君さえ


第2話


「──リゼットさん、少しよろしいですか?」
「ん、どうした」
「この頭痛薬の調合に使われている『ユグリート』という植物についてなのですが、こちらの本では『ユグリートの葉をすりつぶして使用する』と書かれているのに対して、こちらの論文では『ユグリートの葉をナイフで細切れにして使用する』と書かれていまして。すりつぶして使用するのと細切れにして使用するのとでは何か違いが生まれるのでしょうか?」
「ああ。すりつぶすよりも細切れにした方がユグリートの効能を十分に引き出せるんだ。ただし、効き目が強すぎて副作用も大きくなってしまうから、一般的にはすりつぶして使用されることが多いな。後はすりつぶしたものの方が薬として飲みやすいというのもある」
「なるほど」

 2週間に一度、学園が休みとなる日曜日にジェイドはリゼットの下を訪れる。
 いつもの作業机ではなく応接用のソファに座ってローテーブルに研究資料を広げている彼女に、向かいのソファに座ったジェイドが時折声をかけ、リゼットがそれに答える。数度の来訪の中で、それがふたりのルーティンとなっていた。
 あのやり取りを通し、晴れてリゼットの弟子になることを許されたジェイドであるが、彼が特別彼女の『弟子』らしいことをすることはない。時折以前のように散らかされた部屋の片付けを手伝ったり、本の整理を手伝ったりすることはあるが、その程度。高度な彼女の研究の手伝いに手を出せるほど、まだジェイドには知識も技術も、リゼットからの信頼も持ってはいないためだ。
 では2週間に一度のその日に一体何をしているのかと言えば、図書室の文献を読む中でジェイドが抱いた疑問点についてリゼットに尋ねたり、ジェイドの考えに対するリゼットからのコメントを貰ったり、リゼットの家に数多く収められている書籍を読みその内容について話し合ったりということを繰り返すばかり。
 ジェイドの問いかけがどれだけ初歩的なものだろうと、的外れなものであろうと、リゼットはそれを厭うことも馬鹿にすることもなく、真摯に受け止めて丁寧に答えを与えてくれる。これを言えばまたリゼットには嫌な顔をされてしまうのだろうけれど、そんなふたりの姿に名前を付けるのならば、それは『師匠と弟子』というよりは『教師と生徒』の方が相応しいだろう。
 彼女から与えられるものに対して自らの返せるものが少ないことにジェイドは少しの居心地の悪さを覚えているのだが、一度それを口にしたところ、彼女からは「それじゃあ、たまに人魚の姿を見せてくれ。それで十分だ」と返されるに終わってしまった。それでもやはり等価交換には到底及ばない気がするのだが、他でもない彼女がそれでいいと言うのならば、ジェイドにはもう何も言うことなどできない。
 いつか何かの形で恩返しをしなければと考えながら、ジェイドはリゼットの言葉に甘えて彼女の下を訪れる。彼女とのやり取りはジェイドにとってとても刺激的で、2週間に一度のその日を待ち遠しく思いながら日々を過ごすことが常となっていた。

「あともうひとつ、ここに『ユグリートの粉末とシバヨモギの絞り汁を混ぜたものにシロツメクサの花びらを混ぜないよう注意する』と書かれていますが、これを混ぜると何が起きるのでしょう?」

 無知は罪ではないと彼女は言った。知らないからこそ生まれる『知りたい』という感情を、好奇心を、彼女は嘲笑わない。むしろそれを大切にしろと、そう言って笑っていた。
 それはきっと、彼女自身がその感情の中に生きてきたからに他ならない。
 ジェイドの問いかけにリゼットはゆるりと笑みを浮かべた。仏頂面の中に生まれた不敵なその表情は、酷く愉快そうでもあって。

「簡単なことだ。私と君の大好きな爆発が起きる」

 まあ、ミズビ草と塩酸ほど派手なものではないがな。
 弧を描いたその唇には、にやり、という効果音が最も似合いそうだ。冗談交じりに紡がれた彼女の言葉に、ジェイドもまた笑みをこぼした。

