君さえ


何のために生きましょう、(decn/降谷/男夢主/親愛/死ネタ)


Attention
・2018/5/20に支部にて開催されたdecnメリバ夢企画へ提出した作品
・救済、組織壊滅による原作改変あり
・転生オリジナル降谷零の双子兄設定男主人公
・バーボン、安室透成り代わり要素があり
・名前のあるモブ(オリキャラ)がいます。
・捏造過多、圧倒的ご都合主義
・n番煎じ
・血、怪我、死ネタあり


 霞む視界と、覚束無い思考。
 動かすことままならない体。
 脳裏に浮かんでは消える、ぼんやりとした映像。

 視線の先で、もぞもぞと身じろぐ小さな命。
 自分とともに、この世界に生まれ落ちた命。
 自分の家族であり、兄弟であり、半身であり、そして、

 そして、何よりも大切な存在。
 ——自分の、命よりも。

 生まれ落ちたその瞬間。
 いや、胎内にいた時から。
 ——いいや、きっと、それよりもさらに前から。

 ずっと、ずっと思っていた。
 この命を、何としてでも守らなければいけないと。

 ***

Side R

「——名前!!」

 隣のクラスの教室。その後ろ側の扉を俺は乱暴に開け放った。その音に一度は驚いてこちらを振り返った教室内の生徒たちは、訪れたのが俺であると分かると何かを察したような表情を浮かべた後、それぞれのしていたことへと戻っていく。彼らがもうこの来訪に慣れてきているのがありありと分かり、思わず苦い顔になってしまうのは仕方のないことだろう。
 そんな教室の窓際、後ろから3列目の席。窓の向こうから降り注ぐ太陽の光を浴びてうとうとしていたのだろう人物が、ついていた頬杖を解いてゆっくりとこちらを向いた。見慣れたその人物は俺を視界に映し、はて、と首を傾げる。俺がここへやって来た理由が分からないのだろう。
 立ち上がるその姿を見据えたまま俺は教室の中に足を踏み入れ、大股でその人物の元へと向かう。
 
「——あれ、零、どうしたの?」
 
 自らの前に立った俺を見つめ、俺と同じ顔で、同じ声で、そいつはへらりと笑った。
 
 ——俺には双子の兄がいる。

 俺と全く同じ顔、全く同じ声をした、俺の片割れ。
 名前は名前。
 今俺の目の前にいる、この男だ。
 
 兄といっても、所詮はたった数分数秒先に生まれたというだけ。勉強も運動も常にトップであり人間関係も広く良好な俺と比べて、名前は勉強も運動も人並み、人付き合いも、嫌いだとか苦手だとかいうことはないのだろうが積極的とは言い難かった。性格も、例えるならば俺が“剛”で雫が“柔”と言ったところだろうか。幼なじみの景光曰わく、「ゼロの笑い方が“ニッ”って感じで、名前の笑い方が“フワッ”って感じだな!」らしい。あまり意味は分からないが、的は射ている、と思う。
 そんな俺たちを見て、多くの人は初め、俺が“兄”であると考えるらしい。
 正直に言うと、幼い頃は俺もそう思っていた。
 幼い頃、名前は体が弱くて成長も遅く、双子の兄弟であるはずの俺よりひとまわり小さな体躯をしていた。それに加えて鈍くさくて泣き虫で、何もないところで転んではすぐに泣く、そんな子供だった。そして、そんな名前の手を取って起き上がらせ、泣き止むまで側にいるのが俺の役目だった。こんなことが何度も続けば、自分の方が兄なのだと思ってしまうのも無理がないことだと思う。
 まあ今となっては名前の虚弱体質もなりを潜め、泣き虫もなくなり、身長も俺と同じぐらいに伸び、外見だけならまさに俺と瓜二つの青年へと成長した。だがしかし、幼い頃の癖や習慣はどうしても抜けないもので。便宜上は名前の方が“兄”であると理解はしているのに、気づけばなんだかんだと名前の世話を焼いたり、あれこれと口を出したりしてしまっている。そのたびに結や周りの連中から囃し立てられるのだが、これはもう、いつまでたってもふわふわふわふわしている名前が悪いのだということにした。
 
 ——今だってそうだ。
 
「お前、また弁当忘れてたぞ」

 手に持っていた包みを、自分のそれと同じ高さにある胸元に押し付けた。空色の瞳を丸く見開いてそれを見た名前は、数秒をおいて「ああ」と合点の行った顔をする。

「わざわざありがとう、零」

 またへらへらと締まりのない笑顔を浮かべて、名前は俺のものと色違いの保冷バックに入れられた弁当を受け取った。

「いつも言ってるだろ、家を出る前にちゃんと確認しろって」

 今朝も忘れ物は無いかと聞いたはずなのだが、案の定これだ。もう諦めたほうがいいのではないかと思ったりもするが、それではこいつ自身のためにならないと思い、しつこいぐらいに口酸っぱく言っている。…というのに、

「いやぁ、零がいるなら大丈夫かなって思って、ついつい気が抜けちゃうんだよね」

 首に手を当てて、少し首を傾げて、俺と全く同じ顔と同じ声で、俺とは全く違う表情を浮かべながら名前は言う。正直、暖簾に腕押し糠に釘。いっそ名前の面倒を見ることを止めてしまえば俺も楽になるのだろうが……。

「はぁ…俺がいなくなったらどうするつもりだ、お前は」
「えー、……寂しくなるねぇ」
「違わないけどそうじゃないだろう馬鹿。もういい、次からは気をつけろよ」

 こうなんだかんだと言いながら思いながら、それでも名前の手を引いて世話を焼いてしまうのは、つまりそういうことだ。 
 ……絶対に口にはしないけれど。

 ***

「名前、お前、進路は決めたのか?」

 夜。名前の部屋に無断で押し入った俺は、その辺に置いてあったクッションに座り、視線の先でベッドで寝転びながら本を読んでいる名前にそう切り出した。
 突然の問いだとは思うが、意味のない問いではない。俺たちはもうすぐ高校3年生。そう、人生の大きな岐路に立つ。進路について考えることは、普通のことだ。自分の片割れの進路が気になるのも、普通のことだ。
 名前は本から視線を外して、俺の顔を見て、しばらく天井を仰いだ後、へらりと笑う。

「うん、警察官かな」
「それは、俺の進路だろうが!」

 俺は自分が座っているものとは別のクッションを鷲掴んで、名前に投げつけた。名前は軽々とそのクッションをキャッチして、その勢いのまま起き上がる。名前の腕の中で柔らかいクッションがぐにゃりとその形を変えた。

「えー、でも、それ以外思いつかないしなぁ」

 ベッドの上で胡坐をかいて座り、名前は唇を尖らせながら言う。その子供みたいな姿に俺は大きくため息をついた。

「……お前は本が好きなんだから、本の出版とか編集とか、そういうのに進んだらどうだ?」

 俺の言葉に、名前はまた天井を仰ぎ見る。俺としてはそれは悪くない考えだと思った。名前は幼いころから本が好きで、時間があれば何か活字を目で追っていたから。好きなことを仕事にできるのは、幸せなことだ。俺は、名前に幸せになってほしいと思っている。
 俺の言葉から数秒の間を置いて、名前は視線を俺に戻した。


「それも悪くは無いけど、やっぱり俺も警察官を目指すよ。——やらなきゃいけない事があるから」


 いつもと変わらない、締りのない笑みを浮かべているはずなのに、何故だか一瞬、俺には名前がまったく別の人間のように見えた。背筋がぞっとして思わず息を呑む。心臓が変なリズムを刻み、胸が痛い。

「……なんだよ、やらなきゃいけない事って」

 震えそうになる声を何とか押さえつけながら、俺は言葉を紡ぐ。くぐもってしまったその声は、それでも2人きりの部屋の中では十分なほどに響いた。
 名前は笑みを崩さない。俺と全く同じ顔をしているくせに、こいつは俺が浮かべないような表情ばかり作り上げる。
 
