君さえ


23年の時を越え(decn/降谷)


Attention
・2018/6/24に開催されたdecn年齢差企画参加作品
・夢主が7歳児
・組織の軽率壊滅あり
・キャラ崩壊の可能性、解釈違い注意
・年齢差的に様々なことが危うい
・ロリコンモブ男の出現あり
・捏造過多、圧倒的ご都合主義
・n番煎じ



『——!』

それは幼い頃の色褪せた記憶だ。
俺と幼馴染のあいつの隣にいた、あの少女の記憶だ。

 俺たちのひとつ年上で、俺たちが6歳、そして彼女が7歳になる年。彼女が一足先に小学校へと上がる年に、遠方へと引っ越すと言って俺たちの前から姿を消したあの少女。

 記憶と言っても、覚えているのは風になびいた彼女の黒い髪が酷くきれいだったことと、彼女はいつも俺たちの傍にいたこと、そして、俺の名前を何度も呼んでくれたこと。ただそれだけだ。
 声も、顔も、その名前も、20年余りの時の流れにあっけなく奪い取られてしまった。

 ……今思えば、あの頃の自分は彼女のことが、
 ——いや、何でもない。

 そんなことを考えたって意味などない。

 なぜならもう自分は、夢の中であの面影を探すことすらできなくなってしまったのだから。

 ***

 町はずれにある、今はもう使われていない廃倉庫。太陽はとうの昔に地平線の彼方へと消えていき、世界を包み込むのは闇。全てを覆い隠すかのように深い深い闇。どこからか聞こえる水音が、空気を震わせては消えていく。
 目の前には、地に膝をつき両手を頭上に掲げる男の姿。
 視界の隅で銀色がちらついた。

「——っ頼む……! どうか、どうか命だけは!!」

 必死に生を懇願する男へ返答の代わりに向けられたのは、鈍色の鉄塊。その不吉な輝きに、短く悲痛な悲鳴が男の口から飛び出した。

「——そんなに命が惜しいならさっさと吐けよ。そうすりゃすぐ楽になれるぜぇ?」

 ……楽になれる。とんだ言葉遊びだ。
 この男は助からない。
 楽しげに笑う銀色の男の性格を知っていれば、そんな未来は考えずとも思い浮かぶだろう。
 目の前で繰り広げられる、ある意味狩りにも似たその光景に僕は小さく息を吐いた。その息がほんのわずかに震えていたことなど、この場にいる誰も気づかない。銀髪の男も、サングラスをかけた男も、金髪の女も、誰も。
 ああ、早く終わってくれ。
 そう心の中で呟いた、その瞬間。

 ——ガタンッ

 突然どこかから物音が響き渡り、その場の空気が張り詰めた。

「……誰かいるのか」

 唸るような銀髪の男の声に、僕は我先にと体を動かした。

「僕が確認してきますよ。ですからジン、あなたはどうぞ続きをごゆるりと」

 いつものように食えない笑みを浮かべて、“バーボン”として僕は話す。この場から離れる絶好のチャンスだ。答えを聞くこともしないまま、僕は彼らの傍を離れ物音のした方へと足を進めた。

 かつん、かつん。

 暗闇の中で自分の足音だけが響く。
 音がしたのは、先程まで自分がいた大きな部屋の奥の奥。恐らく物置か何かとして使われていた場所のあたりだろう。スマートフォンの灯りを頼りに、錆び付き汚れ埃の積もった廊下を歩く。
 先ほどの音は、きっと動物が迷い込んで何かを倒した音だろう。こんなところに人がいるわけがない。どこか願望にも似たそんな思いを引きずりながら、やや足早に歩く。少しでも早く、少しでも遠く、あの場所から、彼らのいる場所から離れたかった。

どこからか聞こえた銃声と誰かの笑い声など、聞こえないふりをして。

 ***

 音の出どころはこのあたりだろうかと、僕は廊下に並ぶ扉のひとつに手をかけた。ドアノブを回すと鍵はかかっておらず、ぎいぎいと錆びついた蝶番が音を立てながら、ゆっくりと扉が開く。
 
「……誰かいるんですか?」

 スマートフォンの灯りを部屋の中に向けて、いるかも分らない誰かにそう問いかける。光を反射するのは部屋に置かれたドラム缶や機材、何かの箱だけ。生きているものの姿はなかった。やはり動物が迷い込みでもしたのだろう。とりあえず他の部屋も確認して彼らのいる場所へ早く戻らなければ。変に怪しまれてしまうと面倒くさい。
 そう思って開いた扉を閉めようとした。

 ——ガシャンッ

 しかし、その行動は部屋に響いた何かが倒れるような音により止められた。
 音が聞こえたのは、いくつか並んだドラム缶の向こう側。人ひとりぐらいなら簡単に身を隠せるだろう場所だった。

「……」

 息をひそめ、懐に隠し持っていた拳銃に手を伸ばしながら、ゆっくりとそのドラム缶へと近づく。動物か? それとも。心臓が変に脈打った。人だったら? もしそれが組織の人間なら? 敵対しているどこかの組織の人間なら? ——はたまた、一般人だったなら?

 自分は、どうすればいい?

 ぐるぐると回る思考を携えたまま、僕はドラム缶の裏側に回り込み、その場所へスマートフォンの灯りを向けた。白い光がその空間を照らし、僕の視界にその世界を映し出す。
 短く息を飲むような音が聞こえて、ああ、人がいたのかとぼんやりと頭の中で呟いた。そして、その姿を確認して、

「——……は?」

 僕の口から零れ落ちたのは、そのたった一音だけだった。それほどまでに、自分の目の前に存在するものが予想外だったのだ。

 だって、そこにいたのは。

「……子供?」

 小学校に入学するかしないかといった年頃の、幼い女の子がそこにいたのだ。闇に目が慣れていたところで突然光を向けられたからか、固く目をつむって、まるで親から怒られるのを恐れるかのように小さく丸まった姿で。

 どうしてこんなところに子供が?
 疑問は尽きないけれど、今自分がするべきことは何かと考える。

 この子は恐らくただの一般人だ。何らかの理由でここに迷い込んでしまっただけの、ただの子供だ。なら、僕がするべきことは……この子を、危険から守ることだ。

 その結論を弾き出した僕は、できるだけその子供を刺激しないように怖がらせないようにと、地べたに転がるように座り込んだその女の子に目線を合わせるようにしゃがみこんだ。そして、できるだけ優しい声で語り掛けようとした。

 けれども、次の瞬間、明かりに驚いて顔を伏せ、目をつむっていた子供が顔を上げ、見開かれた丸い目に僕の姿を映した。淡い明かりにより浮き上がった、その顔、表情、姿に、息を飲む。言おうとした言葉はその息とともに肺の中へと消えていった。