「そうですか。それはとても気になってしまいますね」

 ジェイドとリゼットが出会ってから、早くももう2ヶ月あまりの時が過ぎた。年を越した1月の今日この頃。まだこの勉強会も片手を越えるほどにしか行われていないけれど、それでもジェイドとリゼットのふたりの距離はそれなりに縮まったように感じられる。
 元々の思考回路や考え方に似通った点が多いというのも大きいだろう。それに加えて、お互いに頭の回転も速いため会話のリズムも良く、それぞれの作業に没頭することで生まれる沈黙に苦を感じたこともない。ジェイドをリゼットの下へと送り込んだ教師と学園長の、「ふたりは気が合うだろう」という予測は正しかったということだ。

「……やってみるか、爆発実験」

 くすくすと笑うジェイドに、ぽつりとリゼットがそんな呟きを落とした。

「実験、ですか?」
「ああ。丁度材料もあるからな。たまにはいいだろう」

 口角を上げて愉快そうな表情を浮かべた彼女は、ジェイドの答えも聞かぬままソファから立ち上がる。相変わらず身に纏っている白衣の裾をひらひらとさせながら歩いていくリゼットの背中を、ジェイドも慌てて追いかけた。
 彼女の小さな背中は、本棚とソファの間を抜けて、玄関に向かう廊下の手前に存在している両開きの扉へと向かって行く。分厚い鉄で作られた黒く重厚なそれは、まるでその向こうに存在する何かを守り続けている近衛兵のような佇まいで沈黙を貫いていた。

 リゼットはその扉に手をかけ、力強く押し開く。

 途端にジェイドの嗅覚をくすぐっていったのは、紙と、インク、そして沢山の薬草や薬品の匂いが入り混じった、何とも形容し難い香り。あえてたとえるならば、図書館と実験室を足して割ったような、そんな香りだ。
 その扉の向こうに広がる部屋には、ジェイドも今までに幾度か足を踏み入れたことがある。しかし、何度見ても、そこに広がる光景は『圧巻』のひとことに尽きるばかりで。
 木造を基本としている他の部屋とは違い石畳と石壁によって構成されているその部屋の中は、窓が存在していないことによる薄暗さも相まって、視覚からも底知れない冷たさをひしひしと感じさせられる。とはいえ、実際この家の全体には魔法による空調管理が施されているため、この部屋の中も十分な暖かさを保ってはいるのだけれど。
 扉から見て右奥方向に広がりを見せる、応接室兼作業部屋と同じぐらいの空間を持つその部屋の中。扉を潜って正面には、錬金術の授業で使うような大釜や顕微鏡、インキュベーターなどの実験器具の姿があり、それらを取り囲む壁には、薬草や種、魔法薬などが詰められた瓶がずらりと隙間なく並べられている。
 扉を潜って右手側には、床から天井までを埋める本棚が数台、壁にも及んで部屋の中を埋め尽くしている姿が視界に踊る。応接室にある書籍の優に2倍は収められているのではないかという程の蔵書数は、リゼットの博識さを形として表したものだと称しても過言ではないのだろう。
 真っ直ぐに部屋の奥、実験器具の並ぶ場所へと歩んでいくリゼットは、瓶の並んだ棚の前でぴたりと立ち止る。その指先は迷うことなく棚の中から3つの瓶を取り出し、ジェイドに披露するように机の上にそれらを並べ置いた。

「これがユグリートの粉末、こっちがシバヨモギの絞り汁、そしてこれがシロツメクサの花びらだ。まあ、説明するまでもなく一目で分かるがな」

 萌黄色の粉末に、深緑の液体、そして白い花びら。リゼットの指先につつかれた瓶の中で、シバヨモギの絞り汁がゆらりと揺蕩っている。

「どれも一見安全そうな材料ですが、これらを混ぜると爆発が起こってしまうのですね」
「安全なものと安全なものを混ぜたからと言って、必ずしも安全なものや安全な結果が導き出されるとは限らないということだ。何を扱うにしても実験の際には細心の注意が必要になる」
「なるほど。肝に銘じます」
「そうしてくれ。……まあ、君はそれを理解し細心の注意を払ったうえで敢えて危険に飛び込むタイプだからな。私も人のことは言えないが」
「ふふ、否定はできませんね」

