君さえ


第3話


「──……キノコ?」

 程よく湿った腐葉土に、ザク、と小型の園芸用スコップが突き立てられる。それとほとんど同時に向かい側から飛ばされたその声へ、ジェイドはにこりと穏やかに笑みを浮かべてみせた。
 ガラス張りの天井の向こうから穏やかな冬の日差しが降り注ぐ。このように天気こそ穏やかとは言え、2月を迎えた冬は、最後の抵抗とばかりにその寒さを極め続けていた。
 故郷が寒さの厳しい北の海であることもあり、ジェイドは初めて経験する陸の冬というものに対して特別苦痛は感じていない。むしろ過ごしやすいと言わんばかりに日々を過ごしていた。そして、今ジェイドの目の前にいるリゼットもまた、ジェイドと同様寒さには強い体質であるらしく、寒さに震えるといった様子もなく今日も嬉々として研究に勤しんでいる。
 植物の栽培のためにと気温調節の施された温室の中にも、やはり冬の寒さというのは忍び込んで来るもの。けれど、今日は先述の通り日差しが穏やかで、日向に立てばジェイドにとってはいっそ暑いぐらいの気温に包み込まれる、そんな麗らかな冬晴れが世界を包み込んでいた。
 広く円柱状に形成された温室の中は、その形状に合わせて放射状かつ階段状に花壇が並べられている。中央には半径3メートルばかりの芝生部分が広がり、そこを最も低い位置として、周囲へ向けて高くなるよう数メートル間隔で段差が構成されているといった内装だ。
 様々な植物が所狭しと並ぶその光景は何度見ても圧巻で、もちろん学園の植物園に比べればコンパクトで植物の種類数も少ないけれど、それでもやはりジェイドの心を踊らせるには十分すぎるほどのもの。これから先、春や夏になればさらにこの温室内も賑わうらしい。その光景を見ることが今から楽しみになってしまうのも仕方のないことだろう。
 閑話休題。
 リゼットが管理しているその温室内の、芝生部分を除いて5段構成となっている階段状花壇の下から3段目。そこが今日の彼らの作業場所となっていた。
 上段から下段へと繋がる水路にさらさらと水が流れる音を聞きながら、ふたりはギャラティアという名前の植物の植え替え作業に勤しむ。何でもこのギャラティア、3月終わりから4月頭ごろに薄黄色の花を咲かせる魔法植物であるのだが、この2月の時期に土壌中の成分を適切に変えてやらなければ花を咲かせないという性質を持っているらしいのだ。それは何と難儀な生態だろうかと、ギャラティアについて初めて学んだジェイドは酷く驚いた。
 少し手間がかかって面倒ではあるが、それに報いるように愛らしい花を咲かせてくれる、非常に有益な魔法植物だ。ギャラティアの葉を撫でて柔らかにそう微笑んだリゼットの姿を脳裏に思い出して、ジェイドもまた微笑みをこぼす。
 はてさて、そんなギャラティアの植え替え作業を始めて早数十分。黙々と行われる作業の中でぽつりぽつりと交わされる他愛のない会話の突き当りにジェイドが紡いだ言葉へのリゼットの反応が、冒頭のそれだった。
 ギャラティアの根を傷つけてしまわぬようにと真摯に手元へ落とされていたリゼットの瞳が、ぱちりと瞬きながらジェイドの姿をそこに映し込む。相変わらず鮮やかな色彩だなと微かに目を細めて、ジェイドは彼女へさらに言葉を返した。

「はい、キノコです。つい最近、山登りを通してその存在について知りまして、少し興味が惹かれつつあるんですよ」

 キノコとは、厳密に言えば菌類の作る子実体そのものを指す言葉であるのだが、ここでジェイドが示しているのは、特に一般的に『キノコ』と称されている、大きな傘状の子実体を持ったものである。食用として利用できるものから、毒性のあるもの、魔法薬学等の材料にもなるものなど、様々な種類のキノコがあるのだと、学園の図書館で見た菌糸類についての図鑑で学んだ。
 菌糸類は植物とは異なる生物であるため、恐らくリゼットの専門分野にキノコは含まれていないのだろう。彼女の保有する山のような書籍の中に菌糸類に関するものが見当たらなかったということからも、ジェイドは密かにそう確信していた。
 そして、その予想は的中していたらしい。

「菌糸類か……私の専門分野外ではあるが、確かにあれらも面白い生態をしているよな」

 君が興味を惹かれるのも頷ける。視線を土へと戻しながらも、彼女はくすりと柔らかに微笑みを浮かべてジェイドへそんな言葉をもたらした。
 花壇の土から掘り上げられた一株のギャラティアが、健康的に青く色づいた葉をリゼットの手の中に揺らしている。ジェイドもまたその手を動かしながら、自らの興味を惹くキノコという生き物について彼女に語っていくのだ。

「菌床とそれなりの準備があれば簡単に育てられると聞いたので、是非自室や魔法薬学室で育ててみたいなと思っていまして。それぐらいならば誰かに迷惑をかけることも無いでしょうし」
「ああ、いいと思うぞ。上手く育てば私にも是非教えてくれ」

 フロイドやアズールからはあまり良い反応を貰えなかったこの計画だけれど、やはりリゼットがそれを否定するなんてことはもちろんない。むしろ穏やかにジェイドの好奇心を後押ししてくれる彼女の隣は、ジェイドにとって酷く居心地のいい場所であった。
 たった数ヶ月という時間の中に確立しつつあるその感覚に、ジェイドはどうしたって抗うことなど出来はしない。抗う気もない、と言った方が正確かもしれないけれど、それについては彼お得意の『秘密』の奥底へ丁寧に隠してしまうことにした。
 それぞれの根同士が絡まってしまった2株のギャラティアを丁寧に分離させながら、ジェイドはその表情を柔らかく綻ばせる。と、そんなジェイドへ向けて、何かを思いついたらしいリゼットからの声が不意に飛ばされてきた。

「……菌糸類に興味があるなら、その方面の研究室に行くことが出来るよう知り合いの研究者へ話を通してやろうか? 菌糸類の研究や調査をしたいなら、そちらの方が絶対的に有益な体験が出来るだろうからな」

 君さえよければだが。そう締めくくられたリゼットの言葉に、今度はジェイドの方が瞳を瞬かせる番だった。
 考えてみれば、彼女がそんな提案をするというのもおかしくはないことだった。彼女は自らを教師ではないと言い張りながらも、なんだかんだとジェイドの学びを教師のように見守ってくれている節がある。好奇心のままに学び、考え、そして行動することを善しとしている彼女が、その学びを十二分にジェイドへ与えてくれるだろう場所へ彼を送り出すというのは、なんとも『彼女らしい』考え方で提案だ。
 それに、彼女は今でこそそれなりにジェイドを受け入れてくれているけれど、当初は弟子など取らないと言ってジェイドを適当に追い返そうとしていたのだから。これを機会にジェイドをよそへ追い払ってしまおうという考えを彼女が抱くということも十分にあり得るだろう。

