君さえ


ふたつ目はキミに気づいてもらえたこと(アルベド/誕生日祝い2021)


 ──今まで生きてきた世界が、粉々になって崩れ落ちた。そんな錯覚を覚えるほどの衝撃に襲われたのは、よく晴れた初秋の昼下がり。スケッチのためにと訪れた星拾いの崖でのことだった。
 星拾いの崖は、ここモンドの特産品のひとつであるセシリアの花の群生地。セシリアの清廉な白が晴れ渡った空の青に輪郭を結ぶ光景が、私はこの世界で一番好きだった。十何冊ものスケッチブックをそれひとつで埋めつくしてしまうほど。
 だからその日も、私はいつも通り、スケッチブックと画材を抱えて星拾いの崖を目指していた。もう百度は優に超えて踏みしめただろう歩き慣れた坂道を辿り、風に運ばれてくるセシリアの香りに目を細める。その日は周囲にヒルチャールの姿もなく、非常に平和な昼下がりだけが世界を満たしていた。
 今日はどんな構図で絵を描こう。確かこの間は——…
 そんなことをふわりふわりと考えながら、やがて見え始めた崖の先端と、その向こうに広がる海と空の姿を視界に移す。雄大な自然ばかりが広がるその光景の中、ひとり佇む人影を見つけて認識するまでそう時間はかからない。
 視線の先で明滅したまばゆい光は、柔らかな金の髪先に弾けた陽光のひとかけら。ちかちか、きらきらと繰り返し輝き続けるそれに思わず瞬きを落とした瞬間、ひときわ強い風が世界を攫うかのごとく駆け抜けていく。思わず閉ざしたまぶたが視界を黒く染めたがゆえ、だろうか。鼻腔をくすぐるセシリアの香りが脳を焼き尽くすほどに強く、そして気高く感じられた。
 舞い上がった前髪がはらはらと額に当たる感覚を確かめて、ようやく私は目を開く。途端に視界を埋めつくした世界の形は、目を閉ざす前と何一つ変わらない。——ああ、いや。ひとつだけ。
 たったひとつだけ。
 私を見据えるその双眸だけが。

 世界が砕け散ったのは、その瞬間。

 秋の空を閉じ込めたようなあおい瞳がふたつ、酷く真っ直ぐにこちらを見つめていた。思わず目が眩んだのは、その色彩がたまらなく美しくて、跳ねる陽光のかけらが相変わらずあまりにもまばゆかったから。
 彫刻のように整ったかんばせと、瞳や髪に宿る優しい色彩、伸びた背筋、洗練された佇まい。
 この存在以上に美しいものはきっとこの世界に存在しない。そんな断定を下してしまうほど、私は『彼』に心を奪われてしまった。一目惚れすら可愛らしく思えてしまうほどの熱病に侵されてしまった。
 手に持っていた画材を強く強く抱え込み、私は勢いよく地面を蹴った。きっとその時の私は、自分史上最高の速度で世界を駆けていただろう。
 向かう先はもちろんそのひと。
 たった一瞬で、たった一目で私の世界をゼロから作り替えてしまったひと。

「——っ、あなたのことをスケッチさせてください!!」

 駆け寄った勢いのまま地面に平伏し叫んだその言葉が、ふたりきりの星拾いの崖へ響きわたる。それが、私と彼の「はじめまして」の物語。

  ***

「……あれからもう1年かぁ」

 スケッチブックへ絵筆を走らせながら、私はぽつりとそんな言葉を転がした。すると、視線の先でセシリアの花を観察していた彼の双眸がぱちりとこちらへ向けられる。少しばかり表情に乏しいその瞳は、それでもなお世界で1番光り輝く宝石と呼んでも過言ではないほど美しい。
 思わず飛び出しそうになった嘆息を何とか噛み殺そうと口を閉ざした私に、彼はひとつ小さな頷きを返した。

「そうだね。初対面で突然キミに土下座をされたあの日からもう1年だ」
「う。その節はご迷惑をおかけしました……」

 しおしおと肩をすぼめる私にくすくすと楽しげに笑みをこぼす彼の名は、アルベド。私の生まれ育ったこの国モンドを守護する西風騎士団に所属する錬金術師だ。
 1年前、私と出会った頃にモンドへやって来て騎士団に入団したという彼は、どうやら近いうちに調査小隊の隊長に任命されるらしい。首席錬金術師というだけでも目が飛び出るほどすごいというのに、たった1年で隊長だなんて。天は彼に一体どれだけのものを与えたのだろう。

