君さえ


私は忠犬(decn/降谷)


Attention
・2018/7/29に開催されたdecn超能力企画参加作品
・組織の軽率壊滅あり
・血、怪我表現有り
・捏造過多、圧倒的ご都合主義
・n番煎じ





Side R

 彼女が現れるのはいつも突然だった。

「はじめまして! ねえ、君のお名前、聞いてもいい?」

 初めて出会った時もそう。小学校に入学して少し経った頃、彼女は俺の前に突然現れた。

「わたしは名前っていうの。苗字は……うーん、ないしょ!」

 自分を名前と名乗る、俺と同い年だというその少女は、とても謎の多い存在だった。数日に一度、どこからともなく現れて、俺と一緒に時間を過ごして、景光たちも交えて遊びまわって、そしてまたどこかへと帰っていく。どこに住んでいるのか、どこの学校に通っているのか。果てはフルネームすら、彼女は教えてはくれなかった。

「降谷零くん……いいお名前だね。零くん、って呼んでもいい?」

 初めは少し警戒したけれど、それもすぐに解けた。彼女はただひたすら俺と、俺たちと一緒にいることを楽しんでいるだけだと分かったから。それが一目で分かるほど、彼女は笑っていたから。花が綻ぶような、そんな笑顔で。
 少し歪ではあったけれど、俺たちは確かに友人と呼べる関係だった。

 けれどその関係も、少しずつ変化していった。

 彼女は俺の傍に突然現れる。
 俺がどこにいようとも。

 公園にいても、家の近くの駄菓子屋にいても、林の中にある秘密基地にいても。果ては迷子になり見知らぬ道にいても。彼女はいつも笑いながら、俺の名前を呼びながら、俺に駆け寄ってくるのだ。どこからともなく現れて。
 
 それが異常なことなのだと理解できないほど、俺は子供ではなかった。俺はすぐさま彼女に問いかけた。どうしていつも俺のいる場所が分かるのかと。

「私は零くんがどこにいても、零くんのところに行けるんだよ。零くんのことが大好きだから!」

 返ってきたのはそんな答えになっているのやらいないのやらよく分からない言葉。けれどもその時の俺は、謎の多い彼女にまたひとつ謎が増えただけで別に問題は無いなと結論付けた。今になって考えればツッコミどころが満載なのだけれども

「……お前、なんか犬みたいだな」
「犬?」
「主人に付き従う忠犬みたいだろ。俺がどこにいても俺の居場所が分かるなんて」

 ただ冗談のつもりで言った言葉だったのだが、彼女はそう受け取ってはくれなかったらしい。俺の言葉に目を丸くした彼女に、犬はまずかっただろうか、傷つけてしまっただろうかと焦る俺。しかしそれは杞憂に終わり、次の瞬間、彼女はなぜか今までにないほど瞳を輝かせた。

「忠犬……!! いいね、忠犬!! ……うん、決めた。今日から私は零くんの忠犬になる!」

 どうしてそうなった。そんな俺のツッコミも彼女には届かなくて、結局彼女に押し切られるまま、俺は彼女の飼い主ポジションに立つこととなってしまった。正直今でもこの時のことは忘れられない。衝撃的すぎて。

「えへへ、零くんの忠犬かぁ……」

 一体何がそんなにも嬉しいのか俺にはみじんも分かりはしなかったが、まあ彼女が笑顔でいるなら別にいいやと、そう思えるぐらいには俺も彼女に絆されていた。
 そんなこんなで歪な友人関係は、その歪さをそのままに……いや、その歪さを変な方向に広げながら、主従関係()へと進化したのであった。

「れーいくん!」

 そして今日もまた、俺の幼馴染であり友人であり……自称忠犬は俺の元へとやって来る。最近彼女に犬の耳や尻尾が見え出した俺は末期なのかもしれない。この場合病院はどこの科へ行けば良いのだろうか。

 放課後、人気のない夕方の公園でベンチに座って空を眺めていた俺は、その視線を声のした方へと向けた。するとそこには黒い髪を夕日の色に染め、長いスカートの裾をゆらゆらと風に遊ばせている彼女の姿が。

「名前。一昨日ぶりだな」
「うん! ……1日会ってないだけなのに久しぶりって感じがするねぇ」
「そうか?」
「私は毎日でも零くんに会いたいと思ってるから」

 こいつのこういう、好意を包み隠さないところはどうかと思っている。いや、別に嫌だとかそういうわけではないのだが。……中学3年という精神的に複雑な時期だというのにその真っ直ぐさを失わない彼女が、とても眩しく思えた。

「……俺も、」

 お前に毎日会えたら、

 続く言葉は喉元にひっかかって、その姿を見せようとはしない。ああ、くそ。こうして今日も、俺は言いたいことを、伝えたいことを言葉にできないまま時間を浪費するのだ。

「——ね、零くん」

 かぁかぁと、どこかで烏が鳴いた。空は一段とその色を濃くして、もうすぐ夜が来るぞと叫んでいる。ベンチに2人並んで腰かけ、ぼんやりと流れる雲を眺めていた時だった。彼女がふと俺の名前を呼んだ。いつもの溌溂とした様子はそこにはなくて、あったのは静かな音だけ。そこに乗せられた感情が一体何だったのか、俺には分からなかった。

「どうした?」

 続きを促すように問いかけたけれど、一向に言葉は返ってこない。不思議に思って彼女の方を見ると、そこにあったのは唇を一文字に引き結んで、何かに耐えるような表情。そんな彼女の表情を見るのは初めてで、俺はその瞬間、思わず声も呼吸も忘れてしまった。けれどもそれはすぐに掻き消され、瞬きの後に残っていたのは笑顔。いつもと同じ笑顔だった。

