君という生命
白銀の世界を包み込んだ空気があまりにも冷たく静謐で、今にもきんきんと耳鳴りがし始めそうだった。
身動ぎどころか呼吸すらも潜めたまま、アルベドは雪にまみれた枯れ木の影から顔だけを覗かせている。しんしんと降り注ぐ雪のひと粒が、その眼を縁取る長いまつ毛にぱちりと爆ぜては消えていく。パライバトルマリンの宝玉をそこにはめ込んだかのような丸い瞳は、雪が反射したましろい光をさらに反射してきらきらと淡く輝いていた。
視線の先、約50メートル。時が止まったかのようにも錯覚されるほど白く氷った世界の中に、ふと何かの影が揺れる。アルベドが息を呑むとほぼ同時、彼の真隣で極限まで張り詰められていた弓が鋭い矢を放った。
箒星のごとく世界を切り裂きながら雪原を駆け抜けていった矢の切っ先は、ひとかけらの迷いもぶれもなく先程揺れた影に吸い込まれていく。正しく急所に当たったのだろう、断末魔もそぞろに倒れ伏したその影に、周囲の木々からどさどさと雪の塊が滑り落ちるのが見えた。
再び数拍の沈黙。は、と思い出したかのように呼吸をしたアルベドは、慌ててその視線を自らの真横へと向けた。
地面にしゃがみ込んだ体勢のまま、隣に立つそのひとの横顔をじっと見つめる。そんなアルベドの視線にも彼女はきっと気づいているのだろうけれど、アルベドのそれよりいくらか深い色彩を孕んだその双眸がアルベドを見つめ返してくることはなかった。空気の冷たさも相まってどこかぴりりとしたその横顔は、今しがた自らが弓で射殺した獣の影を静かに静かに見つめている。ゆるく吹きすさんだ風に黒い髪がはらはらと踊る様が、白銀の世界に酷く映えていた。
「――よし。それじゃああの鹿を早く持ち帰ろう。凍り付いた肉を捌くのは骨が折れるからね」
何か物思いにでもふけるかのようなその様子も、しかしひと呼吸の間にたちまち消え去った。凍てついた冬の空のような横顔はくるりとアルベドの方へ向けられ、先程とは打って変わっていつも通りのニグレドの姿が彼の視界に飛び込んでくる。ゆるりと柔らかく弧を描いたその目元に、思わず自らの表情まで綻んでしまいそうになった。
弓を構えて獲物を狙う時のその真剣な横顔を、研ぎ澄まされた刃物を連想させる彼女のその雰囲気を、アルベドは密かに好んでいた。しかしそれでも、この瞬間にはやはりいつも通りのニグレドが何よりも好ましいと思わされてしまう。ニグレドが自らに向けてくれるその優しい表情が、アルベドは一等好きだった。
「……ニグレドの弓の腕前は相変わらずすごいね」
「ふふん、まあね。私は天才なのだから、これぐらいは朝飯前さ」
天才。
彼女はことあるごとに自らをそう称する。それは一見酷く自信過剰で高慢な印象を他者に与える言動なのだけれど、アルベドはちゃんと理解していた。
弓を背に射抜いた鹿の方へと歩いていくニグレドの後を追いかけながら、アルベドはそっと彼女の手を盗み見る。黒い革手袋に覆い隠されたその輪郭は確かに女性らしく華奢なものだけれど、布の向こうにある彼女の指先は様々な傷跡にまみれている。それはたとえばナイフで切った傷跡だったり、弓の練習を何度も何度も繰り返した痕だったり、薬品や熱による火傷の痕だったりと様々だ。
つまりは何が言いたいのかというと、彼女はただの天才ではなく、他者に知られぬ場所で血を吐くほどの努力を積み重ねた果てに、『天才』という言葉に相応しい者となった存在なのだということ。
まだ物心がついてから2年半少々のアルベドにも、彼女の積み重ねてきた時間の重さは痛いほどに理解出来ていた。
「ニグレド、ボクが担ぐよ」
「おや、手伝ってくれるのかいアルベド。でも残念ながら、このサイズの鹿はまだ君ひとりでは難しいだろう」
くすくすと笑みまじりのニグレドの言葉に、アルベドは胸中をわずかばかりもやもやとさせる。物心ついた当時は確かにまだニグレドの肩口にも満たなかったアルベドの背丈も、今となっては彼女の顎先程度には伸びているというのに。相変わらず彼女はこうしてアルベドを子ども扱いするのだ。
それはまあ、ニグレドと同じくレインドットの下で学んでおり、知識があって知能が高いと言えどもまだ世界と出会って2年半のアルベドは、子どもと呼ばれて致し方のない存在ではあるのだけれど。釈然としない思いがほのかに目覚めてしまうのも仕方の無いことだと思う。それをレインドットに相談した時、彼女も珍しくその表情を和らげて「それはあなたの成長に必要不可欠な感情だ、大事にするといい」と言っていたのだから。
「……うん、随分と毛並みのいい鹿だ。これならきっといい肉と毛皮が取れる。大地に感謝しないとな」
そんなアルベドの内心も露知らず、ニグレドは雪の中に倒れ伏した鹿のかたわらへしゃがみこみ、その身体の様子を確認し始める。未だに噛みきれない感情を燻らせながらアルベドもその傍らに腰を下ろし、彼女と共に、もう二度と動かぬ生命の残骸を見つめた。ましろい雪の上に、微かな赤が散っている。