「……いつか分かるよ」

 そのいつかが一体いつであるのか、その時の俺はまだ知らなかった。

 ***

 高校を卒業した俺たち双子とその幼馴染である諸伏景光は、全員がそれぞれの希望通り警察学校へと進学した。名前が試験に受かるかどうかは正直賭けに近いものがあったのだが、まあ無事に合格できたのだからよしとしよう。
 勉強だけではなく、体術を始めとする実技訓練。過酷な日々であったが、俺は必死にそれらのトップの座を死守していた。一方名前は、どの科目も平均前後をさ迷っているという、ある意味才能ではないかと思わせるような成績を保っていた。まあ今までの成績を考えると、これが当然だろうなと俺は思った。名前は人当たりが良く子供にも好かれやすいため、へたに警察の上層部へいくよりも、地域の交番などで勤務するほうがあっているのではないだろうか、とも。そんなことを俺が考えてもどうにもならないのだが、これはもう癖のようなものだ。仕方ない。
 警察になるために必要なのは、勉強よりも技術よりも、なによりもこの国と国民のためにという意思だ。少なくとも俺はそう考えている。……名前にそんな覚悟があるとはあまり思えないが。

 さて、警察学校に入学したことで周囲の人間関係がまたリセットされ、俺たち双子のことをよく知らない人たちも身の回りに一定数存在するようになった。そんななか、やはり言われる言葉は、

「お前ら、顔はそっくりなのに中身は全然似てねえな」
「零の方が兄貴みたい」
「お兄ちゃんのお世話がんばれよー、弟くん」

 そんなものばかり。今までも何度も言われてきた言葉だ。もう聞き飽きた。
 上の言葉たちから分かる通り、警察学校に入ったというのに名前のふわふわ具合はあまり改善を見せず、俺たちの距離感と関係性は高校の頃、いや、物心ついた頃とほとんど変わっていない。警察学校での生活でもう少しぐらいしっかりしてくれるのではと期待していたのだが、どうやらそううまくいく問題ではなかったようだ。流石に警察学校を卒業した後は勤務先が離れてしまうだろうから、この短い時間の間に名前のことをどうにかしなければいけないな。そんなことを考えながら、俺は床で眠る自分の片割れを叩き起こした。

 ——そんなある日のことだった。

 教室移動のため名前とともに建物内を歩いていると、ふと廊下を曲がった先から聞こえた声。

「…………どう思う?あの弟の方」
「弟って、降谷兄弟の?」
「そうそう。弟の零の方はすごい優秀だけど兄の名前は全然じゃん?」
「えっ、零の方が兄じゃなかったのか」
「お前そこからかよ……まあ気持ちはわかるけどな。俺も最初間違えたし」
「あんなに優秀な弟いて心折れないのか……? 俺は折れる」
「なんで名前の方は零と同じ進路選んだろうな。敵わないって自分でもわかってるだろうに」

「…自分は何もできないけど、何でもできる弟の傍にいたら守ってもらえるから、とか?」

 それまでもずっと、すぐに飛び出してこんな低俗で質の悪い話をしている奴らの顔面に拳を叩きこんでやりたいと思っていた。だが、ありったけの理性を寄せ集めてなんとかこの激情を抑え込んでいた。……それなのに、

 最後の言葉が聞こえた瞬間、もう自分を諫める誰かの声は聞こえなくなって、俺は右足を一歩前に踏み出していた。

 俺の片割れを、
 俺の兄を、
 俺の大切な家族を、

 何も知らない奴らが、馬鹿にして笑いのネタにするなんて、許せるはずがなかった。

 ぎり、と力いっぱい握りしめた拳を、前へ進むために少し後ろへと動かす。

 ——その拳を、誰かの手が包んだ。

 誰か、なんて確認しなくてもわかる。今この場にいるのは俺を含めてたった2人だけなのだから。弱々しく、それでもしっかりと俺の手を掴んで、俺を引き留めている名前の姿がそこにあった。なんで止めるんだ。お前が馬鹿にされているんだぞ、笑われているんだぞ。お前のことを全く知らない奴らに。お前がどれだけ優しくて暖かい人間なのかも知らない奴らに。俺は抗議しようと名前の方を振り返り、口を開いた。
 けれど、口から洩れたのは吐息だけで、言おうとした言葉は喉元で宙ぶらりんになる。名前と視線を合わせたままで、俺はまるであめ細工の金魚ように固まった。

 ——名前は、微笑んでいた。

 今俺たちが聞いていた言葉を一切理解していないのではないかと思うほど、純粋に。全てを許す聖母とやらのように優しく。いっそ、満足気ともいえるような表情で。

「……俺は、大丈夫だから」

 そう言った名前に、俺はもう何も言えなかった。まだ俺の中で燻っている怒りを、こんな顔で笑う名前の前で爆発させることなんて出来るわけがない。いつの間にか、あの忌々しい声たちはどこかへ消えていた。

「……なんで、」

 それでも、どうしようもないこの感情はまだ俺の中で暴れ回っているから。まるで吐き出すように零したその3文字に、名前は眉を下げる。

「ごめんね、零」

 何についての謝罪なんだ、とか。どうしてお前が謝るんだ、とか。色々言いたいことはあった。聞きたいこともあった。けれど、きっと名前はそれに対して何も答えてくれないということを俺は一番よく知っている。だから、ほんの少しの腹いせに、名前の肩を軽く小突いた。

 ***

 時の流れは速いもので、気づけばもう俺たちの警察学校卒業が目前に迫っていた。
 その日は休日で、空は青く晴れ渡っていて、名前は用事があるからと言って1人で出かけて行った。あまり自分から外出することのない名前が朝早くから出かけていくなんて、珍しいこともあるものだと思いつつ、俺はそれを見送った。少し気になりはしたが読みかけの本が手元に数冊あったため、そちらへ専念することにしたのだ。

 ——この時、俺が何かに気づいていれば、この現実は変わったのだろうか。
 今となってはもう、どうしようもないことなのだけれど。

 異変を感じたのは、その日の夜だった。

 門限が近くなっても、名前が帰ってこないのだ。心配になった俺や景光たちが連絡を取ろうとしても、電話は繋がらず、メールは返ってこない。
 ——おかしい。
 名前はあれでも根は真面目で、規則や決め事を破ることは全くと言っていいほど無かった。今までだって、門限を破るなんてことはしなかった。

 何か事故に遭ったのか。
 何か事件に巻き込まれたのか。

 不安は募るばかりだが、門限も過ぎたこんな時間に俺たちが起こせる行動は無い。夜中のうちにひょっこりと帰ってくるのではないかと淡い期待を不安と織り交ぜながら、眠れない夜を明かした。

 ——しかし結局、夜が明けても名前は帰ってこなかった。

 寝不足の頭を抱え、なかなか喉を通り抜けようとしない朝食をお茶で流し込みながら、俺は誰もいない自分の隣を見つめて、怒りとも焦りともつかない感情を持て余していた。景光も、伊達も、松田も、萩原も、口には出さないが内心は不安と心配でいっぱいなのだろう。無言のままの朝食が、酷く長い時間に感じられた。
 出来るのならすぐに飛び出して名前を探しに行きたかった。けれども、行先も知らない、連絡もつかない相手を探し出すことがどれほど難しいことなのか分からないほど、俺たちは馬鹿ではなかった。……それでも、じっと待ち続けることが酷く苦痛だった。
 
 そして、もうすぐ昼になろうかという頃。
 ようやく、名前についての情報が俺たちの下へと舞い込んできた。

 最悪の、情報が。

「——昨夜、海沿いにある工場跡地で警察とテロ組織の銃撃戦が起こった。これはまだマスコミには流れていない情報だから、口外はしないように。彼は運悪くその最中に近くを通りがかってしまい、……正気を失ったテロリストの1人に、撃たれた」