「ううん、何でもないよ。呼んでみただけ」

 ……けれども俺には分かった。

「よし! じゃあ今日はもう帰るね。ばいばい、零くん」

 それが無理やり作られた笑顔だということが。

 立ち上がり、俺に手をひらりと振って去って行こうとする彼女を引き留めようと、俺は手を伸ばした。けれどその手が彼女に触れるその瞬間、俺は躊躇した。彼女を引き留めてどうするのだと、頭の中で誰かの声が囁いたのだ。
 きっと秘密の多い彼女はまたひとつ、秘密を抱え込んだのだろう。
 その秘密を暴く権利など、俺には。
 自分の気持ちひとつまともに打ち明けられやしない俺には。

 着地点を失った思考と、中途半端に空中に浮いた手。
 もう視界の先に彼女の姿は無かった。


 次に彼女が姿を現したのは、それから1週間が経った、とある雨の日のことだった。

 朝から続く雨はその雨脚を衰えさせることも知らずに降り続け、ありとあらゆる場所に小さな湖を作りあげていた。そんな世界の中を、俺は傘1本で歩いていた。歩くたびに水が跳ね、靴の中まで濡らしていく。
 …彼女が1週間も俺の前に姿を見せないことは初めてだった。彼女は今までずっと、忠犬を自称するだけあって、いつも3日と空けずに俺の前に現れていたから。
 何か用事があって忙しいだとか、俺と会うのに飽きただとかならまだ構わない。…いや、後者は……構わないとは言い切れないけれども。とりあえず、事故だとか事件だとか、そういったことに彼女が巻き込まれていないかどうかが心配だった。
 ……あの時の彼女の様子も気になっているというのに。
 雨の憂鬱とも合わさって、はぁと重いため息がひとつこぼれ落ちる。

 ——ふと、自分の前方からぱしゃりと大きめの水音がした。

 視界を覆っていた傘をずらしてそちらを見る。
開かれた視界に飛び込んできた光景に、俺は自分の目を疑った。

「——……和泉?」

 そこには彼女が立っていたのだ。真っ黒な服を全身に纏い、大雨の中で傘もささずに。俯いているためその表情は分からない。いつもならすぐさま俺の名前を呼んで、笑顔で駆け寄ってくるはずなのに、なぜか今日はそれがない。
 俺は慌てて彼女のもとへ駆け寄った。2歩、3歩。彼女との距離を縮め、傘を彼女へと傾ける。これだけ濡れてしまっていてはもう意味もないだろうけど。

「お前、こんな雨の中傘もささずに何してるんだ! 風邪をひくだろう! 髪だってこんなに濡れて……」

 鞄からタオルを取り出して、せめて頭だけでも拭いてやろうと彼女に手を伸ばした瞬間だった。

「っだめ……!」

 まるで俺の手を避けるように、彼女はそう叫びながら身を引いたのだ。そのせいで傘の外へと出てしまった彼女の体は、容赦なく叩きつける雨粒によりさらに濡れていく。
 まさか拒絶されるとは思っていなかった俺はその場で固まってしまい、ただ彼女を見つめるしかできなかった。伸ばした手はこの間のように、中途半端に宙に浮いている。

 彼女はどこか怯えたような表情で俺を見ていた。

 ……俺に、怯えているのではない。何かもっと別のものに対して、酷く怯えていた。
 その肩が震えているのは、寒さだけのせいではないのだろう。

「……ごめんね。零くん、ごめんね」

 ぽつり、ぽつりと彼女は言葉を零す。俺に向けた謝罪の言葉を、何度も何度も繰り返す。

「なんで謝るんだ……? 名前、一体何が」
「ごめんね、零くん」

 その声は雨音にかき消されてしまいそうなほどか細く儚い声であったというのに、なぜか俺の聴覚を酷く刺激して。
 次の瞬間彼女が浮かべたのは、彼女らしくない酷くへたくそな笑顔だった。

「——もう、君とは会えないや」

 今にも泣き出しそうな、笑顔だった。


「さよなら、零くん」


 待て、それはどういう意味だ。
 そう問いただそうと俺が口を開いた時にはもう、彼女の姿は俺の目の前から消えていた。
 まるで、そこには最初から誰もいなかったかのように。
 まるで、俺が白昼夢でも見ていたかのように。

 俺の世界に残っていたのは、未だ降り続ける雨とその足音だけ。

 状況をうまく理解できず立ち尽くしていた俺は気づかなかった。
 先ほどまで彼女がいたはずの場所で、赤く色づいた液体が雨水に混じり、その色を消していったことに。

 ***

 それから、彼女はあの言葉通り俺の前に現れなくなった。
 今日こそは、今日こそはと周囲を見回すことも、ひと月ふた月と時間が過ぎるごとに少なくなり、1年が過ぎた頃にはもう彼女の姿を意識して探すことは無くなっていた。けれども無意識というものは怖いもので。今まで何年も何年も俺の傍にいた彼女がいないという現実に慣れようとしない俺の無意識は、何年の月日が経とうとも彼女を追い求め続けていた。
 彼女のことを調べて探し出そうとも考えた。けれどもそのための情報を、俺は全く持っていなかった。知っているのは名前と、性別と、年齢だけ。苗字も住所も分からないのでは、話にならない。
 ……最初から、彼女には謎が多かった。それでもいいと思っていた。彼女が俺の傍で笑っていてくれるのなら、俺の名前を呼んでくれるのなら、それで。けれどもそれは間違いだったのだと、彼女がいなくなってようやく俺は気づいた。現状に甘んじているだけでは、未来に何も残せないのだと知った。

 もしかしたら、彼女は最初からこうなることを知っていて、秘密をいくつも重ねていたのかもしれない。

 その答えを知る術を俺は持っていない。もう失ってしまった。

「……忠犬を名乗るなら、飼い主を待たせるなよ」

 ぽつりと零れた言葉に、自嘲する。
 待たせるなよ、なんて。俺はいつまで待ち続けるつもりなのだろうか。

 ――彼女が消えてから十余年の時が過ぎ、俺はとある重大な戦局の只中にいた。

 黒の組織壊滅作戦。

 数年にわたる潜入捜査の果てに辿り着いたこの大プロジェクト。
 失敗は決して許されない。どくんどくんと煩い心臓を押さえつけながら、俺はその時を待った。バーボンとして、降谷零を隠しながら。