 試験管や薬包紙に必要な量だけを取り出し、リゼットはその一式をジェイドに持たせる。

「先に言ったように今回は大した爆発にはならないが、一応屋外でやるぞ。保護メガネも貸し出してやるからつけろ」

 白衣は流石にサイズが合わないから我慢してくれ。自分用の保護メガネを取り出しながらリゼットはそう言って、ふと、何かを思案するように視線を揺らした。薄暗い部屋にも鮮やかな翡翠の色が向けられた先は、壁に並んだ瓶の群れの中。
 瞬きを三度繰り返した彼女の指先が、真っ直ぐにひとつの瓶へと伸ばされた。その中に収められているのは、鮮やかな赤い色の液体。その名前が示されているのだろうラベルの部分は、丁度ジェイドの位置からは見えない部分にあって。ジェイドは首を傾げながらリゼットに問いかける。

「リゼットさん、それは?」
「……クリムゾンレディという花から採れる蜜だ。今回はこれも使ってみることにしよう」

 机に戻り瓶の中身をピペットで試験管に移し取るリゼットの表情は、酷く楽しそうで、愉快そうで。その様子にジェイドの胸も期待にじわじわと膨らんでいく。

「それを使うと何が起きるのですか?」

 試験管をゆらりと揺らし、リゼットはジェイドから飛ばされた質問に笑ってみせた。


「それはやってみてからのお楽しみ、だな」


  ***


 実験場所として選ばれた温室と紅蓮の森との間にある空間で、名前はそこにあったひとつの切り株の上に大きめのビーカーを設置した。
 どうやらそこが実験台となるらしい。リゼットに倣って切り株のそばにしゃがみこみ、ジェイドは先ほど渡された素材の一式を切り株の空いたスペースに並べた。そして同時に保護メガネを装着する。形状も付け心地も、学園での錬金術の授業で使うものとほとんど同じものであったため、特に違和感は覚えなかった。

「それじゃあ、まずは普通に爆発させるぞ」
「はい」
「とは言っても、方法は材料を順番に入れていくだから簡単だ。指示するからやってみろ」

 まずはビーカーにシロツメクサの花びらを10枚入れ、次にユグリートの粉末を2匙投入し、最後にシバヨモギの絞り汁をピペットで8滴回しかける。手順はたったそれだけ。リゼットの指示に従い全てを混ぜたビーカーを、ふたり並んで観察する。今回はリゼットが素材の量を調節し、こうして近くで観察しても問題ない程度の爆発しか起こらないようにしてくれているのだ。
 1秒、2秒、──ぽん、と軽い音を立てて、1枚のシロツメクサの花びらがまるでポップコーンのように爆ぜた。それに追随して他の9枚も次々に跳ね上がっていく。ぽんぽんと軽やかに跳ねる花びらたちが、まるでダンスのステップを踏んで笑っているかのように見えて。

「……ふふ、なんだか可愛らしいですね」
「そうだな。これでユグリートの粉末とシバヨモギの絞り汁の量を増やせばもう少し派手な爆発が起きるんだが……流石にその実験をする準備は無いからな。今日はこれで満足してくれ」

 リゼットの言葉に大満足ですよと頷いて、ジェイドはまだ微かに爆ぜ続けているシロツメクサの花びらへ視線を落とした。爆発の衝撃に膨らんで、元の大きさの5倍近くになったその姿が酷く印象的だ。

「……よし。それじゃあ次はクリムゾンレディの蜜を使って同じ調合をするぞ」

 一通り爆発が落ち着いたところで、リゼットがそう口にした。今度はリゼットの指示がない状態で、ジェイドひとりでやってみろとのことだ。簡単な調合であったから、流石に間違えることは無いだろう。彼女の言葉に頷いて、ジェイドは実験素材へと手を伸ばした。

