君さえ


side-J


 ──午前零時を知らせる鐘の音が、遠く、遠くに響き渡った。

 刹那腕の中から溶けるように消えてしまったのは、愛しい愛しいあの人の存在。そのかたち、その温度。空っぽになった手の中に視線を落として、男はひとり思い出す。
 自分の記憶の中に存在する、彼女の笑顔を、声を。全てを。

「……珠華、さん」

 唇にかたちどり、そして声に表したそれは、確かに彼女の名前を指し示す音だった。
 2度、3度と、誰もいない静かな夜の廊下にその音をこぼしていく。どこからか微かに聞こえた水音が、騒がしいぐらいに静かで、耳障りだった。

 浜匙珠華。1年と少し前、この学園に突然異世界からやって来た、魔力を持たない平凡な少女。オンボロ寮の監督生として、グリムと呼ばれる小さなモンスターと共に、小さな身体でいつも一生懸命走り回って、派手に転んだとしても決して諦めはしない、底知れぬ強さを芯に宿した不思議な存在。

 ──そして、男、ジェイド・リーチが持つ『心』なんて呼ばれるものの一番柔らかい部分に、知らぬ間に転がり落ちてきた、愛しい、愛しいひと。この世界、いや、どの世界においてもただひとり、彼が『恋』という感情を捧げた唯一無二。

 彼女と過ごした日々の記憶をひとつひとつなぞって、そうして確かめる。
 自分の中にまだ彼女と生きた時間が残されていることを。
 つまり、彼女が言っていたあの最悪の想定は免れたということ。

 その事実を噛みしめるように手のひらを固く握りしめ、ジェイドは爪先を世界へと向けた。向かう先は、ふたつ。
 モストロ・ラウンジという存在により、他寮よりも比較的夜が遅いこのオクタヴィネル寮。そして、元来の性質上夜に強い彼らは、たとえこの常識外れな時間だとしても、ジェイドの声に応えてくれるのだ。

「──フロイド、アズール。……力を貸して頂けますか?」

 敵においても味方においても恐ろしい、努力と才能の塊である幼馴染たち。身内であっても容赦はしない彼らに助けを求めるこの選択を、世界は愚かと呼ぶだろうか。きっとそうだろう。けれど、今のジェイドには、それがたとえ茨の道だとしてもなりふり構わず選び取らなければいけない理由があった。

 彼女を迎えに行かなければならない。一刻も早く、彼女を。
 そうして今度こそ、彼女の人生全てをもらい受けるのだ。もう二度と、世界になんて奪わせてやるものか。あの幸せを、あの温もりを、あの愛を!

 翌日、あの少女の存在が泡のように消えてしまったという騒ぎが、瞬く間に学園中に広まった。出所は勿論、彼女と一番長い時間を過ごしていたグリム。朝起きて一番に顔を合わせるはずの彼女がそこに居なかった、その衝撃は一体どれほどのものだろう。
 エースやデュース、ジャックといった、特に彼女と親しくしていた彼らが動揺と焦燥に声をあげている。誰もが今にも泣きそうな、酷く苦しそうな、どうしようもなく切なそうな表情で、あの少女の面影を探していた。
 そんな彼らに全てを伝えたのは、学園長。彼女は本当に、学園長とジェイド以外へ元の世界に帰るという事実を教えていなかったらしい。
 元の世界へ帰ってしまった1人の少女。
 ある者は「何故何も言わなかったのか」と激高し、ある者は「もう会えないのか」と絶望し、またある者は「彼女が望んでいた結末だ」と自らに言い聞かせるように呟いた。

 悲嘆にくれる彼らの中へ、ジェイドは静かに足を踏み入れた。
 そうして彼らに囁きかける。

 ──あの少女を、もう一度この世界へ。

  ***

 彼女と親しかったほぼ全ての人々が、ジェイドのその提案に賛同し協力を了承した。そんなことに意味は無いと口にして提案を跳ね付ける人もやはり存在したけれど、そんな彼らも、ジェイドが行おうとしている研究に強い非難の指先を向けることはなかった。
 学園長も、教師陣も、「馬鹿なことはやめろ」とひと言告げたきり、後は全て見て見ぬふりで通すつもりのようだ。
 つまり、この世界に生きるひとは皆、彼女の存在をまだ求めている。彼女は確かに、この世界の命に愛されている。