 そして、ついに下された作戦開始の合図。
 それと同時に俺は走り出した。


 組織を無力化させるためには、まず幹部たちを取り押さえなければいけない。そして、それと同時に組織の情報を証拠隠滅として消される前に奪取することも。俺の主な任務は後者だ。混乱に乗じて、事前に調べておいた情報が集まっていると思われる部屋を順に回り、紙媒体や電子媒体など様々な形で保存されている情報を抜き取っていった。
しかし相手方も必死だ。時折受ける妨害をなんとか避けつつ、俺は奥へと進む。
 建物の奥には何か重要な情報があるということは知っている。だから、そこに沢山の組織の構成員たちが集められていることも納得できる。けれどもそこを突破したいこちらとしては非常に厄介な状態だ。壁に背をつけ、壁の向こうの様子を探る。数は6人。捨て身で突撃すれば突破できなくはないだろう。だが俺にはこの後もやらなければいけないことがある。今ここで大きな怪我を負うわけには…。そう考えていると遠くから足音がこちらへ向かってきているのが聞こえた。まずい、もし組織の構成員であれば挟み撃ちにされてしまう。
 俺は咄嗟に近くにあった物置らしき部屋へと転がり込んだ。

 ……誰もいないだろうと踏んでいたのだが、いささか短慮だったようだ。

 部屋の中には誰かがいた。

 窓から差し込む月明かりだけが照らす暗い部屋の奥に、誰かが立っていた。
 すぐさま手に持っていた拳銃をそちらへと向ける。

「両手を上げろ」

 俺がそう言葉を投げた瞬間、その誰かが息を飲む音が響いた。構成員の中でも下っ端で、あまりこういった状況に慣れていない奴なのだろう。抵抗さえしなければこのまま拘束して、この作戦が終わり次第保護しにくればいい。そう計画を立てていた思考は、その誰かの声により打ち砕かれた。

「——……こんなところで、こんなタイミングで、君に会いたくなかったなぁ」

 その声に、聞き覚えがあった。
 どくん、と心臓が大きく跳ねる。

 こつり、こつりと足音がこちらへ近づき、窓から差し込む月明かりでその誰かの姿がゆっくりと照らされ、浮かび上がっていく。


「……久しぶり、だね。——零くん」


 十余年の時が経とうとも、その面影は変わっていなかった。
 俺の名前を呼ぶ声も、あの頃と全く同じ、とは言えないがそれでもすぐさま彼女の声だと分かって。

「……名前……!?」

 最後に見たあの時よりも少し背が伸び、髪も伸び、顔つきが大人びてはいたが、それでもそこにいたのは確かに彼女だった。俺が間違えるはずがない。だって俺はずっと。

「お前、どうしてここに……」
「話は後。零くんにはやらなきゃいけないことがあるんでしょう?」

 動揺し慌てる俺とは対照的に、なぜか彼女は酷く落ち着き払っていた。確かに、俺の言葉を遮るように言った彼女の言葉通り、今の俺にはやるべきことがある。1分でも1秒でも早く、情報を集めなければいけない。頭がぐるぐると回って気持ち悪い。何かを言おうと口を開いたけれど、自分が何を言いたいのか、何を言うべきなのかも分からなかった。

「この先の部屋に用事があるんでしょう? ……待ってて」

 小さくひとつ笑みを零して、次の瞬間彼女は消えた。あの雨の日のように突然、俺の目の前から。俺は咄嗟に周囲を見回した。しかし、淡い光だけが照らし出す暗い部屋の中に俺以外の人影は無い。一体何が起きているんだ。ここは組織の所有する建物の中で、今は壊滅作戦の真っ只中で、俺は組織の情報を集めて回っていて、たまたま飛び込んだこの部屋に十数年前突然姿を消した幼馴染兼、友人兼、自称忠犬がここにいて。そしてそいつはまた何の前触れもなく突然俺の目の前から姿を消して。……ああ、くそ、現状が全く理解できない。

 なんであいつがここにいる?
 なんであいつは一瞬で姿を消した?

 ……もしかすると、今ここにいたあいつは俺が見た幻覚なのかもしれない。

 キャパシティオーバーした頭がそんな結論を弾き出す。けれどもそれは一瞬にして打ち砕かれた。

「——よいしょっ、と。はい、これだよね、零くんが欲しがってたもの」

 またしても突然、何もなかったはずの場所から彼女が姿を現した。ぱっと、まるで消えていた電気が点灯するように。まるで魔法でも使っているかのように。俺の目の前に立った彼女は、俺に手のひらを差し出して笑う。その手のひらの上にはUSBメモリの姿。

「えへへ、ちゃんと“取って来い”、できたよ」

 誇らしげに笑うその姿は、まるで飼い主に褒美をねだる犬のようで。なんだ、こいつはまだ自称俺の忠犬でいるのか、なんて完全に場違いな言葉が俺の頭に浮かんだ。

「……もう零くんは気づいちゃったよね」

 悲し気に目を伏せて、彼女は言葉を紡ぐ。けほりと、小さく咳をする音が聞こえた。
 聞きたくないと、耳を塞いでしまいたかった。できるはずも、ないのだけれど。

「私ね、この組織の構成員なの。本当は、……零くんの、敵、なんだ」

 ……今こんな時にこんな場所にいる奴の所属場所なんて限られている。それに加えて先ほどの彼女の言動。全てを考えればもう、それ以外の答えなんて出てこないのだ。
 そう言い切って、彼女は顔を伏せた。その肩が震えていることが、暗い部屋の中でも分かった。いずみ。意味もなく彼女の名前を音にしようとしたけれど、そんな俺の動作よりも早く、彼女が顔を上げた。