「好奇心に駆られた突飛な行動で危険なことさえ起こさなければ、君は将来有望な優秀な生徒だからな。きっと引く手は数多だろうさ」

 それでも、ジェイドはその提案を『予想外』だと感じた。理由は分からないけれど、ただ漠然と。
 彼女はそんな提案などしないと、どこかで無意識に考えていたのかもしれない。その考えの根拠さえも、自分には分からなかった。
 リゼットからの称賛とも呼べる言葉に嬉しさを覚えながらも、そのどうしようもない不可解を静かに胸の中で燻らせるジェイドへ、リゼットは小さく首を傾げてみせる。突然固まって言葉を発さなくなったジェイドを怪訝に思ったのだろう。どうした? という声にはっと我に返ったジェイドは、反射的にその顔へ穏やかな微笑みを張り付けた。

「……ふふ、よろしいんですか? 僕の手綱を手放してしまって」

 ──それは、まるで「手放さないで」とでも言っているかのような。

 胸裏に渦巻く動揺のままに言葉を吐いた直後、ジェイドは自らの本心にようやく気が付いた。
 自らの知的好奇心をただ満たしたいだけならば、ジェイドはリゼット・ヘリオトロープという人の下に拘る必要性など一切持ってはいない。リゼットの提案に甘えて、菌糸類を専門とする研究所へ口利きをしてもらいそちらへ移動した方が、彼女の言う通りジェイドの気を惹いている「キノコ」という存在について深く知ることは可能になるだろう。
 それでも。どうしてか、そうしたいとは思わなかった。
 キノコについて詳しく学ぶことが出来ずとも、このままこうして、彼女の傍で植物について学び続けていたい。彼女と言葉を、意見を交わして、そして植物に触れていたい。その時間を欠けさせてしまうのは、失ってしまうのは、何だかとても惜しい気がする。と、そう思った。
 どうして自分がこんなにも彼女の傍を望むのか。その理由は、彼女とのやり取りが刺激的で、彼女の思考回路に触れる度に新しい発見があって、そして彼女の傍は居心地がいいから。ただそれだけだ。今はまだ、それだけでいいはずだ。
 どこか挑発的な口調で言葉を紡いだジェイドの視線の先で、鮮やかな翡翠の色が、空からこぼれ落ちてきた陽光の破片を受け止めてきらりきらりと瞬くように輝いていた。ああ、そうだ、この色彩も。先の理由の中に「その翡翠を間近で見続けたい」という思いを密かに加えて、ジェイドは全てを覆い隠すようにたおやかに微笑んだ。
 そんなジェイドの姿を瞳に映して、リゼットもまたくすりと笑みを浮かべる。仕方ないなとでも言いたげな、柔い穏やかさを孕んだ表情で。

「君、確かにかなりクレイジーなところはあるが、何だかんだと言って必要な時はちゃんとそれを制御できるタイプだろう? カレッジでのやらかしは、そこがカレッジだからやっただけ。実際私の所へ来てからは随分と大人しかったじゃないか。まあ、色々と思考回路に難は見られたがな」

 別の花壇へまとめて移動させるためにギャラティアの株をトレーに乗せながら、リゼットは静かな声色で淡々と言葉を紡いでいく。その最中、温室に満ちた空気が突然一度か二度ほど上昇したような、そんな感覚にジェイドは襲われた。
 じわり、と心臓のあたりに広がっていたそれは一体何だろう。

「本当に制御の効かなかった学生時代の私とは違って、君には本来手綱なんて必要ない。だからと言って野放しにするのは危険だろうが、まあ、君がいるのがここである必要性も一切ない。君なら、そこがどこだろうとそれなりに上手くやっていけるだろうしな」

 どうやらこの数カ月の間、ジェイドがリゼットを観察していたと同時に、リゼットもまた密かにジェイドのことを観察していたらしい。それが意図的なものであったのかどうかは分からないけれど、それでも確かに、リゼットはちゃんと『ジェイド・リーチ』のことを見つめてくれていた。
 本当に、本当に些細なその事実に、それでもなお、どうしようもなく胸がざわめいて仕方ない。

「……お気持ちは有難いですが、遠慮させて頂きます」

 ジェイドを真っ直ぐに見据える翡翠の瞳が、ゆっくりと瞬きを繰り返す。
 世界を満たす光が、温度が、色彩が、あんまりにも眩しくて。繊細な網膜を隠すように、そっとジェイドの目が細められた。

「今はこうして貴女と植物について語り合い、植物に触れている時間がとても楽しいので。それ以上もそれ以外も、僕は望んでいません」

 だからどうか、貴女さえよければこのままで。
 そんな思いを込めて彼女を見つめ返せば、表情に乏しいはずの彼女の瞳が、ふわりと温かな温度をそこに宿らせたような気がした。その姿に見入ってしまったジェイドを置き去りにして、世界は軽やかに爪先を滑らせていく。
 くすくすとおかしそうに笑うリゼットの声が、表情が、降り注ぐ陽光の中に輝いていた。

「なんだそれ。相変わらず変な奴だな、君は」

 悪態混じりにそんな言葉を放つ声色には、しかし鋭い棘などは一切仕込まれていない。ただただ優しい音だけがジェイドの鼓膜を叩くものだから、またしても、心臓が意思とは関係なく奔放に走り始めてしまう。
 肺いっぱいに空気を満たすことでそれを何とか皮膚の下に留め置き、未だに笑い続けている彼女へジェイドもまた笑みをこぼす。眉を下げて、目元を綻ばせて。それは、きっと今ここに彼の片割れや腐れ縁の幼馴染がいたとしたら、「珍しいじゃん」とでも言われてしまいそうな、そんな酷く気の抜けた表情だったに違いない。そんな自覚があった。

「……まあいいさ。君がそう言うなら無理強いはしない。自分の好きなように、やりたいようにやるのが一番だからな」

 自分が面倒だからさっさと出ていけとは言わないんですね。そう口にして問いかけてしまいたくなったけれど、なんだかそれも野暮な気がして。喉元に言葉を飲み込んだジェイドは、止まってしまっていた手を再び動かし始める。
 沈黙の落ちた植物園に満ちる空気は、胸がくすぐったくなるぐらいに温かいものだった。


