君さえ


それはきみの護る世界(魈生誕祭2021)


※微怪我・流血表現/特殊設定夢主


「――お、いたいた」

 頭上から突如降り注いできたその声に視線を持ち上げれば、木漏れ日を背景に背負った誰かの姿が逆光混じりに視界を埋め尽くした。
 つい数秒前まで休息をとるためにと閉ざしていた瞳には、その柔らかな光でさえどうしようもなく眩しいものに感じられる。網膜を守るためにと反射的に目を細めれば、対価とばかりに世界の輪郭がじわりと滲んでいく。それでもなお、鼓膜を叩いたその声に、鼻孔を微かにくすぐるその香りに、今自分の目の前にいるその人が一体誰なのかは直感的に理解させられた。

「や、久しぶりだねぇ魈。うーんと……ひと月ぐらいぶり、かな?」

 わずかに間延びした調子のその声は、まだ年若い女性のもの。しかしその響きの奥には深い落ち着きと老成とが滲んでおり、聞く者に不思議な心地を抱かせる。それをもう随分聞き慣れているはずの魈でさえ、今もなおその声が生み出す旋律にはついつい心を惹かれてしまうのだ。
 ぱちぱちと数度瞬きを繰り返せば、眩んでいた目もやがて光に慣れる。正しく焦点のあった視界が世界を切り取ると同時、おもむろにその場でしゃがみ込んだその人の視線が、木陰に座り込んでいる魈のそれと同じ高さに近寄ってきた。

「……お前か。何の用だ」

 苦みや甘さ、清涼感に土臭さ。彼女の纏う、ありとあらゆる香りが少しずつ混ざり合ったその匂いは、鼻を突くようでいてどこか優しく懐かしい。薬の匂いなんて好んではいないはずだというのに、どうしてこの香りにだけは落ち着きを覚えてしまうのだろう。そんな疑問を喉元にひっかからせながら、魈は少しばかり顰めた表情で愛想もなくそう言い捨てた。
 けれども彼女はそんな魈の態度に気を悪くすることなど一切なく、むしろそのかんばせにゆったりと柔らかな笑みを浮かべて見せるのだ。

「何の用って、私は璃月を旅する薬師だよ? きみがまたどこかで怪我をこさえているような気がしたから、こうして慌てて飛んで来たのさ」

 彼女のその言葉を聞いてようやく、魈は自らの負っている傷のことを思い出す。痛覚はとうに麻痺し、血もある程度は止まっていたがゆえに、全てが彼の意識の枠外へと追いやられてしまっていたのだ。
 吸い込んだ空気に滲む鉄の香りに気づいて眉を顰めながらも、魈は彼女のその言葉を拒絶するかのように視線を逸らす。ちなみに一方の彼女はと言えば、魈の答えを待つこともせずに、背負っていた薬箱を地面に広げててきぱきと治療の準備を始めていた。

「治療など頼んでいない」
「あはは、相変わらず面白いことを言うねぇ。頼まれてなどいなくとも、怪我人や病人がいればすぐさまそこへ駆け付けて治療を施すのが私という存在だ。そんなの、この世界できみが一番よく知っているだろう?」

 ああ、確かによく知っている。脳裏を早足に駆け抜けていく記憶を横目に、魈は隠すこともなく大きなため息をひとつ吐いた。
 岩王帝君の招集により、璃月の護法夜叉として妖魔を滅すること早2千年。彼女との付き合いも、それと同じく早2千年。戦いと暴力、そして殺戮の中へ常に身を置く魈がこうして手傷を負う度に、璃月の旅訪薬師を名乗る彼女はどこからともなく現れ、頼んでもいないのに手際よく魈の手当てをしてはまたどこかへと去って行く。そんな不可思議な存在だ。
 それこそ最初は本気で彼女を拒絶していた魈ではあったが、どうにもこうにも彼女の方が上手かつ、手当てが終わるまでは本当に執拗に追いかけまわしてくるものだから。最終的には魈の方が折れ、こうして口では苦言を呈しながらも、彼女の好きなようにやらせるのが一番こちらの負担が少ないという諦めの境地に達したのだ。少々強引な所があるものの、彼女の治療の腕自体は他と比較する必要もないほど優秀であるゆえに、無駄な抵抗さえしなければ治療はあっという間に終わるからということもあって。
 数えることも億劫なほどに繰り返された彼女との邂逅を思い返しながら、今日も今日とて、魈は深いため息を最後に彼女の方へと自らの左腕を差し出した。そうすれば彼女は満足げに笑みを深くして、深い切り傷によって痛々しい見た目を晒している彼の腕へそっと手を伸ばしてくる。

