君さえ


ちょっと待ってよ先生!!(アルベド)


 口元に翳した手のひらへそっと息を吐きかけた。
 じわり、と滲んだ微かな温かさに少しばかりほっとするけれど、それも周囲の寒さによってあっという間にかき消されてしまう。かちかちに凍り付いてしまった指先は、そろそろ曲げることすら億劫になった頃だ。

「さむ……」

 両手をすり合わせたり、揉んでみたりと様々な方法を試してみるけれど、やはりそのどれも大した意味を為しはしなかった。
 私の錬金術の師匠であるアルベド先生の手伝いのためにとここ、ドラゴンスパインへ足を運んで早数日。絶えず雪が降り、吹雪も珍しくはないこの場所はやはり骨にしみるほど寒い。寒くて寒くてたまらない。
 同じくモンドからやって来たティマイオスさんはもうこの寒さにも随分慣れてきたようだけれど、元々寒さに弱い質である私にはまだまだ無理だ。
 すん、と軽く鼻をすすり、肩を竦めるように身体を縮めた。それでもやっぱり肌を刺す寒さの鋭さは全く変わらない。
 拠点を出る時に慌てていたとはいえ、流石に手袋ぐらいはしてくるべきだった。そんな後悔を胸に呟いて、まあもう少しの我慢だと腕に抱えていたバインダーを手に持ち直す。手が滑ってペンを吹っ飛ばしてしまわないよう気をつけながら、まだ植物の観察に集中しているだろうアルベド先生の方へと視線を戻した。
 ぱちり。
 その直後予想外にも交わった彼との視線に、思わず目を忙しなく瞬かせてしまう。まさか彼がこちらを見ているだなんて思わなかったし、全く気づかなかった。

「ア、アルベド先生……観察は終わりましたか?」
「いや……」

 もう満足したから帰ろう、とでも言ってくれるのかと思ったのだけれど、その期待はあえなく裏切られてしまう。まだ寒空の下での研究は続くのか。研究への意欲も好奇心も確かにあるにはあるのだけれど、それ以上に寒さによる精神と肉体へのダメージが大きすぎるのだ。
 地面にしゃがみこんで観察を行っていたアルベド先生が、おもむろに立ち上がってこちらへと歩み寄ってくる。一体何があったのだろう、と私が小首を傾げた数秒後にはもう既に、彼は私の目の前に立っていた。
 私のそれとほとんど変わらない高さにある彼の視線が、酷く真っ直ぐにこちらを見つめている。
 全てを見透かすような彼のその瞳が私はとても好ましくて、そして同時にとても苦手だった。
 微かな息の詰まりを感じながらも、私は平静を装って彼に再び問いかけようと唇を開く。

「アルベドせんせ、……い?」

 彼の名前を呼んだ声は、中途半端に躓き転がってしまう。理由は単純明快、私の目の前に彼が何かを差し出してきたのだ。
 またしても驚きに目を瞬かせ、それが一体何であるかを理解しようとする。

「え、え、……手袋……?」
「寒いんだろう。これを貸すから、使うといい」

 黒地に赤や金色が覗くそれは、彼がいつも身に着けている手袋だった。困惑塗れの私が言葉足らずに問いかけてみれば、彼はさもそれが当然のことだと言わんばかりの口調でそんな言葉を紡ぐ。
 断りの言葉を私が咄嗟に見つけだすよりも早く、彼がそのまま私の手にその手袋を押し付けてくるものだから、私はより一層困惑してしまうばかりだ。相変わらず静かな彼の表情からは、私が今欲している情報のひと欠片さえ得られない。

「いや、いやいや、アルベド先生! 流石にそれは申し訳ないので……!!」
「何故?」
「えっ何故、って……、手袋をお借りしてしまうと今度はアルベド先生が寒くなっちゃうじゃないですか……」
「なんだ、そんなことか。それなら何も気にする必要はないよ。ボクは今、新しく調合している耐寒用薬剤を飲んでいるからね」

 なんだそれいつの間に? と胸中に勢いよく疑問が湧き上がるけれど、まあ彼のことだ、今行っている実験の隙間でまた新しい実験を行っているのだろう。
 また自分で自分の実験台になっているのかと呆れると同時、断るための理由が容易く摘み取られてしまったことに言葉を失ってしまう。

「それに、ボクはまだ観察を続けたいし、その間キミにはここにいてもらわないと困るんだ。……むしろ、キミがここまで冷えてしまっていることに気付くことができずすまない」