 ……それなら後は、無理矢理にでも世界に彼女を愛させるだけ。

 1番に掲げられた研究の主なテーマは、『世界線を、意図的にかつ安全に越えること』。
 空間転移魔法の応用に加えて、彼女をこの世界へ誘ったと考えられる闇の鏡の力を参考に術式を組む。古来より、世界を超えるという魔法についての研究は盛んに行われていたため、知識の元となる文献には事欠かなかった。
 そうしてようやく世界を超える扉≠ェ完成したのが、それから4年後のこと。ジェイドが22歳になった年の冬のことだった。
 2人の人間が行き来するだけで精一杯というその不安定さに、ひとり彼女を迎えに行く役目を負ったのは、もちろん彼、ジェイドだった。彼女の恋人であり、かつこの計画を提案した第一人者である彼に反対の声を上げるものなど、誰1人としていなかった。

 次に研究されたのは、『違う世界の存在を、恒久的にこの世界の存在として固定する方法』。こちらは先のテーマに比べて比較的楽だった。
 こちら側の世界の者と、あちら側の世界の者、その二者関係の間に結ばれる契約を元に、存在をこちら側に捕らえてしまえばいいだけの話なのだから。契約≠ニ名の付くものに対して、ジェイドやフロイド、アズールたちの右に出る者などいない。
 魔法薬という形で生まれたその存在に、加えて世界を越える際に身体や精神が壊れないようにするという要素も付け加える。世界の境界を意図的に壊すという、言ってみれば禁忌にも近いことをやってのけようというのだ。どれだけ念を入れても不足はない。

 そうして、ついに完成した『彼女を迎えに行く準備』。8年もの時間をかけて完成したそれらを前に、26歳になったジェイドは、ある提案を転がした。

「──小エビちゃんがジェイドを選ばなかったら、ジェイドが泡になるぅ?」

 驚きに満ちた片割れの声に、ジェイドはただいつものようににこりと微笑んだ。その姿に、今目の前の男が紡いだ言葉は本気も本気の確定事項なのだと、もう彼という存在を知り尽くしたフロイドとアズールは理解する。
 ……それは、最後の保険だった。もし、もしもこの世界の記憶を思い出した彼女が、それでもジェイドを選んでくれなかったとしたら? あちらの世界で生きることを望んだとしたら? ──考えるだけで、虫唾が走った。
 ジェイドは彼女に「迎えに行く」と言った。彼女はそれに「はい」と答えた。
 愛を、確かに誓い合った。

 自分以外を選ぶなんて、絶対に許さない。
 彼女がいるべき場所は、この世界で、自分の隣。ただそれだけだ。

 心根の優しい彼女は、ジェイドが泡に消える未来なんて絶対に選び取りはしない。何故わかるのか、確信できるのか。それはただ、ただ、ジェイドが彼女を愛し、彼女に愛されているから。彼はそれを、事実として知っているから。

「別にそんな効果を実際に付けなくても、はったりを使えばいいのでは?」

 アズールはそう言ったけれど、それでは意味がない。
 聡い彼女は、ジェイドがどれだけ上手に嘘を吐いたとしても、きっとそれを見抜いてしまう。だから、『ジェイドが泡になってしまうことは』本当の真実でなければいけなかった。本当の言葉として、ジェイドは彼女にそれを伝えなければいけなかった。
 その契約の期限は、『ジェイドが彼女に愛している≠ニ伝えてから三日後の日没まで』、達成の条件は、『彼女がジェイドに誓いのキスをすること』。それが叶わなければ、ジェイドは泡となって消えてしまう。ああ、何と悲劇的な結末だろう。
 けれど、彼女を再びこの腕の中に抱きしめられるというのなら、それぐらいのリスクはジェイドにとってあまりにも軽いもの。

 待っていて、愛しい人。
 次に捕まえたその時は、もう二度と手放しはしないから。


「──フロイド、」

 ジェイドが愛する人を求めて世界を越える、その前夜。彼が訪れたのは、兄弟であり最高の相棒でもある自らの片割れの自室。夜も更けた時間に自らの名を呼んだジェイドの声に、フロイドはなぁにといつもの間延びした声で答えた。
 そんな彼に、ジェイドはくすりと笑ってあるものを手渡す。一体何だと受け取ったフロイドは、その手の中に転がった水面の色に、ぱちりと瞳を瞬かせる。