「——でも、私はこの組織の構成員である前に零くんの忠犬だから」

 震えているけれど芯のある声で。瞳は今にも泣きだしそうに揺れているけれど、そこに灯っているのは決意を纏った光で。彼女は言った。

「ねえ、零くん。あの時も、今も、見たよね」

 ……ああ、見たよ。

「……私ね、“瞬間移動”っていうのができるみたいなの」

 瞬間移動だなんて、普通ならそう簡単に信じられやしないだろう。けれども俺は2度も見てしまったのだ。彼女が目の前から泡のように消えた瞬間を。そして今回に至っては現れる瞬間までしっかりと目にしてしまった。もう、信じないことの方が難しい。

「零くん一度私に聞いたよね。どうしていつも零くんのいる場所に辿り着けるのかって。…答えは簡単だよ。私はこの力で零くんがいるところに飛んでいたの。零くん以外の人の場所に行きたいと時はちゃんとその人が今どこにいるのか知っていないといけなかったけど、零くんの場所にはね、ただ零くんのところに行きたいって思うだけで飛べるの。だから私はいつも零くんのいる場所目掛けて走ったの。真っ直ぐ、真っ直ぐ。………忠犬の鑑でしょう? 私」

 彼女は、名前は、笑っていた。
 どこか吹っ切れたかのように、何かを諦めたかのように。

「……零くん、お願い。——私この力を、使って」


 俺は、名前の手を取った。

 ***

「零くん、次はどこ?」
「この廊下の先に倉庫があるだろう。そこに行く」

 人気を避けながら、2人で廊下をひた走る。名前の力はとても有難かった。構成員たちが出入口を塞いでいる部屋に用がある時、俺が外でそいつらの気を引いているうちに名前に中へ飛んでもらって、目的のものを回収していったのだ。予定よりも随分早く目的地を回ることができ、気づけばもうこれが最後となっていた。

「……密輸された拳銃?」
「ああ。武器になるものは最初に取り押さえておくべきだったが、この倉庫は俺の出発地点から一番遠い場所にあったからな。効率を考えて後回しになった。……恐らく全ては残っていないだろう。できれば一丁だけでも、と思うが……とりあえず行くぞ」
「うん!」

 表で激しい戦いが繰り広げているからだろう。進んでいくにつれて、周囲から人の気配が消えていく。目的の倉庫の周辺にも、人影は無かった。これ幸いと倉庫に近づき、閉まったドアの前で音を頼りに中の様子を探る。……恐らく、誰もいない。それならば、と俺はドアノブに手をかけた。しかし、鍵がかかっているのかドアはがちゃがちゃと音を立てるだけで開こうとはしなかった。

「鍵がかかってるの?」
「みたいだな……」
「じゃあ私が行ってくるね!」

 初めは俺の前で瞬間移動を行うことに躊躇いを感じていたらしい名前であったが、何度も繰り返し続けた今となってはもう、意気揚々と気合いたっぷりな様子でその力を使うようになった。……多分、非現実的なその力を使うことで俺に引かれてしまわないか不安に思っていたのだろう。そんなこと、あるはずがないのに。

「頼む」

 ぽん、と手のひらを自分の肩付近にある名前の頭に乗せた。すると名前は目を丸く見開いて俺を見上げてくる。豆鉄砲を打たれた鳩のような顔、とはこんな顔のことを言うのだろうか。お前、自称犬じゃなかったか? そんな顔はみるみるうちに赤く染まっていき、まるで熟れた林檎のような有様に変化した。…おっと。彼女の頭から手を離すことも忘れて、俺はそんな名前の顔をじっと見つめ返す。数秒の間をおいて、名前ははっと我に返り、飛び跳ねるようにして俺から距離を取った。黒い髪がさらりと俺の指先を掠めていく。

「え、あー……えっと」

 真っ赤な顔はそのままに、名前はまるで何かを弁解するかのように両手を体の前に広げて見せた。左右に揺れるそれが何のために構えられたのかはよく分からない。

「……ま、任せて!」

 視線を左右へ揺らし、早口でそう言い残して和泉は姿を消した。ドアの向こう側へ飛んだのだろう。

「……ふふ、」

 はっきり言って今は悠長に笑っていられる状況では無いのだが、それでもついつい笑みが零れてしまったのはもう仕方のないことだということにしておいてほしい。誰だって、好きな人がああやって頬を染めて狼狽える姿を見たら口元がにやけるぐらいはするだろう。

 ……気を取り直して、俺は名前が入って行った倉庫のドアに背を着けて、拳銃を片手に周囲を見回した。相変わらず、誰の気配もない。いっそ不気味なくらいだ。気を抜いていられないな、と深く息を吸い込んだ瞬間だった。
 倉庫の中から名前が咳き込む声が聞こえた。げほげほとなかなかに苦しそうだ。

「名前、大丈夫か?」
『げほっ……大丈夫だよ。ここちょっと埃っぽくて……っ』
「そうか…無理はするなよ」
『これくらい大したことないよ! ちょっと待っててね』

 そう言って名前は倉庫の中の捜索に戻ったようだ。俺も再び全意識を周囲へ張り巡らせる。
 名前が出てきたらすぐに2人で一度味方の拠点まで戻って、名前を日本警察で保護しよう。そして俺はもう一度前線へ戻って、少しでも早くこの戦いに決着がつくよう尽力する。

 ……全部が終わったら。
 その時は、名前と一緒に生きる道を選んでみても、いいだろうか。


「——……零くん、見つけたよ!」


 ぱちりと瞬きをしたその一瞬のうちに、名前が俺の前へと戻ってきた。その肩には黒のショルダーバック。

「やっぱり全部は残ってなかった。でも、拳銃が3丁あったから、とりあえず全部頂いてきたよ」
「上出来だ。よくやった!」

 たったそれだけの言葉を俺が口にしただけで、名前は酷く嬉しそうな表情を浮かべる。ぴんと立った耳や左右にぶんぶんと揺れている尻尾は幻覚だ。

「よし、急いで俺たちの拠点へ戻るぞ。名前、お前も一緒に行くぞ」
「えっ……?! で、でも私は……」
「お前は、組織の一員である前に俺の忠犬なんだろう? なら問題ない」

