君さえ


第1話


 ──それは、冬を目前に控えた秋の終わりこと。

 その日は朝から随分と世界が凍えきっていて、夜には淡く粉雪がちらつく程だった。
 このままの気温で明日の朝を迎えれば、きっと道端の水たまりは全て薄氷に覆い尽くされてしまうことだろう。寝惚け眼で歩いていては滑って転んでしまいそうだ、なんて。そんな未来の自分への不安を心の中で転がしながら、私は深い夜の街を歩いていた。
 夜の22時を回った街灯の輝きの下に、動く影は私のものただひとつだけ。
 残業疲れの身体に鞭を打ち、きらきらと光を反射しながら世界に落ちてくる小さな白の群れをぼんやりと眺める。ふと瞼に触れたその冷たさに、ふるりと睫毛が揺れた。
 空に吐いた呼吸が僅かに白く染まり、そして消えて行くのを見届けて、マフラーに口元を埋めた私は、再び地面を睨みつけるように足を前へ前へと動かしていく。
 静かな住宅街の道路を歩き、小さな公園を抜けた先で右に曲がる。細く狭まったその道を少し行けば、もう6年ほどを共に過ごし住み慣れてしまった、築10年になる小さなアパートの姿が見える。
 冷え切った残業疲れの身体を早く湯船に浸けて、ゆっくりと伸びをしたい。そんな願望を胸の内にぐるぐるとさせる私は、足早に我が家へと……向かう、途中、

 ──そのひとを、見つけた。

「……え、」

 角を曲がって2歩、3歩と歩き、ようやく闇の中に見つけたその姿。道の真ん中に、まるで私の行く手を塞ぐように仰向けに倒れたそのひと。驚きに情けない声がこぼれて、呼吸が浅く止まった。
 頭に浮かんだのは最悪の想定。無意識のうちに動いていた身体は、気付けばそのひとの傍らに駆け寄って、声をあげながらその肩を叩いていた。

「っ大丈夫ですか!? 聞こえますか!?」

 地面についた膝が溶けた雪水に濡れるのも、今は意識の外。焦る脳内に必死に救命講習で聞いた話を引きずり出して、ばらまいて、まず始めたのは意識の確認から。倒れた原因が分からないため、身体や頭部を動かさないように細心の注意を払う。
 私の声に、倒れていたその人──ここでようやく気が付いたが、不思議な髪色を持ち、酷く整った顔をした男性だった──が唸るような声を微かに上げた。どうやら少なくとも意識はあるらしい。そのことに一先ず安堵の息を吐く。
 今でこそ人通りは途絶えているが、住宅街の中を通るこの道には、遅い時間でもそれなりの人通りがある。つまり、彼がここに倒れてからそう時間は経っていないはず。
 しかし、今日のこの冷え込みに加えて、今も空をはらはらと舞う粉雪。彼が倒れた理由はまだ分からないが、薄く白に染まったその身体は、とうに芯まで冷え切ってしまっていることだろう。その証拠に彼の顔色は悪く、唇は紫に染まっていた。

「……っ、……あなた、は、?」

 固く閉ざされていた彼の瞼がふるりと震えて、その瞳が世界を映した。左右で色彩の異なる双眸。ぼんやりと覚束なく揺れながら私を見つめる不思議なその色合いに、どうしてか心臓がどくんと奇妙にさざめいた。

「あ、無理に起き上がらないでください! 今救急車を呼ぶので……、」

 身体を起こそうとする彼にそう言葉を紡いで、私はコートのポケットからスマートフォンを取り出した。6桁のパスワードを入力するのも煩わしくて、ロック画面から直接、緊急用のキーパットを引きずり出す。そこに119の数字を打ち込もうと指を滑らせて、

「──待ってください」

 ……スマートフォンを掴んでいた私の左手を、誰かの手が包み込むように制した。そのせいで、私の右手は不格好に宙を浮いたまま止まってしまう。
 驚きにぱちりと目を瞬いて、視線をその誰かへと向けた。勿論その誰かとは、今この場所にいる、私以外のたったひとり。