 そこにいたのは、ただの幼い女の子だった。
 どこか、見覚えのある女の子だった。

 艶やかな黒髪と、丸いこげ茶色の目、少し下がり気味の眉。
 こちらを見つめる小さな少女。

 その姿を網膜に焼き付けて、瞬きをひとつした瞬間、脳裏に浮かんだ光景。

 ひとりの女の子が、こちらを振り向いて、その黒髪が風になびいて、そして、


「——零、くん?」


 目の前の女の子が紡いだそれは、確かに僕の、いや、——俺の名前で。
 今となってはもう知る人の方が少なくなってしまった俺の名前で。

 鼓膜を震わせた声は、俺の頭を殴りつけるかのようにして記憶を呼び起こす。
 あの遠い遠い日の記憶を。
 今もなお、心のどこかで追い求め続けていたあの日々の記憶を。


 ——あいつとこの少女と3人で生きていた、あの幸せだった日々の。


「……名前?」


 忘れるというのは記憶が脳から消えて無くなるわけではなく、ただその記憶を思い出すことが出来なくなっているだけだという話を聞いたのは、一体いつのことだっただろうか。
 忘れていたはずの文字列が、まるで零れ落ちるかのように俺の口から飛び出してきた。
 脳のどこかで燻り続けていた記憶を、ようやく俺は思い出すことが出来たらしい。
 それは、彼女を指し示す文字列で、かつての自分が口にしていた文字列だった。

 あの記憶の中の少女の、名前だった。

 目の前で、小さな女の子が目を丸く見開いている。
 きっと今、俺も彼女と同じような表情をしていることだろう。

 ……いや、まさか。そんなことはあるはずがない。
 誰かの声が頭の中に響いた。
 心臓が不自然なリズムで血液を全身へと送り出す。
 目の前の少女は確かに彼女に似ている。生き写しと言ってもいいほどに。
 けれど、彼女は自分の1つ年上のはずで。とうの昔に成人を迎え、社会で生きる大人になっているはずで。…だから、今ここに“あの時の彼女”がいるのはあり得ないことなのだ。

 あり得ない、ことなのだ。

「……ほんとに? ほんとに零くんなの?」

 けれど、確かに目の前のこの女の子は俺の名前を呼んでいて、そして、

「覚えてる? わたし、名前だよ!」

 彼女の名前を、名乗っている。
 あの朧気な記憶の中の彼女と、同じ姿で。
 
「……零くん、ちょっと見ない間に大きく、なった?」

 今やもう30歳を目前にしている俺を、あの時の、きっと俺たちと離れ離れになったすぐ後の、7歳の時の姿で見上げている。

「……本当に名前、なのか?」

 目の前にあるこの現実がどうしても信じられなくて、俺は目の前の女の子にそう問いかけた。返ってくる答えなんて分かり切ってはいたけれど、聞かずにはいられなかった。

「うん、名前だよ! 久しぶりだね、零くん!」

 花が綻ぶような笑みを浮かべて、女の子は、名前は、そう答えた。

 ……ああ、そうか。
 理由も、意味も、経緯も、まったく分からないけれど。俺の幼馴染は、どうやら時を越えて俺の元へとやって来たらしい。

 ***

「——バーボン? どこにいるの?」

 どこかから聞こえたのは、“僕”を探すベルモットの声。
 その声に俺ははっと我に返り、今自分がいる場所と、ここにいる理由を思い出した。
 反射的に顔を上げて、声のした方へと視線をやる。ベルモットはまだこの部屋にたどり着いてはいないが、少しずつこちらに近づいてきているようだ。足音が少しずつ大きくなっている。

「……どうしたの?」

 不安げな声を零す名前に俺はできるだけ優しい声と表情を作り上げ、彼女を安心させるように言う。

「いいか、名前。僕は少しここを離れる。ちゃんと戻ってくるから、それまで名前はここで待ってるんだ。さっきまでみたいに、静かに、誰にも気づかれないように。僕以外の人が来ても顔を出しちゃだめだぞ。……分かったか?」

 名前の目をまっすぐに見つめて、囁くような声で。
 最後に確認するように問いかけると、名前は口を一文字に引き締めてしっかりと頷いた。
 それを確認した俺は、名前の小さな頭を軽く撫でて立ち上がった。

「すぐに戻ってくるから、いい子で待っててくれ」

 ドラム缶の影に名前を残して、俺は部屋から出る。蝶番が軋んで扉が完全に閉まったその瞬間には、“僕”はもう既にバーボンだった。廊下の向こうから歩いてくるベルモットに視線を向けて、いつものように笑う。

「こんなところにいたのね。何かいたの?」
「いえ、何もいませんでした。この辺には狸がよく出没するそうなので、きっと彼らが何かいたずらでもした音でしょう」

 肩をすくめて、とんだ無駄足だったと言わんばかりに言葉を並べる。そのほとんどは嘘だけれど、ベルモットがそれに気づくことはないだろう。

「そう。ジンたちはもう撤収したわ。私たちも早く行きましょう」
「はい。情報は手に入れられたんですか?」
「ええ、もちろん。それについてはまた後日連絡がいくと思うわ」
「わかりました」

 踵を返したベルモットの後について、僕もあの部屋から離れる。物音ひとつしない部屋の様子に、小さく息を吐きながら。落ち着かない心臓を何とか押さえつけながら。

 ***

 ベルモットを彼女の指定の場所まで送り届けてから、俺は急いであの廃倉庫へと戻った。彼女はちゃんとあの場所にいるだろうか、誰にも見つかっていないだろうか、怖い思いをしていないだろうか。必死に足を動かして、彼女を迎えに行く。
 暗い廊下の先、錆びついた扉に手をかけて、勢いをつけて押し開けた。

「名前?!」

 そしてすぐさま彼女の名前を呼ぶ。

「……零、くん?」

 ちゃんと、返事が返ってきた。そのことだけで膝を地に付いてしまいそうになる自分がいることに気づきながらもなんとかそれを堪えて、名前の傍へと向かう。先ほど彼女のいたドラム缶の裏をのぞき込むと、そこにはちゃんと名前の姿があって。分かってはいたことだけれども、俺は思わず安堵の息を吐いた。

「おまたせ。……帰ろうか」

 また彼女の頭を軽く撫ぜて、床に座り込んでいたその小さな体を抱き上げる。
 自分の腕の中にすっぽりと収まってしまうその体躯とその軽さに少し驚きながら、名前を連れて暗く汚れた倉庫を後にする。今はとりあえず、温かくて明るい場所に彼女を連れて行かなければいけないと思ったのだ。彼女に、こんな場所は似合わない。

「帰るって、どこに?」
「とりあえず、俺の家かな」
「零くんのお家?」
「ああ」

 きっと傍から見れば俺たちは親子か何かにしか見えないことだろう。誰も、俺たちが幼馴染どうしだなんて考えもしないだろう。

「……ふふふっ」
「ん、どうしたんだ?」

 俺の腕の中で、耐えられないとばかりに笑みを零した小さな幼馴染に俺は問いかける。すると、名前はまるで内緒話でもするかのように俺の耳元に顔を寄せて、

「あのね、名前ね、今どうしてここにいるのか分からないけど、零くんに会えてすごく嬉しいの。名前が遠くに引っ越しちゃったから、もう零くんには会えないと思ってた。でも、こうして会えたから。零くん、大きくなっちゃってるけど、名前の知ってる零くんのままだったから。嬉しくて笑っちゃった」