 凍った私の指先に、何か温かいものが触れた。
 それが一体何であるのかを理解したのは、そっと伏せられた彼の瞳に合わせて視線を手元へと向けた直後のことだった。
 私のそれよりもいくらか肌が白く、肌理が細かく、そしてたおやかなが、もしっかりと筋張っているその手は、他でもないアルベド先生のもの。それが今、私の手を酷く優しく包み込んでいて。
 あまりの衝撃に爆発した思考回路のまま、私はどうしようもなく彼の体温を指先に感じてしまう。
 本当に彼は肌がきれいだな、とか、手自体も驚くほどきれいだな、とか、本当に私と同じ人間とは思えないな、とか、そんな取り留めもない言葉ばかりが頭の中に溢れ出して止まない。いや、本当に、彼は一体何を考えているのだろう。目が伏せられているせいか普段以上に儚さの増している彼の姿に、胸が詰まるような心地がした。

「わっ、わかりましたお言葉に甘えますので手を離して頂いてよろしいでしょうか……!?」
「うん、そうするといい」

 このままでは思考回路だけでなく私自身まで爆発四散してしまいそうな気がして、勢いのまま彼にそう叫ぶ。そうすると私の手を包み込んでいた彼の手が随分とあっさり離れていき、寒さによりあっという間にかき消されてしまった彼の温もりの残滓に少しの切なさが滲んだ。
 どくどくと煩い心臓を抑え付けながら、私は手の中に残された彼の手袋を有難くお借りすることにする。
 その際、邪魔にならないようにとさりげなく私の腕からバインダーが抜き取られていったことにもまた、何とも言い難い感情が募っていった。自分の興味のないことにはとことん愛想のない彼だが、基本的には気の利く優しい人なのだ。
 そんなことを再認識させられてしまったから、だろうか。こんなにも胸がじりじりと焼けつくような感覚に襲われてしまっているのは。

「あ、あったかい……ありがとうございます、アルベドせんせ……あれ?」

 指先から肘の手前までをすっぽりと覆い隠した手袋により、先程のそれと似た温もりが私の手を優しく包み込んでくれる。それにほっとすると同時、私はふとあることに気が付いた。

「どうしたんだい?」

 大きい、のだ。手袋が私の手よりも少しだけ。
 指先にやや余った布地が雄弁に物語るその事実に、何故私は驚いたのか。それは。

「ああ、いえ、……手袋が私の手よりも大きかったので少し驚いて……アルベド先生って私とそう身長が変わらないですけれど、やっぱり男性なんですね……」

 そこまでを言い切ってようやく、私は自分がかなり失礼なことを彼に言ってしまったのではないかということに気が付いた。いや、あまりにも今更すぎるのだけれど。
 これは流石にアルベド先生の機嫌を損ねてしまっただろうかと、私は引いていく血の気を感じながら慌てて訂正の言葉を紡ごうとする。けれどもそれが声になって唇からこぼれおちるよりも早く、私の目の前で、彼が、


「――そうだよ、ようやく気付いたのかい?」


 花が綻ぶような笑み、とはきっと、今彼が浮かべた表情にこそ相応しい言葉なのだろう。
 どこか愉快そうに、それでいてどうしてか嬉しそう、にも見えてしまうその姿。指先に不思議な熱が過ったのは、一体何によるものだったのか。
 今度こそ氷像のように固まってしまった私へと、再び彼の手が伸ばされる。少しサイズの大きな手袋を嵌めた手のひらを、彼の指先が何かを確かめるかのようにするりと柔く撫でていった。

「温かい?」
「…………アタタカイ、デス」
「そう。ならよかった」

 普段の彼からは考えられないほどに豊かな表情の中に、次は『満足げ』な様子までもが混ぜ込まれていく。
 視線の先で柔く細められた瞳の中に、パライバトルマリンがとろりと蕩けていくような錯覚。まさかそんなことがあるわけない、と、思考回路は現実から逃げようと踵を返して駆け出した。


「――ああ、でもそうか。新しい耐寒用薬剤が完成してしまうと、こうしてキミに手袋を貸す口実もなくなってしまうのか」


 それは考えものだな……と手袋の外された素手を顎へ置いて、彼は何やら思考に耽溺し始めてしまう。因みに残された私はといえば困惑も困惑の大わらわ、今世紀最大級の大混乱状況だ。

「……うん。まあそれは後で考えるとしよう、今は観察に戻らなければ」
「……や、いや、あの、アルベド先生、」
「ん、まだ寒いのかい?」
「いやむしろ今は暑いぐらいなんですけど……ってちが、違うんですよ、そうじゃなくて……っ!!」

 何を言えばいいのか、何と言えばいいのか。分からぬまま口を開いてしまった私は、あまりの歯がゆさに声にならない悲鳴を上げた。


「寒いなら無理はせず、ボクの隣においで。そうすれば少しはマシになるだろう」


 そこで先に帰っていていいよとは言ってくれないんですね、だとか、そもそもよく考えれば今日私がここにいる必要性ってあんまりないですよね、だとか、言いたいことは溢れるほどにあったのだけれど。私を真っ直ぐに見据える彼の瞳に今までとは違う何かを見つけてしまった私は、ただ口を噤んで頬を赤く染めることしか出来はしなかった。


2020/1/1

- 1 -

*前次#