「なに、これ」
「願掛けですよ」

 視線を上げたフロイドの視界に、片割れの左耳の姿が映る。そこに在るべき揺れる青は、今やフロイドの手の中に横たわったまま。ジェイドの静かな声に、フロイドは、自分が右耳につけているそれと揃いのピアスを握りしめ、絞り出すような声で言葉を返す。

「……帰ってこねぇつもりかよ」
「いえいえ、まさか。言ったでしょう? それはただの願掛けです」

 けろりと笑ったジェイドの表情は、確かにそれが真実であり確定された未来だと言っている。けれども、それなら何故このピアスをフロイドに託すというのか。
 不可解に満ちた表情で自らを睨みつけるフロイドに、ジェイドは眉を下げて微笑む。

「彼女を連れて、必ず帰ってきます。その決意は変わりません。……けれど、世界を転移するあの術式は僕たちにもまだ不明瞭な部分が多い。僕と彼女の旅路に何事もないようにと、そんな思いを込めました」

 ただそれだけですよと、ジェイドは笑う。その微笑みがいつもよりも儚く見えたのは、一体どうしてだろう。

「──ちゃんと、小エビちゃんと一緒に帰って来いよ」

 どこか不貞腐れたようなフロイドの声に、ジェイドは「もちろん」と笑ってみせた。

  ***

 フロイドやアズールを筆頭とする研究参加者に見送られながら、ジェイドはその翌日、魔法薬を飲み込み、世界を渡る扉≠ノ足を踏み入れた。
 その瞬間身体を包み込んだ強い浮遊感と、網膜を焼き焦がすような眩い光。
 視覚を奪われてしまわぬようにと咄嗟に固く閉ざした瞼を、光が収まったことを皮膚越しに確認してゆっくりと開いた。

 そしてジェイドの視界を埋めたのは、360度に広がる見知らぬ街の風景。

 魔力の存在を感知することも出来ないその場所は、きっと、確かに彼女の生きる世界。
 すぐさま周囲へ視線を巡らせるけれど、夕暮れに染まったその街の中に、彼女と思しき人の影は見当たらない。流石に転移後の座標をこと細かく設定することは出来なかったのだ。アズールの計算によると恐らく彼女のいる場所の半径5キロメートル以内には転移できているはずなのだが……ここからは、地道に彼女の姿を探していく他ない。
 予想以上に凍てついている冷たい空気を肺に満たし、ジェイドは街の中を眺め見ながら彼女を探し、さ迷い歩く。コンクリートに固められた道路に、並ぶ家々、そして夕食時だからだろう、時折鼻孔をくすぐっていく何か美味しそうな香り。

 ──彼女はこの世界で生まれ育ったのだなと、酷く感慨深くなった。

 歩いて、歩いて、そして歩いて、気が付けば世界は夜の闇に染まってしまっていた。急激に冷え込んだ世界の温度に、ふるりと瞼が震える。道半ばに住宅街の中で見つけた小さな公園のベンチに座って、ジェイドは薄く雲に覆われた夜空を仰いだ。

 彼女は一体どこにいるのだろう。
 本当にこの世界は彼女の存在する世界なのだろうか。
 自分は彼女に出会えるのだろうか。

 そんな不安が、胸の中に芽生えては弾けて消えていく。吐いた息が白く凍るさまを見つめて、ジェイドは再び立ち上がった。
 不安に震えている場合ではない。今自分に出来ることは、ただ彼女の存在を探し続けることだけ。きっと彼女はこの世界にいる。その確証もない確信だけを胸に、ジェイドは夜の街に足を踏み出した。

 ──けれど。

 ぐらりと視界が揺れた感覚に身体が平衡感覚を失って、膝が地面につく。額に手のひらを寄せたけれど、世界が回る錯覚は収まらない。次第に自力で自らの身体を支えていることもままならなくなり、そのままジェイドの身体は固いコンクリートの上に落ちた。