 僅かな街灯の光に、彼の姿が闇の中で瞬いた。

 真っ先に私の網膜を焼いたのは、鮮やかな浅い海の色。柔らかなその色の中に息づくひと房の黒が、まるで研ぎ澄まされたナイフのような存在感で私の意識を奪っていった。

 ──そして、何よりも。

 何よりも、私を見据えるその瞳の色が。そこに宿る光が。
 瞬くような黄金色と、どこか影を孕んだ黄灰色。

 それは、私の知らない色彩だった。
 それは、私の知らない表情だった。
 そう、私は知らないのだ。彼のことなんて。
 それなのに、彼は。

 どうしてか、今にも泣き出してしまいそうな表情で私を見つめていて。

 どくりと、また心臓が切なく鳴いた。喉が締め付けられるような苦しさに襲われて、突然の酸素の欠乏に肺が軋むような痛みを訴える。

「……すみません、少し訳がありまして。警察や救急への連絡は避けて頂ければありがたいです」

 物腰柔らかな口調に、穏やかな言葉遣い。困ったような微笑みを淡く浮かべて、彼はそう言った。どこか弱々し気なその表情に、何故か胸に浮かんだのは同情心と、──何だろう、この感情は。それにつけるべき名前は、どうしてか私の頭に浮かんでこない。警察を避けたいだなんて言葉の不審さも、今は不思議と気にならなかった。

「……でも、倒れていましたし」
「ああ、それは少し疲れが溜まっていたせいです。ご心配おかけしてすみません。少し休めばすぐに良くなりますので」
「……身体、かなり冷えていますよね」
「そう、ですね。今日は随分と寒いですから」

 きっと私が今選ぶべき選択肢は、彼を放置して早く家に帰ること、ただそれだけだった。
 たとえ見た目が美しいからと言って、その物腰が柔らかで、口調が丁寧だからと言って、こんなにも不審さに満ち溢れた男性に手を差し伸べるなんて、向こう見ずの馬鹿がすることだ。……そう、理解しているのに。分かっている、はずなのに。

「……今、帰ることのできる場所はありますか?」

 どうして私は、こんなことを聞いているのだろう。
 私の言葉に彼はその瞳を丸く見開いて、そして次の瞬間困り顔で再び笑う。それが彼の提示した、たったひとつの答えだった。
 馬鹿なことはやめろと、冷静な誰かが私の頭の中で叫んでいた。
 けれど、けれど。
 私はどうしてか、目の前のこのひとを見捨てて行くことを、選べなかった。

「──それじゃあ、私の家に来ますか?」

 粉雪が舞う。空をひらりふわりと踊るその可憐な姿は、まるでこの出会いを、この夜を、祝福しているかのようで。

 それが、私と彼の『初めまして』だった。

  ***

「とりあえず、先にお風呂入ってください。適当に着替えを用意しておくので」
「え、いえ、貴女の方が先に……」
「残念ながら問答無用です。ここは私の家なので私が正義。という訳でこれ、バスタオルどうぞ。脱いだ服はそこの洗濯機の中に入れておいてください。一応言っておきますが、ちゃんと温まってから出てこないともう1回叩き込みますからね?」