「おやおや、今回は随分派手にやられたねぇ。消毒するから、少ししみるよ」

 口調と表情の朗らかさや治療前の強引さとは対照的に、魈の腕へと触れる彼女の指先はどうしようもなく繊細で優しい。傷口へと落とされたその視線も、今はやはり真剣な表情を携えていて。ぴん、と張り詰めた弓を連想させるその姿は、彼女自身の容姿や雰囲気も相まってかどうにも酷く目を惹いた。

 ――普段からずっとそうしていれば良さそうなものを。顔を明後日へ背けたまま視線だけを彼女へ送り、魈は脳内でそんな言葉を呟いた。

「……はい、これで終わり。包帯が緩かったりはしないかな?」
「……問題ない」
「うん、ならよかった。きみのことだからこうしていれば明日にも治るだろうけれど、いつ傷が開くか分からないからしばらくは安静にね」

 ま、きみのことだからそうはいかないのだろうけど。くすくすと笑いながらからかい混じりにそう言う彼女へ、魈はゆったりと視線を向けた。清潔な真白い包帯がしっかりと巻かれた腕は、けれど少しも動きやすさが損なわれてはいない。

「次に怪我をした時はちゃんと私を呼んでおくれよ。どこへでも治療しに行くから」
「……お前も、我を呼ばなかっただろう」

 去り際の常套句を放った彼女へ、いつもならば無言のままそれを見送るはずの魈が言葉を放った。
 それが示すのは、しばらく前に起きた出来事のこと。何か危険に巻き込まれた時には魈を呼べと以前から言っていたにもかかわらず、怪我人の治療に向かった先で魔物の群れに取り囲まれた彼女はそうしなかったのだ。
 その時は魈が危険を察知して駆け付けたために大事にはならなかったのだが、自分のことを棚に上げてそうのたまう彼女へ少しの不満が募るのも仕方のないことだろう。……最初に棚に上げたのは自分の方であることについては、今はそっと目を瞑ることとして。

「うーん、最初に私の言うことを聞いてくれなかったのはきみの方なのだけど、確かにそれを言われると少し痛いなぁ……その節は本当に助かったよ、ありがとう」

 護身のために彼女がある程度の戦闘能力を身に着けていることは魈も重々知っているが、その時彼女は背に怪我人や一般人を守っていたのだ。彼女ひとりならば魈の手助けなど無くとも問題なかっただろうが、誰かを守りながら戦うなんて器用な真似をできるほど、彼女は戦闘に向いてはいない。
 それをちゃんと自覚しろと叱責するように、魈は彼女を見つめる瞳を細めてみせた。

「我の怪我は放置していてもいずれ癒える。それで死ぬことはない。だが、お前の場合はその危機が直接生死に関わることになるんだ」

 彼女は魈たち仙人と同じく、不老長寿ではあっても不死ではない。他者の命を救うためにと何千年もの間東奔西走し続けている彼女が彼女自身の命を粗末に扱うだなんてことを、どうして許すことができようか。
 魈はきっとそれを認めないけれど、彼自身、それが不本意なものであっても彼女から受けた治療には恩義を感じていたし、2千年にも及ぶ付き合いの中で彼女へそれなりの情も抱くようになっていたのだ。絶対にそれを口にすることはないし、認めることだってしないけれど。

「……ふふ」

 厳しく冷淡な口調で言葉を放たれたにも関わらず、やはり彼女がそれに傷ついたり怒ったりすることはない。むしろ噴き出すように笑い声をあげるのだから、魈の方が怪訝な表情を浮かべることになってしまう。

「心配してくれてありがとう、魈」

 魈としては心配などという感情を彼女へ手向けたつもりなど毛頭なかったのだけれど。そう言って笑った彼女の声が、表情が、どうにも柔らかくて嬉しげな様子を見せていたものだから。なんだか否定することすら億劫になってしまって、魈はまた、言葉もなく視線を彼女から逸らした。