 言い終わった後、照れたように両手で口元を押えるその姿に、心臓が変な音を立てたのはきっと、多分、恐らく、いや絶対に気のせいだ。いいな、気のせいだ。

「……俺も、名前に会えて嬉しいよ」

 ——だって、ずっと、君のことを忘れたくないと願い続けていたのだから。

 ***

 セキュリティやその他諸々考えるところはあったのだが、ひとまずは今現在一番利用している家に名前を連れていくことにした。今日のところはここで食事と風呂と済ませて寝かせて、明日には一番セキュリティのしっかりしている降谷零名義のマンションに移動しよう。助手席でこくりこくりと船を漕いでいる名前の姿に、俺はそう決めた。
 できるだけ丁寧な運転で道路を走り、静かに駐車場へと車を停める。車の時計はすでに夜0時過ぎを指していた。7歳である名前にとって、この時間は恐らく未知にも近い時間だろう。申し訳なさを感じながらも、もうほとんど夢の世界へ旅立ってしまっている名前に声をかける。

「名前、着いたぞ」
「……んん、」

 すると名前は目元をごしごしと擦りながら、落ちていた頭をゆっくりと持ち上げた。半分ほどしか開いていない目がぼんやりと俺を見つめる。

「……ん」

 まるで親に抱っこを求めるかのように伸ばされた両手は確かに俺へと向けられていて、また心臓が変な音を立てた。ひとつ咳をして心臓を落ち着けてから、俺は運転席から降りて助手席へと回り、また船を漕ぎ始めている名前をできるだけ優しく抱き上げた。眠いからか先程よりも上がっている体温が、首に回された腕から伝わってくる。肩口に押し付けられた額がぐりぐりと左右に振られて、その感覚が俺をくすぐった。
 それにくすくすと笑みを零しながら、俺は名前とともに玄関の扉をくぐった。


「名前、名前」

 できればこのまま寝かせてやりたかったのだが、あの廃倉庫にいた俺たちの体は埃や泥で汚れてしまっている。せめて風呂だけでもと思い、名前の背中を軽く叩いて目覚めを促した。

「……うぅ……、なぁに?」
「寝る前に風呂に入ろう。ずっとあそこにいたから埃っぽいだろう?」

 唸りながら顔を上げた名前にそう言うと、名前は「おふろ……」と俺の言葉を繰り返した後、いくらかはっきりとした様子の表情でこくりと頷いた。

「よし、じゃあ風呂に——」

 そこまで言って、俺はふとあることに気づく。
 今の名前は7歳。風呂に1人で入れるのかどうかが分からない。でもだからといって父親ではない仮にも幼馴染と一緒に風呂に入るのはどうなのだろうか。いやまあ現時点では親子と言っても差し支えない年齢差ではあるのだが。こちらとしても、いくら幼い姿とはいえ本来なら自分と同年代である幼馴染と一緒に風呂、というのは気が引ける。いやしかし。

「……一緒に入るか?」

 悩みに悩んだ挙句、結局は名前に判断を委ねるという結論に至ってしまったことは本当に申し訳ないと思う。名前はその言葉を聞いて、こてんと首を傾げた。そして目を少し見開いて、次の瞬間、勢いよく首を左右に振った。
 全力で拒否されたことに少し傷ついた大変面倒くさい自分がいたことには気づかないふりをして、何かを言おうと口を開いた名前の言葉を待つ。

「お風呂ぐらい1人で入れるよ……! それに……零くん、大きくなってものすごくかっこよくなっちゃたから、……はずかしい」

 赤く染まった頬を両手で押さえながらそんなことを言われてしまえば、もう心臓が変な音を立ててしまうのも仕方のないことなのではないかと思う。実際に変な音を立てた。一瞬息が詰まって、変な咳をしてしまう。

「ん゛ん゛っ……そうか、じゃあ風呂の使い方だけ説明するからな」

 なんとか平静を装って、もう完全に覚醒しているらしい名前を風呂場へと案内し、簡単にシャワーの使い方やシャンプーなどの場所を説明する。そして名前を残して俺は風呂場を後にした。バスタオルと帰り道に買ってきた子供用のパジャマを脱衣所の分かりやすいところに置いて、とりあえず今やるべきことは終わりだ。食事もさせようかと思ったが今は睡眠をとることの方が最優先だろう。明日の朝食を少し豪華にすればいいか。そう結論付けて、冷蔵庫の中を確認して朝食の献立を考える。

 そうこうしているうちに時間は過ぎて、脱衣所の方から扉の開閉の音が聞こえた。
 ぺたぺたと足音を立てながら姿を見せた名前は、温まったことで血色がよくなった頬を携え、濡れた黒髪をそのままに、黒地に白猫のシルエットが描かれたパジャマを身に纏っていた。袖口に邪魔にならない程度にフリルのあしらわれたそれは、名前にとても似合っていて、自分の見立てに間違いは無かったと内心で自画自賛する。

「温まったか?」
「うん!」
「そうか。ほら、髪を乾かしてやるからこっちにおいで」

 リビングのソファーに腰かけて、ドライヤー片手に名前を手招く。すると、名前は嬉しそうに、そしてどこか恥ずかし気に俺の元へとやって来て、俺の隣にちょこんと座った。その姿さえこの世界の何よりもかわいらしく見えてしまうのだから、これはもう重症かもしれない。
 俺に背を向けた名前に、ドライヤーをかけていく。このきれいな黒髪が傷んでしまってはいけないから、細心の注意を払いつつ。
もうすぐ乾ききる、という頃には名前はまた船を漕ぎ始めていて、思わず笑ってしまった。もう夜1時を過ぎているからそれも仕方ないだろう。しっかりと乾いた髪を櫛で何度か梳いて、名前をベッドへと連れていく。あいにく来客の予定など無かったため予備の布団がないのだ。仕方ないので今日はこのベッドで我慢してもらおう。小さな体をそっとベッドに横たえて、布団を肩までかけてやる。その時にはもう名前は安定した寝息を立てていて、すっかり夢の中に沈んでしまっていた。健やかな寝顔にひとつ笑みを浮かべて、髪をさらりと撫でる。引っかかることなく俺の指の隙間を滑り落ちて、艶やかな黒髪はベッドへと落ちていく。その光景をしばらく見つめた後、俺はおもむろに立ち上がり、風呂へと向かった。