 先ほどと同じ量の3つを用意し、シバヨモギの絞り汁を入れる前にクリムゾンレディの蜜を5ミリリットル加える。少しだけとろみのついた蜜が真白いシロツメクサの花びらを鮮やかな赤でコーティングし、降り注ぐ陽光にきらきらと輝いていた。
 リゼットの指示を頭の中に反芻しながら最後にシバヨモギの絞り汁を加え、これでいいだろうかと、ジェイドは彼女がいるはずの隣を見やった。

「……リゼットさん? 何故そんなに離れた場所にいらっしゃるんですか?」
「気にするな。ほら、反応が起きるぞ」

 けれど何故かそこにリゼットの姿はなく、ジェイドはひとりビーカーの前に残されていた。慌てて視線を巡らせれば、5メートルばかり距離を置いたジェイドの背後に彼女が立っていて。
 いつも通りの静かな口調と声色でそう言う彼女に、ジェイドは首を傾げながらも目の前にあるビーカーへと視線を戻した。彼女のことだからジェイドを危険に晒したりはしないと思うが、一体何を企んでいるのやら。

 切り株の上に置かれたビーカーの中で、蜜に赤く染まった花びらがふるりと震えた。

 ──そして次の瞬間、ジェイドの視界一面が鮮やかな赤に染まる。

 ぼふん、と響いた空気が爆ぜるような派手な音と、周囲をもくもくと埋め尽くした赤い煙の姿に、ジェイドほとんど反射的に腕で顔を庇い固く目を瞑った。鼻孔を突いた微かに甘い香りは、クリムゾンレディの蜜のそれだろうか。

「空を見上げてみろ!」

 背後から飛ばされたリゼットの声に、ジェイドは恐る恐る閉ざした瞼を持ち上げ、そして空を仰ぐ。赤い煙はいつの間にか霧散しており、空に広がるのは透き通るような青い色と、そして、

 ──紅色に染まった花びらが、くるくると空に舞っていた。

 見上げた世界の姿に、ジェイドの瞳がぱちりと丸く見開かれる。左右で異なる宝石を嵌め込んだ一対の虹彩に、鮮やかな青と紅のコントラストが映り込んだ。
 ちか、ちか、と視界に光が瞬く。それは花びらが纏った陽光の欠片だろうか、それとも、世界のあまりの美しさに生まれ落ちた一種の錯覚だろうか。その答えは分からないけれど、それが美しいことに変わりはなくて。ジェイドの心は、呆気なくその光景に奪い去られてしまっていた。

「きれいだろう?」

 風に遊びながら舞い落ちてくる花びらの中に、リゼットの言葉がこぼされる。
 さく、と土が踏みしめられる音に彼女が自らの隣へ戻って来たことを知り、ジェイドはゆらりととの視線を揺らした。そうすれば、今度は鮮やかな緑が世界を色づける。

「はい、とても!」

 それは、ジェイド・リーチという男にしては随分と素直で純粋な感情の発露であった。自分を見下ろすヘテロクロミアのきらきらとした輝きは、表情は、普段は微塵も感じられない『16歳』という年齢に相応しいもので。
 ぱちりと瞳を瞬かせ、リゼットはふわりと微笑みを浮かべてみせる。

「……ふふ、君もそうしていればちゃんとティーンに見えるな」

 柔らかなその表情と声色に、ジェイドは再び瞳を丸く見開いた。
 はらはらとこぼれ落ちる紅が彼女の緑によく映えて、意識の全てが奪われて行くような錯覚に襲われる。交わった視線の先に綻んだ瞳が揺れて、空の青色を映し出した。けれど、ジェイドはずっとその緑色に心を奪われたままで。鼓動の音が、鼓膜のすぐ近くに聞こえ続けていた。
 クリムゾンレディの蜜と爆発反応の関係性について解説するリゼットの言葉を追いかけたいのに、どうしてか意識がその声に定まってくれない。この感覚は一体何なのだろうか。普段よりもわずかに歩調を速めた心臓を自覚しながら、網膜を焼く緑の鮮やかさをただ見つめながら、ジェイドは自らの胸の中に芽生え始めた感情に首を傾げた。


