君さえ


第2話


 ──不思議な夢を、見ていたような気がする。
 ゆるりと瞼を上下させ、薄闇に包まれた寝室の天井をぼんやりと見つめながら、私はつい一瞬前まで自分が見ていた夢の記憶を思い出していた。
 けれど、夢の詳細な情景は全く思い出せず、私に残されていたのは、ただただその夢がどうしようもなく優しくて、温かくて、そして。
 目尻から、一筋の雫が重力に従いするりと滑り落ちて行った。

 ……どうしてか、泣きたくなるほどに悲しい夢だったという、曖昧な感情の記憶だけ。

 目元を手のひらで拭い、私はゆっくりと上体を起こす。ぼさぼさになった髪の毛が顔を覆い隠すのを手で追い払って、ひとつ大きく身体を伸ばした。そして、ようやくクリアになってきた私の五感が、朝の世界を知覚し始めるのだ。
 鼻孔をくすぐった食欲をそそる香りに、ぱちりと瞳を瞬かせる。それが漂う根源は、恐らく扉の向こうのリビング。さらに言えばその向こうのキッチンから。
 はて、一体誰が? とまだ寝ぼけた頭が考えるけれど、その答えもすぐさま思い出される。
 そう言えば昨夜、自分はひとりの男性を拾ったのだった。それも顔が良く背も高く物腰穏やかで丁寧で笑顔が素敵な……何と言うか、嫌味のひとつも出ては来ないようなハイスペックさを持っている男性。確か名前をジェイド・リーチと言ったか。
 やはり寝て起きて冷静になって考えると、昨晩の私は本当に無謀で馬鹿で向こう見ずなことをしたものだ。ふつふつと後悔の念が湧き上がってくるが、今更やっぱりなし、なんて言える訳もない。ほんの少し頭が痛くなったけれど、まあいいだろう。
 ベッドサイドのリモコンで部屋の電気を点け、のそのそとベッドから降りる。スマートフォンで確認した現在の時刻は朝の8時半を回ったところ。ううん、いい休日の朝だ。まあ、曜日自体はただの平日なのだけれど。
 部屋着兼パジャマでもあるスウェット姿のまま、まず足を向けたのはリビングではなく、廊下へ繋がるもうひとつの扉の方。廊下に出て、そのままリビングを避け私は洗面所の出入口を潜った。
 顔を洗って、髪を梳かす。いつもより入念に髪を整えたのは、まあ私のなけなしの乙女心だと認識してくれていい。すっぴんの顔はもう既に彼には昨晩披露してしまっているので、気を遣ったところで今更だろう。そう言い聞かせて、身だしなみを軽く整えた私はほんの少しの気構えをしてリビングへと向かう。
 何となく、あまり音をたてないようにそっとリビングの扉を開いた。けれどもやはりそんな行動に意味など然程なく、すぐさま私の姿に気付いた彼は、ふわりとあの穏やかな微笑みを浮かべて私を出迎えてくれた。

「おはようございます」

 その笑顔の眩しさに思わず瞳をしょぼつかせながら、私もまた彼に挨拶を返す。部屋着のスウェット姿でさえこんなにも様になるとは、やはり顔のいい男は違うな。

「おはようございます。……って、やっぱり朝ご飯作ってくれたんですね?」

 寝室にいた時から薄々と感づいてはいたけれど、それを改めて目の前にすると、やはり困惑の感情が浮かぶ。対面式になったキッチンに並べるように置いたダイニングテーブルの上には、シンプルながらもとても美味しそうな朝食の姿が私を待ち構えていた。
 さくさくに程よく焼かれたトーストと、レタスにトマトのサラダ、ふんわりとしたチーズオムレツ、そして湯気を柔らかに揺らしている温かいオニオンスープ。きらきらと輝いて見えるそれらの姿に、思わず私の瞳まで輝いてしまいそうになった。

「はい。冷蔵庫の中身を勝手ながら使わせて頂きました」
「気にしなくていいですよそんなの……うわぁこんなに手の込んだ朝食久しぶり……」

 ふらふらと吸い寄せられるようにダイニングテーブルへ歩み寄った私を、彼が流れる様に席へと誘導してくれる。あまりにも手慣れたその動きに、前職は敏腕執事か何かだったのだろうか、なんて。口にすれば小説の読み過ぎだと笑われてしまいそうなことを考えた。
 大人しく席についた私に微笑んで、彼が次に用意し始めたのは、紅茶で満たされたティーポットに、磨き上げられたティーカップ。琥珀色の液体がティーカップに注がれて、それと同時にふわりと優雅な香りが高く高く世界に舞い上がった。