 入浴を終えて寝室に戻るとベッドの上では相変わらず名前が安らかに眠っていて、その姿を確認した瞬間、何故か安堵が俺の胸を満たす。

 ……突然現れた彼女は、それと同様に突然消えてしまうのではないかという思いが、どこかにあったのだろう。

 枕元に腰かけて、名前のまろい頬を指の腹でそっと撫ぜる。確かにそこには触感と温もりがあった。彼女は確かにここに存在していた。

 ふるりと名前の長いまつげが揺れて、こげ茶色の瞳が瞼の隙間から覗く。起こしてしまっただろうかと焦るが、彼女の意識はまだ夢の中らしい。焦点の合わない瞳が俺の方をぼんやりと見つめている。名前の頬に寄せていた俺の指を、名前の小さな手のひらが握りしめた。そして、名前はへにゃりと笑みを浮かべた後、また眠りに就いた。俺の指を握りしめたまま、深い深い眠りに。ああ、これでは離れることができないじゃないか。そんな言葉を心の中で吐きながらも、口元はだらしなく歪んでいる。俺はそっと名前の隣に寝そべって、少し逡巡した後、ゆるく名前の体を抱きしめた。

 今までずっと、消えかけた記憶にすがってまで焦がれていた彼女が今、何の因果か自分の腕の中にいる。しかもその記憶の中にあった姿のまま。これは全て夢だと言われてもきっと信じられてしまうほどには突飛で現実味のない現状ではあるけれど、それでもこの腕の中のぬくもりが、これは現実なのだと切に訴えてくる。

 子供特有の少し高い体温は、 “生きている”ということを大声で叫んでいるようで、思わず涙が溢れそうになった。

 自分のものでは無い体温と心音を感じながら、俺もまた、ゆっくりと意識を手放す。


 ——その最中、誰かが俺と名前を呼ぶ声が聞こえたような、気がした。

 ***

 自分のすぐそばで何かの気配が動いたのを感じ、俺の意識が浮上する。ゆっくりと瞼を持ち上げると、薄暗い部屋の中に、カーテンの隙間から眩いほどの光が差し込んでいた。外からは雀と思しき鳥のさえずりが聞こえており、朝が来たのだと理解するのにそう時間はかからなかった。ゆっくりと視線だけを動かして、自分の腕の中で眠る幼子の姿を視界に映す。
 ……ああ、夢じゃなかったのか。
 まだ確かにここにある体温と呼吸に、俺は息を吐いた。

「……んん、」

 すると次の瞬間、名前がぐずるような声を上げ、もぞもぞと身じろぎ始めた。そして長いまつげを携えた瞼がゆっくりと持ち上がる。

「……あさ?」

 もそもそと起き上がる名前の気配を感じながら、俺は咄嗟に始めてしまった寝たふりを続ける。自分でもなぜこんなことをしているのか分からない。けれどもまあ、とりあえず適当な時に起きたふりをすればいい。そう結論付けて、俺は瞼を閉ざしたままその時を待った。

「……零くん、まだ寝てるの?」

 寝起きで掠れ気味の声が降ってくる。この声で起きたように見せかけようと思い、目を開こうとした瞬間だった。

「……えへへ」

 頬に落ちてきた柔らかな感触と、顔の間近から聞こえた嬉し気でどこか恥ずかし気な笑い声。何が起こったのか、視覚からの情報が無くとも分かった。分かってしまった。

 ……朝っぱらからとんでもない爆弾を落とされた気分だ。

「あ、零くん、起きた? おはよう!」

 思わず両手で顔を覆い天井を仰ぎそうになるのを何とか堪えながら、目を覚ました俺を嬉しそうに覗き見る名前に俺も同じ言葉を返した。

「おはよう、名前」

 まさか自分が7歳児に振り回されることになるなんて、思いもよらなかった。
 しかしそれも悪くないと思ってしまうのだから、やはりこれは手遅れなのだろう。

 ***

 とろりとしたチーズを乗せたトーストと、ふわふわのオムレツに焼いたベーコン、そしてレタスときゅうりとトマトのサラダにヨーグルトをつければ、簡素ではあるが朝食の出来上がりだ。すでに食卓についている名前の目の前にそれを並べると、名前から上がったのは感嘆の声。

「零くんお料理も上手なんだね! ものすごくおいしそう……!」

 きらきらと瞳を輝かせながら喜ぶ名前に笑みを零しながら、自分もその向かい側の席に座って料理に向かう。そして両手を合わせて、

「いただきます」
「いただきます」

 2人で声を合わせた。
 たったそれだけのことでも名前が酷く嬉しそうに笑うものだから、俺もつられてまた笑ってしまった。
 この瞬間を幸せと呼ばずして、一体何と呼ぶのだろうか。

「ごちそうさまでした!」

 少し量が多すぎただろうかと不安になりつつ見守っていたが、名前は食べる速度こそゆっくりしてはいたものの、きちんと全てを食べきってくれた。空になった皿の群れの前で、小さな両手を合わせて元気よく彼女はそう言った。

「お腹はいっぱいか?」
「うん! すごくおいしかったよ!」

 にこにことご満悦な名前は、皿を下げようとした俺を遮り、自分の使っていた食器を手に立ち上がった。

「名前が後片付けするから、零くんはゆっくりしてて」

 少し大人ぶった口調でそう言って、かちゃかちゃと食器を鳴らしながら名前は台所の方へと向かって行く。しかし台所で洗い物をするにはまだ身長が足りなかったようで、すぐに戻ってきて、その辺に置いてあった椅子を引きずってはまた台所へと姿を消した。
 その一連の流れをただぼんやりと眺めてしまっていた俺は、台所から聞こえる水音と食器のぶつかり合う音に、ようやく我に返った。
 慌てて台所を覗き込むと、そこには椅子の上に立って、少し危なっかしい手つきではあるがそれでもしっかりと食器を洗っている名前の姿があった。7歳児とはこんなにもしっかりしていただろうかと驚きつつ、そっと傍に近寄って、置いてあった布巾を手にとった。

「零くん? 名前がやるから大丈夫だよ」
「2人でやったほうが早く終わるだろう? ……早く終わらせて、少し俺と話をしよう」

 くりくりとした瞳で俺を見上げる名前の頭を撫でて、俺は水に濡れた食器をひとつ手に取った。

 ***

「……名前はあの場所に来る前、何をしていたんだ?」

 カラン、と麦茶で満たされたコップの中で氷が鳴く。
 食器の片付けも終わり、俺たちは小さなローテーブルを挟んで向かい合って座っていた。まず初めに俺がそう切り出すと、名前は時折悩むようにしながら、自分の覚えている記憶を言葉に表し始めた。

「ええとね、あんまり良くは覚えてないんだけど……」

 名前の口から語られたことを簡単にまとめると、なんでも家で昼寝をしていたにもかかわらず、目が覚めたらあの場所にいたのだという。引っ越しにより俺たちと離れた後、小学校にも入学し、新しい場所での生活にようやく慣れ始めた頃のことだったそうだ。覚えているのは、休日に家のリビングで眠りに就いたことだけ。なぜあの場所にいたのか、どうやってあの場所に行ったのかについては一切覚えていないという。文字通り、目が覚めると突然あの暗く錆びついた倉庫にいたのだという。大人でも混乱し慌てるだろうそんな現象が、たった7歳の子供の身に降りかかったのだ。発狂して泣き叫び、大暴れしたっておかしくはなかっただろう。それでもあの時に名前が少なくとも表面上は冷静でいてくれたことには、本当に、良かったとしか言えない。もしもそんなことになっていれば、名前の命の保証などできなかったのだから。