 ああ、全く、何で今更。

 空腹でも睡眠不足でもないその元凶は、恐らく『世界を越えたことによる反動』。それがこんなめまい程度で良かったと思うべきなのかもしれないが、今のジェイドにとって、それは舌打ちと忌避の対象にしかならなかった。
 まだしっかりと世界を映すことのできない意識のまま、ジェイドは地面に仰向けに倒れ伏したまま、空を仰いだ。
 僅かな藍を溶かした黒い闇から、ふわりと白い何かが世界に色をつけていく。それが雪と呼ばれるものだということを、ジェイドはすぐさま理解した。約10年前、陸に上がってから初めて目にしたその姿にも、もう随分と見慣れてしまった。
 頬に触れ、髪先をくすぐり、そうして身体を僅かに染めていく白。その姿をゆらゆらと揺れる視界に映して、ジェイドはそっと空へと手を伸ばした。

「……珠華、さん」

 恋焦がれるあの人の名前を、声に紡ぐ。ああ、もしもこの声が、夜空を抜けて彼女の下へと届いてくれたなら。そんな叶いもしない願いを、胸の内に転がした。
 反動による不調からか、寒さからか、疲れからか、ゆっくりと瞼が重く、重く落ちていく。雪の降る中に眠ってはいけないと頭の中に警鐘が鳴っていたけれど、それを聞き入れる余裕も、今のジェイドには残されていなかった。
 閉ざされた瞼の裏に浮かぶのは、もう随分と色褪せてしまった彼女との思い出。
 あの夜からもう、ジェイドには8年もの時間が過ぎていた。
 曖昧なひとの記憶というものの中に存在する彼女の笑顔が、彼女の声が、本当に彼女のものであるのかすら、ジェイドには分からない。それがこんなにも苦しくて、辛かった。

 迎えに来ましたよ、珠華さん。

 心の中にまた彼女の名前を呼んで、ジェイドの意識は闇に落ちた。

  ***

 ──闇の中に響いた誰かの声と、肩を叩かれる感覚。
 それに浮上した意識のまま、ジェイドはそっと瞼を持ち上げた。覚束ない視界の中に、先程と変わらない夜空の闇と、それを背景にしてこちらを覗き込んでいる誰かの姿が映った。朧な街灯の光だけに照らされたその誰かの姿は、相貌は、まだ意識が覚醒しきってはいないジェイドの認知の中には落ちてこない。

「……っ、……あなた、は、?」

 瞬きを繰り返し、寒さに凍り付いてしまった唇を何とか震わせながら、ジェイドはゆっくりと身体を起こそうとした。けれど、その動きもすぐさまその誰かに諫められる。

「無理に起き上がらないでください! 今救急車を呼ぶので……、」

 鼓膜を叩いた誰かの声──ここでようやく、それがまだ若い女性の声であることに気が付いた──とその声が紡いだ言葉の意味に、ジェイドははっと意識を研ぎ澄ませた。
 別の世界からやって来たジェイドには、もちろん、この世界における戸籍などが存在しない。そんな彼が警察や救急といった公的な機関に運び込まれてしまうと、それだけで様々な面倒や問題が引き起こされてしまう。それだけは絶対に避けなければいけない。
 スマートフォンを取り出して緊急連絡を行おうとするその人へ、ジェイドは咄嗟に手を伸ばした。そして、彼女の行動を止めるようにその左手をスマートフォンごと包み込む。

 ──待ってくださいと、そう口にした瞬間、ようやくジェイドとその人の視線が交わった。鮮明になった視界の中に、闇と僅かな光の中に、彼女の姿が映される。

 息が、止まった。
 鼓動の音が酷く遠くに聞こえて、喉がひきつって、声も出なくなる。

 ──彼女だと、直感的にそう理解した。
 
 ずっと、ずっと、ジェイドがもう何年も追い求め、恋焦がれ、探し続けていた人。
 愛した人。一度、この手の中から泡のように消えてしまったひと。

 そうだ、彼女の声はこんな音をしていた。彼女の瞳は、こんな色をしていた。化粧をしているからか、あの頃よりも幾分大人びて見えるその表情も、確かにジェイドの知る彼女のもの。驚きに薄く唇が開かれるその姿も、確かに。
 長い時間に削れ、色褪せ、壊れていた記憶が、ジェイドの中に息を吹き返しては心を震わせていく。どうしようもない感情の波がジェイドに襲い掛かっては全てを奪い去って行くけれど、それでも、ただその感情に突き動かされるなんてことは出来なかった。
 咄嗟に唇が彼女の名前を紡ぎそうになるのを必死に堪えて、ジェイドは微笑む。頬が引き攣る感覚に、きっと今、自分は酷く情けない表情をしているのだろうなと自覚した。
 こちらを不思議そうな瞳で真っ直ぐに見つめている彼女。その虹彩に映る自分は、あくまでも彼女にとって『初めまして』の存在。ジェイドがどれだけ自分が彼女を愛していても、望んでいても、彼女はそんな感情どころかジェイドの名前すら知らない。

