君さえ


はじめまして


「――あれ、君、もしかして起きてる?」


 ……暗闇の中に、ふと誰かの声が聞こえた。

 それは何もないがらんどうの世界に初めて与えられた響き。確かな輪郭を持たなかった身体が生まれて初めて知覚した音。鼓膜を抜けて聴覚野に辿り着いたそれが『人の声』であると理解した瞬間、深く深くに沈み込んでいた意識が急速に水面へと引き上げられていく。
 ぱちり、ぱちり、と何かが連鎖的に弾けていくような感覚。粛々と保たれ続けていた『無』が次々と『有』に塗り替えられていく、革命の瞬間。

 それはひとつの大きな世界の始まりであると同時に、ひとつの小さな世界の終わりだった。

「……って、なんだ、まだまどろんでる途中かぁ……はーあ、君ってばほんとに寝坊助だよね。寝るなら寝る、起きるなら起きるではっきりしてよ」

 また、声が聞こえた。先ほどよりもいっそう明瞭なその響きが引き金となり、聴覚以外の感覚もまた次々と目を覚まし始める。

 ――ここは一体どこだろう。
 ――自分は一体『何』だろう。

 身体を包み込む柔らかな温かさへ擦り寄りながら、ふわふわと身体が浮き沈みするような錯覚に酔いしれる。けれどもその一方で、少しずつ、少しずつ、まどろみの中にあったはずの意識はしっかりと現実を捉え始めていて。曖昧に揺れていた自我が、その輪郭を確かなものに変え始めていて。

 ゆっくりと瞼が持ち上がった。

 初めて世界に晒された瞳へ、ありったけの光が容赦なく注ぎ込まれていく。角膜を、虹彩を、ガラス体を次々に駆け抜けて、光は網膜に像を結んだ。

 ──それは、彼が世界と生まれて初めて対峙した瞬間。

「……ああ、ようやく起きた?」

 輪郭、陰影、色彩。
 声。言葉。
 自分以外の誰か。

 一度に与えられる情報のあまりの多さに、目覚めたばかりの処理能力が追いつかない。それまでずっと、無の世界に自我もなく佇んでいた彼にとって、現実の世界というのはあまりにも騒がしいものだった。

「おはよう、白亜の子。気分はどう? 身体に痛みや不快感はない?」

 教えられるまでもなく身体が勝手に行っている呼吸と瞬きとを無意識に繰り返しながら、頭だけをゆるやかに傾けた彼はぼんやりとその人を見つめる。

「まったく、師匠が丁度外出してる時に目覚めるだなんて。随分と間が悪い子だね、君は」

 すらすらと流暢に紡がれていくその声は確かに脳まで届いているはずなのに、立ち止まった思考回路ではその意味を理解することまでは出来なかった。ゆえに彼はそれをただ聞き流すだけとなってしまっているのだけれど、声の主がそれを気にしている様子はない。
 脳裏にぱちりぱちりと際限なく爆ぜるのは、恐らく自らの基礎構造に織り込まれた『知識』という名の情報群だろう。目の前にいるひとは『女性』で、自らの寝そべっているベッドの脇に椅子を寄せて腰かけていて、夜の空切り取ってきたかのような黒い髪を持っていて、空と海とを半分ずつ溶かし込んだ瞳で真っ直ぐにこちらを見つめていて。

「……あ、ぅ」

 何か言葉を返そうと無意識のうちに口を開いていた。しかし喉が乾燥しきっていたせいで想像していたように声を紡ぐことができず、唇からはただ掠れた喃語のような音がこぼれ落ちていくだけ。
 喉元に何かが引っかかっているような不快感に耐えきれずけほけほと咳き込んでしまう。その様子に彼女もこちらの状況を理解してくれたようだ。

「喉が渇いているのかな。ちょっと待っていて」

 どこか慌てたように立ち上がった彼女は機敏な動きで部屋の片隅へと歩いていった。その背中を視線で追いかけながら、またひとつ乾いた咳を落とす。
 彼らがいるのは正方形の小さな部屋。窓のないその空間は、けれども天井や壁に設けられたランプのおかげで十分な明るさが保たれている。視線をおもむろにランプの方へと向ければ、ちらちらと揺れる温かな橙の光によって今にも網膜が焼かれてしまいそうで。彼は即座に目を細め、視線を彼女の方へと戻した。
 とぽとぽと柔らかな水音と、その数秒後に再びこちらを振り返った彼女。彼女の動きに合わせて揺れるたおやかな黒髪が、ランプの炎を受けて柔らかな赤に染まっている。その毛先に弾かれて煌めく光の粒がどうしてか酷く胸を突いた。呼吸すら止まってしまいそうなほど複雑なその感情に、今の彼はまだ正しい名前を与えることができない。それでもただ何となく、ずっとその姿を見ていたいような、そんな思いが胸に燻った。

「身体を起き上がらせることはできる?」

 手の中に小さなコップを携えたまま、彼女は先ほどよりもいくらか柔らかさの滲む声色でそう問いかけてきた。
 身体を起き上がらせる、の意味を思考すること瞬きひとつ分。即座にどうすればいいのかを理解した彼は、仰向けに寝そべっていた状態から腹筋と背筋、そして腕の力を駆使してベッドの上に上体を起き上がらせる。まだ筋力が十分ではないせいか途中で少し身体が止まったけれど、辛うじて再びベッドに沈み込んでしまうようなことはなかった。