「……あのね、零くん。名前からもひとつ、聞いてもいい?」
「? ああ、もちろん」

 名前から聞いた話を頭の中で反芻しあれこれと考えていると、恐る恐るといった風に名前が問いかけてきた。俺は特に考えることもなく首を縦に振る。すると名前はやはり少し言いにくそうに、それでもどうしても聞きたいのだろう、ちらちらと俺の方を伺いながら口を開いた。

「えっとね……ひろくんは、元気にしてる?」

 ——心臓がどくりと跳ねて、血の気が引いていくのを感じた。
 ひゅ、と喉を空気が通り過ぎていく。
 呼吸はちゃんと続いているはずなのに、なぜだか息苦しい。

 名前が答えを待っている。
 早く答えなければいけない。

 頭の中でがんがんと何かが鳴り響いている。
 早く、早く、答えろ。

 ——あいつは元気にしているよ、と。

 なんでもない風に、それが真実であるかのように。少しの笑みと一緒にその言葉を紡げばいい。簡単なことだろう? それぐらいの嘘はもう吐き慣れているんだから。

 ——それなのに、どうしてもその言葉は俺の喉から生まれてきてはくれなくて。

 一度二度と俺はただ口を開閉させるだけ。
 一言だって紡ぎだせはしなかった。

 俺を見つめる名前の視線が痛くて、俺は思わず顔を俯けた。
 ああ、駄目だ。名前を不安がらせてしまう。今からでもいい、笑え。笑って、名前に「あいつは元気だ」と言え。

 『あいつは今も生きている』って。


「——零くん!!」


 突然、右横から衝撃に襲われて、俺の思考はそこで途切れた。驚いてその衝撃の原因を視界に映すと、そこには俺に体当たりをするように抱き着いてきたらしい名前の姿があった。その肩が少し震えているのが分かって、思わず俺も名前の体を抱きしめ返す。

「……ごめんね。ごめんね、零くん」

 背中に回された手が、ゆっくりと俺の背中を撫でる。まるで赤子をあやすかのように、酷く優しい手つきで。

「苦しいなら言わなくていいよ。つらいなら答えなくていいよ」

 俺を見上げる名前の瞳は俺の瞳を映していて、透き通るようなこげ茶色の中に空色がじわりと滲む。小さな手のひらが、俺の頬に添えられた。その体温がやけに温かくて、そこでようやく俺は自分の体温が下がっていることに気が付いた。

「名前、零くんのそんな顔は見たくない」

 今にも泣きだしそうな声で、表情で、名前はそう訴えた。
 俺は一体、どんな表情をしていたのだろうか。自分にはわからなかった。知る術もなかった。唯一俺の表情を映していた名前の瞳は、波立った水面のようにゆらゆらと揺れていたから。そこに映っているはずの俺の姿もまた、ゆらゆらと陽炎のように揺れていたから。

 ***

 その日のうちに、俺は名前を最もセキュリティの厳重な家へと移し、誰にも彼女の存在を知らせぬまま日々を過ごした。帰る家はもっぱら名前のいる家になり、家に帰る頻度も今までの比ではないぐらいに上がった。もちろん仕事が立て込んでどうしても帰れない日だってあったが、2日に一度は必ず名前の元へと帰っていた。

 名前の存在はあっという間に俺の生活や思考のほとんどを埋め尽くし、今となってはもう、名前のことを忘れ、それでも足掻いていたあの頃の感覚さえ記憶の隅に追いやられてしまった。

 名前が俺の世界にいることが、当たり前になり始めていた。
 
 ——それが本来ならばあるはずのないことだということも忘れたまま。 

 名前が俺の前に現れてから、ひと月が経とうとしていたある日のこと。仕事を終えて帰宅した時にはもう既に寝室で眠っていた名前の姿を見つめて、俺はふと、あることに気づいたのだ。

 自分が名前を一度もこの家から出してやっていないことに。

 いや、本来ならこの場所にいるべき存在ではない名前を外に連れ出すことは何を引き起こしてしまうのか分からないし、自分が連れて歩いていることで名前に危険が及ぶ可能性だって十二分にある。それぐらいのことはちゃんと理解している。けれども、名前は7歳の子供だ。どれだけしっかり者でも、精神年齢が多少高くとも、その事実は変わらない。
 遊びたい盛りで、様々なことを学び他者との関係を築いていくべき年齢だ。
 そんな彼女を、この場所に縛り付けていていいのか。
 もちろん、命に代えられるものはこの世界に存在しない。けれども、ただこの狭い家の中で過ごす日々は、名前にとってとてつもない苦痛になっているだろう。

 外に出て、青い空の下で、新鮮な空気を肺一杯に吸い込んで、風を感じて、地面を踏みしめる。
 そんな当たり前のことを、俺は名前から奪ってしまっているのだ。

 すやすやと安らかに眠る名前の髪をそっと梳いて、俺は静かに決意した。


 ——俺は、青空の下で笑う名前の姿が好きなんだ。


 ***

「名前、今日は少し出かけようか」

 いつものように朝食を終え、2人並んで食器を片付けた後、俺は名前にそう言った。名前は初め俺の言葉の意味がうまく呑み込めなかったようで、目を丸くしたまま俺を見つめてきた。しかし少しずつその言葉の意味を理解し、それと同時に輝き始める瞳。ああ、やはり我慢させてしまっていたのか。名前のその表情の変化に、小さく胸が痛んだ。

「ほんと?! お出かけ?!」
「ああ。近くに商店街と公園があるから、公園で少し遊んでから商店街で買い物をして、……そうだな、帰りにクレープでも食べようか」

 俺が言葉を繋いでいく度にどんどんと輝きを増す瞳と、赤らんでいく頬。今すぐにでも駆け出して行ってしまいそうなその様子に、思わず笑ってしまいそうになる。

「名前、チョコレートといちごが乗ってるクレープがいい!」
「好きなものを選んでいいよ」
「やったぁ!」

 両手を頬に添えて、ぴょんぴょんと飛び跳ねながら喜ぶ名前。
 こんなに喜んでくれるなら、もっと早くにこうしていればよかったなと思いながらも、外出するための準備をするためにぱたぱたと寝室へ走っていった名前の背中を追いかけた。

 ***

「透くん、見て見て! この池、おっきな鯉がたくさんいるよ!」

 まるで遊園地にでも来たかのようなはしゃぎっぷりで、名前はあちらへこちらへと忙しなく駆け回る。並木道を過ぎ、芝生広場を通り抜け、そして今は公園の中心付近にある大きな池を橋の上。そこから池を覗き込み、自由に泳ぎ回る鯉の姿を指差しながら名前は俺を呼んだ。