「当時はもちろん驚いたけれど、今思い返すとなかなかに愉快で面白い出来事だった。だからそう気にしなくても構わないよ」
「いやいやいや、アルベドが気にしなくても私は気にするよ……その場の勢いとはいえ恥ずかしい……」

 あの時アルベドに声をかけたこと自体に後悔はない。むしろ声をかけなかった時の方が強い後悔に襲われていたに違いない。それに、その時の行動のおかげで私は今日もこうして彼の姿をスケッチブックに描くことが出来ているのだから、なおさら。
 けれどまあ、もっと他にいい言葉のかけ方があったはずと思ったりするわけで。だからといって過去をやり直すことなんて出来ないと理解しているわけで。アルベドがあれを笑い話として気に入ってくれていることも知っているわけで。
 1年間ずっと燻らせ続けているその複雑な感情に、私はいつになったら別れを告げられるのだろう。

「その話はとりあえず置いといて本題! アルベドの誕生日って確かもうすぐだよね? 何か欲しいものとかある?」

 私の言葉にぱちりと彼の瞳が瞬く。どうやら私の問いかけが予想外だったらしく、驚いているようだ。出会った頃はほとんど見られなかった彼のそうした表情の変化に、なんだか胸の当たりが熱を持つ。その感覚に名前をつけるには、嬉しい、という言葉だけでは何かが物足りないような気がした。

「欲しいもの……?」
「そう、誕生日プレゼント。私に用意できる範囲ならなんでもいいよ!」

 なんでも……と私の言葉を反芻する彼に、私は胸を躍らせながら答えを待つ。聡く優しい彼のことだから、きっと「なんでも」なんて言っても無茶なことは言わないだろうと確信していたし、むしろ無茶なことを言われても構わないとすら思っていたから。
 元々彼自身物欲があまり強くないこともあるのだろう。視線を落として考え込むように口を閉ざした彼は、そのまま数十秒ほどの沈黙を落とす。ちなみにその間の私はといえば、考える彼の横顔の美しさにまたしても嘆息していた。変態じみているのは既に自覚しているので何も言わないでいただきたい。
 はてさて、彼は一体どんな願いを口にするのだろう。新しい画材? 欲しかった本? 研究に使う何か? クレーちゃんと一緒に食べるケーキ? あれこれと予想を立てて楽しむ私へ、ゆるりと彼の視線が向けられる。秋空の瞳が相変わらず酷く真っ直ぐに私を見つめるものだから、どうにも心臓がさざめいて仕方がなかった。
 形の良い唇が震える。その振動が世界に生み出した音は、私の予想を大きく外れた言葉を紡ぎ上げる。

「キミのことをスケッチさせて欲しいな」

 え、と零れた驚愕の声は情けなく掠れていて、風の音にあえなくかき消されていった。丸く見開いた瞳の先で、彼は変わらぬ表情を携えたままこちらを見据えている。その視線に、先程の声に、彼のその言葉が嘘でも冗談でもないことぐらいは容易に理解ができた。
 けれど、だからこそ困惑した。

「私、を?」
「うん。キミを」
「……私なんかをスケッチしても楽しくないと思うんだけど」
「それを決めるのはボクだろう?」
「いや、うん、それはまあ……そうだけど……」

 不可解だとか、気恥しさだとか、色んな感情をぐるぐるとさせながら私は何とか言い募ろうとする。けれどまあ、相手が彼である時点で私の負けは最初から確定していたも同然。

「キミが嫌なら無理にとは言わないけれど……」

 ほんのわずかに眉を下げてそんなことを言われてしまっては、もう降参する他ない。それに、そもそもの前提は「私に用意できるものならなんでもいい」なのだから、私がそれを拒否する方が道理に合わない。

「本当にそんなのでいいの? 去年は何も用意できなかったから、今年はいいものをあげようと思ってたのに」
「十分すぎるプレゼントだよ。それに、去年の分はもう貰っているからね」
「え、何それ。何かあげたっけ私」
「まあその話は後にして。ボクの願い、叶えてくれるのかい?」

 投下された新たな疑問に躓きながらも分かったと頷いた私に、彼はふわりと笑みを浮かべた。花びらが綻ぶようなその笑顔にまたしても心臓のあたりがきゅうと締め付けられる。今この瞬間を、彼の姿を、絵の中に全て閉じ込めてしまいたい。そんな狂気にも似た感情を喉元に押しとどめて、私は彼に向き合う。