  ***


「──そうだ、君。この後もし時間があるなら、少し買い物に付き合ってはくれないか」
 午前中に始めたギャラティアの植え替えも昼過ぎには終わり、ジェイドとリゼットは少し遅めの昼食を摂っていた。因みに、今日の昼食はジェイド作のサンドイッチだ。
 少し前まで、ジェイドは彼女の下を訪れる時は昼食を済ませて昼から足を運ぶようにしていたのだけれど、最近はこうして、昼食を用意したうえで午前中からここを訪れるようになっていた。そうすれば、ここで過ごす時間をより長く取ることができる上に、リゼットにちゃんとした食事を摂ってもらうことができるためだ。
 以前紅茶を彼女に振る舞って以来、ジェイドは彼女に紅茶を淹れる時には彼お手製のお茶請けを添えるようにしていた。すると、どうやらリゼットはジェイドの作るお菓子や料理をも気に入ってくれたらしく、普段は食事を面倒くさがって栄養食品やゼリー飲料などで済ませてしまう彼女も、ジェイドが用意した食べ物は積極的に食べてくれるようになったのだ。
 前々から彼女の食生活には思うところがあったジェイドとしては、紅茶と同様に日頃のお礼の形として彼女に手料理を振る舞うことについて、一切の否やはなかった。
 どこか餌付けじみてきたことに少し思うところはあれど、自分の作ったものを美味しそうに──とはいえ、表情は相変わらずの仏頂面ではあるけれど──食べてくれる彼女の姿には、やはり嬉しいものがある。
 今日も今日とてジェイドの淹れた紅茶を片手にサンドイッチを食むリゼットを微笑ましく眺めていれば、ハムサンドを平らげた彼女が不意にジェイドへそんな言葉を吐いた。

「買い物、ですか? それはもちろんお付き合いさせて頂きますが……」
「そうか、助かる。薬草なんかの実験素材だけなら私1人で事足りるんだが、新調しなくてはいけない実験器具が多くてな……荷物が多くて1人では持ち帰るのが不便そうだから、人の手を借りたいと思っていたところなんだ」

 なるほど、つまりは荷物持ちをしてくれというお達しらしい。その程度ならば、ジェイドに断る理由なんてありはしない。

「実験器具の買い物ということは……賢者の国に行かれるのですか?」
「ああ。その類のものはやはりあの国で買った方が質もいいからな」

 賢者の国とは、リゼットが以前所属していた研究所のある国である。
 ツイステッドワンダーランドの学問と英知の全てが集められた、数千年という歴史を有する学園国家。その領土の全てが学問に関するものとなっているその場所は、もはや『国』ではなくひとつの巨大な『研究所』のようになっているのだと、ジェイドも話の中に聞いたことがあった。
 未だに通販制度が導入されていないのが唯一にして最大の難点だな、とぼやきながら最後のサンドイッチに手を伸ばしたリゼットへ苦笑をこぼして、ジェイドはまだ一度も足を踏み入れたことのない『賢者の国』という場所に思いを馳せた。


 どうやら、今回もあのギャップの場所からの転移魔法によって賢者の国へ向かうらしい。外出するということで、彼女のトレードマークでもある白衣ではなくコートを羽織ったリゼットの後ろを、いつかの日のようにジェイドは追いかける。ちなみに、ジェイドが身につけているのはいつものごとくナイトレイブンカレッジの学生服だ。
 白衣を着ていないリゼットの姿には少し新鮮な心地がするけれど、揺れる長い三つ編みは、目の下に蓄えられた濃い隈は、無感情な仏頂面は、変わらず彼女らしくそこにある。
 辿り着いたギャップの中央に立ち止ったリゼットが、ジェイドの姿を確認するようにこちらを振り返った。それに対して「ちゃんとついて来ていますよ」と答えるように微笑んで見せれば、リゼットは瞬きをひとつ落として、──ジェイドにその左の手のひらを差し出した。
 その意図を汲み切れず、ジェイドは思わず困惑を露わに狼狽えてしまう。

「……ええ、と?」
「手を貸せ。前回は紅蓮の森内での移動だったから必要なかったが、流石に森の外へ行くとなると転移魔法も複雑になるからな。こうやって手を繋ぐなりしておかないと、ふたりが同じ場所へ正常に転移できない可能性が高くなってしまうんだ」

 彼女の言葉の意味は、何とか理解出来た。手を繋ぐ必要性についてもしっかりと。
 しかし。
 ジェイドは自らへ差し伸べられたリゼットの手のひらへ視線を落とす。植物の世話や実験を行うが故に、その手のひらは「白魚のような」とはお世辞にも称することのできないものだった。けれど、やはりどうしたってジェイドよりは華奢で小さな手のひらに、それへ触れることを躊躇してしまうというのも仕方のないことだろう。
 1秒、2秒とただ静かに彼女を見つめて、ジェイドはようやく身体を動かすということを思い出した。流石にこのまま黙りこくってしまうのは彼女にも悪いと思って、弾かれるように恐る恐るとその右手を伸ばす。空へ向けられた彼女の手のひらの上に、自らのそれを重ねようと。
 学園に通う時と同じく黒い革手袋を纏ったジェイドの指先が、躊躇に揺れながらもリゼットの手のひらに触れる。瞬間、小さなその手が、ジェイドの手を一切の躊躇もなく握りしめた。
 ぎゅうと繋がれた手のひらの感覚に、ジェイドは数拍の間、自分の置かれている状況を上手く把握することも出来なくなってしまった。
 驚きと困惑に見開かれた瞳と、空気と共に言葉の全てが飲み込まれてしまった唇。皮膚の下に血潮が妙な疼きを孕んで、折角覚えたはずの肺呼吸の方法さえ、瞬間的に意識からはじき出される。
 まるで世界が止まってしまったかのような錯覚に襲われるジェイドを置いて、リゼットは彼の手をしっかりと握りしめたまま、その声を森の中に響かせる。少し皮の固くなったリゼットの手のひらは、けれど革手袋越しにも分かるぐらいに柔らかいもので。それを意識の遠くに理解しながら、ジェイドは転移魔法の中へと放り出される。
 ぐにゃりと歪んだ視界と、足裏から掻き消えた地面の感覚。けれど、右手を優しく包み込むその手のひらのかたちだけは、変わらずそこにあり続けていた。


  ***


 街路の賑やかさが鼓膜を叩いた。身体がしっかりとどこかに固定されたことを感覚的に把握し、ジェイドは閉ざしていた瞼をゆっくりと持ち上げる。ふわりと傍らを駆け抜けていく微かな風が運んでいったのは、紙とインクの匂いだろうか。それとも薬草の香りだろうか。