  ***


 実験の後片付けを終えた頃には、空は微かな夕焼けに包み込まれ始めていた。
 そろそろ暇を告げなければいけないなと考えながら、実験部屋の奥に設けられていた簡素なシンクでビーカーや試験管を洗い終えたジェイドは応接室の方へと戻った。そして、扉を抜けて直ぐに見えたその空間の有様にぱちりと目を瞬かせる。そこにリゼットの姿が見当たらなかったのだ。

「……リゼットさん?」

 扉を後ろ手に閉めながら、ジェイドは伺うように彼女の名前を呼ぶ。
 答えは予想外にもすぐさま返ってきた。

「片付けは終わったか?」
「ああ、そちらにいらっしゃったんですね。言われたように器具は網棚で乾かしています」
「そうか。お疲れ様」

 キッチンの方から姿を現したリゼットに、ジェイドはわずかに瞳を瞬かせる。彼女がキッチンに立っている姿をジェイドが見るのは、これが初めてのことだったのだ。
 相変わらず使用感のない清潔さを保ったキッチンの姿に何とも言えない感情を噛みしめながら、ジェイドはリゼットの手元へと視線を落とす。そこにあるのは、シンプルなネイビーの包装紙に包まれた平たい箱。

「……それは?」
「紅茶の茶葉の詰め合わせらしい。この間知り合いから贈られたんだが、生憎私は茶葉から紅茶を淹れる方法なんて知らないから持て余していたんだ。君、紅茶が好きなら持って行ってくれ」

 ん、と差し出されたそれを反射的に受け取ってしまったジェイドは、リゼットの言葉にぱちぱちと再び目を瞬かせる。正方形のその箱は、茶葉のギフトにしてはやや大きいサイズのもので。包装紙の様子などから考えても『それなりのもの』であることがジェイドにも一瞬で分かった。
 それを無償で貰ってしまうのは忍びない気がするのだけれど、リゼットが紅茶を飲まないというのならばここに置いていても意味がないのは確かなことで。

「紅茶は好きですが……リゼットさんはお嫌いなんですか?」
「いや、嫌いではないが……あまり飲む機会がなかったからな。研究の時はもっぱら水かコーヒーばかりだから、紅茶の正しい飲み方も良し悪しも正直分らん」

 そんな奴に適当に飲まれるよりは、ちゃんと紅茶を美味しく飲んでくれる奴の下にある方がいいだろう。そんなことを言って、リゼットは好都合だと言わんばかりに笑ってみせる。
 ジェイドはそんな彼女と手元の箱との間で視線を二往復させ、ふとあることを思いついた。

「……でしたら、僕が貴女に紅茶をお淹れするというのはどうでしょうか?」

 それは名案だと、確かにそう思った。何故ならジェイドは紅茶を淹れることが特技のひとつとであって、リゼットは紅茶が嫌いなわけではない。そして、ジェイドは常々彼女に何かしらのお返しをしなくてはならないと考えていたのだから。
 もしもリゼットがジェイドの淹れる紅茶を気に入ってくれたなら。そんな思いを滲ませながら、ジェイドは彼女へにこやかに問いかけた。