 だから、だから。
 必死に自身を押し殺して、ジェイドは言葉を紡ぐ。

「……すみません、少し訳がありまして。警察や救急への連絡は避けて頂ければありがたいです」

 いつもと同じ物腰柔らかな口調で、穏やかな言葉遣いで、困ったような微笑みで、ジェイドはそう言った。酷く怪しげなその言葉に、どうしてか彼女の瞳がゆらりと揺れる。
 見ず知らずの存在であるジェイドの身を案じ、帰ることの出来る場所はあるのかと問いかける彼女。相変わらずどこまでも優しくて、愚かな程に温かいひとだ。変わらぬその心根の柔らかさに触れて、ジェイドはまた胸に浮かんだ愛おしさを噛みしめる。

「──それじゃあ、私の家に来ますか?」

 差し伸べられた彼女の手の優しさに、自分にとってあまりにも都合のいいその提案に、ジェイドは躊躇も少なく手を伸ばした。

 言いたくないのなら何も言わなくていいと言って、こんなにも不審な男を受け入れた彼女。その無防備さに不安と焦燥が募ったけれど、彼女はただ笑ってみせるだけ。私をそんなにも心配してくれる貴方が、私に危害を加えるようなことをするわけがないと、そんな信用を口にして。
 相変わらず、雑な言いくるめが得意な人だなと笑った。

 ジェイドの名前を聞いて、どこか不可解そうに眉を寄せていた彼女。
 いつかジェイドが彼女に教えた紅茶の淹れ方で、慣れたように紅茶を淹れる彼女。
 いつかジェイドとのお茶会のためにと作り始めた紅茶のクッキーを、自分の得意なスイーツなのだと笑った彼女。
 ジェイドの趣味であったテラリウムを、自分でも作って大切にしている彼女。
 ジェイドには海が似合うと、あの頃の口癖を呟いた彼女。
 その姿に、ジェイドは確信した。
 彼女は確かにあの世界を、ジェイドを、共に過ごした時間を忘れてしまっている。

 ──けれど、全てが無くなってしまったわけではない。

 彼女の中には、それでもちゃんとジェイドと生きた時間が残されていた。息づいていた。長い年月を経た今もなお、彼女はジェイドを『覚えていてくれた』。
 それならば後は、思い出してもらうだけ。きっとジェイドが全ての真実を口にすれば、既に不安定な彼女はすぐさまジェイドの名前をあの頃のように呼んでくれるのだろう。

 けれど、──それでは面白くないと思った。
 思い出してもらいたかった。彼女自ら、ジェイドのことを。

 ソファで眠りに落ちてしまった彼女が紡いだ言葉に、ジェイドは薄く微笑んだ。彼女が夢の中で出会う誰か。それはきっと、自分のこと。どうしてかそう確信できた。
 抱き上げたその小さく温かな命を、彼女の寝室まで運び、そうしてベッドの上に優しく横たえる。瞼に落とした小さなキスは、彼女の健やかな眠りと、穏やかな夢を願ったジェイドの祝福。どうか今夜も、彼女が自分を求める夢を見ますように。