「ん、よし。問題なく転移できたようだな」

 赤茶けた煉瓦の敷き詰められた道に立つリゼットが、隣に立つジェイドを見上げて満足げにそう呟いた。それを見やって、ジェイドは再び視線を目の前に広がる風景へと向ける。
 赤を基調とした煉瓦と、柔らかな表情の石と、時折コンクリートの覗くその町は、どこか愛らしさすら感じさせる見た目をしていて。『賢者の国』という名称からもっと研究施設≠轤オい無機質な景観が広がっているのだろうとばかり考えていたジェイドは、予想とは大きく外れたその現実に瞳を瞬かせた。
 日曜日の昼下がりの街中は、やはり人の姿が多く行き来を繰り返している。ジェイドの通うナイトレイブンカレッジもそうであるように、この賢者の国にもかなり多種多様な種族が共存しているのだと、街路をたった一望しただけで即座に理解することが出来た。
 学問に種族は関係ない。ナイトレイブンカレッジに入学した当初に何度も囁かれたその言葉が、ふとジェイドの脳裏に過って行った。

「さて。それじゃあ、まずは土を買いに行くとしよう」

 思考をあちらこちらへと行き来させるジェイドを現実に引き戻すように、リゼットの静かな声が落とされる。それに慌てて頷いたジェイドに何を思ったのか、彼女はくすりとおかしそうに笑みをこぼしてみせた。

「安心しろ。流石に土は家まで配送してもらうからな。君に持たせたりはしないさ」

 どうやら彼女は、ジェイドが数キロや数十キロにも及ぶ土の袋を持ち運ぶことになるのかと焦り驚いたのだと考えたらしい。それを理解して、ジェイドもまた笑みを浮かべる。

「そうでしたか、安心しました。流石の僕でも、土を担いで歩き回るのは骨が折れますから」
「それはそうだろうな。通販は出来ずとも、配送程度は出来るぐらいには優秀な店がちゃんとあるんだ、この国にも」

 皮肉交じりの彼女の言葉にまた笑いながら、ふたりは並んで街を歩く。
 彼女曰く、この国では、学者や研究者として日々学問に努めている人々が国民の8割以上を占めているのだという。賢者の国という名前に違わないその事実は、この国がまさに学問のために培われてきた場所なのだという証拠の一つだ。
 そしてまあやはり、彼女と同様個々人の好奇心に従ってそれぞれに生きるひとが多いということもあって、国民性としては『個人主義』と『自由主義』が主軸とされ、さらにはいい意味でも悪い意味でも変わったひとが多いらしい。私たち以上のモンスターもここにはごろごろ存在しているぞ、と道すがらジェイドに話したリゼットの表情は、どこか愉快そうにも見えて。
 今でこそ、この国からは離れた場所でひとり研究に勤しんでいても、この国の在り方というものはやはり彼女の肌によく馴染んでいるのだろう。すいすいと慣れ親しんだように道を歩いていく彼女の姿は、思わず目を細めてしまうほどその街並みに溶け込んでいた。
 時折道端に並んだ露店などに足を止めながら、ふたりは最初の目的地である『土販売店』へと向かう。ここで土を買う場所が決して『園芸用品店』などではなく、まさに土だけを専門として販売する『土販売店』であることが、この買い物における一番に面白い点だと言えるだろう。
 研究者たちの専門分野によって様々な素材や道具が必要とされるこの賢者の国には、他の国では滅多に見られないような専門店が数多く軒を連ねている。それこそ、今回の土だとか、水だとかに始まって、果ては歯車の専門店やピンセットの専門店なんて看板を掛けた店もあるらしい。こだわる奴はどこまでもこだわって追求し続けるからなとリゼットは笑っていたけれど、そんなリゼットもまたその類の人間であることをジェイドは知っている。
 土専門店で数種類の土をそれぞれ数キロずつ購入し、リゼットの家に明日配送されるよう手配する。すらすらと店主に土の注文をするリゼットの隣でジェイドも彼女がどんな土を必要としているのかを聞いていたのだけれど、今持っている知識ではその半分程度の内容しか理解することは出来なかった。
 店を後にした直後そのことを彼女に伝えれば、彼女からは半分も分かったなら十分だという言葉を与えられた。リゼットが適当な褒めそやしをする人ではないことを理解しているために、ジェイドもその言葉は素直に受け取ることが出来た。けれどもやはり、それで満足できるかと言われるとそんなことは決してなく。まだまだ学ぶことは沢山あるのだという事実に、ジェイドはまた知識欲を深く燃やしていくのだ。
 この後も歩き回る予定だから、まずは軽いものから買い集めていこう。そう言ったリゼットが次に足を向けたのは、土専門店から数十メートルほど離れた場所にある、大通りに面した大きな薬草店だった。
 深い茶色を宿したアンティーク調の扉を押し開けば、からんからんと少し古びた鐘の音がジェイドたちを店の中へ迎え入れる。それと同時に鼻孔をくすぐった薬草の香りは、カレッジの魔法薬学室やリゼットの家に漂うそれと同じようで、やはり何かが決定的に違っていた。
 歩みの早いリゼットに置いていかれないようにと足を進めながらも、ジェイドの視線は見慣れぬその店内へと一心に手向けられる。
 1階建てのその店内は天井が高く作られており、大きな天窓から降り注ぐ陽光によってほどよい明るさが保たれていた。内装の大枠は、魔法薬学室やリゼットの家の実験室のように薬草棚が並んでいるというジェイドにとってもなじみ深いものではあるのだけれど、やはりその棚数や薬草の種類の豊富さが、ジェイドの知るそれとは大きく異なっていた。
 まるで書店の本棚のようにずらりと並べられた薬草棚に、所狭しと瓶や薬草の束が詰め込まれている。ジェイドもよく知る、カレッジの1年生や2年生でも利用するような薬草は、やはりどんな研究においても高い頻度で利用されているらしい。複数個の瓶や束で用意された姿が、それらの消費される量を何よりも分かりやすく示していた。
 ぽいぽいとリゼットから手渡される瓶や薬草の束を腕に抱えて、ジェイドはそれらが一体何という名前の薬草で、どういった調合や実験に用いられ、どういった効果を示すのかを頭の中で考え続ける。しかし、ジェイドの持つ知識からその答えを導き出すことが出来たのはたったの3分の1程度。あれだけの文献を読み込んでもなお、この世界に存在する薬草の全てを知ることは決して出来ないらしい。ジェイドの目の前に存在する世界は、まだまだ遥か遠くに広がり続けていた。