「君、紅茶を淹れるのが得意なのか?」
「そうですね。陸に上がってから何かと紅茶を淹れる機会がありまして、特技のひとつとして数えてもいいぐらいだと自負しています」

 ぱちりと瞬きを繰り返して、リゼットはその瞳にわずかな思考を過らせる。けれどそれも一瞬にして終わってしまい、残されたのはジェイドを静かに見つめる翡翠の色彩だけ。

「そうか。それじゃあ頼んでみるとしよう」

 特に躊躇もなく頷いてくれたリゼットに、ジェイドはにこりと笑みを深める。
 微かに動いた彼の指先に、箱を包む包装紙がかさりと乾いた音をたてた。


 魔力を利用して湯を沸かす魔導ケトルに水を満たして、湯が沸くのを待つ間に箱の包装紙を開封する。シールで留められていたネイビーのそれを可能な限り丁寧に剥がしていけば、中から現れたのは、これもまたシンプルなオフホワイトの箱。
 調理台の空いたスペースで蓋を開けて、その中を覗き込む。どうやらこれは4種類の茶葉を詰めたギフトセットであったようだ。
 4等分に分けられた箱の中に整然と並べられた4つの缶と、ギフトの中身の説明が書かれているのだろう洒落たカードの姿。黄色、緑色、薄桃色、水色と並んでいる華やかな色彩を見つめながら、ジェイドはひとまずカードへと手を伸ばした。
 カードに記されたメーカー名は、ジェイドもよく知っているもの。ツイステッドワンダーランド内でも指折りの、大手紅茶メーカーのそれだった。
 紅茶好きでその名前を知らない者はいないと言っても過言ではない、言ってしまえば高級紅茶と呼ばれるブランドものを扱っているメーカーのギフトセット。しかも4種類入り。となれば、このひと箱だけでかなり値が張るものであるに違いない。
 これはこれは、と胸の内に感嘆とも慄きともとれる呟きをこぼして、ジェイドは並んだ茶葉の缶に視線を落とす。
 カードに書かれていた内容曰く、黄色の缶がこの紅茶メーカー特有のブレンド茶葉で、緑色の缶がツイステッドワンダーランドで最も出回っている『ウォープティー』という名前の茶葉。薄桃色と水色の缶にはそれぞれ違ったフレーバーティーの茶葉が詰められているらしい。
 沸騰したお湯でティーポットとふたつのマグカップ──ティーカップなんて洒落たものはないと言って、リゼットが棚から出してきたものだ──とを温めながら、彼女にはどの茶葉で淹れた紅茶がいいだろうかと考える。黄色の缶のブレンド茶葉がこのメーカーの代表的な茶葉だけれど、万人受けする飲みやすさを重視するのならば、やはり緑色の缶の『ウォープティー』が一番だろう。
 彼女の色と同じであるし、なんて、合理性のかけらもない言葉を最後のひと押しに、ジェイドは緑色の缶を手に取った。

 ほどよく温まったポットに、ティースプーンで3杯ほどの茶葉を入れる。丁度いいサイズのスプーンがなかったため、そこは完全にジェイドの感覚だ。
 そこに沸騰させたお湯を注ぎ込んで、すぐに蓋をする。くるくるとお湯の中で茶葉が踊っている様子に、ジェイドはくすりと小さく笑みを浮かべた。微かに鼻孔をくすぐっていった香りが胸を満たすほどにかぐわしくて、やはりいい茶葉は香りから違うのだなと独り言ちる。
 茶葉はどちらかというと細かい方だったので、蒸らす時間は2分半から3分ほどでいいだろう。3分を測る砂時計をひっくり返せば、さらさらと薄緑色の砂が重力に従ってこぼれ落ちていく。
 ティーカップとティースプーンが無いのに何故かあった茶こしを用意して、砂時計の最後の砂が落ちる少し前にティーポットの蓋を開けた。
 刹那、ふわりとキッチンに満ちたのは芳醇な紅茶の香り。ポットに満たされた琥珀色の液体はきらきらと艶を帯びているようにも見えて、ふわふわとその波間に揺蕩う茶葉と一緒に、思わずジェイドの胸まで高鳴ってしまった。
 茶こしで茶殻をこしながら、ふたつのマグカップに紅茶を注いでいく。それぞれで濃さが均等になるように、ゴールデン・ドロップと呼ばれる最後の一滴までを余すことなく。
 トレーに琥珀で満たされたマグカップたちと砂糖とミルクのポットを並べて、ジェイドはキッチンスペースからリゼットの待つ応接室の方へと向かう。