この鹿が冬眠を必要としなかったのか、それともただ冬眠のタイミングを逃してしまっただけなのかは分からない。けれども確かにその毛並みは酷くきれいで、きっと健康的な生活を送っていたのだろうということがひと目で分かる。
この地、カーンルイアでは非常に珍しい、自然の中に生きていた動物。
真っ黒な瞳が、虚ろに世界を見つめていた。そのがらんどうをしばらく見つめ、アルベドは隣の彼女に倣って黙祷の祈りを捧げる。脳裏を掠めたのは、自分がかつて佇んでいたあの暗闇の底。
弓矢に臥したこの鹿は、これからアルベドたちの生きる糧となる。それが自然の摂理だと理解していながらも、やはりどうしたって思考は深く溺れてしまう。
他の命を食らって自らの命を長らえさせる。そうしていつしか自らの命も、他の命の糧となる。そうして命は、世界は循環していく。
生命は単調なものだと、考える必要も無いものだと、生まれてすぐの自分はそう考えていた。けれど、レインドットやニグレドの行う錬金術を目にする度に、ニグレドの隣で世界を見つめる間に、少しずつその考えは変化していって。
「──生命について、考えているのかな」
ニグレドの声が、静かにアルベドの鼓膜を叩いた。
はっと意識を現実へ戻したアルベドは、鋭く確信をついた彼女の言葉に目を見開く。交わった視線の先で、深いあおの色が真っ直ぐにアルベドを見つめていた。
胸のあたりがどきりとする。
「……まだ、ボクにはよく分からないんだ」
生きるということ、死ぬということ、生命というもの。生物錬金を学ぶ上で欠かすことの出来ないそれらへの理解。
どうしてか彼女と目を合わせていることが出来ず視線を落としたアルベドは、虚ろな鹿の瞳からも逃げて視界一面を足元に振り積もった雪で覆い隠した。
物心がついてから、自我を得てから、この世界に『アルベド』として生まれ落ちてから早2年半。沢山のものを見て、沢山の知識を得て、沢山のことを考えてきた。それでもまだ、この世界には分からないことばかりで。
偉大なる師匠のレインドットや、天才である自らの姉弟子ニグレド。そんな彼女たちの背中を追いかけていると、どうしようもなく心が急いた。自分も早く、早く、早く──
「なら、考え続ければいい」
酷く端的で、単純で、だからこそその言葉は酷くアルベドの脳を揺らした。
思わず視線が持ち上がり、再び彼女の姿がアルベドの虹彩に映り込む。彼女は笑っていなかった。けれどアルベドを見つめるその瞳は、相変わらずたまらないほどに優しく、そして温かかった。肌を突き刺す世界の寒さも、この時だけは忘れてしまうほどに。
「分からないことは悪いことじゃない。けれど、ならばこそ、思考を止めるな。考え続けろ。それこそが錬金術師のあるべき姿だ。──と、言われたことがある」
それはいつ? 誰に?
そんな疑問が頭に浮かんだ。けれど今度はそれが口をついて出ることはなく、ただただアルベドは唇を引き締めて彼女を見つめ続けた。
ゆったりと彼女の瞳が瞬きを落とす。
「ずっと昔のことだよ。私が君と同じ疑問に頭を悩まされていた頃のことだ」
「……ニグレドは、答えを見つけたのかい?」
「いいや、まだだよ」
子気味良いほどきっぱりとしたその答えに、またしてもアルベドは目を丸くした。その様子にニグレドはくすくすと笑って、そうしてまた言葉を紡ぐ。その声色は柔くゆったりとしていて、いつかの眠れぬ夜に、彼女が寝物語を語ってくれた時のことが思い出された。
「急ぐ必要なんてない。君にはこれからまだまだたくさんの時間があるのだから」
黙祷を終え一足先に立ち上がった彼女は、そのままの勢いで肩に軽々と鹿を担ぎ上げる。その体躯は彼女の身体よりひとまわりかふたまわりほど大きいはずだというのに、どうして彼女はそうも簡単に担いでみせるのだろう。
そんなことを考えながら、今の仮住まいへと戻ろうとする彼女の後を追いかける。その手にはつい先程彼女から手渡された弓と矢筒が抱えられていた。
「そうだ。師匠いわくもうしばらくはこの雪山に留まる予定のようだし、この鹿の毛皮を使って師匠に暖かいコートでも作ってあげようか」
いいことを思いついたと明るい声をあげたニグレドは、どう思う? と問うようにアルベドへと視線を向けた。
相変わらず、この姉弟子はどこまでも師匠のことが大好きで仕方ないらしい。常に自信に満ち溢れた聡明な彼女の横顔が、師匠の話になると途端にあどけない少女のようなそれに変化する。もちろんこちらも師匠のことを慕っているアルベドは、そんな彼女の姿に思わず口元を綻ばせた。
その数日後、鹿の皮を使った手袋をニグレドがアルベドへと贈ってくれたのだけれど、それはまた別のお話。
2021/3/15
2021/3/23 加筆修正
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