「……君、これが何という名前の植物か分かるか?」

 と、ふと、何かの薬草の束を棚から取り出したリゼットが、どこか挑戦的な言葉を吐きながら、数多の瓶や薬草の束によって両腕を塞がれたジェイドの目の前にそれ≠翳してみせた。
 視界に踊った色は、やや渋みのある木賊色。1枚の大きさは約10センチ程度といったところだろうか。薬草としてはそう珍しくもないその色と大きさに、形もよくある卵型。葉脈が網目状になっていることから、それが双子葉類の葉であることは分かった。それ以外の特徴とすれば、その葉縁がぎざぎざと波立った鋸歯状になっていることだろうか。しかし、その条件全てを満たす薬草というものは、ジェイドの記憶の中だけでも数十種類存在している。つまり、現時点でそれが何かを断定することは出来ないということ。
 じっとその葉を見つめるジェイドの視線の先で、それを捕まえているリゼットの指先が微かに揺れる。それと一緒に葉先も踊って、天窓から降り注ぐ陽光に照らされた木賊色が鮮やかに輝いた。
 ──と、その瞬間、ジェイドはあることに気付く。

「……葉の裏面を見せて頂けますか?」

 その要望に、彼女の瞳が微かに細められた。けれど、特別何か言葉を紡ぐことなく、リゼットはジェイドの言葉に従うまま葉の裏面をジェイドの眼前に晒した。
 細胞の密度や葉緑体数の差によって、基本的に葉の裏面は表面に比べて色が薄い。この葉もその例に漏れず、裏面を彩るのは白を混ぜた薄い木賊の色だった。表面から見るよりもいくらか見えやすい葉脈の筋をたどり、ジェイドは自らの中に浮かんだ答えを確信に落とし込んでいく。
 目を眇めて、裏面の全体を丁寧に観察する。予想が正しければきっと──ああ、あった。
 見つけたその姿に目元を綻ばせて、ジェイドは彼女へ答えを告げた。

「分かりました。『ポラリジア』、ですね」

 確か、ユグリートの実験をする前のことだっただろうか。リゼットから貸し出された本の中に、そのポラリジアを利用した実験についての内容が記されていたはずだ。

「ポラリジアとは、8月から9月ごろに白い花を咲かせる魔法植物で、その葉には毒素が含まれており、そのまま経口摂取すると中毒症状や幻覚、麻痺などを引き起こしますが、純度の高い精霊水に3日3晩浸すことでその毒素が精霊水に溶け出し、残された葉は気付け薬の材料として利用することが可能になります。また、毒素と精霊水とが混ざり合った『ポラリジア水』は、毒素の有害性が精霊水によって緩和され、一般的な麻酔薬や睡眠薬の材料として用いられています」
 ……だったでしょうか? 自らの記憶に残るポラリジアについての知識を述べきったジェイドへ、リゼットは何とも愉快そうな表情で笑ってみせる。いつも通りの不敵さに、どこか満足げな様子を溶かした瞳がゆったりと弧を描いていた。

「ポラリジアと葉の外見がよく似ている植物としてセイジランというものがあるが、そちらではないとした判断基準は?」
「はい。1つ目に、ポラリジアの葉の表面は、見る角度によって色味が変わるという偏光の特性を持っています。先ほど、リゼットさんの動きに合わせて葉が揺れた際に、葉の色が深い紺色に染まって見えました。そのような性質をセイジランは持っていません」
 そこで一度言葉を切って、ジェイドはリゼットの瞳を見据える。いつ、どんな角度から見ても決してその鮮やかさを失わない翡翠の色が、今日もただひたすら真っ直ぐにジェイドを見つめていた。
 観察されることは相変わらず苦手だ。
 けれど、ジェイドは少しずつ気が付き始めていた。彼女のその瞳で見つめられることに居心地の悪さを感じなくなっている自分が、彼女の瞳に自らの姿が映し出されることに喜びを覚え始めた自分が、いつの間にか心の片隅に存在してしまっているということに。

「……2つ目に、ポラリジアの葉の裏面には、肉眼では少し見つけ辛くはありますが、赤い斑点が存在しています。そして、それは全体的なものではなく、裏面のどこか一か所にだけ存在するという不思議な模様で、同じ個体のものであっても、葉によってその模様の位置や形は異なっているという特徴があります。セイジランの葉の裏面にも赤い斑点は見られますが、それは裏面の全体に存在するものであるため、ポラリジアのそれとは大きく異なっています」

 以上です。とまるで大演説の締めくくりのようにそんな言葉を吐いたジェイドは、きっとその両腕が自由でさえあれば、いつものごとく演技的なほど慇懃にその胸へ手を当てて、そして深々と一礼を落としていたことだろう。
 からからと、ジェイドの腕の中で薬草の瓶と瓶とが触れ合って微かな音を立てている。その音に合わせてダンスを踊る片方だけのピアスが、彼の右耳ではらはらと淡い輝きをこぼしていた。

「うん、満点だ。よく覚えているじゃないか。やはり優秀だな、君は」

 ジェイドの腕の中にそのポラリジアの束を押し付けて笑うリゼットは、相変わらずどこか満足げで、誇らしげで。そしてそれはまるで、──ジェイドの成長を喜んでいるかのようでもあって。
 ……いや、まさか、彼女がそんな。頭の中に浮かんだその考えを打ち消すように、ジェイドは慌てて彼女という人の在り方を思い出す。偏屈で、他者への興味が薄く、どう足掻いても研究者でしかない、教育者にはなれないと自ら言い張る彼女。……けれど、彼女はこれまで、何だかんだと言いながらもしっかりとジェイドの面倒を見てくれている。今日も、今だって。
 彼女の抱いた『ジェイドの人魚姿を観察したい』という好奇心と知識欲とが足がかりとなり、そしてそれが今もなお存在しているからこそ、ふたりのこの関係は続いている。と、ジェイドは今の今まで、特別な疑問を抱くこともなくそう考えていた。
 しかし、本当にそうなのだろうか。ただ『それだけ』で、彼女のような人が、こんなにもジェイドに時間と手間を砕いてくれるなどということが本当にあり得るのだろうか。
 随分と今更すぎるそんな疑問が、濁流のようにジェイドの思考回路の全てを奪い去って行った。
 ぴたりと足を止めたジェイドを置いて、薬草漁りに戻ったリゼットはひと足先を軽い足取りで歩いていく。少しずつ広がっていくふたりの距離に、早くそれを詰めてしまわなければと頭の片隅でジェイドはそう考えた。けれど、情けなくもショート寸前の思考回路では、ろくな信号も脚へは伝えられない。まるで、この2本の脚を初めて手に入れたあの日のようだ。
 2歩、3歩と彼女が歩いていく。視線の先に緑髪の三つ編みが揺れる。

 ──……数メートル先で、その歩みが止まった。

 その瞬間、呼吸が止まるような感覚にジェイドは襲われた。世界の時が止まって、ジェイドの視線が目の前に広がるその情景へ釘づけられる。天窓からちらちらと注ぎ込まれるたっぷりの陽光が、その緑の鮮やかさをより一層際立たせていた。