 言葉は悪いが、彼を拾い家に連れて帰った私の最初の仕事は、遠慮する彼を浴室に押し込むことだった。確かに私の身体も冷えているが、ワイシャツにスキニーに薄手のコートだけという薄着で雪の降る道路に倒れていた彼の方が、状態は酷いに決まっているだろう。何をどう考えたって。
 1枚のバスタオルだけを持たせて、脅しの言葉と共に彼を洗面所も兼ねた脱衣所へと向かわせる。目測でも190センチ近いだろう背丈を持つ、150センチ少々の私から見ると最早巨人級サイズの彼は、困ったような申し訳ないような表情を浮かべ、背を屈めて扉を潜っていった。一体何を食べて育てばあんな身長を手に入れられるのだろう。10センチでもいいから分けて欲しいものだ。
 そんな馬鹿げた願望を心の中にこぼしながら、私は荷物とコート、マフラーをリビングに投げ置いて寝室へと向かった。
 部屋の奥にあるウォークインクローゼットは、見た目こそ小さいけれど意外にも収納力に長けていて、私がこの1LDKを短大生の頃から愛顧し続けている所以のひとつにもなっている。その中に足を踏み入れた私が探すのは、彼に渡すための着替え一式の姿。
 時折出張やら何やらで転がり込んでくる兄の存在にこんなにも感謝したのは、今日が初めてだ。兄が置いて行った新品の下着と男性もののスウェットを手に、部屋を出て脱衣所へと戻る。サイズが少し不安だが、まあ着られないことはないだろう。きっと。多分。
 脱衣所の扉を叩いて、彼が浴室へ移動していることを確認し扉を開けた。
 シャワーの水音を向こうに聞きながら、私は浴室から出て来た彼の目に直ぐ留まるだろう場所に着替えの一式を置き、すぐさま退散する。脱衣所どっきりハプニングなんて漫画やアニメの中だけで十分だ。
 リビングに脱ぎ捨てたままにしていたコートとマフラーを片付けて、荷物を整理して、彼の分の飲み物でも作っておこうかとキッチンへ向かう。彼の好みなど知らないが、まあ紅茶ぐらいなら飲めるだろう。何となく紅茶が似合いそうな顔をしていることだし。
 そんな偏見にも似た考えの下、私は電気ケトルで湯を沸かす。来客用の茶葉を丁度切らしてしまっているので、申し訳ないがティーパックで我慢してもらおう。
 パックを入れたティーポットに湯を注げば、ふわりと世界に紅茶の上品な香りが広がった。この瞬間がどうしようもなく好きで、いつの間にか私は紅茶の虜になっていた。高校生になる頃まではそうでもなかった気がするのだが、まあ人の好みとは移り変わるもの。
 そんな取り留めもないことを考えながら紅茶を蒸らしていれば、丁度良く脱衣所の方から扉が開く音がした。リビングの扉は開け放しているので、きっと明かりを頼りにこちらへ来てくれることだろう。
 私の予想通り、廊下からリビングにひょこりと顔を出した彼へ、扉から入ってすぐ右手にある対面式キッチンから私は声をかけた。

「温まりました?」

 そうすれば彼の視線がこちらへ向いて、私の姿を瞳に映す。血色の良くなった顔色を見るに、ちゃんと言われた通りに十分温まってきたようだ。

「はい。ありがとうございます、着替えまで……」
「いえいえ、貴方を家に上げるって決めたのは私ですし。きちんと最後まで面倒を見るのは当たり前でしょう?」

 口振りが何だか犬猫を相手しているようなものになってしまい、これは流石に失礼だっただろうかと小さな不安を胸に抱く。しかし、当の彼は特段気にしていないようだ。見上げた瞳は相変わらず穏やかな光を携えて微笑んでいた。

「それじゃあ私もお風呂に入ってくるので、紅茶でも飲んでゆっくりしててください。テレビも好きに点けていいので」

 リビングのソファに彼を誘導して、その前のローテーブに今用意した紅茶を置く。ちなみにティーカップは、来客用の繊細な薔薇の絵柄が施されたものだ。貰いものだが丁度良く上品で質もいいので、とても重宝している。
 おかわり用のティーポットも置いて、テレビのリモコンも分かりやすい所に。遠慮の言葉を吐く暇も彼に与えず、私はそう言い残してリビングを後にした。
 脱いだ服を洗濯機に叩き込んで、面倒くさいから彼の服と一緒に纏めて洗わせてもらおうと洗濯機のスイッチを押す。なんだかんだとあったせいで忘れていたが、私も残業疲れでそれなりに思考回路が馬鹿になっているのだ。
 湯を張った浴槽の中で、温かい湯が身体に沁みていく感覚から自分の身体が思った以上に冷え切っていたことを知りながら、私はぼんやりと考える。
 どうして自分は彼を拾ったのだろう。どうしてこんなにも抵抗なく彼の面倒を見てしまうのだろう。どうしてだろう、彼とは今日初めて出会ったはずなのに。