「リゼットさん、お茶が入りましたよ」

 その声に、ソファに腰かけてタブレット端末の画面を睨みつけていたリゼットの視線がジェイドへと向けられる。その眉間に寄せられていた皺が微かに和らぐ様が、どうしてかやけにはっきりとジェイドの知覚のなかに転がり落ちてきた。
 それに生まれた不思議な感覚を喉元につっかえさせながら、そんな内心をおくびにも出さず彼は穏やかに笑ってみせる。
 ローテーブルの上にマグカップとミルクや砂糖を並べて、さあどうぞと言わんばかりに彼女へと視線を向けた。リゼットは相変わらずの仏頂面でその様子をじっと眺めて、一拍をおいた後に自らの目の前に給仕されたマグカップへと手を伸ばした。

「……いい香りだな」

 持ち上げたマグカップを口元へと寄せた彼女は、ふわふわと微かな湯気を揺蕩わせる琥珀色へ視線を落としてその目元を微かに和らげた。どうやら紅茶の香りは彼女のお気に召したらしい。自分のマグカップへはまだ手を伸ばさず、ジェイドはじっと、紅茶を飲む彼女の様子を見つめ続ける。
 その最中、ふと彼女の唇へと視線が向いてしまったのも仕方のないことだろう。
 小さく、どちらかと言えば薄めのそれは、少し乾燥しているようにも見えて。自らの見た目には基本的に頓着しないタイプである彼女のことだから、きっと唇の保湿なども疎かにしてしまっているのだろう。冬の厳しい乾燥に唇が切れてしまいはしないかとわずかな不安を胸に孕んで、ふと、ジェイドは自らの意識が本題とは随分と逸れた場所に行ってしまっていることに気付いた。
 一体何故自分はそんなことを考えているのだろうと自らに首を傾げている間に、彼女の唇がマグカップに触れて、その中身をこくりと飲み込んでいく。やや伏せられた瞳と、それを隠すように揺れる睫毛。その全てにどうしようもなく目が惹かれて、呼吸すらも忘れてしまいそうになる。

「……美味しい、な」

 ぱちりと瞬きをこぼした瞳が、きらきらと翡翠の色を輝かせながらジェイドを見つめる。
 柔らかく緩められた目元に、綻んだ唇。どこかあどけなさを感じさせるその表情は、いつかジェイドの人魚姿を目にした時のそれと通ずる部分があるようにも思えて。

 ──ああ、どうしてだろう。

 彼女が紅茶を気に入ってくれた。彼女が自分に『表情』を見せてくれた。その事実によって導き出された自らの感情は『安堵』と『歓喜』。そこに嘘はない。……けれど、それだけではなかった。

 肺呼吸に適した二心房と二心室が血液と共に身体中へと押し出すその感情は、その感覚は、一体何と名付けられるべきものなのだろうか。

「君は本当に紅茶を淹れるのが得意なんだな。こんなに美味しい紅茶は初めて飲んだ」
「……恐れ入ります」

 その答えは分からぬまま、胸に燻るそれを持て余しながらジェイドはまた笑う。全てを隠して微笑んでみせることも、ジェイドは得意技のひとつとしていた。

「僕でよろしければ、いつでも紅茶を淹れますよ」

 どうでしょうかと伺うように言葉を紡げば、意外にもそれへの答えは瞬時にもたらされた。

「そう、だな。……それじゃあ、やはりあの茶葉はここに置いておくとしようか」

 マグカップをゆるやかに傾けながら口ずさむ彼女に、言い出したのは自分でありながら、ジェイドはその瞳を微かに丸く見開く。その虹彩を色づけるのは、鮮やかな緑の色。

「だから、また淹れてくれ」

 柔らかに細められた双眸がジェイドを見据える。相変わらず静かな光を灯したそれは、けれど普段とは少し違った優しい温度を孕んでいて。とく、とく、と鼓動が跳ねるのを意識の向こうに理解しながら、ジェイドは唇を引き結んで頷きだけを彼女に返す。
 心臓の裏側がくすぐられるような不思議な感覚に、それでも不快さはひとかけらも存在していなかった。



20200810

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