 名前が呼ぶのは“僕”の名前。
 外の世界での“僕”は、“安室透”であるから。
 いくら多少変装をしているとはいえ、名前が俺を「零くん」と呼ぶのを、万が一にも誰かに聞かれてしまってはいけないから。
 俺のその要望に、名前は疑問の声を発することなく答えてくれた。やはり彼女は聞き分けが良くて聡い子だ。青い空を背景に、白くつばの大きな帽子の下で、黒い髪を風になびかせながら屈託なく笑う姿があまりにも眩しくて、思わず俺は目を細めた。

 やはり、彼女は広い青空の下で生きるべき存在なのだと、思った。

「美味しいか?」

 2人並んで1つのベンチに座り、隣でクレープを頬張る一花の姿にそう問いかける。そのクレープは名前にとっては少し大きすぎたのだろう。その口の端にはチョコレートクリームと生クリームが付いていた。口いっぱいにクレープが詰まっているからか声は出さないものの、首を大きく縦に振ることで名前は肯定の意を示す。
 もぐもぐと夢中で咀嚼を続ける名前の口元に手を伸ばし、指で口の端に付いていたクリームを拭いとった。その指を自分の口の中に含むと、広がったのは甘い味と香り。しつこすぎないそのわずかな甘味を舌の上で転がしていると、ふと自分を見つめる名前の視線に気づいた。まん丸に見開かれた目と視線を合わせて、ついつい小首を傾げてしまう。

「……零くん、そういうこと無暗にやっちゃだめだよ」
「え?」
「……」

 最後に続いた言葉は、名前がそっぽを向いて囁くような声で呟いたことでうまく聞き取れなかった。けれどもなんとか読み取れた唇の動きから、彼女が何を言ったのかは分かった。
 分かって、心臓がまた変な音を立てた。

「……安心しろ、名前にしかしないから」

 拗ねたようにあっちを向いて、こちらを見ようとはしない名前の頭を撫でて俺はそんな言葉を紡ぐ。名前の頬はこちら側からでもわかるほど赤く染まっていた。


『………すきになっちゃうから』


 ——そうなってくれたら、俺は嬉しいんだけどな。
 そんな言葉、言えるわけはないのだけれど。


 名前と過ごす日々は暖かくて、優しくて、幸せなものだった。……けれども、世界にはこんな言葉が存在しているのだ。

『幸せは、そう長くは続かない』

 少しずつ、けれども確かにその時は近づいていた。


 ***

 事の発端は、“バーボン”に宛てられた一通のメールだった。
 コードネームこそ持っていないものの、組織の中核近くにいると名高い、ある男からのメールであった。名前が寝てしまい、1人になったリビングで不審に思いながらも開いたそのメールの文面を目で追って、そこに書かれた言葉の意味を理解して、次の瞬間、手の内にあったスマートフォンを床に叩きつけてしまいそうになった。なんとかそれは耐えたけれども、荒ぶる感情は抑えきれなくて、はぁはぁと荒い息を繰り返す。


『親愛なるバーボンへ
 先日君がかわいらしい少女を連れて歩いている姿を見かけたよ。結構な上玉じゃないか。確か君は組織のことについて知りたがっていたね? そこで君に提案があるんだ。私が知る組織についての情報をすべて君に上げよう。その代わりに、』


 スマートフォンの画面に並んだ文字列。
 瞼の奥でちかちかと光が明滅する。
 肺が痛む。

 ひとつ、大きく息を吸い込んだ。

「……零、くん?」

 小さな声が、背後から聞こえた。
 世界の時が止まったような感覚に襲われて、俺は動けなくなる。

「どうしたの……?」

 固まったままの俺に、名前はさらに問いかける。
 ぺたぺたと、足音が近づいてくるのが分かった。

「零くん?」

 足音が俺のすぐそばで止まり、服の裾が軽く引っ張られる。隣に立った名前が俺を見上げている。
 俺は名前を見下ろした。不安げに揺れる瞳が、俺を見つめていた。


『あの少女を私にくれないか?』


 気づけば俺は、名前の体を抱きしめていた。今までにないほど強い力で。ここに名前がいるということを確かめるかのように。

「……名前」

 名前を呼ぶ。
 きっとこの男が持っているという情報は、黒の組織壊滅への大きな一手となるだろう。……けれどもそれを得るための代償がこの少女だというのだ。ふざけている。
 一刻も早くあの組織を潰すことは、世界のため、日本のために重要なことだ。そんなことは分かっている。そのために俺は今まで走り続けてきたのだから。あいつが死んでからも、ずっと。

 それでも、俺は、

「名前」

 ——俺は名前を、その正義のための犠牲にしたくなかった。

 あの時、俺が名前を連れ出さなければ。ずっとこの場所に閉じ込めておけば、こんなことにはならなかった。後悔がぐるぐると竜巻のように荒れ狂う。今となってはどうしようもないことだというのに。今更悔いたところで、時間は巻き戻りやしないのに。

 ……でも、

 脳裏に浮かんだのは、青い空の下で笑う名前の姿。瞳を輝かせながら様々なものを指差す姿。クレープを頬張る姿。照れて頬を赤く染める姿。

 あの時間が、間違いだったなんて、思いたくはない。

 もぞりと、腕の中で名前が身じろいだ。
 強い力で抱きしめていたから苦しいのだろう、俺は慌てて力を弱めた。それにより体の自由を取り戻すことができた名前は、彼女を抱きしめるために床に膝をついていたことで、彼女のものとほとんど同じ高さに移動していた俺の瞳を見つめる。

「……何か、あったんだね」

 その瞳が、あまりにも真っ直ぐに俺を貫いてきたものだから、俺は思わず口を噤んでしまった。何もない、何でもないというつもりだったにも関わらず。


「——ねえ、零くん。名前に何かできることはある?」


 静かな声だった。

「零くんの苦しいのとか、つらいのとかを消すために、名前にできることを教えてほしいな」
「……そんなこと、」
「大丈夫だよ、零くん」

 俺の両頬を両の手のひらで包み込んで、名前は笑う。
 俺の、大好きな笑顔で笑う。


「名前はね、零くんのためならなんだってできるんだから!」


 ——俺は、君が隣で笑っていてくれるだけで、十分だったんだ。 


 ***

 人里離れた山の中にある、もう誰も住んではいないのだろう朽ちかけた廃墟。そこが、あの男に指示された取引場所だった。暗い闇の中でその廃墟がぼんやりと浮かびあがる光景は、見ていてあまり気分のいいものでは無かった。隣を歩く名前の様子を確認するために声をかける。

「……大丈夫」

 その声は固く強張っていた。ぎり、と噛みしめた奥歯が音を立てる。
 繋いだ手をしっかりと握り直して、俺たちはその廃墟の中へと足を踏み入れた。


「——いらっしゃい、待っていたよ」

 外からわざわざ持ち運んだのだろう照明器具により明るく照らされた室内に、その男はいた。この廃墟には似つかわしくないほど豪勢な椅子に足を組んで座り、両脇には黒い服を身に纏った護衛と思われる男たちを控えさせていた。
 男は部屋に入ってきた俺たちの姿を認めると、大げさなほどに喜んで声を上げた。その視線はもうすでに名前へと注がれている。名前はその視線に恐怖を感じたのか、ぎゅうと握っていた手を強く握りしめ、少しだけ俺に身を寄せてきた。できることなら今すぐ男の視線から名前の姿を隠し、名前を抱き上げてこの場から立ち去りたかった。けれどもここまで来ておいてそんなことはできるはずもなく、俺は“僕”として、“バーボン”として口を開く。