「ええと……どんなポーズで、とかある?」
「いや、特にはないかな。自然体でいるキミの姿をボクは描きたいから、いつも通りでいてくれたらそれで大丈夫」
「いつも通りか……」

 スケッチをすることには慣れていても、スケッチされることには慣れていない。それどころかそんな経験は今日が初めてなのだ。いつも通りにと言われても、なんだか緊張してしまって落ち着かない。そわそわと落ち着かない身体をなんとか固定するために、私は絵筆を取ってスケッチブックに向かった。
 何か描き始めてしまえば見られていることも気にならなくなるかもしれない。そう思いはするものの、私が一番描きたい存在は今、私のことを描いているのだからどうにも筆が進まない。手持ち無沙汰にぱらぱらとスケッチブックのページをめくれば、その全てを彩った柔らかな金と青に意識を奪われる。もちろん実物には敵わないけれど、それでも私の描く彼の姿は、誰の描く彼よりも美しいと自負していた。それだけが私の誇りだと言ってもいいぐらいに。
 彼ばかりで埋め尽くされたスケッチブックは、今のこれで早くも6冊目。セシリアのスケッチの数を追い抜く日も、きっとそう遠くはないのだろう。
 そんなとりとめのないことを考える間にも、隣からはずっと紙に鉛筆を走らせる音が聞こえ続けていた。気恥ずかしくて私は視線をずっと逸らしたままなのだけれど、彼はずっと私のことを見つめているのだろう。そう思うとどうにも胸が騒いで、またしても落ち着きという4文字が私の身体から離れていった。
 彼は……彼は、どんな表情で私を描いているのだろう。
 ふとした瞬間にそんなことが気になって、私は恐る恐る視線を彼の方へと向けた。どきどきと耳元にうるさく鳴り響く心臓の音が、私の背筋に走る緊張をより一層強めていく。ともすれば呼吸の方法すら忘れてしまいそうだった。

 彼の瞳と視線が交わる。その刹那、身体が芯から焼け落ちてしまうような、そんな錯覚に襲われた。

 熱い。そう感じた。
 熱い。呼吸も止まってしまうほど。
 熱い。彼の瞳が、視線が、どうしようもなく。

 胸が焼け焦げていく感覚に、私は慌てて彼から視線を逸らした。これ以上彼の瞳を見つめていては、もう後戻り出来なくなる。本能的な警鐘が頭の中で鳴り響いていた。

「どうしたんだい?」

 彼が私を案じる声が聞こえる。突然顔を伏せたことで、体調が悪くなったのではないかという誤解を招いてしまったのだろう。

「……いや、あの、」

 そうではない。そうではないのだけれど、ならばどうしたのかと問われてしまえば的確な言葉など紡ぐことは出来なくて。「君の視線が熱くて」なんてこと、言えるはずもなくて。
 心臓の音がうるさい。呼吸が苦しい。頬が熱い。なんだこれ、なんだこれ、なんだこれ。こんなの知らない、分からない。初めて彼と出会ったあの時に感じたそれと似ているけれど、それとは何かが明確に違う感情。その輪郭を掴むためには名前をつけなければいけない。けれど、けれど。

 それに名前をつけてしまえば、私は、もう。

 縋るように視線を持ち上げた。この感情の渦に私を突き落としたのは、他でもない彼だというのに。それでも、思考回路の焼き切れた私にそれ以外の手段なんて残されてはいなくて。

 また、視線が交わった。
 秋の空を切り抜いた彼の瞳は、あの日も、今日も、そしてきっとこれから先もずっとずっと美しい。息を呑むほど、心を奪われるほど。

 きっと真っ赤に染って情けない私の顔を見て、彼はぱちりと瞬きを落とし、そして次の瞬間ふわりと優しく微笑んだ。その表情を見た瞬間に、私は悟った。悟ってしまった。

 ——ああ、もう逃げられない。

「……ようやく分かってくれたかな?」

 彼の声が耳朶を叩く。
 今までに聞いたことのないぐらいに優しくて、柔らかくて、温かくて、そして酷く甘い声。まるで世界で一番愛おしいものを前にしているかのような、そんな声。

「ボクもずっと、今のキミと同じ心地だったよ」

 その言葉に全て全てを悟るまで、そう時間はかからない。風に揺られたセシリアの香りが、今日も星拾いの崖いっぱいに満ち満ちていた。


(ひとつ目はキミと出逢えたこと)


2021/9/13 執筆

- 9 -

*前次#