 教官の1人であった男が淡々と紡ぐ言葉の羅列。確かにそこに言葉があるのは分かるというのに、俺の脳はその意味を理解しようとしない。

 頭が、がんがんと割れるように痛い。
 自分の心臓の音が異様なほど大きく聞こえる。
 息が、うまくできない。

「……降谷名前は、死んだ」

 ——うそだ。

 その瞬間脳裏に浮かんだのは、昨日、出かけてくるね、と言ったあいつの姿。部屋を出ていく背中。

 ………嘘だ。嘘だ。そんなこと、あるはずがない。

 だってあいつはあの時「行ってきます」って、言ったんだ。俺が「行ってらっしゃい」と返したら、あいつは「うん」と、確かに頷いたんだ。

 ——「ただいま」「おかえり」と言い合う約束をしたんだ。

 それなのに、

 目の前のこの人物が俺たちに嘘を吐く理由なんてないと分かっていた。
 それでも、否定せずにはいられなかった。当たり前だ。だって、あいつは俺の片割れで、兄で、家族で。誰よりも、

 誰よりも大切な、

 教官が退出し、俺たち5人だけが残された部屋に残るのは重い空気と沈黙。
 今の俺には、そんなことを気にしている余裕なんてなかった。

 乾燥した唇を、震わせる。
 誰に言うわけでもなく、言葉を紡ぐ。

 ……あいつと、まったく同じ声で。


「——俺が、守るって、」


 約束、したのに。

 ***

 名前が死んだところで、世界は何も変わらない。朝が来れば夜が来るし、夜が明ければまた朝が来る。隣にあいつがいなくても、この体はまだ生きることを止めようとはしないから、時間が経てば腹は減るし、喉も乾く。俺自身もまだ死にたいとはこれっぽっちも思ってはいないため、その本能に従って、今日もひとり息を吸っている。新鮮な朝の空気を吸い込んだ肺が、やけに痛んだ。

 あいつの葬式は、最低限の人だけを集めて密やかに行われた。何発もの銃弾に苛まれたらしいあいつの顔は見られるものでは無かったらしく、棺桶の蓋は開けられぬまま、あいつの死に顔を見ることすらないまま、あいつは煙と灰と骨だけになってしまった。俺の腕の中に残った骨壺はありえないほどに小さくて、

 ……ああ、お前、こんなに小さかったのか。

 ただ茫然と、俺は一抱えにも満たないようなそれを手に立ち尽くした。
 俺と同じ身長で、同じ体重だったのはずなのに、一度火にくべてしまえばこんなにも。

 ……俺が、守らなければいけなかった。
 ずっと、傍にいてやらなければいけなかった。

 ——いや、違う。

 守りたかった。
 ずっと傍にいたかった。

 けれども、それはもう叶わぬ願いとなってしまった。
 なぜなら俺がそう願った相手はもう、二度と、

 目から零れる雫をそのままに、俺はあいつの名前を呼んだ。
 あいつと同じ顔で、同じ声で。
 俺とは違う表情で笑っていたあいつの名前を。
 決して、忘れまいと。


 ——泣き虫は、お前の役目だろう?

 なぁ、雫。

 ***

 あいつのいない日々を過ごして、あいつの世話をしない毎日がやがては当たり前になり、そして、ついに俺たちは警察学校を卒業した。学校時代の好成績を買われ警察庁警備局警備企画へと配属された俺は、警察としての表向きの経歴を消され、秘密裏に動く、“存在しない存在”として働くこととなった。あいつらとの連絡も出来なくなり、時折送られてくるメールを眺めてはただ一言、すまないとだけ呟いた。あいつらはあいつらの正義の道を歩んでいる。そして俺も、俺の正義の道を歩んでいく。その道は消して交わりはしないけれど、けれどたどり着く先はきっと同じ場所であるはずだから。……あいつの分も、俺が。そう決めた。

 この愛する日本国のために、自分の全てを犠牲にしようと、そう決めたんだ。

 警察庁での職務や訓練に従事し、時が過ぎ、俺はとある組織への潜入捜査を命じられた。『黒の組織』と呼ばれる大規模な犯罪組織。世界的に活動するその組織の手は、この日本にまで及んでいるそうだ。そんなこと、許せるはずがない。この日本にそんな害悪をはびこらせたままにしておくなんて、反吐が出る。——俺が、この手でその組織を潰してやろう。たとえこの手がどれだけ汚れたとしても。この白と赤の日の丸を守るために。


「——降谷」

 潜入捜査開始までの準備期間、俺は警察庁内の一画でひとりの上司に声をかけられた。立ち止まってその声に応える。

「はい、なんでしょうか」
「潜入を始める前に、お前に会っておいてもらいたい男がいてな。今時間はいいか」

 会わせたい男? 誰だそれは。全く見当がつかなかったが、上司の言うことだ、きっと何かこの潜入捜査に関する人物なのだろう。俺は上司に向かってしっかりと頷いた。

「——ここだ、入れ」

 上司に連れられてたどり着いた先は警察庁の奥の奥、窓もないため薄暗く、誰も立ち寄らないような場所だった。めったに使われることはない資料や道具が押し込まれているのだろう古びた扉に紛れ込んだひとつの扉。上司がその扉の前の壁際に立ち、俺を促す。俺に先に入れと言いたいのだろう。怪訝に思いながらも示された扉に手をかけ、その扉をゆっくりと開く。軋むことも音を立てることもなく開いたそれに内心少し驚きながらも、薄暗い廊下からほんのりと明かりの灯るその室内へ足を踏み入れた。

 開いていく扉の向こうへと視線を向け、
 部屋の中に誰かがいることを認識し、
 その人物の姿を瞳に映した、

 その瞬間。

 ——時間が、止まった。

 ……いや、時間が止まるなんてあるわけがない。それはただの例えだ。
 正確に言うとすれば時間が止まったのではないかと錯覚するほどの衝撃が、俺に襲い掛かってきたのだ。

 だって、今、俺の目の前に、


「……久しぶり、だね。零」


 俺と同じ顔で、
 俺と同じ声で、
 俺とは全く違う表情を浮かべた、あいつが、
 締まりのない笑みを浮かべて、
 しっかりと地面に足をつけて、

 ——いや、そんなはずはない。だってあいつは、

 あいつはあの時灰になってしまったはずだ。
 あの小さな、小さな箱の中で眠っているはずだ。

 だから、

 だから、目の前にいるこの男は、
 ……こいつは、あいつではないはずなんだ。

 ——ああ、でも

「…………っ、名前?」

 俺は知らないんだ。
 あいつ以外に、こんなにも俺と似ていて俺と似ていない奴を。

「うん、そうだよ」
 
 自分でも優秀だと自負している頭が、全くと言っていいほど働かない。現状をうまく理解しきれない。
 今、俺はどこにいる?
 今、俺の目の前にいるのは誰だ?
 どうして今、こいつがここにいる?

 こいつは、名前は、あの時死んだはずじゃなかったのか?