 どうせ、自分は組織の一員で今まで少なからず罪を犯してきてしまったから、とかそういったことを気にしているのだろう。そんなこと、俺も同じだ。
 俺は左手を名前に差し出す。

「——来い、名前!」

 くしゃりと歪んだその顔は今にも泣き出してしまいそうで。いっそここで名前を抱きしめてしまえたらどれほど良かっただろうか。
 名前は俺の顔と手のひらとの間で視線を一往復させて、そして、意を決したように手のひらを俺の方へと伸ばしてきた。しかしまだ躊躇が残るのか、その手は途中でぴたりと止まる。

 俺はそんな名前の手を握り、手を引いて歩き出そうとした。

 ――しかし、その瞬間、視界の隅で瞬いた不吉な光。

 頭が理解するよりも先に、体が動いていた。
 掴んでいた手を強く引いて、名前の体を抱き込んで、自分の体を彼女を守る盾代わりにする。そして同時に右手に持っていた拳銃をその光へと向け、引鉄を引いた。
 だが、少し遅かったらしい。

 2つの銃声が、ほぼ同時に鳴り響いた。

 せめて、名前だけは。自分なら、当たり所さえ悪くなければなんとかなるのだから。
 そう思い強く名前の体を抱きしめた。

 ――はず、だった。

「……だめだよ、零くん。盾になるのは忠犬の役目でしょう?」

 気づけば俺の腕の中に名前の姿は無くなっていて、俺が抱きしめたのは虚空だけ。慌てて体を捻り、背後へと。光が、拳銃がこちらを見ていた方へと顔を向けた。
 やはり名前の姿はそこにあって。まるで、銃弾から俺を守るかのように立ち塞がっていて。


「——名前っ!!」


 赤い血が、舞った。


 ***

 俺たちを狙っていた誰かが離れた場所で崩れ落ちたことに視線をやる余裕もなく、俺は肩を押さえて床に座り込んだ名前に駆け寄った。

「馬鹿かお前!! 一体何を考えて……っくそ、止血するから傷を見せろ!」

 俺に背を向けていた名前の正面に回り込み、名前の傷口を確認しようと手を伸ばす。どうやら肩を少し深めに掠っただけのようだ。弾は貫通している。とりあえず止血を。
 上着を脱いでそれを包帯代わりにしようと考え、俺が上着に手をかけたと同時だった。

「——……っ、げほっ、ごほ、っ」

 名前がその口から、夥しい量の血液を吐き出したのは。

「……は……? おい、名前……?」

 げほり、ごほり、名前が苦し気に咳を繰り返す。その度に、血液の塊が溢れ出しては世界を色づけた。真っ赤な、真っ赤な色に。

「名前、おい! どうした!?」

 名前の怪我は肩。吐血に関係するものでは無い。それならばどうして突然吐血を?

「……あ、はは。ばれちゃった、か……っ」

 荒れた呼吸の中、名前は無理矢理言葉を紡ぐ。こんな状況だというのに、へらへらと笑いながら。

「……もう、隠しても、意味、……ないかぁ」

 言葉の合間にも、名前の口からは赤い液体がまるで彼女の体内を食い破って来たぞとでも言わんばかりの勢いで飛び出していく。

「もういい、今は黙っていろ……! すぐに病院に……」
「病院、行っても、……治らない、と思うよ」
「どうして、」

「……これ、多分ね、副作用なんだと思う」

 副作用。名前の言葉が頭の中をぐるぐると回る。
 その言葉と関連付けられるものなんて、


「瞬間移動、することの」


 ――どうして、


「えへへ、ちょっと前からね、この力を使う度に、体調崩すようになってて。そうかな、って。ま、瞬間移動なんて普通はできないこと、やってるんだから、それも仕方ないよね」

 ――どうして、お前は笑っているんだ?

「きっと、もう私の寿命は大したことないだろうから、最後ぐらいはね、零くんのために、……昔みたいに、零くんのためだけに使いたかったの。この力私の命を」

「……本当は、もう二度と零くんと会わないつもりだったのになぁ……あの部屋で、偶然零くんと会って、零くんの声を聞いて、姿を見てしまったら、もう歯止めが利かなくなっちゃった。……ごめんね、零くん。身勝手な忠犬で、ごめんねぇ」

「ふふ、でも、零くんの役に立てて、今もこうして零くんを守れたから、零くんには悪いけど、…私は、満足、だなぁ……」

「けほっ、……流石にこんなに酷い副作用は、初めてだけど……うん、多分今すぐには死なないと思うから。大丈夫、だいじょーぶ……ね、だから」

 するりと、名前の手が俺の頬を撫ぜた。名前の瞳が、俺を見つめている。

「そんな顔しないで、零くん」

 ……俺は今、一体どんな顔をしているのだろうか。自分では分からない。情けない顔をしているのだろうということだけは、なんとなく分かった

「……お前、ずっと。ずっと、自分の命を削って俺に会いに来てたのか。今日も……」

 どうしようもできない感情がこみ上げてきて、声にならない声が喉元で引っかかって、俺は言葉に詰まってしまう。

「——あのね、零くん」

 名前が俺の名前を呼ぶ。
 優しくて、静かな声だった。まるで幼子を諭すかのような。
 泣きたくなるほど温かい声だった。

「私にとって、零くんに会うことは、生きる意味だったの」

「零くんに会うために、私は生きていた」

「生きるために命を消費していた。ただそれだけ。なんにもおかしいことは無いでしょ?」

「……零くんは覚えてないかもしれないけど、私、4歳ぐらいの時に零くんに助けてもらったことがあるの。その時から、ずっと、零くんは私の憧れで、ヒーローで、ずっとずっと一緒にいたい、大好きな人で、」

「私の、生きる意味だった」


「だからね、零くん。ひとつ、言わせて。ずっと、ずっと零くんに言いたかったことがあるの」



「——零くん、あのね、」



 ***

Side ××

 ずっと、ずっと、逃げ場を求めていた。
 物心がつくよりも前から始められた英才教育という名の駒作り。無理矢理鉛筆を持たされて知識を叩きこまれて、まだ出来上がってもいない体で過酷な訓練を強いられて。どれだけ泣き喚いても、力尽きて地面に倒れこんでも、それが終わることは無かった。犯罪組織に傾倒している両親により、人間としてではなく便利な道具として育てられる。それが私の人生だった。