「おい、君。どうしたんだ? そんなところで立ち止まって」

 立ち尽くしたジェイドを振り返ったリゼットが、怪訝な様子を隠そうともせずそんな言葉を放つ。

 ……たとえば。

 それは、ふとジェイドの中にこぼれ落ちてきたひとつの仮説だった。どう考えてもジェイドにとって都合の良すぎる、あまりにも馬鹿げた仮説だった。

 ──たとえば、もし。
 意識的無意識的は問わず、彼女がジェイド・リーチというたったひとりのことを、『生徒』や『弟子』として大切にしてくれているのだとしたら。
 大切に、思ってくれているのだとしたら。

 ……それは、とても喜ばしいことだ。何故ならそれは、彼女から人魚に対する好奇心や知識欲が失われてしまったとしても、彼女がジェイドを切り捨てることはきっとないだろうということを示唆しているも同然なのだから。
 陸の植物について学びたいことが、ジェイドにはまだまだ山のようにある。そしてそれを学ぶのは、カレッジでも独学でもなく、彼女の下がいいと、そう思っている。
 だから、好都合なのだ。彼女がジェイドのことを大切にしてくれるということは。ジェイドにとって、とても。喜ばしいこと、なのだ。

「……すみません、少しぼんやりとしてしまいまして」

 気を抜けばだらしなく綻んでしまいそうになる口元を必死に戒めて、ジェイドは静かな表情と声色で彼女にそう答えてみせた。きっと、恐らく、ちゃんと普段通りに笑えていただろうと思う。
 止まっていた歩みを再開して、ジェイドはリゼットの下へと近寄った。彼女の六歩で生み出された空白を、ジェイドはたったの3歩で埋めてしまう。

「お待たせしました」

 立ち止まってジェイドを待ち続けていたリゼットの視線が、距離を詰めたことによりその角度を急にしてジェイドを見上げている。人間の幼子ならば、頭の重さでそのまま後ろに倒れてしまってもおかしくないぐらいの角度だ。
 全てを見透かすような、鋭く輝く翡翠の色彩。

「……何か嬉しいことでもあったのか?」

 ──どきりと心臓が跳ねた。
 予想外の彼女の言葉に、ジェイドは咄嗟に表情を取り繕うことさえ出来なかった。
 丸く見開かれたヘテロクロミアに映り込むのは、緑を宿した1人の女性の姿。他でもない、リゼット・ヘリオトロープというたったひとり。
 まさか、本当に見透かされてしまうだなんて。隠しごとがひとよりも得意であるという自負があっただけに、ジェイドにとって、その事実は青天の霹靂とも呼べるほどに衝撃的なものだった。
 そうだ、ジェイドは嬉しさを感じてしまっていたのだ。先ほど自らが立てたあの仮説に対して、自らに利が訪れたという喜びだけではなく、どうしようもないぐらいに深い嬉しさまでもを。
 そして、それを他でもない彼女に見抜かれてしまった。自らの中でもあまり釈然とはしていなかったはずのその感情に、名前と輪郭を与えられてしまった。
 しかし、リゼットの方は、ジェイドが一体何に対して嬉しさを感じたのかという点までには然程興味が湧かなかったらしい。ジェイドが自分について来ているのを確認した彼女は、すぐさま再びジェイドに背を向けて歩き始めてしまった。
 どくどくと奇妙に叫び続けている心臓を抑え付けて、呼吸を何とか整えて、ジェイドはすぐにその後ろを追いかける。筆舌に尽くしがたい感覚を喉元に燻らせながら。

(──……どうして僕は、)

 貴女に大切にされているかもしれないというただそれだけのことで、こんなにも嬉しいと感じてしまうのでしょうか。


  ***


「……すまんな、思ったより量が増えてしまった。重いだろう」
「いえいえ、大丈夫ですよ。これでもそれなりに鍛えていますので」

 薬草店から様々な実験器具の専門店を辿り、そして彼女の言う「買わなければいけないもの」の8割方を買い終えた頃には、ジェイドの両手は数多くの買い物袋で埋め尽くされていた。
 それぞれの重さは大したことがなくとも、やはり塵も積もればやがては山になってしまう。荷物持ちを前提にジェイドを連れてきたリゼットも、その様を見て流石に微妙な表情を浮かべた。
 しかし、この程度ならばジェイドにとっては然したる苦痛にもなりはしない。親から習っていた護身術や過酷な海での生活によって培われてきた筋力は、たとえ人間の姿を取り陸に上がったとしても、消えてなくなるようなものではなかったのだ。
 ジェイドからいくらか荷物を受け取ろうとするリゼットにそれとなく断りを入れて、次はどこにいくのかと彼女に問いかける。すると、彼女からは「書店だ」というとてもシンプルな答えが返された。自宅にあれだけの本があると言うのに、まだまだ増やしていく予定らしい。彼女は一体どんな本を買うのだろうかと、ジェイドはちょっとした好奇心を傾けながら彼女の隣を並び歩いた。

 辿り着いた書店は、大通りから少し外れた細道に、まるで世界から隠れるかのようにひっそりと存在していた。
 なんでも、そこは彼女の知り合いが経営している店らしく、大通りにある大きな書店に比べれば幾らか品揃えは悪いが、何かと融通が利きやすいためによくそこを利用しているのだとか。
 軒先に並ぶ観葉植物と、中に赤い金魚がくるくると泳ぎ回っている金魚鉢。さらさらと流れる水の音が涼しげで、どこか儚くも聞こえた。人通りが少ないこともあって大通りに比べれば随分と静かなその光景は、初めて足を運んだ場所に広がるそれだと言うのに、どうしてか「懐かしい」という感情を掻き立てて仕方がない。
 一見すれば隠れ家的なカフェか何かのようにも見える店構えをしているけれど、そこに掲げられた看板にはしっかりと「書店」の文字が並べられていた。不思議な雰囲気を纏った場所だなと思いながら、ジェイドはリゼットの後に続いて店の門をくぐった。
 りりん、と軽やかなベルの音が鳴る。その直後ジェイドの嗅覚を埋め尽くしたのは、書店らしい紙とインクの匂い。世界と言葉と知識の詰め込まれた、心の弾む匂いだ。

「──はいはい、いらっしゃ〜い、……って、リゼット!? やだやだ、久しぶり〜!!」

 来客を知らせる音を聞きつけて、店主か店員かと思しきひとりの女性が店の奥から姿を現した。
 緩やかなウェーブを描いた明るい茶髪と、どこか妖艶さを孕んだ容姿に甘い声。どこか気怠そうな様子で最初の常套句を吐いた彼女は、リゼットの姿を視界に映した途端、一瞬にしてその瞳をきらきらと丸く輝かせた。どうやら、彼女がリゼットの言っていた知り合いらしい。
 どこか駆け足気味にリゼットへと歩み寄ってきた彼女は、何の躊躇も遠慮もなくそのままの勢いでリゼットに抱き着いた。それに思わずぎょっとしてしまったジェイドだけれど、リゼットがそれに一切の動揺も拒絶も見せていないことを確認して、それが彼女たちにとっての通常の距離感であることを理解する。