 疑問符ばかりが浮かんで、頭がぐるぐると回る。
 聞きたいことも言いたいことも山のようにあるというのに、俺の口は音を紡ぐこともできずただ開閉を繰り返すだけ。

 そんな俺に、あいつはまた小さく困ったような笑みを浮かべて、口を開いた。


「——ただいま、零」


 その瞬間、喉元に引っかかっていた言葉がすべて消え去って、頭の中が真っ白になって。
 思わず俺の口から飛び出した言葉はたったの4文字。


「……おか、えり、」


 ——俺があの日からずっと望んでいた、4文字だった。

 視界がじわりと滲んだのはきっと、人生で一番の驚きを体験したからだ。

 ***

「……感動の再会を邪魔するのは気が引けるが、あまり時間もないからな。手短に説明するぞ」

 呆然と立ち尽くしていた俺を現実に引き戻したのは、俺をここに連れてきた上司——木原さんの声だった。ああ、そうだ。彼は「潜入捜査の前に会ってもらいたい人物」と言っていた。つまり今は職務の延長線上。俺は急いで自分の意識を木原さんへと向けた。——どうしても名前のことが気になってしまうのは、仕方がないということにしておいてほしい。

「まず、何故お前の兄である降谷名前が生きているかについてだ」

 切り出された話題は、俺が今一番知りたかったことについてだった。
 そうだ、どうしてこいつは生きているんだ。あの時死んだと聞かされたのはいったい何だったんだ。あの時、灰になったのは。あの小さな箱に入ったのは、いったい。

「まあすでに気づいているだろうが、あの日降谷名前が銃撃戦に巻き込まれたというのは偽りだ。——だが、それと同じかそれ以上に危険なことに巻き込まれかけた」

 ——あの日の夕方、用事を済ませて寮へと戻っていた時に名前は道に迷い、とある路地裏へと迷い込んだ。スマホの地図アプリを手掛かりに大通りを目指していた名前は、その途中、とある犯罪組織の違法取引の現場を目撃してしまったのだという。明らかに違法と分かるその光景に、名前は思わずスマホのカメラをそちらへ向け、交わされる会話と行われる取引の一部始終を収めてしまったと。その話を聞いた瞬間に「考えなしかお前は!!馬鹿か!!」と名前に向けて叫んでしまったことは割愛しよう。ちなみに雫はへらへらと笑っていた。笑い事じゃないんだよ馬鹿。……閑話休題。そして、幸いにも盗撮していることがばれずに済んだ名前はすぐにそのスマホを手に上官へと報告、そこから話が木原さんに伝わり、名前はその身の安全を確保するためにその日偶然にも発生した銃撃戦にて命を落としたと偽装され、今まで警察庁にて保護されていたという。

 ……正直に言って頭がパンクしそうだったが、とりあえず後でこの馬鹿にはジャーマンスープレックスを仕掛けることに決めた。

「——というわけだ。ここまでは理解したな」
「……はい」
「めんどくさいことになっちゃってごめんね、零」

 頬を掻きながらまたへらりと笑った名前に今すぐここで技を決めてやろうかと思ってしまったが流石に上司の前でそんなことはできない。何とかその衝動を抑え込んだ。

 お前が!!! いつもふわふわふわふわしてるから!!! こんなことになるんだ!!! あんなにも気をつけろ注意しろ危ないところには近づくなと言っておいたにもかかわらず!!!!!

 心の中でそう叫びながら、俺は木原さんに話の続きを促した。

「それで、どうして私は潜入捜査に先立ってこの男と会う必要があったのでしょうか」
「ああ、それが本題だ」

 木原さんは一度口を閉じ、身にまとっていた雰囲気を少し張り詰めさせ、俺をまっすぐに見据えて言った。

「——端的に言う。お前たち2人で1人の人間として潜入捜査を行え」

 ……意味が、分からなかった。
 予想もしていなかった指令に、はい、とも何とも言えないまま、俺は再び凍り付いてしまう。そんな俺をよそに、木原さんは続けた。

「警察学校時から、降谷零の優秀さは群を抜いている。そのため潜入捜査以外にも重要な仕事が舞い込む可能性が無いとは言えない。突然警察庁への出向指示が出される可能性もある。そういった理由により潜入捜査との両立が物理的に困難となった時、降谷名前が、降谷零の代わりに一時的に潜入捜査に従事する」

 ……それは、つまり、

「まあ、簡単に言うと俺が零の“影武者”になるってことだよ。ほら、俺たちは顔も声も体型も全くと言っていいほど同じだから。零が忙しくなって、どうしてもすべての仕事に手が回りきらなくなったら、俺が零の代わりに組織に潜入する」

 名前が俺の正面に立ち、俺の顔を覗き込む。

「……不安だよね、心配だよね。だって俺は零とは違って優秀じゃなかったから。でも大丈夫だよ。俺はずっと零の隣にいたから、零の兄ちゃんだから、“降谷零”、ううん“降谷零の演じる誰か”になることぐらいはできるんだ。零の歩き方も、話し方も、ちょっとした動作や癖も、全部知ってるから。覚えてるから。潜入捜査のための技術も知識も、あの日から今までずっと木原さんに叩き込まれてきて、最近合格をもらえたから。だから、安心して」

 黙り込んだままの俺に、名前は語りかけ続ける。俺が名前にそんなことができるわけないと思って黙っていると考えたのだろう。ああ、確かにそう思ったよ。あの名前にそんな器用なことできるわけないって、思う。——でも、違う。俺が何も言えずにいるのは、それが理由じゃないんだ。

「——お前を、そんな危険な目に合わせられない」

 ぽつり、口から零れ落ちた言葉。意図せず音になったそれは、だからこそ確かに俺の本心を表していた。

 だって、名前は本を読むことが好きで、めったに怒ることはなくて、日向ぼっこが好きで、甘いものが好きで、子供が好きで、いつもにこにこ笑っている、そんな奴だから。
 誰よりも優しくて、暖かい、そんな奴だから。

 こいつを、潜入捜査なんて危険な仕事に就かせたくはない。
 こいつには、幸せに、暖かい世界でどうか幸せに、生きていてほしいから。

 だから、

「——零、俺はね、死んでるんだよ」

 静かな声だった。まるで、小さな子どもに言い聞かせるような、諭すような、そんな声だった。名前の目を見た。視線が交わる。俺と同じ空を映した瞳。


「“降谷名前”は、もう死んでるんだ」

 ——何を言ってるんだ、お前は今確かにここにいるじゃないか。息をして、俺の目の前に確かに存在しているじゃないか。

 こいつがそんなことを言っているわけではないと、分かっていた。
 それでも、否定せずにはいられなかった。

「——お前は、」
「“降谷名前”は死んだ。あの日、灰になった。ここにいるのは“降谷名前”じゃない。ただ息をしているだけの死人だよ」

 名前の両の手のひらが、俺の頬を優しく包み込む。額にこつりと何かがあたる。頬と額に感じる温もりは、なによりも目の前の男の命が確かにここにあることを証明していて。ああ、やっぱり生きてるじゃないか、なんて、絶え間なく何度も衝撃を受け続けた俺の頭はもうすでに使い物にならなくなっているようだ。

「……ねえ、零。俺を使って」
「零が、零の正義を貫き通すための道具として」
「この国を守るための戦いで、零が自由に使える駒として」
「亡霊である俺を、利用して」
「言ったでしょ?」

「俺も“警察”になりたいんだ、って」

 ——ああ、そうか。
 お前も、俺と同じ場所を目指していたのか。

 離れた額。まだ俺の頬を包む手のひら。
 俺と同じ顔の男は、俺と同じ瞳に、俺と同じ、狂気にも近い正義を孕ませていた。

 ***

 名前と二人三脚での潜入捜査は思った以上に円滑に進んでいった。あれほど不安に思っていた名前の演技力は俺の予想をはるかに超えていて、同時期に黒の組織へと別口から潜入捜査を始めた俺たちの幼馴染でもある景光でさえ欺くほどの物だった。こいつ、こんな特技を今の今まで隠していたのかと少し腹が立ったのは、また別の話。
 常に盗聴器または録音機と発信機を身に着け、その日誰とどんな会話をしたのか、どこへ行って何をしたのかをお互いに伝え合う。入れ替わった時に組織の人間と話を合わせられなければ、それすなわち詰みであるからだ。
 基本的には俺が動き回るのだが、警察庁で何かしらの仕事がある時には名前が“安室透”としてあの闇の中に潜っていった。面白いぐらいに、俺たちが入れ替わっていることに誰も気づかない。あのベルモットやジンでさえも。潜入捜査は、順調に進んでいた。