 苦しかった。痛かった。寒かった。辛かった。

 温かくて、優しくて、楽しくて、幸せな場所に、行きたかった。
 そんな場所で生きたかった。

 何度も何度もそう願った私は、ある日突然、青い青い空の下に立っていた。
 ついさっきまで、誰もいない、薄暗くて冷たい窓一つない部屋にいたというのに。
 窓硝子も、高い塀も、固いコンクリートも、何もない。そんな世界に、私はひとりぽつんと立っていた。見上げた空は青く遠く澄んでいて、ひとかけらの雲もそこには浮かんでいなくて。足元を見ればそこには青々とした芝生が茂っていて。耳を澄ませば鳥の囀る声や、木々がさざめく音。肌を撫ぜるのは柔らかな風。
 ――ああ、私は今外の世界にいるのだ。
 そう理解した瞬間、私は飛び跳ねた。喜びと、興奮と、自由と、幸福に。

 しかし、それもすぐに掻き消えて、次に私を埋め尽くしたのは底知れぬ不安感。

 それはそうだ。まだ4歳の、さらにはひとりで外の世界を歩いたことのない子供が、なんの前触れもなく突然未知の世界へ放りだされたのだ。右も左も分からなくなって当然であろう。その当時の私はまだ自分が瞬間移動できるのだと理解していなかったから、元居た場所に戻ることもできなかった。

 不安で泣きそうになりながら、私は歩いた。
 私がいた芝生広場はとある公園の一角にあったものらしく、少し歩くと、遊具が数多く並び、何人かの子供たちがはしゃぎ遊んでいる場所に辿り着いた。木の陰に隠れて、私はその様子を覗き見るかのように観察した。カラフルな遊具で遊ぶ子供や、何人かでグループになって走り回る子供たち。どれもが初めて見るもので、彼らが使っているものが一体何で、一体どんなルールで、一体どんな遊びをしているのか、全くと言っていいほど分からなかった。そもそも、私にとって自分と同年代の子供たちの姿を直接目にするのはこれが初めてだったのだから、仕方も無いだろう。

 そんな私に、声をかけてくれた男の子がいた。

「きみ、そんなところでなにしてるんだ?」

 それが、彼だった。
 健康的な褐色の肌に、稲穂色の髪、空の瞳、意志の強そうな眉。膝や肘に張られている絆創膏が、彼の活発さを物語っているようだった。

「ないてるのか? ころんだのか……?」

 涙目になっていた私を見て、私が泣いていたのだと勘違いしたのだろう。少し慌てたように彼は私に駆け寄ってきて、心配そうに私の顔を覗き込んできた。今初めて会ったばかりだというのに、まるでずっと前からの友人のように、彼は私の心配をしてくれた。

「ううん……けが、してない。ないてもないよ」
「そうか……? ならいいけど……」

 首を左右に振りながらなんとか誤解を解くと、彼はまだ少し不安げにしながらも引き下がってくれた。それに少しほっとしていると、彼は何かを考えるようなそぶりを見せた後、私を真っ直ぐに見た。透き通った空の色が私を映す。その瞬間、心臓が小さく跳ねた。

「きみ、いまひま?」
「えっ……?」
「ひまなら、ボクといっしょにあそぼう!」

 本当はすぐにあの場所へ帰らなければいけなかったのだけれど、おひさまみたいな笑顔でそう言われて手を差し伸べられたら、もうその手を取る以外の選択肢なんて無いも同然ではないだろうか。
 初めて誰かに心配してもらえて、初めて誰かに遊ぼうと言ってもらえて、初めて誰かに手を差し伸べてもらえて、初めて誰かに笑顔を向けてもらえて。
 私は考えることも放棄して、目の前に差し伸べられた手を取った。
 温かい体温が伝わって、私の手のひらを温めていく。

「あっちにボクのともだちもいるんだ!」

 手を引かれて、私は走り出した。

 世界って、こんなにきれいだったんだ。
 私は、生まれて初めてそう思った。


 彼とその友人たちと駆け回って、はしゃいで、遊んで。気づいた時にはもう空は夕に染まっていた。ああ、いけない、もう帰らないと。私の前を走っていく彼に、そう言おうと口を開いたその瞬間。
 ぱちりと世界が瞬いた。
 気づけば私は夕空の下ではなく、無機質な白い天井の下にいて。
 足元には芝生ではなく、固く冷たいフローリングが広がっていて。

 ああ、私は帰ってきたのだ。
 帰ってきて、しまったのだ。
 
 それを理解した瞬間の悲しさ、辛さ、空白感。
 たった数時間の出会いだったというのに、それの残した温もりという名の爪痕はもう忘れられないものとなっていた。

 夢だと思うことができればどれほど良かっただろうか。
 でも、私は鮮明に覚えていたのだ。
 空の青さを、風の音を、彼の温かさを、優しさを、眩しさを。
 世界の美しさを。
 夢だなんて、到底思えないぐらいに。

 ――彼の名前を聞いてもいないのに。
 彼にちゃんとさよならを言えていないのに。
 あの場所がどこだったのかも分からないのに。
 まだ、彼らと遊んでいたかったのに。
 まだ、彼と一緒にいたかったのに。