「――ああ、そうだ」

 視界の外から不意に飛ばされたその声に、魈はぱちりと目を瞬かせる。彼女のことだから、今日も治療を終えたらすぐにここから立ち去るものと思っていたのだけれど。どうやら今日はまだ何か魈に用事があるらしい。
 何かを思いだしたように薬箱をごそごそと探っていた彼女は、お目当てのものを見つけたのかぱっと魈へと向き直る。怪訝さから思わず彼女へと向けていた視線の先で、花が綻ぶような笑顔が咲いていた。

「はい、きみにこれをあげるよ」

 半ば押し付けるような形で彼女が差し出してきたそれを、魈は少しの戸惑いを引き連れたままひとまずは受け取ることにする。

「何だ、これは」
「私特製の入浴剤さ。確かきみ、今はよく望舒旅館にいるんだろう? そこの湯船を借りて使ってみておくれよ。疲労回復、健康増進、睡眠改善、治癒促進、肌の若返りその他諸々の効能付きだ」

 手のひらにころりと転がされたそのガラス瓶を見つめながら、何故突然そんなものを渡されたのかと魈は考える。それこそ最初は疑問符ばかりが頭上に浮かんでいたのだけれど、今日が一体何月何日であるのかを思い出せば答えはあまりにも明白だった。

「4月17日。今日は年に一度のきみの誕生日だからね、お気持ち程度だけれど、今年も祝わせておくれよ」

 これが始まったのは、確か彼女が魈の誕生日を知った千年と少し前のこと。毎年毎年飽きもせずこうして魈の存在を祝いに来る彼女へ向ける悪態も、もう魈の中には残されていなかった。
 きみと出会えて幸せだと、きみがここに居てくれていることがとても嬉しいのだと、そんな言葉を惜しげもなく魈へ向けてくる彼女の心中など、未だに魈には皆目見当もつきはしない。それでも……不快では、なかったから。それを、疎ましいとはどうしても思えなかったから。
 手の中にそっとガラス瓶を握りしめる。冷たいはずのそれにわずかな温度を感じたのは、きっとただの錯覚にすぎないのだろう。

「今日は特別な日だからね、他に何か願い事があるなら聞いてあげるよ。治療をやめろ、とか以外ならね」

 くすくすと冗談交じりにそう問いかけてきた彼女は、きっと魈ならば考える間も置かずに「必要ない」と答えると思っていたのだろう。考えるように口を閉ざした魈の姿を見て、予想外だとでも言いたげに彼女の瞳が瞬いた。
 数秒の沈黙。少しずつ困惑を孕み始めた彼女の首が小さく傾げられたと同時に、魈の手がおもむろに彼女へと伸ばされる。

「…………枕をご所望だったのかい?」

 そのまま腕を掴まれて身体を引かれた彼女は、気付けば木の幹に背を預けた体勢で座らされていて。さらにはその膝には魈の頭が寝かされているのだから、身じろぎたくとも出来はしない状況下。困惑をさらに深めながらも何とか状況を理解した彼女は、早くも眠りに落ちようとしている魈へとそんな問いかけを落とした。

「少し休む。1時間経ったら起こせ」

 いまひとつ答えになっているのかいないのか分からない言葉だけを残して、魈はこれ以上話すつもりはないとでも言いたげに再び口を閉ざした。
 そんな彼の様子に小さく苦笑をこぼしながらも、彼女がそれを拒絶することはない。そもそも願い事を聞いてやろうと言い出したのはこちらであるし、この程度の願いならばいくらでも叶えてやりたいと思ったから。
 まあでも、行動より先に言葉で断りを入れて欲しかったなぁ。そんなことを考えながら、彼女は自らの膝の上で静かに眠る魈の髪をそっと梳いてやる。それに少しの身動ぎをした彼であったけれど、どうやらそれを咎める気も止めさせる気も特別ないらしく、何も言わぬまま彼女のその指先を好きにさせている。その姿が何だか可愛らしくて、愛おしくて、またひとつ笑みがこぼれ落ちた。

 ――どうかこのひと時ばかりは、苦痛も悲しみもない穏やかな夢の中で彼が眠れますように。

 さらさらと風が吹く。
 木の葉が揺れて、雲が流れた。
 こぼれ落ちてくる日差しの温かさに思わず欠伸をすれば、世界に満ちた昼下がりがより一層平和なものに感じられた。



2021/4/17

お誕生日おめでとうございます。
生まれてきてくれてありがとう、出会ってくれてありがとう、大好きです弊ワット最強アタッカー、これからもどうぞよろしく。
どうかその生に幸の多からんことを。
この設定でいつか何か書きたいなぁ(願望)

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