「よし。それじゃあこれを持って。落とさないように気をつけるんだよ」

 手渡されたコップを両手で受け取る。すっぽりと彼の手の中にも納まるそれは透き通った水で満たされていて、乾ききった喉が目の前のその液体を早く飲み干せと必死に思考回路へ訴えかけてくる。
 本能的なその欲求に従うまま口元へコップを寄せ、ゆっくりと水を喉に流し込んだ。冷たくも熱くもない優しい温度の液体は何の違和感もなく喉を通り抜けて、じわじわと身体全体を潤わせていく。意識がより鮮明になったような心地に胸を撫で下ろしながら、空になったコップを手に再び彼女へと視線を向けた。

「……きみ、は、だれ?」
「うんうん、思考にも発話能力にも特別問題は無いようだね。その問いに答える前に、先に君のことを教えてあげるよ。君、まだ自分が誰なのかも分かっていないだろう?」
「……じぶんが、だれ、なのか」
「そう。君の名は『アルベド』。偉大なる錬金術師レインドットによって生み出されたいのち」

 アルベド。
 彼女の声で紡がれたその文字列を聞いた途端、頭の中に何かが爆ぜたような、そんな不思議な錯覚を覚えた。それはきっと、自我に対して与えられた強烈なひとかけらの明滅。

 その瞬間彼は、アルベドは、『自分』という存在が一体何であるのかを改めて理解し直した。

「そして、私はニグレド。レインドットの優秀な一番弟子で、君の姉弟子にあたる存在だ」

 だから精々敬いたまえ、生まれたばかりの弟弟子くん。口角を緩やかに持ち上げてそう言った彼女に、アルベドはぱちりぱちりと瞬きを数度落とした。
 レインドット、一番弟子、姉、――ニグレド。
 頭の中に彼女の言葉を何度も何度も反芻し、ようやく滑らかに動き始めた思考回路をあちこちへ走らせていく。真っ白な空白の中に、ぽたりぽたりと色彩が与えられていくようだった。

「きみも、ぼくとおなじ、そんざい?」

 点々と散在した情報たちを線で順に繋ぎ合わせていく思考作業の中、ふとそんな疑問がアルベドの中に浮かび上がった。本当ならばもう少し考えた後にそれを口にするべきだったのだろうけれど、まだ不安定な自己制御能力では思ったままを即座に声へと変換することになってしまって。
 もしかするとそれは、下手をすると彼女にとって酷く失礼な質問だったのかもしれない。そんな懸念がぶわりと胸の内に花開く。けれどもそんなアルベドの内心に反して、ニグレドはその表情をひとかけらも変えることなく彼の問いかけに答えた。

「いいや、違うよ」

 きっぱりとしたその言葉と声色に、アルベドは思わずほっと胸を撫で下ろす。けれどそれと同時に、ほんの少しの予想外を覚えた。
 何となく。本当にただ何となく、アルベドは無意識のうちに彼女と自分とが同じ存在だと信じて疑っていなかったのだ。
 アルベドは何も言葉を発することなく彼女をじっと見つめた。そして彼女もまた、酷く真っ直ぐにアルベドを見つめていた。

「……残念ながら私と君は全く違う存在だ。でも、何も心配することはないよ。君は間違いなくレインドットの生み出した最高傑作、『白亜の子』なのだから」

 ベッドサイドに立った彼女の手が、アルベドの方へとおもむろに伸ばされる。咄嗟に視線で追いかけたその手のひらは迷うことなくアルベドの頭の上に置かれ、そして緩やかなリズムでぽんぽんと頭を撫でてみせた。
 まるで本当の姉弟かのようなその行動に、どうしてかアルベドの思考回路がぴたりと止まる。先程の「予想外」よりもさらに衝撃的なそれは、きっと「驚き」と呼ばれる感情。
 目をぱちぱちと早足に瞬かせるアルベドの表情を覗き込んで、ニグレドはくすくすと喉を鳴らすように笑った。

「さあ、何はともあれ目覚めたなら君にはやることが盛りだくさんだ。この私の名に賭けて、師匠が帰ってくるまでに君のことを可能な限り教育して見せようじゃないか」

 なにやら息巻いた様子の彼女は、どうも師匠という存在にかなりの憧憬を抱いているらしい。褒められたい、認められたい、そんな思いが見ているだけでもひしひしと伝わってきた。
 アルベドの手からコップを預かったニグレドは、それを元の場所へ戻して再びアルベドの佇むベッドへと歩み寄ってくる。自らを見下ろしてくる彼女の瞳を見つめ返しながら、アルベドは小さく首を傾げた。これから一体、何が始まるのだろうかと。

「それじゃあ早速歩行訓練を──、と言いたいところだけど、先に何か食べておいた方が良さそうだね。……うん、まずはお粥あたりから始めようか」

 生まれて初めて食べた料理である彼女お手製のチーズリゾットは、とても温かくて優しい味がした。


2021/3/14
2021/3/29 加筆修正

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