「どうぞ、召し上がれ」

 はてさて、私は一体いつから2次元の世界に迷い込んでしまったのだろう。にこにこと微笑みながらこちらを見つめている美人を前に、私はついつい遠い目をしてしまう。
 まあ、そんな微妙な感情も、「いただきます」と手を合わせて朝食を口にしてしまえば、一瞬にして消え去ってしまうのだけれど。
 外はサクサク、中はふんわりに焼かれたトーストにはマーガリンがたっぷりと塗られ、レタスとトマトはまるでつい今しがた収穫したものかのように瑞々しい。オニオンスープの玉ねぎは口の中でほろりと崩れるほどに柔らかく煮込まれ、温かさも身体に沁みる丁度よさ。極めつけとばかりに、チーズオムレツは魔法でも使ったようにふわふわで、私の頬まで蕩けて落ちてしまいそうだった。
 気づけば無心に手と口を動かしていた私はあっという間にぺろりと全てを平らげて、そして食後の紅茶に手を伸ばしていた。
 ティーカップを満たした紅茶は透き通った琥珀色をしていて、ふわりふわりと漂う香りはあまりにも私好みのもので、ほう、と無意識のうちに嘆息がこぼれていた。
 そっと口に含めば、やはりその味も絶品。口内に広がった風味が一瞬にして私の心を射止め、そして奪い去っていく。この家にはティーパックの紅茶しかないはずなのに、まさか彼は、それからこんなにも美味しい紅茶を淹れたというのだろうか。にわかには信じがたいが、それ以外の事実なんてここにはない。
 身悶えしそうに身体を何とか抑えて、私は信じられないと言いたげな瞳を彼に向けた。
 テーブルを挟んだ向かい側で私と同じメニューの朝食を静かに食んでいる彼は、そんな私の視線に小さく首を傾げ、「紅茶のおかわりでしたらこちらに」とティーポットを構えた。

「……料理だけじゃなく紅茶を淹れるのも上手いんですね、ええと、ジェイドさん」

 いやはや、本当にどこまでスペックのハードルを上げれば気が済むのやら。これでは世の全ての人が彼を望んで手に入れたくてやまなくなってしまうではないか。傾国の美女とは、きっと彼のような存在を指すのだろう。彼は男性だけれど。

「恐れ入ります。紅茶を淹れるのは趣味のようなものでして。……ああ、もしよろしければ、僕のことは是非ジェイドとお呼び下さい。敬語も不必要ですので」
「え、いいんですか?」

 年上か年下かも分からない人に対してため口を使うのはどうかとも思ったが、まあ彼が良いというのなら良いのだろう。それを免罪符に私は口を開く。
 彼の年齢についてはまあ、私より年上だろうと年下だろうときっと私は世界の不平等に唇を噛みしめることしか出来ないので、彼自らが明かすまでは私の精神の安寧のためにも聞かないことにしよう。

「それじゃあジェイド、そっちも敬語とか別に使わなくていいから、好きに話してね」
「僕のこれは癖のようなものですから、お気になさらず」

 胸に手を当てて微笑む彼の慇懃さは違和感の欠片もないほど様になっていて、やはりこの男はただものではないなとぼんやり考える。彼に今帰る場所が無いことも、昨晩行き倒れていたことも、その裏には何か私には計り知れない理由がありそうだ。知りたいとも思わないけれど、少し背筋がぞわぞわとした。触らぬ神に祟りなし。
 食事を食べ終わって、彼が食器を片付けてくれている間に私は出かけるための準備を整える。服を着替えて、化粧をして、まあそんなにばっちり化粧をするタイプでもないため、20分もしない程度で全て終わったけれど。

「それじゃあ、昨日言ってた通り今日はジェイドの日用品を買いに行きます。とはいっても、歯ブラシとかその辺は買い置きがあるから服ぐらいかな」

 一先ず今日はこれを着てくれと、洗い物だけでなくダイニングやキッチンの片付けまで終わらせてくれた彼に、乾燥機にもかけておいた彼の服を手渡す。この服で外を出歩くのは少し寒いかもしれないが、それ以外もないので我慢してもらおう。

「服、ですか? 確かにありがたいですがそこまでご迷惑をおかけする訳には……」
「なーに言ってるの、要るでしょ服は。この家にジェイドが着られる服はないし、ずっとそのスウェット姿でいるわけにもいかないんだから。確かに贅沢はさせてあげられないけど、普段着数着と部屋着にコートぐらいなら買ってあげられるから気にしないで」

