君さえ


冬季乾燥、不意打ち注意報(アルベド)


「……うわ、」

 資料を睨みつけて考え事に耽りながら、ふといつもの癖で唇を噛んだ瞬間、何か酷くかさかさとした感触に気づき意識が急速に現実へと引き戻された。
 どうやら気づかない間に唇が随分と乾燥してしまっていたようだ。さすがは乾燥の厳しい冬。気を抜くとすぐこうなってしまうから、私はあまりこの季節が好きではない。
 リップクリームを塗らなければ、とは思うものの、そのリップクリームを丁度つい先日使い切ってしまったことを思い出す。買わなければならないと理解はしているのだが、研究に熱中するあまり今日の今日まで後回しにしてしまっていたのだ。
 さすがにこのまま放置していると、次は唇が切れてとんでもない事になってしまうだろう。面倒くさいが、一度ここで手を止めてリップクリームを買いに行こう。そう思って私が席から立ち上がった、とほぼ同時。

「……おや、どこに行くんだい?」

 がちゃり、と背後から聞こえたドアの開く音に、もう随分と聞きなれた声。静かで落ち着きのあるその響きに慌てて視線をそちらへ向ければ、そこには私の師匠でもあるアルベド先生の姿があった。

「お疲れ様です、先生。ちょっとリップクリームを買いに行こうと思って……」
「リップクリーム……ああ、唇が乾燥してしまったのか」

 私の口元をじっと見つめてくる彼に、少しの恥ずかしさが募った私は慌てて口元を手で覆い隠す。徹夜姿もすっぴんも彼の前ではもう嫌というほど晒してきたのだけれど、やっぱり私の中にはまだそういう乙女心が辛うじて残されているのだ。誰だって、意中の相手に乾燥して荒れきった唇なんて見られたくはないだろう。

「それなら丁度いいものがある。これを試してみてくれないか」

 え。彼からの予想外の言葉に私はぱちぱちと瞳を瞬かせる。そんな私の視線の先には、白衣のポケットから何かを取り出しながらこちらへと歩み寄ってくるアルベド先生の姿が。
 およそ30センチメートルにまで詰められた距離に、思わず呼吸が止まる。それは、伏せられた彼の目元を飾るまつ毛の1本1本をはっきりと識別できてしまうほどの距離だった。
 動揺に言葉も行動も生み出せない私をよそに、彼はポケットから取り出した小さなガラスケースをその手のひらの上に揺らした。ぱかりと開かれた蓋の向こうには、乳白色のクリームが詰め込まれている。
 それは一体なんだろう。私の思考が追いつく間もなく、彼の人差し指がそれをするりと掬い上げ、そうしてそのまま私の方へと手を伸ばしてきた。
 ふに、と唇に何かが触れる感覚。それがクリームを纏った彼の指先であると気づくまでにそう時間はかからない。かからなかった、のだが。

「…………え、えっ? えっっっ、せ、せんせ、」
「こら、動かないで」
「いやあの、あの…………!?」
「口を閉じて。怪我をしてしまうよ」

 動かないでと言われましても。怪我をすると言われましても。いや、こんなの驚いて動いて騒いだとて私に非は一切ないのでは? そう思いながらも、どこか真剣な表情を浮かべている彼にそれ以上言い募ることも出来はしない。
 ひとまずは彼にされるがまま、唇にクリームを優しく優しく塗られていく。どうやら、これは保湿クリームといった類のそれらしい。あんなにもかさかさとしていたはずの唇が、クリームを塗られたところから早くも少しずつ潤いを取り戻し始めていた。
 最後にひとつ下唇を撫でて、彼の指先は私の口元から離れていく。アルベド先生の手は指先まできれいなんだなぁ、なんてそんな変態じみたことを考える自分を頭の中から蹴落としながら、私はようやく終わったかと身体から力を抜いた。

「…………リップクリームを……塗ってくださった、んですかね……??」
「リップクリームと言うよりは保湿クリームだけれど。それで少しはマシになっただろう?」
「ああ、まあ、はい……」

 どうやら少し多めにクリームを塗ってくれたようだ。上下の唇を合わせて馴染ませるようにするのだけれど、それでもまだクリームが余っている感覚が抜けない。


「……少し、塗りすぎてしまったようだね」


 まあそれもそのうち消えるだろう、と私が自己完結させた直後のことだった。
 頬に誰かの手が伸ばされ、指先で肌を柔くくすぐられていく感覚。それにはっとした時にはもう既に、私の顔はしっかりと両側から固定されてしまっていて。
 瞬きに目を閉じる。目を開く。ほとんどゼロ距離の場所にある彼の姿が私の視界を埋めつくした。
 先ほどよりももっともっと柔らかくて、そしてほんの少し温かい何かの感覚、が、私の唇にふわりと触れた。それもたった一度だけではなく、まるで小鳥が木の実を啄むかのように二度、三度と繰り返して。
 本日二度目にして最高、かつ今世紀最大級の思考回路の大爆発とあっては、私ももう石化してただ全てを受け流すことしか出来はしない。いや、受け流してはいけない。受け流してはいけないのだということは重々承知している、のだけれど。


「うん、これで丁度いいかな。このクリームはキミにあげるから、好きに使ってくれ」


 その爆弾を落としてきた彼がこんなにも平常運転とあっては、こんなにも動揺している自分の方がおかしいのではないかという気さえして。
 手のひらに乗せられたガラスケースの存在を呆然と眺めながら、私は再び1人きりになってしまった部屋の中でぽつりと言葉を転がした。


「…………え、どういうこと?」


 つまりはそういうことだ、という答えを私が彼から頂くのは、それからまた数日後のことだった。


2020/1/6

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