 ──どうして彼はもう既にこんなにも、私の心の深くに落ちてきているのだろう。

 一目惚れにしては、感情があまりも落ち着き過ぎている。自分は恋に際限なく慌てふためくほど純真な人間ではないにしろ、好き≠抱いた人とひとつ屋根の下にいるというのにこんなにも冷静でいられるほど達観しても、枯れてもいない。はずだ。
 もう20年余りの時間を生きてきているというのに、未だに自分の感情も考えも分からないだなんて。全く人間とはかくも難しい。
 ひとまず結論、よく分からない。
 今のところ、彼が私に何か危害を加える様子はなさそうであるし、私自身、直感的に彼に嫌な感情を抱いてはいない。まあ、彼が帰るべき場所に帰ることが出来るようになるまでは面倒を見てやろうか、なんて。一体どこから目線の言なのやら。
 冷静になっただろう明日の私へ。疲れて思考回路の働いていない今日の私の突飛な行動のツケはよろしく頼みました。きっと頭を抱えているのだろう明日の自分へ適当なエールを送って、思考を止めた私はざばりと湯船から立ち上がった。

  ***

「じゃあ、とりあえず自己紹介でもしましょうか。私は浜匙珠華と言います。貴方は?」

 風呂を出て、髪を乾かして。そうこうしている間に気づけば時間は日付を跨いでしまっていた。
 リビングに戻ってきた私は、リビングのソファに並んだローテーブルを挟み、彼と向かい合うようにラグの上に置いた薄いクッションに座る。彼にはそのままソファの上でいいと言ったのだが、そういう訳にはいかないと言い切られてしまった。
 なんとなく正座をして、まず私が口にしたのが先の言葉。まあ、初対面の2人が話す内容としては妥当なものだろう。私たちには若干今更な感じもするが。

「そう、ですね。……僕は、ジェイド・リーチと申します」

 彼の唇から紡がれたその音に、文字列に、ああやはり外国の血が流れていたのかと思うと同時。私の頭を刺激したのは、不思議な感覚。その音は確かに今日この瞬間、初めて聞いたはずのものだというのに、どうしてか心が騒ぐ。……ああ、やはり変だ。彼と出会ったあの時からずっと、何かがおかしい気がする。
 彼に気付かれない程度に眉を寄せて、私は思考を巡らせた。けれど、それが何であるのかが私にはひとかけらも分からない。

「この度は倒れていたところを助けてだけでなく、拾って頂けて……」
「あああ、そういう堅苦しいのはいいので。倒れている人を助けるは人として当然のことですし、貴方を拾ったのは私の意志で決断なので。お気になさらず」

 机に額が付きそうなほど深々と頭を下げた彼に、慌ててそれをやめてくれと言葉を紡ぐ。実際、私の家に転がり込みたいなどとはひとことも言ってはいない彼に、私がそれを提案したのだから。言い出しっぺの法則、ではないが、私は仮にももう成人して数年が経つ立派な大人。自分の発言に責任を持つことぐらい知っている。

「若い女の一人暮らしで大したおもてなしもお世話も出来ませんが、貴方が帰るべき場所に帰れるようになるまで可能な限り面倒は見るので、好きなだけここにいてください。放浪の理由なんかも無理に聞き出したりはしませんから、まあ、言えることだけ教えて頂ければそれでいいです」

 ティーカップを口元へと運びながら、私はそう言って笑ってみせる。口に含んだ琥珀色の液体は、程よい温度と仄かな香りで私の身体を温めていった。

「──何故、ですか」

 淹れ方に成功したことが分かる、ティーパックのものとは思えない紅茶の美味しさに舌鼓を打つ私へ、ふと飛ばされた声。それは勿論、目の前に存在する彼から発せられたもの。視線を向けた先で、ふたつの色がそこに困惑を宿して私を見つめていた。
 彼のその言葉の意味が分からず、私は小さく首を傾げる。ティーカップをテーブルへ戻した音は、コルク製の分厚いコースターに吸い込まれて消えていった。

「何故何も聞かないんですか? 僕が詐欺や窃盗をはたらくとは思わないのですか? 今この瞬間に表情を変えて貴女に危害を加えるかもしれませんよ? ……何故貴女は、今日出会ったばかりの見ず知らずの男をそんなにも信用できるのですか?」

 声はすらりすらりと止まることなく紡がれていると言うのに、どうしてか私にはそれが酷くたどたどしいものに聞こえた。それはきっと、彼の表情が、

「……どうして、貴方がそんなに不安で心配そうな顔をするんです?」

 不安そう。心配そう。いや、悩ましそう? 狼狽えている? 憂いている? 懸念している? やはり一番しっくりくるのは『不安』と『心配』だろう。今この時、彼にはあまり相応しくないだろう感情の色。それを滲ませていたから。