 順調に、進んでいた。

 ある日の夜、その日は俺が“安室透”だった。組織の人間としての仕事を終え、名前とともに住んでいる家にたどり着いた俺は、玄関で倒れこむように横になった。体も頭も、酷く重かった。このまま眠ってしまいたかった。けれども眠気は俺を避けて逃げていく。ああ、くそ。目の上に腕を置いて、ぎり、と歯を食いしばる。

 疲れていたんだ。
 組織の人間として罪を犯すことに。
 “安室透”として、あの闇の中で生きていくことに。

 国を守るためだと、国民を守るためだと自分に言い聞かせても、心の奥底で、頭のどこかで、いつも誰かが俺を非難する。

 ただひたすら純粋に、この国を守るために警察官になると豪語していた幼い自分が、今の俺を糾弾する。この薄汚れ始めた手のひらを咎める。

 立ち止ろうなんて思ってはいない。やめようなんて思っていない。そもそも、やめることなんてできやしない。ただ、酷く疲れたんだ。
 今までにしてきた犯罪行為が頭をめぐる。恐喝、詐欺、違法取引、違法侵入、窃盗、エトセトラエトセトラ。ああ、反吐が出る。
 しかしその中の何よりも、今日、目の前の人間に銃を向けたあの瞬間のことが、頭にこびりついて離れない。……きっと、いつか、俺はあの引き金を引かなければいけなくなるのだろう。

 ——いつか、俺は、人を、

「……零?」

 その声が、俺の思考を踏み荒らして、全てを真っ白にしていった。目元に置いていた腕をどかして、床にだらしなく転がったまま声の主を見上げる。部屋着を身にまとった名前が、眉尻を下げて不安げな表情で俺を見下ろしていた。

「……ただいま」

 掠れた声ではあったが、何とかその一言を紡ぐことができた。それだけのことでも、また疲労が俺の体にのしかかってくる。

「おかえり。……お疲れ様」

 俺の頭の傍にしゃがみこんで、名前はそっと俺の髪を軽く撫ぜた。そして、俺の額にそっと手のひらを乗せる。名前の体温が額にじわりと伝わって、俺は思わず目を閉じた。先ほどまで影も形も見えなかったはずの睡魔が、ゆっくりと俺の体を包み込む。

「零、ご飯とお風呂は? どうする?」

 暗闇の中に名前の声だけが響く。
 ああ、そうだ。飯も、風呂もまだだった。腹は減っているし、暖かい湯船が酷く恋しい。…けれども、今はこの心地よい睡魔に身を委ねていたかった。

「……すこしだけ、ねてもいいか」

 もう口を動かすこともままならなくなっていて、ちゃんとその声を言葉にできていたのかさえも曖昧だったが、意識が落ちる直前に名前の声が聞こえたから、少なくとも名前には伝わったのだろう。

「うん。ゆっくりお休み、零」

 ***

Side ××




「——大丈夫だよ、零。俺がいるから」




 男はぽつりと呟いて、自分の足元で眠りに落ちた自身の片割れを寝室へ運ぼうと立ち上がる。
 その言葉は、誰に聞かれることもなく、空気に溶けて消えていった。




 ***

Side R


 ——ああ、ついにこの時が来たか。
 俺は手元に届いた1通のメールに、諦めにも近いため息をひとつ吐いた。
 ソファの背もたれに体重を預け、天井を仰ぐ。

『明日の夜11時、ターゲットは————。手短に終わらせて頂戴ね』


 手の中で画面に明かりを灯したスマホ。
 そこに浮かび上がるのはベルモットからの指示。
 ——人を、殺せという、指示。

 潜入捜査を始めると決まった時から、覚悟はしていた。いつかこんな日が来ることを。
 ああ、でも、いざその時になってしまえば、こんなにも。

「……明日、夜11時」

 突然自分の傍から聞こえた声に、俺は慌てて身を起こした。視線を動かすと、そこにはソファに座る俺の足元にしゃがみこんでスマホの画面をのぞき込んでいる名前の姿。いつの間にこんなに近くに来たんだ。気配も分からなくなるほどに俺は意識を飛ばしていたのか。自分の醜態に思わず頭を抱えたくなったが、名前はそんな俺をよそにまた口を開いた。

「……うん、わかった」

 一体何が分かったというのか。立ち上がった名前は、何か考え込みながら俺に背を向け歩き出す。部屋に戻るのだろうか。その背中を見つめながら、ふと、口を開いた。

「名前、」

 立ち止った名前が振り返って、俺を見つめる。少し口元を緩めて小首を傾げた名前に、俺は口を開いて、一度閉じて、……もう一度開いて、ようやく言葉を紡いだ。

「お前は、俺が、」

 人を殺しても、傍にいてくれるか。
 後半は、音にはなってくれなかった。俺の喉にひっかかって、ただ呼気だけが唇の隙間を抜けていく。
 なんでもない、そう言い直そうとした瞬間だった。

「——大丈夫だよ。零」

 へらりと笑って名前が言った。いつもの表情だったはずなのに、どこか違和感があって。俺はリビングから出ていく名前の背中を今度こそ無言で見送った。ぱたんと扉の閉まる音が部屋に響いて、俺は気づいた。

 先ほどの名前の表情が、
 高校3年のあの日の夜の、
 あの時の表情と、同じものであったことに。

 ***

 次の日の朝、早朝に目覚めた俺に舞い込んできたのは、警察庁で俺の手がどうしても必要な仕事ができたという知らせだった。あまりに急な知らせに朝食のお茶を取り落としそうになった俺へ、名前は「警察庁の方の仕事? ずいぶん急だね……まあ仕方ない。今日は俺が“僕”になるから、気にせず行ってらっしゃい」と少し驚いてはいたものの、これと言って何も言いたいことはないという風だった。

 でも、俺はそうではなかった。
 なぜなら、今日は。

「——名前、お前、分かってるのか?」

 机を挟んで俺の向かい側に座りのんびりと茶をすすっている片割れに、俺は言う。
 昨日、名前も確かにあのメールを見ていた。あのメールの意味も、分かっているはずだ。

 今日俺が警察庁へ行くということは、名前が“安室透”になるということ。
 それが意味するのは、

「今日の夜11時、でしょ? 忘れてないよ。安心して、失敗しないよう気をつけるから」

 なんでもないように名前はそう言った。いつもの締まりのない笑みを浮かべて。
 そんな名前を見て、俺は思わず勢いよく立ち上がった。叩きつけるように手をついた机が軋んで、椅子が派手な音を立てて倒れる。


「——っお前は!! ……お前は、それでいいのか?!」


 俺の突然の行動と叫びに、名前は目を丸く見開いた。はぁ、はぁ、と興奮で上がった息を押さえつけながら、俺はそんな名前を睨むように見つめる。

 今日このまま俺が警察庁へ出向すれば、名前は、
 名前は、俺の代わりに、人を殺さなくてはいけなくなる。


 俺は嫌だった。そんなこと許せなかった。だから、どうか「嫌だ」と名前の口から言ってほしかった。そう言ってくれたら、俺は何としてでも“安室透”として今日一日を生きるから。

 けれど、名前の答えは。

「……いいもなにも、これが仕事なんだから。仕方ないよ。——俺は“安室透”や“降谷零”になれても、“公安警察の降谷零”にはなれないんだから」

 俺の望んでいた言葉を名前が返してくれるわけがないと、知っていた。分かっていた。
 それはそうだ。そもそも、俺と名前が二人三脚で生きているのはこういう時のためなのだから。

