーーッ!!!」

 笑われたことで、恥ずかしさでどうしようもなくて二人に怒りをぶつけたが、なお笑い続ける二人を見ていると次第にこっちもおかしくなって、つられて私も笑いが込み上げてきた。

「あっははは!! なんだこれ!! ほんとイミわかんない!! 笑いが止まんない!!」
「そうだよ……イミわかんないよ……」
「あーっひゃっひゃっひゃ!!!」

 子供はくだらないことでも笑えてしまう生き物である。
 私たちは笑いが収まらないままバレーを再開したが、一度ツボに入ってしまえばスイッチが入ったように笑い続けて集中が途切れ、最後までグダグダなバレーになってしまった。
 ――それでも、楽しかった。
 笑いに気を取られ、思うようにバレーボールを操れなくて悔しかったが、それでも心から楽しめた。
 仲間とやるバレーは楽しいのだと、ふたりが改めて気付かせてくれた。

 その日から、私は定期的にふたりに交ざって河川敷でバレーをするようになった。
 一週間も経てば、初日のような道がわからず男の子の後ろをストーカーしてやっとたどり着いた河川敷も、ひとりで行けるようになっていた。

 ふたりとバレーをしたあの日、お開きの時間になり楽しい時間もこれで終わりかと残念に思っていたところ「明日もいっしょにバレーやる?」とツンツン頭くんから誘われた。
 隣にいた男の子も、なにも言葉にはしなかったが私の様子を窺っていて、私の返答を待っていたようだった。その顔に否定的な色はなかった。
 お誘いをもらい、次も一緒にバレーやっていいんだと嬉しくなり、また泣いて、また笑われた。

 不安に押しつぶされそうでどうしようもなくなっていたあの日、ついクラスメイトの男の子に「いっしょにバレーやりたい」とぐいぐい迫ってしまったが、無理をさせてしまったかもしれないと申し訳ない気持ちもあった。
 私だって気遣いの心はある。気遣いが下手くそなだけで。
 ふたりには頭が上がらない。おかげで、充実した小学校生活を送れるようになった。



 ふたりとバレーに明け暮れる日々を送りながら更に時が経ち、私は中学生になった。

「おーい、クロ! 今日もイカした髪型してんね!」
「うるせーな! 寝癖ってわかってて言ってんだろ!」

 中学校入学初日、あいかわらずツンツン逆立った髪型をしている幼なじみにさっそく会いに行った。
 すっかり幼なじみと呼べる間柄になった私たちは、バレーで繋がった仲だ。あれからバレーを共に練習し続け、公式試合のDVDを観て、たまに三人でテレビゲームなどをやって遊びまくっていた。
 クロは中学に上がってからバレー部に入り、小学生のときよりも本格的な練習をするようになったためか、あっという間に実力を追い抜かされてしまった。
 出会ったばかりのときの実力は同程度だったが、向こうは中学生になった途端に身体もぐんと大きくなり、フィジカルも技術も追いつかなくなってしまった。
 ついこの間まで僅差の実力だったのに……と嘆く日々が続いていた。

「初日からうるさい……なんでそんな元気なの……」
「中学だよ? なんかワクワクすんじゃん!」
「コワッ……一緒にしないで」
「てか、研磨は逆に元気足りなさすぎじゃない? 目の下のクマすごいよ? また徹夜でゲームしたの? 入学式前日なのに? 親に怒られなかった? 制服ブカブカだね? 中学生になればすぐ身長が伸びるから?」
「矢継ぎ早に言わないで……話すの疲れる……」
「おまえら両極端だな。てか千早、今日から俺は先輩なんだから、もう少し敬う姿勢を見せてだな…」
「でも今までと大して変わらないでしょ?」
「そうだね。大して変わらない」
「そこだけ二人で意見揃うんかい」

 入学式初日だというのに、緊張感もなくいつも以上にめんどくさそうな顔をしているもうひとりの幼なじみが、隣でげんなりしていた。
 新しい学校生活に胸が躍るなんて言葉とは縁遠い性格をしている幼なじみ。どのくらい遠いかというと、日本と地球の裏側に位置するブラジルくらい距離があると思っている。中学校生活を無事に送ることができるのだろうかと、少し心配になった。

「初日からそんな暗い顔してー、バレー部入るんでしょ? 少しくらい楽しみな気持ちとかないの?」
「あんまり……誘われてなきゃ入らない……」

 中学生になっても変わらない幼なじみに、呆れると同時になんだかホッとした。

「休み明けの月曜に部活の体験入学あるんだっけ?」
「そーそー。千早もバレー部入るんだろ?」
「もちろん! めっちゃ練習してレギュラー入りするから!」

 ビシッとサムズアップして気合いをアピールすると、からかうようにニヤついたクロが「おーがんばれよー」と激励してくれたが、研磨は隣で私の気合いの入り方を見てしかめっ面をしていた。その顔を見て、少しだけでも私の元気を分けてあげるべきかと悩んだ。

 ――実を言うと、先生に相談して部活の入部はしばらく見送ろうかと考えたこともあった。
 東京に引っ越してきた理由である母の病気。その母の病気は――いまだ完治していない。父ひとりで仕事と家事を両立する生活も続いていた。
 私は少しでも父の助けになりたくて、東京に引っ越してから家事の手伝いを始めた。始めたばかりの頃は、料理や洗濯、掃除など手を付けるだけで精一杯で、当たり前ではあるが父の家事スキルの方が圧倒的に上だと実感させられた。所詮、子供のできる範囲には限りがあって、大人の立場と経験値には敵わなかった。
 大変ではあったが、それでも毎日続けていればスキルもそれなりに身に付いてくる。そこはバレーの練習と同じようで嫌いじゃなかった。今では私の家事スキルもだいぶ上達し、空き時間には父の仕事の手伝いもするようになった。
 そうして家のことを自分の仕事としてこなしていくうちに、父がどれだけ大変だったかを身をもって知った。
 なので、中学に上がってからも父の助けになるべく、私も家のことに専念したいと一度父に申し出た。結局のところ、父からの説得もあって中学では部活に所属するよう勧められ、バレー部への入部を決意したのだが。
 父は、私が小学生の頃、クラブチームに入れてやれなかったことを悔やんでいて、中学では思いっきりバレーをやらせてあげたいと考えていたらしい。
 父の想いがありがたく、全力で応えたいとも思い、レギュラー入りと全国大会、両方の切符を手に入れてやると奮闘する。
 私がバレーで活躍すれば母も喜ぶ。私を一生懸命応援してくれる父にも報いたい。
 両親のためにも、今できる精一杯のことをがんばろうと思い、気合いを入れた。
 
 そして、待ちに待ったバレー部の体験入学当日。

「桂千早です! バレーは小一の頃からやっています! よろしくお願いします!」

 今日から、新しいバレー漬けの日々が始まろうとしていた。