 あの幸せの中で、ずっと、生きていたかったのに。

 身を切るような絶望感が私を襲った。

 ……けれども、そこには小さな希望もあったのだ。

 ――生きていれば。
 いつか、もしかしたら、また彼に会えるかもしれないという希望。
 あの幸せを手に入れられるかもしれないという希望。

 絶望すらも無かった私の世界に転がった希望たち。それは、どれだけ小さくても、放つ光は弱くとも、真っ暗な闇の中では目を焼くほどに眩しく巨大なものに感じられたのだ。
 
 私は息をした。心臓を動かした。
 人生に立ち向かった。

 生きる意味を見つけた。

 ――確かにあの日、私は彼に救われたのだ。
 あのおひさまのように温かくて眩しい、小さなヒーローに。

 ***

 その日は幸いなことに両親が帰ってくる前に家に戻ることができたため、ほとんど監禁されている状態であった私がなぜか外出していたことを両親に知られることはなかった。幼いながらも、知らない場所へ一瞬で移動しただなんてことをこの両親には絶対に教えてはいけないと、私は理解していた。

 約2年の時が過ぎ、私は小学校へと入学する年齢になった。しかし、両親は私を普通の学校へ通わせる気など微塵もなく。あの無機質な部屋での、生きているのか死んでいるのかさえ分からない私の日々は続いた。私は歯を食いしばって耐えた。生きろ、生きろ、生きろ。いつか、彼に再び会えるその日まで。あの幸せを、もう一度この手に掴む、その日まで。

 私のその願いは、存外早くに叶うこととなった。
 その年の初夏の頃。私はあの時と同じように、突然知らない場所へと飛ばされたのだ。いや、この力は私のものであるから、飛んだ、と言った方が正しいだろう。
 前とはまた違う公園。もしかして、という期待を抱きながら周囲を見回した私の視界に映ったのは、

「——いた!」

 私のヒーロー。

 砂場で遊んでいる彼に近寄って、声をかける。しかし、彼はどうやら私のことを忘れてしまっているようだ。とても残念で辛かったけれど、ずっとずっと会いたかった彼と出会えた私にとって、そんなことは二の次三の次だった。前回は出来なかった自己紹介をして、私は彼の名前をついに知ることができた。『降谷零』、彼にぴったりの名前だと思った。とてもきれいでかっこいい名前だと。
 
 彼はあの頃と全く変わらず、温かくて、優しくて、眩しい人だった。
 いつまでもいつまでもそばにいたい、そう思ってしまうような人。
 
 私は、零くんのことが大好きだった。
 彼の元へは、ただ彼に会いたいと願うだけで飛んでいくことが出来るぐらいには。

 それから、2、3日に一度、私は彼に会いに行った。本当は毎日でも会いに生きたかったけれど、流石にそれは両親にバレてしまうだろうから。
 学校に通っている彼に合わせて、いつも会いに行くのは夕方頃。彼のそばで過ごす時間は、世界で最も幸せな時間だと私は信じて疑わなかった。それぐらいに、彼のそばはとても居心地が良かったのだ。ここで生きていきたいと思ってしまうぐらいには。

 ある日、彼が私に言った言葉。

「主人に付き従う忠犬みたいだろ。俺がどこにいても俺の居場所が分かるなんて」

 主人。忠犬。その言葉を聞いた瞬間、これだと思った。
 私は零くんの忠犬になればいい。そして、それを私の根底に置けばいい。そうすればほら、飼い犬である私が帰る場所は、飼い主である零くんのいる所になる。零くんが、私の帰る場所になる。あの無機質な場所なんかじゃない。私の帰る場所は、“零くんのいる場所”なのだと、胸を張って言えるようになる。飼い犬として、彼のそばにいられるようになる。
 こんなに素晴らしいことが他にあるだろうか。
 零くんにとっては酷く迷惑な話だったかもしれないが、私にはもう、それ以外を考えることなんてできなかった。ただひたすら、零くんのそばにいる権利が欲しかったのだ。ほんの少しでも長く、この幸せのそばにいるために。

 その頃にはもう、降谷零という存在自体が私の生きる意味となっていた。

 彼がいるから私は今日も生きている。
 彼が今日も生きていると思えば、どんなに辛くて苦しいことだって耐えられる。

 そう思っていた。
 実際にそうだった。

 けれども、現実というのは残酷なものだった。

 12歳の冬、私が瞬間移動という力を使えることが、両親にバレてしまった。
 非現実的な話だというのに、両親はそんなことは気にもせず、今までにないほど酷く喜んだ。よくやった、これで組織に認められる、と。初めて両親に褒められたけれど、なにひとつ嬉しいとは思えなかった。だって、彼らが見ているのは“組織”だけなのだから。
 次の日には私は組織へと連れていかれて、そこでこの力だけでなく、知識や体術、今まで叩き込まれてきた全てを披露させられた。結果、組織の偉い人たちも両親のように喜んで、両親に何やら褒美を与えて、両親はまた喜んで。私以外の全員が、喜んでいた。酷く吐き気がした。

 それから、組織でも様々な訓練を受けさせられた。苦しいのも、辛いのも、痛いのも、もう慣れていた。心の殺し方も学んでいた。希望の在り処も知っていた。だから耐えられた。
 
 でも、

 でも、これだけは、嫌だった。耐えられなかった。

 赤く染まった自分の手のひら。
 息がうまくできなくて、酷く咽た。
 咄嗟に吸い込んだ空気は鉄臭くて、吐き気がした。

 自分が人間を殺めたという事実に、心が壊れそうだった。

 無線から聞こえた任務の終了を告げる声を聞き終えたと同時に、私は飛んでいた。無意識のうちに、彼のもとへ。
 
 そこは雨が降っていた。ざあざあと強い雨脚で、全てを洗い流すかのように。
 いっそ、私の存在さえも流し去ってくれればいいのに。そんなことを思ってしまった。

「——……名前?」

 私に気づいた零くんは、雨水が跳ねることも気にせずに私の元へと駆け寄ってきてくれた。彼とは一週間ぶりに会う。相変わらず、優しい人だ。私の体がもうびしょ濡れだと分かっていながら、自分の体を濡らしてでも私に傘を傾けて、果ては私の髪を拭こうとまでしてくれた。
 ……ああ、やっぱり零くんは、きれいな人、だなぁ。