 ——でも、それでも、

「ほら、時間無いんでしょ? 早く準備しなきゃ」

 こいつが、その手を血で染めることを、許したくはなかった。

 ***

 俺たちと景光にコードネームを与えられ、ライこと諸星大と3人で任務をこなすようになり、そのしばらく後に景光がNOCだとバレてしまい逃走。その時“バーボン”であった名前が景光を保護。諸伏景光は死亡したという偽装工作が行われ、景光が潜入捜査から抜けた。その後もライがFBIの赤井秀一と判明し組織から抜けていくなどといった事件が起こったが、俺たちはそれまでと変わらず、2人で1人の存在として毎日を生きていた。最近は私立探偵の安室透として毛利小五郎に近づくために、ポアロという喫茶店でアルバイトも始めたから、まったく変化が無いとは言えないが。それでも、俺たちは2人で必死に生きていた。
 風の噂で萩原や松田や伊達たちが事件や事故に巻き込まれたことも耳にした。なんとか全員命だけは取り留めたらしい。あいつらは相変わらず無茶しやがる。俺たちが言えることではないけれど、名前と一緒にそう言って笑って、小さく安堵の息を吐いた。

 ——そんな日々の中で、俺を苛む現実。

 俺の薄汚れたこの手のひらが、まだ血に濡れていないという、現実。

 あの日から、何度か似たような指示が俺たちに下された。しかし、なぜかそれはいつも名前が“バーボン”となる日や、俺に急な警察庁への出向命令が入る時ばかりだったのだ。いっそ何かの力が働いているのではないかと思ってしまうほどに。
 少しずつ血の臭いを濃くしていく名前の手のひらは、あの日以来、自分から俺に触れてくることが無い。いつかのように俺が疲れて玄関で倒れていても、俺の頭を撫でてはくれない。俺から触れる分には拒否したり逃げたりしないのに、どうして。
 問いただした俺に、名前は答えた。

「——こんな手で、零に触っちゃいけないかなって」

 その時、俺は初めて名前を本気で殴り飛ばした。

 ***

 ——時が過ぎるのは早くて、気づけばもうその時が目前にやってきていた。

『黒の組織壊滅作戦』

 小さな名探偵を中心として日本警察と、FBIやCIAが集まり共同して行う大規模な作戦だ。あの男と手を組むのは正直不服ではあるが、そんなことを言っていられる状態ではないとちゃんと理解はしている。まあ目の前にいたら思い切り睨みつけるが。

 やはり世界の優秀な警察たちが集まっているからだろう、計画は着々と進み、あっという間に決行の日がやって来た。

 俺はぎりぎりまで組織の中に潜り込み、内部からの崩壊を狙う。多大な危険がある任務だが、俺がやらなければいけないことだ。絶対にやり遂げてみせると、決意した。 
 名前には警察庁で作戦が終わるまで待機しろと言いつけた。作戦中に俺が2人いることで混乱を呼んではいけないからだ。

 作戦決行の場である建物の中で、インカムから聞こえる外の情報に耳を澄ませながら、やけにうるさい自分の心臓の音を押さえつける。

『——作戦開始!』

 耳元で鳴り響いたその声に、俺は駆け出した。

 ……この作戦が無事に終わったら、その時は、
 そうだな、名前と祝杯でもあげようか。
 そんなことを考えて、俺は小さく笑った。

 ***

 何度か予想外のことが起こりつつも、計画は概ね予定通りに進んでいた。構成員の多くを捉え、様々な証拠も押さえ、後は幹部たちだけといった状況だ。あいつらは一筋縄ではいかないことを、俺たちはよく知っている。だからこそ、計画がどれだけうまくいこうとも気は抜かない。俺は先ほどついにNOCであるとバレてしまったため、幹部たち、特にジンには気をつけなければいけない。
 周囲に気を配りながら、建物の中を移動する。今のところ近くに人の気配はない。インカムから聞こえる声に意識を向けた、その瞬間だった。

 ——ドォンと大きな音が鼓膜を破らんばかりに鳴り響いたかと思えば、次の瞬間、勢いよく体が吹き飛ばされる。どこかで何かが爆発したのだと気づいた時には、もう背中からコンクリートで固められた床に叩きつけられていた。
 全身の骨がミシミシと悲鳴をあげ、呼吸ができなくなる。かは、と乾いた音が喉から漏れた。幸いなことに、頭はぶつけなかったようだ。爆風に飛ばされただけなので火傷などもない。恐らく、今のところ命に別状は無いだろう。
 しかし、叩きつけられた衝撃で体が言うことを聞かない。仰向けの状態から、うつ伏せになることすらできない。ひゅうひゅうと音を立てる喉で息をすることしか出来ない。

 こんな時にこんな場所で、こんな状態でいる訳にはいかない。
 そう思うが、体はそれでも動かない。

 焦りが脳内を侵食していく中、どこからか足音が聞こえた。

 さっと血の気が引いていき、冷や汗が流れる。こんな状態を敵に、特に幹部の連中に見つかったら、ほぼ確実に命はない。

 動け、動け。
 脳から体全体に指令が下るが、それも徒労に終わり、


「——誰かと思えば、お前か。裏切り者のバーボン」


 ……ああ、くそ、最悪だ!
 よりにもよってその足音の主は、最も危険であると考えていたジン。今すぐに起き上がって体勢を整えなければ、俺は死ぬ。しかし体は動かない。肺が酸素を求め、心臓が血液を流すだけ。
 廊下の真ん中付近に横たわる俺の右手側、大きなホール上の部屋の向こうからジンはゆっくりと歩いてくる。かちりと聞こえた音は、ジンの手にあるのだろう拳銃の存在を、嫌というほどに俺に突き付けてきた。

「はっ、地面に這いつくばって、いいザマじゃねぇか。裏切り者のお前にはぴったりだぜ?」

 ——ああ、俺はこんなところで死ぬのか。

「よくも今の今までうまく騙してくれたもんだ。ご褒美に、一瞬で殺してやるよ」

 拳銃が俺に向けられ、銀髪の男はにやりと不気味に笑う。ぎり、と奥歯を噛みしめた。

 ——まだ、俺にはやらなければいけないことがある。
 やりたいことがある。まだ、俺は、死ねない。

 力を振り絞って、無理に体を動かそうと力をこめた。


「——おや、まさかジンまでも欺けるとは」


 その瞬間、まるで俺の行動を止めるかのように響いた声。
 俺のよく知る声。
 今この場所に、あるはずのない声。

「彼の変装はなかなかのもの、というわけですね」

 かつり、かつり、足音が近づいてくる。
 ジンはその声と足音の方へ銃を向けた。


 ——どうして、なんで、


 現れた人影が、横たわったままの俺の前に立つ。俺に背を向けて、ジンと向かい合って。

「……バーボンが、2人、だと…?」

 困惑を覗かせるジンに、その男は笑った。

 ——なんで、お前がここにいるんだ。

 俺と同じ顔で、同じ声で、“バーボン”の表情で、男は、

 ——名前は、笑った。


「おや、そこまで驚きますか? 僕が本物のバーボンですよ。——いいや、『俺が本物の降谷零だ』と言った方がいいか?」


 ジンの前で、動けない俺の前で、自らが“降谷零”だと言って。降谷名前は、降谷零の表情で、笑った。

「……ハン、どっちが本物かなんてどうでもいい。両方殺しちまえば関係ねぇ」
「まあ、お前ならそう言うと思ったよ。だが俺たちもそう易々と死ぬわけにはいかないからな、抵抗はさせてもらう」

 取り出した拳銃をジンに向けて、名前は少しずつジンの方へと歩いていく。

 ……おい、お前、何してるんだ。早く逃げろ、今ならまだ間に合う。
 くそ!! なんで俺の体は動かない!!? 動け、動け!!