「あなたのご所望の少女を連れてきましたよ。約束通り情報を頂けますか?」
「ははは、まあそう焦らないでくれ。ちゃんと用意しているさ」

 男が胸ポケットから取り出したのは黒いUSBメモリだった。照明の光を反射して不気味に光るそれは、俺が俺の正義のために最も望むもの。

 名前と引き換えにして、俺が手に入れようとしているもの。

 途端に、言葉にできない不快感がこみ上げてくる。なんとかそれを飲み込んで、俺は言葉を続けた。名前は無言のままだ。

「それは良かったです。それで、どのように受け渡しを?」
「そうだなぁ……じゃあこうしようか」

 そう言うと、男は自分の目の前の床にそのUSBを置いた。

「君はそこから動くなよ。その少女にUSBを取らせなさい」

 男の指示に、俺は隣に立つ名前を見下ろした。そこにいた名前は予想以上に落ち着いていて、彼女は俺の瞳を真っ直ぐに見つめたまま力強く頷いた。けれどもその指先は少し震えていて、繋いだ手を放したくないと強く思った。強く願った。

 けれども、名前の手はするりと俺の手から離れていく。
 手の中に残ったのはぬくもりの残滓だけ。

 真っ直ぐ歩いていく名前の小さな背中を、俺はただ見守るしかできなかった。

 USBのもとにたどり着いた名前はそれを拾い上げ、男の次の指示を待つ。

「それを彼へ投げてあげなさい」

 言われた通りに、名前は床を滑らせるようにしてUSBを俺の方へと投げた。俺の足元に転がったそれを、俺はそっと手に取る。

「それじゃあ、君はこちらに」

 こちらを振り返っていた名前は、その指示にくるりと体を反転させて、男の方へと歩を進めた。一歩、また一歩と名前が男に近づいていく。そして、

「——これで、僕らの交渉は終わりだ」

 男の腕に、名前は捕まった。
 その汚い手で名前に触れるな。名前を返せ。叫ぶことなどできない。

 手の中にあるUSBを握りしめて、俺はそれを上着の内ポケットにしまうために上着の中へ手を入れた。

「——っ、透くん!!」

 それが、合図だった。

 内ポケットに忍ばせていた拳銃で、部屋を照らしていた照明を貫く。ガシャンと大きな音がして、次の瞬間視界は闇に包まれた。

「っなに、がっ!!?」

 闇の向こうから聞こえたのは、護衛たちの慌てふためく声と、男の驚愕の声、そして鈍い音。足音がぱたぱたと俺に近づいてきて、

「透くん!」

 腕の中に飛び込んできた名前を抱きしめて、俺は一目散にその場から逃げ出した。銃弾が数発追ってきたが、暗闇に惑う彼らの放ったそれは俺たちに届くことなどなく。
暗い建物の中を俺たちは走った。

「名前、USBは?!」
「透くんの言ってた通りの場所にあったよ! ちゃんと持ってる!!」
「よし、そのまましっかり握りしめていてくれ!!」

 やはり案の定、俺に寄越されたUSBはフェイクであったらしい。名前の手にあるのが、恐らく本物のUSBだ。きっと「残念だがそれは偽物だ、本物はここにある」とでも言って、俺を絶望させたかったのだろう。残念なのはあの男の方だ。俺たちのことを侮っていたから。名前を、ただの子供だと侮っていたから。

 組織の情報なんて、もし何かがあればすぐさま自分の額に穴が開いてしまうようなものをそう易々とあの男が渡してくるとは思っていなかった。けれども、交渉にリアリティを出すために、交渉の場に本物のUSBをこの場に持ってくるだろうと予想していた。そして、そのありかは男がフェイクのUSBを入れていた胸ポケットの、反対側の内ポケットであるだろうと男の性格などから予測を立てていた。それが見事に的中したのだ。

 見ての通り、この作戦はかなり勝率の低い賭けだった。
 けれどもその賭けに俺たちは勝った。
 結果が良ければ全てよし、ということだ。

 けれどもまだ、最終結果は出ていない。
 俺たちにとっての本当の勝利は、この場所から無事に逃げ出して、あの家へと帰ることだ。

 ドォン、と爆風が俺たちに襲い掛かってきた。吹き飛ばされそうになりながらも何とか堪えて、止まりかけた足に鞭打ち前へ前へと動かし続ける。
 あの男も、もしもの事態を想定して準備していたのだろう。
 情報が俺の手に渡ってしまったときに、情報ごと俺たちを消すための準備を。

 まあ、爆弾でこの屋敷ごと吹き飛ばしてしまうのが手っ取り早いだろうな。

 ただ少し派手すぎやしないかと、変に冷静な頭で考える。足は止めない。名前を抱きしめる腕の力も弱めやしない。

 俺たちは、あの場所に帰るんだ。
 暖かいあの場所に。

 ——そして、また、幸せな日々を。


 ドォォォンッ!!!


 すぐ近くで、大きな爆発が起きた。鼓膜を突き破らんばかりの爆音と、体を吹き飛ばす爆風。足が地面から離れた。まずい。名前の体が飛ばされないようにと、咄嗟に名前の体を抱き込んだ。
 空を舞って、背中から地面に叩きつけられる。かは、と肺から息が押し出された。衝撃により背中が痛み呼吸もままならないが、自分の容態よりも何よりも、まずは名前の安全だった。

「——っ、はぁっ、名前!? 大丈夫か!?」

 腕の中の少女を覗き込む。

「……だい、じょうぶ……」

 やはりすべての衝撃を俺が請け負うことなどできなかったようで、名前は意識を飛ばしかけたのか少しふらついていた。けれども、見たところ大きな怪我はないようだ。そのことに安堵の息を漏らす。
 名前はふるふると頭を左右に振って、幾度か瞬きを繰り返した後、自分の体を見回した。そしてあることに気づき、ばっと俺を見て声をあげる。

「………だめ、零くん! USBがない!!」

 名前のその叫びに、俺は反射的に周囲を見回した。
  衝撃で名前の手から離れてしまったのか!
 爆風で飛ばされた? どこまで?