「ああ。久しぶりだなリーファ。相変わらず元気そうで何よりだ」
「うんうん、リゼットに会えたから今ちょー元気になった! 今日は何が欲しいの? ……あら? そっちのイケメンな男の子は? ……ハッ、もしかしてリゼットの恋人?!」
「本当にそう思ったなら今すぐ眼科と精神科に行ってこい。頼むから私を犯罪者にしてくれるな」

 リゼットからリーファと呼ばれたその女性は、その視界にジェイドの姿を映した瞬間、そんな言葉を紡ぎながら興奮気味にリゼットへと詰め寄った。わずかに赤く染められた頬は愛らしいけれど、その本質は、女性によく見られる恋愛話への飢えだ。リーファに抱きしめられたままのリゼットは、やはりこうなったかとでも言いたげな様子で苦々しい表情を携えていた。
 ひとまずここは、リーファの誤解を解くためにも自己紹介を行った方が良いだろうと、ジェイドはそのかんばせに人好きのする穏やかな微笑みを浮かべてみせた。

「初めまして。僕はジェイド・リーチと申します。数カ月前からリゼットさんの下でお世話になっている、ただのいち学生です」
「ふーん……ってことは、リゼットの弟子ってこと? あの<潟[ットが他人を傍に置いてるだなんて、どういう風の吹き回し??」
「色々と事情があるんだ。……ほら、もういいだろう。早く仕事に戻ってくれないか」

 やだやだもっと聞きたい話したいぃ、と抵抗するリーファの背中を押して、リゼットは店の奥へと向かって行く。小柄なリゼットと背丈のそれなりにあるリーファのふたりは、その身長差も相まって、こうしてじゃれ合っているとまるで姉妹か何かのようにも見えた。
 ジェイドといえば相変わらずそんな2人に置いてけぼりにされている状態で、微笑みに困惑を乗せて「どうしたものか」と小さく首を傾げることしかできないまま。

「すまんが、少しこいつと話があるから君は店内を好きに見て回っていてくれ。荷物は隅の方にでも置いておけばいい。どうせろくに客も来ないだろうからな」
「え、ちょっとぉ、酷くなぁい? 確かに来ないだろうけどさぁ」

 2人の賑やかでテンポのいいやり取りが店の奥へと消えていくのを見届けて、残されたジェイドはひとり瞳をぱちぱちと瞬かせる。リーファがジェイドを連れたリゼットに驚きを見せたように、ジェイドもまた、リーファと楽しげに──表情にこそあまり変化はないが、ジェイドには確かにそう見えた──言葉を交わしているリゼットの姿に、少しばかり驚いたのだ。
 植物に関する内容以外の会話であんなにも表情を豊かにする彼女の姿は初めて見た。なかなかに対照的なふたりだけれど、気の置けない仲ではあるらしい。リゼットは知り合いだと称していたものの、きっと、実際のところは「友人同士」のような間柄なのだろう。
 彼女にも友人と呼べる他者がいたのだなと、そんな失礼極まりない新たな気づきをジェイドは心の中で静かに転がした。
 彼女たちの会話に興味はあるけれど、久しぶりに会うのだという彼女たちの会話を邪魔するというのも憚られる。ひとまずは言われた通りに大人しく店内で待っていようと、ジェイドは荷物を店の隅に下ろした。

 リゼットとリーファの話し合いは、それほど時間を取るものでもなかったらしい。店の片隅で本棚を眺めていたジェイドをリゼットが呼びに来たのは、それから15分も経たない頃のことだった。
 待たせたな、と言って姿を見せたリゼットの背中には相変わらずリーファが引っ付いており、その姿に思わず苦笑がこぼれてしまう。リーファは随分とリゼットに懐いているようだ。
 本を買いに来たのだろうと思っていたが、手ぶらなリゼットの様子を見るに、どうやらそういう訳ではなかったのだと気付く。リーファ自身に用事があったのか、それとも本の取り寄せを依頼しに来ていたのか。彼女たちの会話を聞いていないジェイドにその答えは分からない。

「おや、もうよろしいのですか?」
「ああ。元々大した用事ではなかったからな」
「もっとゆっくりしていっていいのにぃ〜! ジェイドクンともたくさんお話したいし、お茶でもしていかない?」

 少し間延びしたリーファの喋り方に思わず片割れのことを思い出しながら、ジェイドはどうしましょうかとリゼットへ視線を傾ける。大きくため息を吐いたリゼットは、面倒くさいとでも言いたげな表情を隠すこともなく、ばっさりと彼女の提案を退けた。

「していかない。まだ行く場所があるんだ。それに、あまり遅くなる前にこいつをカレッジに帰さなくてはいけないからな」

 とは言っても、時刻はまだ16時を過ぎた程度なのでそう急ぐことは無いのだけれど。とジェイドは思ったが、あえてそれを言葉にはしなかった。
 リーファも無理を言ってまで引き留めるつもりはないようで、残念そうにしながらも「また来てね」とリゼットに頬ずりをしていた。それにも慣れ切ったように適当にあしらっているリゼットは、案外パーソナルスペースにはあまり煩くないタイプらしい。まあもちろん、慣れ親しんだ相手でればという条件は付くだろうけれど。
 店の隅に置かせてもらっていた荷物を回収して、ジェイドはリーファに暇を告げる。

「お邪魔しました」
「い〜え。またいつでも遊びに来てね、ジェイドクン。リゼットってば、見ての通りだいぶ偏屈で変人だけど、見限らずに傍に居てあげてくれたらおねーさん嬉しいな」

 ぺこりと頭を下げれば、流石にもうリゼットから肌を離していたリーファが、ふわふわとした足取りでジェイドに歩み寄ってくる。この人は随分とパーソナルスペースが狭いようだ。
 リゼットにしていたようにするりとジェイドにすり寄ったリーファは、にこりと楽しげな笑みを浮かべてジェイドを軽く手招いた。その口元に手をやる動作からして、恐らく「耳を貸せ」と言いたいのだろう。
 たおやかな笑みを貼り付けたまま、ジェイドは誘われるままに身体を屈める。甘ったるい花の香りが、微かに鼻孔を掠めていった。

「──リゼットとのことで何か困ったことがあったら、いつでも相談に乗るからね」

 耳元に寄せられた彼女の唇が、蕩けそうな声色でそんな言葉を紡ぐ。その言葉の真意がいまひとつよく分からないジェイドは思わず瞳を瞬かせてしまうのだけれど、そんな彼の様子にもまた深い笑みを浮かべたリーファは、次の瞬間ジェイドの頬に小さなリップ音を鳴らした。
 どうやら挨拶代わりのキスだったらしい。「おい」と文句を言いたげに声を上げたリゼットへも、あっという間にジェイドから離れていったリーファは、同じく頬へ浅いキスを施していた。