 遠慮も謙虚も結構だが、必要なものまで遠慮されてはこちらとしても困る。ただ養われるだけは気に入らないのだろうか。その考え方は結構だが、彼には職も収入もないだろうことぐらい私も分かっているうえでこの提案をしているのだから、彼は何も考えずにただ甘えていればいいというのに。
 私の言葉にそれでも申し訳なさそうな表情を消さない彼に、やれやれと息を吐く。

「……それじゃあ、貴方がここにいる間の衣食住を私が養う。その代わり、貴方はこの家の家事をする。炊事洗濯、あと掃除にその他。それでどう?」

 今朝の様子を見た限り、彼は炊事にも掃除にも長けているようであるし、何より彼の作る食事はもうすでに私の胃袋を掴んでいる。私にも彼にも悪くはない提案だと思うけれど、と私は彼を見つめた。
 何かを考えるように口元へ手をやった彼は、するりとその瞳をこちらへ向け、そうして眉を下げ微笑んだ。彼お得意の、少し困ったような笑みだ。

「……僕側にメリットが偏っている気がしますが。貴女がそれで良いと仰るのなら」
「そう? ……ああ、そうだ。もう1つあるよ、私にメリット」

 小首を傾げるどこかあざとい仕草さえ、彼にかかればまるで映画のワンシーンを飾る情景に様変わりだ。きっと、道を歩けばただそれだけで人の目を引くだろうその容姿。

「合法的に、こんなイケメンを連れて道を歩ける」

 そんなことか、と笑われるかもしれないが、案外誰もが一度は夢見たことがあるだろう。
 10人中12人が振り向くほどの美人を連れて、周囲から羨ましがられるという、そんなくだらない優越感の満たし方を。……まあ、それもいいことばかりではないだなんて、冷静に考えれば当たり前なこともまた、その日私は身をもって学ぶことになるのだが。

  ***

「──お兄さん、おひとりですか〜?」
「ほんとにきれいな髪の色〜! 染めてるの? それとも地毛?」
「暇なら一緒にお茶でもしませんか?」

 きゃいきゃいと高く甘い声の群れに鼓膜を叩かれ、その勢いと圧の強さに、それが自らへ向けられたものではないにもかかわらずついつい私まで慄いてしまった。
 買い物のために数駅向こうのショッピングモールまで行こうと、最寄りの駅まで出て来た私たち。そして、まあ持っていて困るものではないだろうと、私が彼用のICカード乗車券を発行しに行っていた、たった数分の間。発行機がやや混んでいたからと彼を壁際に置いてきたのは、やはり愚策だったらしい。視界の先で複数人の女性に囲み込まれている彼の姿に、思わず遠い目をしてしまった。
 彼のような美人を世界が放っておく訳がないと思っていたが、まさかこれ程までとは。あまりにも美しすぎるせいで逆に誰からも声をかけられなのではないか、なんて考えは、昨今流行りの肉食系女子たちに対してはあまりにも浅慮なものだったらしい。予想以上を通り過ぎて、逆に予想通りの結末となってしまった。
 ゆるふわ可愛い系から、かっこいい美人系まで、様々な系統の女性たちから言い寄られている彼の姿を少し離れたところから眺めつつ、はてさてどうしたものかと考える。
 きっと、私が真っ直ぐにあの集団をかき分け彼の腕を引いて去って行くのが一番の解決策なのだろう。私にそれをする勇気があれば、の話だが。
 正直、女の嫉妬や怒りは怖いためあまり買いたくはない。従って、あの場所に飛び込んでいくなんて命知らずなこともしたくはない、……の、だが。
 高い身長で頭ひとつ分以上周囲より突き抜けた彼の表情は、女性たちに囲まれていようと私からも見えてしまう。
 あの穏やかな微笑みを浮かべはているが、どこか迷惑そうで煩わしそうな色をにじませたその表情。やはり流石の彼も、複数人から血眼で必死に迫られてしまえば参ってしまうのだろう。美が罪だとは言え、それだけで苦痛を受け続けるというのはあまりにも理不尽すぎる。そもそもの原因には、私の短慮もあることであるし。
 仕方ないとひとつ息を吐いて、私はその人だかりへ足を向けた。
 手早く彼を回収して、そしてさっさと改札を抜けてしまおう。そう心に言い聞かせて、私が女性たちの群れをかき分けようとする、──その直前。
 ぱちりと突然彼と視線が交わって、彼の表情がにこりと優しい笑みを浮かべる。それまでの張り付いたようなものではない、真に柔らかなもの。