 ──早く、早く思い出して。
 そうして一緒に帰りましょう。あの世界へ。

 彼女の提案から彼女の職場でもあるカフェで働きながら、彼らはふたり、穏やかな日々を過ごした。寝坊した彼女をぎりぎりに起こすことも、一緒に食卓を囲むことも、時折彼女の近くに存在する男たちに牽制をかけることも、もう随分と慣れてしまった。
 ひとつ屋根の下で生きる時間の中、まだ自分のことをはっきりとは思い出していない彼女の心が自分へ傾いていることも、ジェイドは確かに理解していた。
 ジェイドの言葉ひとつ、行動ひとつでころころと表情を変える彼女の姿が、酷く、酷く愛おしかった。赤く染まったその頬に、柔らかな唇に、全てを忘れてただ本能のまま噛みついてしまいたいと、何度も何度も考えた。
 細い腕を引いて、小さく華奢な身体を抱きしめて、そうして「愛している」と囁けたなら、どれだけ良かっただろう。
 けれど、それは許されない。何故ならばまだ、彼女は思い出していないから。
 きっと今、ジェイドが彼女に愛を伝えたとしても、彼女はあちらの世界へ行くことに頷いてくれはしない。それでは意味などないのだ。何故ならジェイドは彼女から誓いを貰わなければいけないから。全てを思い出してくれた彼女に、ようやく愛を伝えて、そうして誓いのキスを貰って、一緒にあの世界へ。

 ──そう、それがただひとつの正解だったのだ。

「私、ジェイドのことが好きだよ」

 けれど、それでも。
 粉雪の揺れる世界の中で、夜の闇の中で、街灯の僅かな光の中で、ただただ真っ直ぐにジェイドを見つめてその言葉を紡いだ彼女を、あまりにも愛おしいその存在を、ジェイドは愛さずにはいられなかった。感情のままに手を握って、そうして、愛を伝えて。
 冷静な思考回路など、恋や愛の前には何とも無力なもの。
 少しずつ記憶を取り戻していても、未だその確信に至ってはいない彼女。まだ、伝える予定ではなかった。この言葉を紡いではいけないと、そう思っていた。

「──僕も、貴女のことが」

 愛している人の愛を受けて、それでもなおそれに手を伸ばさずにいられる程、ジェイドは自制心のある存在ではなかった。そんな事実が自分の目の前に転がり落ちて、本当にどうしようもないなと彼は心の中に自嘲する。
 涙をこぼす彼女にどうしようもない愛しさが湧き上がり、その衝動のまま腕の中に抱きしめた。相変わらず小さな彼女の身体は、雪と冬に冷えてもなお温かくて。彼女は今、確かにここにいるのだという事実を、あまりにも優しい温度でジェイドに伝えてくる。

 世界のどこかで始まったカウントダウンの音を聞きながら、滲んだ視界を隠して、泣き止んだ彼女の手を引き、家への道を歩く。彼女を抱きしめて眠る夜はどこまでも温かくて、穏やかで、幸せで、どうしてか酷く切なく胸が軋んだ。

 その翌朝、朝陽のこぼれ落ちる窓を背にして「デートをしよう」と笑った彼女の姿に、ジェイドはどうしてか違和感を覚えた。
 彼女に手を引かれて、辿り着いたのは『水族館』と呼ばれる場所。昔、彼女の話に聞いたことがあった。魚や水中に生きる生物を飼育し、その姿を鑑賞したり、その生態について学んだり、時には触れ合ったりすることを目的としたアミューズメント施設だと。
 もう何度も足を運んでいるのだろう。慣れたように館内を歩き、水槽ひとつひとつに立ち止る彼女の姿を、ジェイドは隣でそっと眺め見る。
 ペンギンの姿にはしゃいで、ウツボを指差しかわいいと言って──少し複雑な気持ちになった──ナマコに触れて食べれば美味しいから好きだ、なんて趣も何もないことを言う、無邪気な彼女の姿。その様子に、かつてあの学園で、仲間たちと賑やかに駆け回っていた頃の彼女が脳裏に蘇った。木漏れ日のように眩しく温かいその光景に、自分の手を引いて笑う愛しいひとの姿に、どうしてかまた、呼吸が苦しくなった。もう随分と、肺呼吸には慣れたというのに。

「ジェイド、あんまり燃費良くないんでしょ?」

 ふとした時に彼女がこぼしたその言葉。それは、『彼女』が知るはずのない、ジェイドの性質だった。ジェイドはこの世界に来て一度も、その言葉を、その事実を彼女に伝えてはいない。
 衝撃に、足が止まった。先を行く彼女との距離が不格好に開いて、空白がジェイドのことをあざ笑うかのように揺れている。……ああ、そうか。彼女は。
 ジェイドはようやく、今朝彼女に抱いた違和感の正体を知る。
 同時に胸に満ちたその感情に、一体何と名前を付けようか。
 暴れる心臓を、心を抑え付けて、ジェイドは彼女との距離を再び縮めた。見下ろした彼女の瞳にゆるりと微笑んで、彼女と共に並び歩く。
 イルカショーに、クラゲの美しさに、視界の一面を覆い尽くす海に、きらきらと瞳を輝かせる彼女。その姿が、まるでこの世界との別れを惜しんでいるかのように見えた。いや、きっと正しくそうだったのだろう。