 ——俺が、

 俺の横たわる廊下からジンのいる部屋の中へと足を踏み入れた名前は、ほんの一瞬肩越しにこちらを振り向いて、笑みを浮かべた。

 いつもの、あの笑みを。
 ……降谷名前の、笑みを。

 そして、名前はその部屋の扉に手をかけた。

 やめろ、そう叫びたかったのに、俺の役に立たないこの喉は、ただ失敗した呼吸のような音を漏らすだけ。

 まて、名前、やめろ。行くな。おい、名前!!

 床を這うように手を伸ばす。名前の背中をひっつかんで今すぐに引き戻さなければ取り返しのつかないことになる。そう頭の中で警鐘が鳴り響いていた。
 しかし、重く頑丈な扉は無情にも名前の背中をゆっくりと隠していく。


「——っ、名前……っ!!」


 ようやく俺があいつの名前を呼んだ、その瞬間。大げさなほどに大きな音を立てて扉が閉まった。続けざまに聞こえたがちゃん、という音は、まさか鍵を閉めた音だろうか。

 そこでようやく分かった。俺は理解した。
 あいつは、俺を守って、……死ぬつもりだと。

 なあ、おい、名前。違うだろ。
 きっともう体は動くのだろう。けれども、俺は動けなかった。ただ、閉ざされた扉を見つめて叫んだ。


「——雫!!」


 ——俺が、あいつを守ってやらなければいけないのに。


 ***





「————大丈夫だよ、零。俺がお前を守るから」





 ***

Side ××

 この世界に生まれ落ちたその時から、ぼんやりと俺の中にあったもの。それは前世の記憶というものだった。特筆することのない、平凡な人生。ひとつ言っておくとすれば、前世の俺は女性であった。

 前世の記憶があったからといって、何がどうということはなかった。勉強も運動もその他のことも、ほとんどゼロからのスタートだった。それも仕方の無いことだ。だって、俺の “前世の記憶”は、音がない映画のようなものだったのだから。
 映像を見たところで、音が無ければ、その時に前世の自分が何を考えていたかが分からなければ、その映像の意味なんてほとんどと言っていいほど分からない。
 映像で見たから数学の公式は知っている。けれどもそれを“俺”がちゃんと理解できるかは別問題。それと同様に、平泳ぎの方法は知っていても、“俺”それを実践して早く泳げるかは別問題。

 そう、“俺”は、ただの子供だったのだ。

 体の動かし方を知っていても、体がそれを理解している訳では無いからよく転んだ。涙を堪える方法を知っていても、子供の涙腺は脆いからすぐ泣いた。
 幼い頃の俺は所謂“泣き虫”というやつで、ことあるごとに泣いて、泣いて、泣きわめいていた。自分でも泣きすぎだろう俺の涙腺どうなっているんだと思うほどには泣いた。さらには体も弱くて成長が遅く、いつだって同年代の子どもたちにはからかわれ馬鹿にされていた。

 ——そんな俺のそばに居てくれたのが、俺の兄弟であり、片割れである零だった。

 要領がよく、勉強も運動も俺以上にできていた零は、いつだって俺の手を引いてくれていた。俺が泣いている時はずっと傍にいてくれた。
 俺の方が兄なのに。前世の記憶だって持っているのに。
 情けないと思ったことは、何度だってある。情けなさに泣いたことだってある。

 その度に、零は言った。

「兄か弟かなんてどうでもいい。俺は名前が大切だから、名前が泣いてたらそばにいる。泣き止むまで、いつまでだってそばにいる」
 
 その言葉にまた泣いてしまったのは、仕方の無いことだと思う。

 ——俺は、その時に決めた。

「……大きくなって、体が強くなって、零みたいになれたら、今度は、」



「今度は、俺が零を守るから!!」



 ——そうだ、俺が零を守る。
 どれだけの罪を背負おうとも。どれだけこの手を汚そうとも。もう二度と、“降谷名前”として生きていくことができなくなろうとも。

 この命がある限り、この体が動く限り、俺は俺の全てを駆使して零を守ると決めた。


 ——これが、生まれ落ちたその瞬間から頭の中で響き続けていた前世の自分の声と、今の俺の意思が、かちりとまるでパズルのピースのように繋がりあった瞬間だった。


 幸いなことに、前世の自分の知識のおかげで、俺は未来で零に降りかかる理不尽で残酷な現実のことを知っていた。それを捻じ曲げるための方法を考える時間もあった。
 未来をカンニングしただとか、世界の理を捻じ曲げるだとか、そういったことに対する罪悪感や躊躇は一切なかった。だって、これは今俺が生きている世界だ。現実だ。俺には考える頭と自由に動かせる体がある。自分のために生きて、自分の望むように生きて、自分の理想のために生きて、自分の正義のために生きて、何が悪い。俺は俺の自己満足のために生きると決めた。

 降谷零の、幸せのために生きると決めた。

 零の親友たちの命を救い、零の手のひらを赤い色から遠ざけて。零がその真っ白でまっさらな正義と愛国心を貫き通すことができるように。

 この身を捧げると決めた。


 まず俺は、自分が“安室透”や“バーボン”として動くことができるようになるために、一度死ぬことを決めた。死ぬといっても、死んだふりだが。時期としては警察学校から卒業する間際ぐらいだろうか。そして、そのための準備として、俺は幼い頃から自分の性格や立ち振る舞い、表情を零とは全く違うものにするよう心掛けた。一度死んだ俺が“降谷零”に成り代わっていることを、誰にも気づかれてはいけないから。いつか“安室透”や“バーボン”と共に潜入捜査に携わる、俺たちの幼馴染である景光でさえも欺くために。いつもふわふわしている名前が、しっかり者の零になれるわけがないと、そう思わせるために。いつも零に世話を焼いてもらっている、落ちこぼれの“降谷名前”を演じた。

 ……零が俺の世話を焼いてくれるのが嬉しくて、ついつい必要以上に甘えてしまっていたのは俺の一生の秘密だ。

 警察学校へ入学した後、俺は計画を進めるために様々な場所へ繋がりを伸ばし、木原という男と出会うことができた。彼は俺の計画に驚いていたものの、零の優秀さを見てこの計画に利点があると理解したのだろう。彼は俺の死の偽装工作を手伝うばかりか、その後の俺の隠れ場所といった生活面の世話まで焼いてくれた。彼には感謝しかない。
 潜入捜査をするための技術や知識を身に着けることも忘れなかった。それまでも表には出さなかったものの、勉強や体を鍛えることに手は抜かなかったため、血反吐を吐くようなことはなかった。まあ大変ではあったが。零の幸せのためと思えば、これぐらい屁でもなかった。

 そしてついに零と再会して、今までにないぐらい驚いている零にそうだよなぁと思って笑って、木原さんがいなくなったあとジャーマンスープレックスをかけられて、二人三脚で潜入捜査をこなして、景光たちをなんとか救って、彼らの生に零と安堵して、零に本気で殴られたりして、

 ……いや、だって、俺の手はもう何回も血に濡れてしまっていたから。そんな手で零に触れるなんてできるわけがないだろう。真っ白でいてほしいと願った俺が零を汚すなんて、できるわけがない。

 けれど、あの時、俺を殴り飛ばした零は言った。


「……ふざけるな!! 今の俺とお前は一心同体だ、お前の罪は俺の罪だ!! お前ひとりで全部背負うなんて、許さない!!」


 ——……ああ、零はやっぱり優しいなぁ。誰よりも、優しくて強い。

 俺の胸倉を掴んで叫ぶ零の姿が、とてもきれいで神聖なものに見えて、俺は思わず笑ってしまった。また、零に殴られた。

 そうだよ、零。そんなお前だからこそ、俺はお前を守りたいんだ。たとえこれが、ただの俺の自己満足にすぎないとしても。

 ——たとえ俺の選択が、行動が、お前を傷つけたとしても。



 お前に、生きていてほしいんだ。

 ***

 閉じる扉の音を背後に聞きながら、俺は目の前の男を見据えた。
 長い銀髪に黒一色の服。その手にある鈍色の拳銃は、まっすぐに俺を見つめている。
 黒の組織壊滅作戦で零が命の危機に晒されるのは、この男が現れた時だろうと思っていた。