 小さなUSBメモリがたった一望で見つかるわけはないと、思っていた。

「……っあ、った!!」

 けれどもどうやらまだ俺たちの運は尽きていなかったらしく、予想以上に近い場所にUSBは転がっていた。まだ叩きつけられた衝撃が残っている体に鞭打って、俺は名前をその場に残したままUSBの元へと向かう。
 よろよろと覚束ない足取りで床を蹴る。
 あと少しで、USBにたどり着く。

 その瞬間だった。

 自分に影がかかる。
 頭上からパラパラと砂が降ってきて、視線をそちらに向けた。

 ——そこには、俺に向けて降り注ぐ、大きな瓦礫たちの姿、が。


「——っ、零くん!」


 何かが潰れるような音が、響いた。

 ***

 ——情けなく床に尻をつけたまま、俺は目の前に立ちふさがった瓦礫の山を茫然と見つめていた。
 持ち前の反射神経と運動神経により、なんとか自分が押しつぶされることは避けられた。……しかし、USBを回収することが出来なかった。

「くそ……っ」

 俺は勢い良く立ち上がり、瓦礫が作り上げた壁に駆け寄った。どこかに隙間は無いか。もしかしたらまだこの壁の向こう側にUSBがあるかもしれない。この壁を通り抜けることが出来れば、USBを回収できるかもしれない。そんな一縷の望みに突き動かされる。
 けれども、見つかったのは俺には通れそうもない小さな穴ばかり。
 せめてとばかりに腕だけを通してみるけれど、壁の向こうを探る俺の指先にUSBらしきものは見つからなかった。

 ——名前を危険に晒してまで手に入れたものを、みすみすここで諦めるのか?

 誰かが俺に問いかける。
 うるさい、うるさい!! 諦められるわけがないだろう!!

 しかし、今現在俺にこの現状を打開する策はない。考えろ、考えろ。きっと何か、何かがあるはずだ。だが何度思考回路を辿っても、ただ焦りが募るばかりで何もひらめきはしない。ああくそ。この建物は現在進行形で崩壊し続けているため、この場所も安全とはいい難い。早く逃げなければ俺たちも倒壊に巻き込まれてしまう。急がなければ。

 ——このままでは、

「零くん、私にまかせて」

 視界の隅で黒髪が揺れて、名前の声が俺の鼓膜を震わせた。はっと顔をあげると、そこにはその小さな体を駆使して瓦礫の隙間を潜り抜け、向こう側へと移動する名前の姿。思考が一瞬止まりそうになったけれど、そんな暇はない。

「名前!? お前何をして、……っ早く戻って来い!! 危険だ!!」

 そう叫ぶけれども名前はすでに壁の向こう側にいて、

「大丈夫だよ、」

 俺の手は名前には届かなくて、

「言ったでしょ? 名前はね、零くんのためならなんだってできるんだよ!」

 ——それなら、
 どうか、どうか無事に、俺のもとに戻って来てくれ。
 それ以外を望みはしないから。それ以上を望みはしないから、どうか。


「——あったよ!USB!」


 一花の声に、俺はすぐさま応える。

「すぐに戻って来い!! ここも、もう——」

 倒壊する。
 そう、言おうとした瞬間だったのだ。

 ぐらりと建物が揺れて、無情にも先ほど名前が通り抜けていった小さな隙間がぐしゃりと閉ざされたのは。


「——っ、名前!!?」

 叫ぶ。名前は無事なのか、ただそれだけを知りたかった。
 答えは返ってこない。
 最悪の事態が頭を過った。
 
 けれども、崩れ落ちた瓦礫の下の、腕さえ通らないような小さな小さな隙間から、何かが飛び出してきた。砂ぼこりで汚れた黒いそれは、確かに俺たちが探し求めていたUSBで。

 壁の向こうから、ようやく名前の声がした。

「USB、届いた?」

 彼女は今の自分の状態を理解していないのではないか。そう思ってしまうほどには彼女の言葉は呑気なもので、俺は思わず声を荒げた。

「馬鹿!! USBなんてどうでもいい、お前が、お前がそっちにいたままだと……!!」

「零くん、あのね、聞いてくれる?」

 まるで俺の言葉を遮るかのように、瓦礫の向こうから名前の声が聞こえた。
 ……ああ、聞いてやるさ。話ぐらいいくらでも聞いてやる。全部が終わった後に、いくらでも。

「名前ね、やっと分かったよ。自分がどうしてここに来たのか。どうして、大人になった零くんのところに来たのか」

 こんな状況で、こんな場所で、言葉を紡がないでくれ。
 早く帰ろう。あの場所に。
 あの温かくて幸せな場所に。
 そしてゆっくりと話せばいいじゃないか。
 それならば、俺はどんな話だって聞いてやるから。


「きっとね、今日、こうして零くんの役に立つために名前は来たの」


 だから。
 なあ、頼むから。そんなことを言わないでくれ。
 嬉しげな声でそんなことを。

 まるでこれが正しい道なのだと言わんばかりに。


「零くんはいじめられてた名前を助けてくれて、いつも一緒にいてくれて、手を繋いでくれて、頭を撫でてくれて、名前を呼んでくれて、」
「すごく優しくて、」
「誰よりも強くて、」

「零くんはね、名前にとって正義の味方ヒーローだった」

「名前はいつも零くんに助けてもらってばっかりだったから、いつか零くんに恩返ししたいと思ってたんだ。それが叶って、名前は今すっごく嬉しいの」

「零くんは今、国を守る正義の味方ヒーローなんだよね」

「零くんならきっと大丈夫だよ」


「だって、零くんは誰よりも強くて優しいんだから!!」


 名前、


「……あのね、」


「名前は、零くんのことが大好きだよ!」


 壁の向こうから、一際大きな爆発音が、響いた。

 ***










 ***

 ——手に入れたUSBには、あの男が言っていた通り組織の重要な情報ばかりが記録されていた。その情報は組織壊滅への大きな一手となり、予想よりもかなり早く組織の壊滅作戦に着手することが出来た。FBIとの協力はいささか不本意ではあったが、まあ致し方ない。

 そして、つい先日、組織が壊滅した。

 組織側にも警察側にも多数の犠牲者を出したその戦いは、警察側の勝利に終わったのだ。


 ——あの日、爆発が収まった後、俺は名前の姿を探した。
 倒壊した建物の中を探し回った。

 けれども、名前の姿は見つからなかった。
 彼女のひと欠片さえ、見つかりはしなかった。

 なにも残さないほど爆発の威力がすさまじかったのか、
 それとも、――爆発の直前に、彼女が元の時代へ戻ったのか。
 それは分からない。
 どうか後者であるようにと俺はただひたすら願っている。

 テーブルを拭き終えた俺は、窓の向こうに広がる空を仰いで目を細めた。

 今日は“安室透”のポアロでの最後の勤務日だ。
 残党狩りなどの後始末はまだ残っているけれど、もう“安室透”という存在は不必要となってしまったから。今日で“安室透”はいなくなる。まあ必要となればまた現れるだろうけれど。

 この場所で働くのも今日が最後かと思うと感慨深い。
 ぐるりと店内を見回して、小さく息を吐いた。
 そろそろ買い出しに出かけた梓さんが戻ってくるだろう。それまでに掃除を終わらせてしまおうと、布巾を握り直した瞬間だった。


 カランカラン
 

 来客を知らせるベルの音が店内に鳴り響く。

 ドアの向こうに広がる青い空。
 それを背景に、




「——っ、……いらっしゃいませ!」


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