 なぜなら彼女はもう、

「──思い出して、下さったのですか?」

 ジェイドの言葉に、彼女は驚きに目を見開くでも、困惑に首を傾げるでもなく、ただただ苦さを孕んだ笑みだけをこぼした。たったそれだけでも、ジェイドが全てを確信するには十分で。胸がぎゅうと苦しくなって、そして喉がひきつった。
 嬉しいと、心が叫んでいた。それは確かに歓喜の声。
 それなのに、切ないと泣いている声も、何故かそこにはあった。
 きっとその切なさも、身を焦がすような悲しみも、結局は狂喜と愛の裏返し。

「……約束通り、会いに来てくれたんですね。ジェイド先輩=v

 当たり前だと、男は笑った。
 愛しているのだ。ずっと、彼女という人だけを、その唯一を。それを世界は、愛執と呼ぶのだろうか、狂気と蔑むのだろうか、異常だと忌避するのだろうか。好きに言えばいい。笑いたければ笑えばいい。世界の声も、他人の言葉も、どうだって良かった。
 ただ、彼女と生きる未来を手に入れられるのならば。
 もう一度、あの幸せな日々を取り戻すことが出来るのならば。
 苦痛も、非難も、世界も、神も、死でさえも、恐ろしくはなかった。

「──正確には、『会いに来た』、ではなく、『迎えに来た』、ですよ」

 これを愛と呼ばずして、世界は一体何を愛と定義づけるのだろう。

 その形が、重さが、音が、どれだけ歪んでいたとしても、それは確かにジェイドにとって、正しく『本当の愛』だった。

 一緒に帰れないと言ったら、なんて、愛らしい冗談でジェイドを困らせようとする彼女に、ジェイドはただただ穏やかに笑って言葉を紡ぐ。
 それがたとえ彼女の本心だったとしても、ジェイドは一向に構わなかった。
 なぜなら彼には、切り札とも呼べる『事実』があったから。
 それさえ突き付けてしまえば、彼女はその本心の声に関わらず、ジェイドを選ぶ。選んでしまう。──ジェイドを、泡に消さないために。
 震えた声で、揺れる瞳で、今にも泣きそうな表情で、彼女はジェイドに詰め寄った。
 優しい人だ。愚かな人だ。そして、だからこそこんなにも愛おしい人だ。
 勢いよくジェイドの胸に飛び込んで、ジェイドの襟元を掴み無理矢理その距離をゼロにした彼女に、ジェイドも応えるように唇を寄せた。そして同時に、彼女の身体を強く腕の中に閉じ込める。ずっと、ずっと触れたかった温度がそこにはあった。
 思わず貪るようにその息を食んで、ジェイドは彼女から与えられる、切なくも愛おしいその愛に酔いしれる。愛する人に愛を注いで、そうして愛を注がれて。それ以上の幸せなんて、きっとどこにも存在しない。

「……誓うよ、」

 まだ呼吸も整いきらない声のまま、それでも彼女は強く強く言い切った。
 ジェイドが望んだその言葉を、与えてくれた。

「ジェイドと一緒に、生きる。世界なんて関係ない。私は貴方と一緒に未来を生きたい」

 刹那、ぱちんと何かが解ける音と共に、ぱりんと世界が割れる音が響き渡る。
 それはふたりの未来を祝福する福音の声。
 手を繋いで、ジェイドと彼女は世界の割れ目に足を踏み入れた。

 ──ああ、ようやく、ようやく手に入れた。
 愛おしい人をこの手の中に。
 もう逃がしはしない。誰にも奪わせはしない。世界にも、神にも、もう二度と。

 男は笑う。酷く幸せそうに、満ち足りた表情で。
 その腕の中に愛する人を抱きしめて、男は未来を生きていく。
 
 ……その日、とある世界から、ひとつの存在が奪われた



「愛していますよ、珠華さん。心の底から、貴女だけを」



 ──さあ、本当のハッピーエンドを始めよう。




2020.04.29

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