人生最大の転機




「私、バレーやめるから」

 ポタリ。幼なじみの手にある溶けかけのアイスが、アスファルトに一滴こぼれ落ちた。

「……は? え、なに? バレーやめる? なんで!」
「………急にどうしたの?」

 幼なじみ二人の大きく開いた丸い目を眺めながら、帰宅後に着手すべき家事リストを頭の中に並べ立てる。

 この感覚、覚えがあるな。

 東京に引っ越してから初めて幼なじみのひとりと話した日。
 まるでテレビを観ているかのように、自分だけが別の時間を過ごしている感覚。あの日も今みたいに、ふわふわしたような、所在ないような、放心状態に近い感覚だった。
 驚きで固まっている目の前の幼なじみ二人はテレビの中の人。私はそれを観る側。
 液晶を挟んだ先で起きている出来事は、他人事。
 今ふたたび、その懐かしい感覚に陥っていた。



 中学二年の夏。今日はひどく蒸し暑い日だった。
 忌々しいほどに不快な熱気が体を包み、ジメジメとした湿気がうだるような暑さに拍車をかけている。
 ジージージージー。耳をつんざくアブラゼミの鳴き声があたり一帯に広がり、その鳴き声は鬱屈とした今の私の心境をさらに黒く塗りつぶした。
 ふだんは虫なんて平気だし、むしろ気にならないのに、ここ最近はやけにうっとうしい。
 今朝のニュースによると、どうやら今日は今年一番の猛暑らしい。
 全身から吹き出る汗のせいで、中学の夏服制服が肌に張り付く感触が気持ち悪かった。

 どうせ今年一番なんて、数日も経てば更新されるでしょ。
 猛暑と酷暑って、どっちの方が暑いんだっけ?
 湿気イライラする。制服ベタベタする。クリーニング出したい。

 自分から口にした前触れもないバレーやめる宣言。
 目を丸くして固まっている幼なじみ二人。
 そのどちらも置いてきぼりにして、私はまだテレビを眺めている気分だった。
 
「いま言ったとおりだよ。バレーやめる。あと、今年の秋には宮城に引っ越す」
「はぁ!? 引っ越しも!? 急じゃねえか!」
「いつ…決まったの?」
「おととい。お父さんと話して、宮城に引っ越すのが決まった」
「お……オイオイオイ。俺たちなんも聞いてねえぞ! な、なにがあったんだ? おまえがバレーやめるなんて…。悩みがあるなら話聞くから、言ってみろよ」

 二人の顔は変わらず驚愕の一色にまみれている。手にしているアイスは溶けてドロドロになって二人の手首を伝っていたが、そんなのは気にならない様子だ。
 そりゃそう言うかと、やはり他人事のような感想が浮かぶ。
 事前の相談もなく、私に良くしてくれた幼なじみ二人に突然こんな報告をしなければならないのは心苦しい。けれども、すでに決まったことだ。

「ほんとになにがあったんだ? 俺たちにも話せないことなのか? 今日は部活休みだし、時間たっぷりあるから、いくらでも聞くぞ?」
「事情くらいは、説明できない?」

 そうだよね。事情くらい説明しないと。

 これから話す内容を考えると、さっきとは打って変わって現実に引き戻される感覚がした。
 胃がキリキリして痛い。胸に重いものが溜まって吐き気がする。
 不快なものをすべて我慢して、ぽつりと、振り絞るようにそのひとことを口に出す。

「…………………………お母さんが、死んだから」

 アイスが、ぼちゃんと地面に落ちる音がした。

「一週間に……私のお母さんが死んだの、知ってるよね。お墓をふるさとの宮城に建てることにしたの。宮城に引っ越すのは……いつでもお母さんのお墓参りに行ける距離に住みたいから」

 夏の熱気で、頭がふらふらする。

「秋に引っ越すのは、色々急いで準備しても、最短でその時期になるから」

 ずぶずぶと、顔と気持ちが沈んでいく。

「バレーをやめるのは……私の気持ちの問題、で……」

 喉になにかがつかえたように、言葉が詰まる。

「………気持ちの問題って?」

 いつもは聞き取りづらいボソボソした小声が、今日は耳によく響く。

「………………お母さんが死んで、気付いちゃったの」
「…何が?」

 現実と向き合うのが、すごく怖い。

「――私が、バレーを続けていたのは、お母さんがいたからだって」

 二人の顔はもう見れなかった。かろうじて見れた二人の足下には、すっかり溶けきったアイスが液体となってアスファルトの上に小さくたまっていた。

「……今までバレーしてたのは、バレーが大好きなお母さんが笑ってくれたから。私がバレーを楽しくやってると、お母さんすごく嬉しそうに笑ってたから」

 言いづらいことも、一度口に出してしまえばタガが外れたようにぽろぽろと出てくる。

「お母さんが病気になってから、バレーやめて家のことに集中しようかって考えたときもあったけど、お父さん応援してくれてたし、お母さんのお見舞いに行ったときバレーの話をすると、いつも笑ってくれてたから」

 ぽろぽろ。ぽろぽろ。こぼれ出てくる。

「バレー始めたきっかけもお母さんだったし、バレーを続けてきたいちばんの理由もお母さんだった。お母さんの助けになりたくても、私にできることは少なくて、バレーで活躍する姿を見せれば元気な気持ちになれるかなって思って小学生のときから続けてた。バレーを頑張れば、お母さんは笑って、いつか体も元気になるってどこかで信じてた。――でも、もう」

 母はこの世にいない。その現実を目の当たりにして、私はバレーボールを触らなくなった。
 自らバレーをやりたくて続けていたのではなく、母が喜んでくれるのが嬉しかったからバレーを続けていた。
 今まで気付けなかったその事実が、母がいない現実をなおのこと実感させた。

「もう、ただひたすらバレーが好きでしかたない自分じゃいられなくなった」

 顔はまだ上げられない。二人からは特になんの反応もない。
 地面を見つめながら、今の状況が初めて二人とバレーをやったあの日と同じだなと、物思いにふける。
 二人の前で嬉し泣きしてしまった恥ずかしい思い出。あの日と違うのは、私が今涙を流していないこと。
 洗いざらい話し終えると、私はまたテレビを観ている感覚に自分を引き戻す。

 ――わかっている。これは『現実逃避』だ。
 つらい現実から目を逸らしたくて、なにも深く考えないようにしているのだ。
 小学生の頃は無自覚だったと思う。でも今は――自覚してしまっている。
 自覚しているからこそ、自分の不甲斐なさに気が塞ぐ。

 ジージーという音に混ざり、ミーンミーンと鳴く音が重なって聞こえてくる。
 不協和音。その言葉を表すにピッタリな不快な音が頭に響いてめまいがする。足元もおぼつかなくなってきた。
 なにも言わない幼なじみ二人と対峙している状況が気まずくて、今すぐこの場から逃げ出したかった。
 ああ、なんて情けない。
 立つ瀬がなくなると、すぐ逃げに走る性格が恨めしい。
 よくこれで今までスポーツマン気取ってたなと、意気地のない自分を自嘲した。

「――バレー嫌いになったのか?」

 その声にハッとして、視線を地面から幼なじみの顔に移した。
 特徴的な癖毛が目に入る。神妙な顔つきで、なにか懇願しているようにも見える。
 その言い表せない表情に、心臓がぎゅっと握りつぶされた。

「違う! 嫌いになってなんかいない……バレーを続ける理由が無くなっただけ」
「………そうか」

 安堵、落胆、不安。どの表現にも例えられそうな顔だ。