「はあ……挨拶はいいが、ほどほどにしておけよ。訴えられても知らないからな」
「大丈夫だいじょーぶ。ちゃぁんと相手は選んでるからね!」

 だからリゼットには最後にハグ〜! というよく分からない理論で、リーファはリゼットの身体を強くその腕に抱きしめる。と、その時、リーファの視線がつい、とジェイドへ向けられた。煮詰めた蜂蜜のような橙混じりの黄色を孕んだ瞳が、ゆったりと弧を描くように細められる。
 どこか挑戦的なその表情に、ジェイドの胸のあたりでもやりと何かが渦を描いた。その正体を突き止める暇もなく、リーファの腕の中から逃げ出したリゼットがジェイドに声を飛ばした。

「君、行くぞ。このまま長居すると体力が全部持っていかれそうだ」

 それに慌てて返事を返したジェイドは、彼女の背を追って店の門をくぐる。背後から聞こえたまたねぇ、と間延びした声に振り返ると、店前に立ったリーファがこちらに手を振っていた。
 そんな彼女に小さく会釈だけを返して、ジェイドは先を行くリゼットの背中を見つめる。

「はぁ……姦しい奴だったろう。変なことを吹き込まれてはいないか?」
「いつでも遊びに来てくれと歓迎してくださっただけでしたよ。少し気圧されはしましたが、とてもいい方でしたね。リゼットさんが長く付き合っていらっしゃるのも分かるぐらいに」

 そう答えてみせれば、リゼットの表情が微かに和らぐ。やはり、リゼットにとってもリーファは特別な存在であるらしい。その事実を目の当たりにして、再びジェイドの心臓のあたりが変な疼きを覚え始めてしまった。
 もやもや、じくじく、言葉にし難い謎の不快感がこぼれて仕方がない。
 これは一体何なのだろう。答えが分からないという歯がゆさも相まって、それはいっそ苛立ちにも近い何かに変わり始めていた。ぎり、と噛みしめた鋭い歯が軋むような音を立てる。

「さあ、最後の買い物に行くぞ」
「……どちらに行かれるのです?」

 そんな訳の分からない感情を彼女にだけは知られたくなくて、ジェイドは必死に自らを取り繕い、何でもないような表情を浮かべてみせた。そしてそれは、今回ばかりは何とか成功してくれたようで。リゼットはジェイドの様子に特別何かを感じる様子もなく、静かな声で答えを紡いだ。

「雑貨屋だ」

 その答えに、ジェイドは心の底から「意外だ」と思った。

「雑貨屋、ですか」

 軽やかな驚きと一緒に彼女の言葉を反芻すれば、視線の先で緑の髪先が頷きに揺れる。
 雑貨屋と言えば、主にインテリアや生活雑貨などといった日用品を販売している店舗のことを指す言葉。彼女にももちろん生活というものがあるのだから、雑貨屋で彼女が買い物をするというのもそう可笑しなことではない。それでも、彼女にも雑貨屋へ行くという用事があるのだなと思うと、なんだか不思議な心地になってしまった。

「何を買われるのです?」

 だからジェイドは、つい、思わず詮索するような問いかけを彼女へ放ってしまったのだ。
 不躾だっただろうかと言葉を後悔するけれど、その先に存在するリゼットがそれを気にした様子はひとかけらもない。むしろ、ほとんど即答に近い形で答えを打ち返してきた。

「ティーカップだ」

 ──彼女といると、本当に、いつも予想外のことばかりが巻き起こる。

「……ほら、最近君に紅茶を淹れてもらうようになっただろう? 折角の美味しい紅茶だというのに、その食器がいつまでもマグカップというのは何だか似つかわしくないような気がしてな」

 黙りこくったままのジェイドに、どこか気恥ずかしそうな様子でリゼットはつらつらと言葉を紡いでいく。いつもよりほんのわずかに早口になったその口調が、声が、言葉が、それでも酷く鮮明にジェイドの鼓膜を叩いた。
 夕暮れに塗られていく空に、彼女の緑は今日も変わらず眩しい程によく映えている。

「ティーカップの良し悪しなんて私には分からないからな。君に選んでもらいたいんだ」

 どうだろうか、とジェイドを伺ってくる彼女に、ジェイドの紡ぐ答えなんてもちろんたったひとつしかありえない。
 じわりと心臓に熱が走る。同時に覚えたぎゅうと心臓のあたりを握りしめられるような感覚に、思わず呼吸が浅く止まった。つい先ほどまで心臓や喉に渦巻いていたはずの不快感がいつのまにかその姿を消していることに、ジェイドはその時ようやく気が付いた。
 まるで海流に踊るクラゲのように浮き沈みを繰り返す自分の感情に、ジェイドはもう何度目かになる疑問の言葉を心の中に溢れさせる。

(……僕は一体、どうしてしまったのでしょうか)

 表面上は穏やかな笑みを浮かべながら、ジェイドはただひたすらに考え続ける。


(──僕は一体、貴女にとっての『何』になりたいのでしょうか)


 きっと、『特別』になりたい。けれどその特別とは、一体何を以て『特別』とされるものなのだろうか。
 その答えばかりは、今はまだ、どうしたってジェイドには分からないままだった。


  ***


「……ふふ、まさかあのリゼットがねぇ」

 小さな書店のカウンター内で、1人の女が、その手の中にある1枚の紙を眺めてにこにことその表情を綻ばせていた。その紙に記されているのは、先ほどこの店を訪れた彼女の友人の名前と、その友人が求めた複数の書籍のタイトル。
 きっと、今までの彼女ならばわざわざ取り寄せてまで手にしようとはしなかっただろうそのラインナップに、やはり原因は『あの子』だろうかと、女、リーファはその唇に大きな弧を描く。
 ナイトレイブンカレッジの制服を纏った、まだ年若いあの男の子。少し腹の読めないところはあったけれど、リゼットを心から慕っていることに違いはなさそうだった。そして、リゼットも何だかんだとそんな彼のことを可愛がっているようで。
 なるほど、なるほど。大切な友人に巻き起こされている何とも喜ばしいその変化に対して、リーファはもちろん、後押しする以外の選択肢など持ってはいない。

「とりあえず、早めに商品を送ってあげないとね」

 鼻歌でも歌い始めそうな軽やかさでそう呟いて、リーファはおもむろに立ち上がった。


 ──リゼットの家の本棚に並べられた、菌糸類についての真新しい書籍の姿にジェイドが気づくのは、それから丁度2週間後のこと。



20200826

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