 最初から、警察庁で待っていろという零の指示に従う気はなかった。
 その指示に従ってしまうと、いざという時に零を守れないから。
 木原さんにも協力してもらい、秘密裏にこの場所へ来ていた俺は、ずっと身を潜めて、零の危機に備えていた。こっそり零に取り付けておいた発信機と盗聴器を確認しながら、ずっと。

 できれば何事もなく終わってほしかったのだけど、流石に最終決戦とあってはそうもいかないらしい。

 爆風に飛ばされた零と、その前に現れたジン。


 ……ああ、俺の出番だ。


 零に向けられた銃の引き金が引かれる前に姿を現し、自分が本物であると偽って、ジンを誘導して、零との間にあるこの大きな扉に鍵をして、
 
 これで、俺がジンを食い止めることができれば、俺の勝ちだ。たとえその最中にどれだけ傷つこうとも、――命を落とそうとも。


 零を守ることができるなら、それでいい。
 俺は拳銃をジンへ向けて構えた。


 死ぬことが怖くないわけではない。
 自分の正義を貫くために全てを擲つことを、躊躇していないだけだ。……それが、たとえ自分の命であったとしても。


 ——さあ、始めよう。これは、正義のための戦いだ。


 乾いた銃声が、鳴り響いた。

 ***










 ***

Side R

 走った。
 走って、どこかこの部屋の中に入ることができる場所は無いかと、必死に探した。
 早くしないと、手遅れになる。
 脳内の警鐘が鳴りやまない。
 心臓がばくばくとうるさい。
 呼吸がうまくできない。

 名前、名前、名前。

 頭の中で何度も呼んだ。
 どうか、俺が駆け付けるまで無事でいてくれ。生きていてくれ。
 お願いだ、もう死なないでくれ。

 ——お願いだ、俺の中で、二度もお前を殺さないでくれ!

 あんな思いはもうしたくない。あんな日々をもう過ごしたくない。なあ名前、俺たちは双子だ。兄弟だ。家族だ。一心同体だ。

 だから、なあ。頼むから俺の傍にいてくれ。
 ……いや、傍にいなくたっていい。
 生きて、幸せに生きていてくれればそれでいい。
 いつものあの笑顔で、ふわふわしながら、生きていてくれれば。

 お前が生きていてくれるなら、それでもう十分なんだ。

 だから、

 ようやく見つけたのは、あの扉とちょうど反対側にあるもう1つの扉だった。体当たりするようにその扉を押し開けて、中へと入る。そこは広い部屋だった。


 ——酷く静かな、部屋だった。


 視線を部屋の中央に向けた。
 そこには1人の男が横たわっていた。
 黒い服と、広がる銀。ジンが倒れていた。
 死んでいるのかいないのか、ここからでは分からない。ただ、その体の周りに飛び散っている血はごく少量だった。

 視線をぐるりと巡らせる。
 名前の姿を探した。探した。探した。

 ——ああ、いた。

 俺から見て右手側の壁に背を預けて、名前は座っていた。ジンを確保することも忘れて、俺は名前の方へ足を進める。


「……名前」


 足がやけに重くて、足を前に出すのが億劫だ。早く名前のところへ行きたいのに。


「……おい、名前、」


 疲れて眠っているのだろうか、何度呼んでも名前は応えない。ぴくりともしないまま、ただそこに佇んでいる。広がった夥しいほどの血だまりの中心で、静かに佇んでいる。


「……なあ、名前、」


 血だまりの中に膝をついて、俺は名前の頬に手を添えた。
 まだわずかに残る体温と、存在しない呼吸の対比が俺の胸を突いて、思わず言葉が零れ落ちた。



「——なんで、そんな顔で寝てるんだよ」



 まるで世界の全てを手に入れたかのような、
 自分がこの世で一番恵まれているとでも言いたげな、
 酷く満足気で、
 酷く、幸せそうな顔で、
 俺の片割れは、


 ——降谷名前は、静かに眠っていた。


 ぽつりと1粒、雫が血だまりの中に落ちていく。

 幸せそうなその寝顔を見つめ続けることができなくて、俺は視線を下へ向けた。そして、気づいた。名前の右手に握られた、メモ帳の切れ端に。

 そっと、何かに促されるまま俺はそれに手を伸ばした。

 軽く握られていたそれは簡単に抜き取ることができて、俺は4つ折りにされ端が血で汚れたその紙をゆっくりと開いた。

 開いて、そこに書かれた文字を目で追って、次の瞬間、叫びたくなった。

 そこに書かれていたのは、たったの3文字だった。
 誰に向けたものであるかも書かれていなかったけれど、これは俺に向けて名前が書いたものだとすぐに分かった。

 がたがたに歪んだ線で書かれた文字。
 さいごに名前が書いたのだろう文字。

 ……なあ、



 ——俺は、お前に生きていてほしかったんだよ、名前。



 ***










 ***

Side ××

 冷たい壁に背を預けて、ぼんやりと霞む視界の中に倒れ伏すジンの姿を映した。多分、死んではいないはずだ。一応手錠をかけておいたから、目が覚めてもすぐには銃を向けてきたりしないだろう。覚束ない頭でそんなことを考える。

 ——零は、無事だろうか。

 いや、きっと無事でいるはずだ。
 無事でいてくれているはずだ。

 思わず笑みが零れる。ああ、俺は勝った。正義を守る戦いに、俺は勝ったんだ。

 視界の隅でじわりじわりと広がっていく赤。
 ゆっくりと体を包んでいく寒さ。
 重く痛む体。
 体の状態は最悪だったけれど、気分は最高だった。

 ——なあ、零。俺はお前を守れたか? 少しでも、お前の役に立てたか?
 もうお前に直接問いかけることはできないけれど、
 どうかそうであれたらと、心から思うよ。

 ——零。

 俺は、お前を守りたかったんだ。
 お前の命を、幸せを。

 頭が良くて、運動ができて、人望が厚くて、
 誰かのために働くことができて、
 この国を誰よりも愛していて、
 自分の信じる正義のために、自分の足が傷つくことも厭わぬまま茨の道を駆け抜けて、

 優しくて、強くて、暖かくて、
 俺の大事な、大切な、何よりも大切な兄弟。
 俺が、この命に代えても守らなければいけない存在。
 俺の、唯一にして絶対の正義。

 そんなお前を、守りたかった。
 前世からずっと。この命を犠牲にしてでも。

 ——ああ、でも、零には悪いことをしてしまうな。
 兄弟を二度も失うことになるなんて。
 優しい零は、きっと傷ついて何度も泣くんだろう。
 俺なんかのために泣くなと言いたいけれど、きっと無駄だろうなぁ。

 ……ごめんな、零。
 こんな兄ちゃんで、ごめんな。

 病弱で、泣き虫で、甘えたで、零に迷惑ばかりかけて。
 挙句の果てには2回も死んで。
 自分の理想と正義を追い求めて、勝手なエゴでお前を苦しませて。

 本当、最悪で最低な兄ちゃんだな。
 ごめんな。
 でも、俺はお前を心から愛していたよ。

 震える手を何とか動かして、胸ポケットに入れていたメモ帳とペンを取り出す。

 ……今からする行動は、俺の最大のエゴだ。
 最低最悪の行動だ。

 ——そして、俺から零への、最期にして最大の、愛情表現だ。

 たった、3文字。
 そこに、俺の全ての思いを、愛を、希望を、込めて。

 ……零、

 俺の片割れ

 俺の希望


 ——降谷零俺の正義
 

 どうか、お願いだ、
 お前の正義を貫いて、
 俺の分まで、
 叶うなら、どうか、

 どうか幸せに、









『生きろ』



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