「……僕が言えたことではありませんが、一人暮らしの女性がこんなにも無防備に見知らぬ男を家に上げていると知れば、不安にも心配にもなるでしょう」

 彼の言葉に、確かにそれはそうだと私は心の中で首肯する。私も逆の立場なら、不安で心配で彼のように問い詰めるぐらいはするだろう。
 けれど、それはあくまで『普通ならば』の場合に限られる。

「そうですね。……でも、貴方の言うように貴方が私に危害を加える予定なら、そんな感情は抱きませんし、そんな表情も浮かべないですよ。そういうことをする人にとって、この無防備は恰好の餌でしょうし。勿論、そんな警告もしません」

 つまり、彼には私へ危害を加えるつもりも予定もないということ。それなら、別に私にとって困ることはひとつもない。
 ぱちりと瞳を瞬かせた彼に、私は笑って見せる。

「という訳で、この話は完結ですかね」

 きっと彼が言いたいことの本質はここではないのだろうけれど、言いくるめの方程式はやはり、自分の都合のいいように話の筋をずらすことにある。と、私は勝手に思っている。
 空になったティーポットを手に立ち上がり、おかわりはいかがですか? とまだ瞳を丸くしている彼に問いかけた。すると彼は、大丈夫ですと呟くように言葉を転がして、そうして何かが込み上げてきたようにじわりじわりと笑みをこぼした。愛想笑いでも作り笑いでもない、それはきっと、彼の心からの微笑み。何故かそう確信できた。
 くすくすと口元を抑えて静かに笑っている彼に、今度は私が目を丸くして、そうして2人で笑い出す。ほんの少しだけ張り詰めていた空気が、ほろりと柔らかく解れていった。

「僕が言いたかったのはそこではないのですが……まあ、いいでしょう」

 おもむろに立ち上がった彼の手が、私から空になったティーポットを奪っていく。

「お世話になる身ですし、洗い物ぐらいは僕に任せてください」

 別にそんなことは気にしなくていいのだけれど。きっと彼は、私が何を言ってもそこを譲ってくれはしないのだろう。まあ彼の気が済むのならそれでいいか。なんて、ちょっと偉そうな言葉を胸に呟いて、私は彼をキッチンへ案内した。ついでに、簡単な家の中の案内も手短に済ませる。

 洗い物を彼に任せている間に、私は寝室のクローゼットへ客用の布団を引っ張り出しに行く。突然のことだったので今日はそのまま使ってもらうことになるが、まあ、以前片付けた際に軽く洗濯して干したものなので大丈夫だろう。
 布団一式を抱えながらリビングと寝室を繋ぐ引き戸を開ければ、丁度洗い物を終わらせてくれたらしい彼が慌てて私から布団を受け取ってくれた。正直それなりの重さがあるそれは私の腕には余るものだったのでとても助かった。
 リビングのローテーブルを隅へ移動させて、そこに布団を敷く。床暖房も何もない部屋だが、ふわふわのシーツに毛布を2枚つけたので、それで何とか耐え忍んでもらおう。
 話し合いも基本的な所はひとまず終わり、彼の寝床も確保でき、心がひと安心したのだろう。突然眠気が私に襲いかかってきて、ふわ、と大きな欠伸がこぼれた。ふと時計を見れば、もう深夜の1時もとうに回った頃。
 普段ならこの時間でも別に起きていられるのだが、今日は残業疲れに加えて色々なことが起こったため、やはり疲れが溜まっているようだ。

「それじゃあ私は寝ます。明日は色々買い物に行きましょう。あ、もし今日この後とか明日の朝、私が起きてない時にお腹が空いたら冷蔵庫の中身を好きに食べちゃってください」

 他に何か伝えておくべきことはあっただろうか。考えるけれど、睡眠に移行し始めた頭では何も思いつかない。まあきっと何とかなるだろう。そんなに特殊な家や内装というわけでもないのだし。

「分かりました」

 素直にそう頷いた彼によし、とひとつ笑って、挨拶を残し私は寝室の扉を閉める。

「おやすみなさい」

 その言葉を誰かと交わすのも、自分以外の誰かが同じ屋根の下にいる夜を過ごすのも、随分久しぶりのことのように感じられた。


2020.04.22

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