 そんな人に、私が触れていいわけがない。
 そんな人の手を、汚れてしまった私に触れさせていいわけがない。

「っだめ……!」

 私は咄嗟に身を引いて、零くんの手から逃げた。その瞬間、零くん浮かべたのは酷く傷ついたような表情。私が彼にこんな顔をさせているのだと、とてつもない罪悪感が襲い掛かってきた。

「……ごめんね。零くん、ごめんね」

 こんな謝罪に意味なんてないのに、私は壊れたラジオのように同じ言葉を繰り返す。
 ごめんね、零くん。忠犬を名乗っておきながら、あなたを傷つけてしまって。
 ごめんね、零くん。

「——もう、君とは会えないや」

 私は笑った。


「さよなら、零くん」


 きっと、それは今までで一番へたくそな笑顔だっただろう。
 


 血で汚れてしまった私はもう彼のそばにはいられない。そう思って私は彼の前から姿を消した。けれど、どうしても彼の姿を探してしまって、求めてしまって、時折離れた物陰から彼の姿を覗き見てみたり、なんて犯罪者まがいのことをしたことも何度かあった。
 彼のそばに駆け寄って、彼の名前を呼びたかった。彼のもとへ帰りたかった。だけど、もう私には許されないことだから。そう自分を律し生きてきた。

 だというのに、

 安室透という名前で私の所属していた組織、黒づくめの組織へとやって来た彼。データーベースで彼の顔写真を見た時は卒倒するかと思った。確か零くんは警察になる道を選んでいたはず。きっと警察の潜入捜査という奴だろう。それならば、邪魔をしてはいけない。私は組織内で彼と出会うことが無いよう、必死に避け続けた。私にコードネームなんて大層なものは与えられていなかったから、避けること自体はさして難しく無かったけれど、念には念を入れた。避けて、避けて、避け続けて数年が過ぎ、ある日の夜、突然組織の建物に警察やFBIといった機関が突入してきた。きっとこの組織を潰しに来たのだろう。騒がしくなった外の様子を伺いながら、私はやけに冷静にその結論へ至った。まあ、零くんが潜入捜査をしていたのだ。この組織が壊滅するなんて、最初から決まり切っていたことではないか。
 ぎりぎりまでは隠れていて、適当なところで戦う意思は無いと投降すればいいだろう。そんなことを考えながら、私は誰もいない部屋でひとり蹲った。

 けほり、とひとつ咳が零れる。数年前から、力を使う度に不調を感じるようになった。それは少しずつ少しずつ悪化していき、今となっては力を使った後に少量の喀血が、さらには力を使っていなくとも時折変な咳が出るほどになってしまった。
 きっと、この力の副作用なのだろう。
 まあ、瞬間移動なんて便利な力を自由に使えているのだから、これぐらいの代償があってもおかしくはない。私の命という、代償があっても。

 ――ああ、でも少し悔しいな。

 彼の前から姿を消して以来、この力は罪を犯すためだけに使って来たから。不本意な犯罪のために命を削って来たのかと思うと、なんだか遣る瀬無い。

 最後ぐらい、誰かのために。
 最後ぐらい、自分のために。

 最後ぐらい、――彼の、ために。


「……使いたい、なぁ」


 そんな叶わぬ願いを口にしたその瞬間だった。突然私のいた部屋の扉が開いて、誰かが入ってきた。咄嗟に逃げることもできなかった私にかけられた、その誰かの声。その声を聞いた瞬間、私は知った。
 この世界にもし運命の女神様とやらがいるのだとしたら、その方はとんでもない気まぐれ屋なのだということを。

「——……こんなところで、こんなタイミングで、君に会いたくなかったなぁ」

 ……でも、それ以上に、君に会えて嬉しかったんだ。泣いてしまいそうなぐらいに。



 ――ねえ、零くん。
 もしかしたら、私は世界で一番幸せな人間だったのかもしれない。

 だって、こうして好きな人のために力を使って、役に立てて、守ることが出来たんだから。ね、これってすっごく幸せなことだと思わない? 今までの人生のことを考えたら、確かに苦しいことも辛いことも沢山あったけど、でも、私には零くんがいたから。飼い主であり、私の帰る場所でもあるあなたがいたから。
 私にはあなたという希望があったから。
 だから生きていられたから。


「——零くん、あのね、」








「 私を生かしてくれて、ありがとう 」










 ***

Side —

 ——開け放した窓から吹き込んだ風が、真っ白なカーテンをぶわりと踊らせる。その向こうには晴れ渡った青い空。どこまでも、どこまでも広がる青い空。

 真っ白な部屋の中には1人の男と1人の女がいた。

「……このまま、もう二度と力を使わずに絶対安静で毎日を過ごしたとしても、どれだけ長く見積もっても3年、だってさ」

 部屋の中央付近にあるベッドの上で上体を起こした女は、窓の外へ視線をやりながら静かな声でそう言った。それを聞くのはベッドのそばにある椅子に腰かけた男。何も言わず、ただ静かに俯いている。
 そんな男の様子を横目で見て、女は小さく笑った。少しばかり自嘲気味に。

「あれだけ血を吐いたのに頑張れば後3年も生きられるなんて、私って結構しぶとかったみたいだね」

 茶化すような声色でそう言った女に、男はやはり言葉を返さない。その表情はさらさらと流れた稲穂色の髪に隠れてしまい、女には見えなかった。

「……まあそんな感じで私は元気だからさ、零くんももう、――」

「名前」

 ここに来なくていいんだよ。女が言おうとした続きの言葉は男の声に遮られてしまい、音になることなく、女の喉元でくるりと渦を巻いた後、静かに消えていった。

 女の名を呼んだ男は、ようやくその顔を上げた。

 空の瞳が女を真っ直ぐに見据える。
 
 そこにあるのは、強い意志と自信。
そして、それらに隠されたほんの少しの不安。

 男はその形のよい唇を震わせ、言葉を紡いだ。


「お前の残り時間を、俺にくれないか」


 彼が彼女の、本当の帰る場所となるために。
 残り少ない時間を2人並んで歩いていくために。

 2人で幸せを紡ぎあげるために。



 残された時間は、後3年。



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