「すみません、迎えが来ましたので僕はこれで失礼します」

 それに思わず足を止めた私に向けて、女性たちに紳士的な断りだけを残した彼が、その長い足から生み出される広いコンパスで歩み寄ってくる。あっという間に消えて無くなった彼と私の距離と、私を見下ろす彼の笑顔の輝かしさ、そしてその向こうから感じる女性たちからの視線の鋭さに、息が浅く詰まった。情報量が些か多すぎる。

「お手数をおかけしてすみません」
「……ああ、うん。いや、大丈夫。あー、……後ろの人たちはいいの?」
「? ええ。1人で立っていた僕を心配して話しかけてくださっていただけですので。ここにはお優しい方々が多いですね」

 にこやかな彼に促され、私と彼は2人並んで改札へ向けて歩き始める。まるで彼女たち視線から私を隠すように彼が立ってくれたのは、ただの偶然だろうか。気のせいだろうか。

「……やっぱり、顔がいいっていうのも一長一短だね」
「おや、それは褒め言葉と捉えても?」
「ううーん、……うん、まあ一応褒めてはいるかな」
「それはありがとうございます」

 彼にICカードを渡して、改札を潜る。深追いしてくる過激な人がいなくて良かったと静かに胸を撫で下ろした。
 駅でこれとは、さらに人の多いショッピングモールへ行ったら一体どうなるのやら。
 出来るだけ彼の傍を離れないように努めようとは思うのだが、私1人がいたところで抑止力になるのかは正直分からない。むしろ状況が悪化しそうな気もするが……まあ、考え込んだところで仕方はないか。
 せめて何も起こらずに無事家に帰りたい。そう心の中で願い、ホームに滑り込んできた電車に彼と乗り込んだ。

  ***

 平日の昼前とはいえ、やはりこの付近で1番大きいこのショッピングモールには人の姿が多い。行き交う人の中を歩き、時折向けられる彼への様々な種類の視線から目を逸らしながら私たちが向かったのは、シンプルながらも比較的安価で質の良い衣料品を購入できる、とあるチェーン店だった。

「それじゃあ、適当に下着類を選んできてくれる? 私はあっちで服を見てるから」

 籠を彼に渡して、男性用の下着類が並んでいる場所に促す。流石にその辺りにまで私が首を突っ込むのはいけないだろう。素直に頷いた彼に私も首肯して、一度離れる。流石に買い物をしているところにまで人が群がったりはしないだろう。多分、きっと。
 先に男性用衣料品のコーナーにお邪魔して、勝手に彼に似合いそうなものを物色する。基本的に無地のシンプルなものばかりだが、きっと彼ならばそのシンプルさこそをスマートに着こなしてしまうのだろう。全く美形とは、以下略。
 ただ身長の高い彼が着られるサイズのものとなると、やはり大きなものに偏ってしまう。
 ひとまず目に付いた一番大きなサイズのものを手に取って、適当に袖の長さなどを確かめる。そうしていると、後ろから不意に声がかけられた。

「お待たせしました」
「あ、おかえり。ジェイドのサイズってこれで大丈夫かな」

 籠を手にやって来た彼に、私は丁度手に取っていた黒のワイシャツを合わせる。彼は細身に見えて肩幅がしっかりとあるため、やはりサイズ確認は大事だ。

「そう、ですね。恐らく大丈夫かと」
「おっけーおっけー……ところでジェイドって、自分の着る服は自分で選びたいタイプ?」
「? いえ、特にこだわりは……」

 彼の言葉に私はきらりと瞳を輝かせ、それならばと彼に詰め寄った。

「ねえ、ジェイドの服、私が選んでもいい?」

 驚きに目を瞬かせる彼の表情は、やはり何度見てもどこか幼さを孕んでいて、思わず愛おしさまで感じてしまう。

「ええ、勿論。よろしくお願いします」

 にこりと微笑んだ彼に、私は心の中で勢いよくガッツポーズをきめた。ファッションセンスが私にあるとは思っていないが、やはり美形を前にしてしまえば着飾りたくなるのが人間の性というもの。
 さて、彼には一体どんなコーディネートが似合うだろうか。無い頭を必死に巡らせながら、私は目に付いた1着を手に取った。

  ***

「……ほんっとに何着ても似合うね」

 濃い灰色のワイシャツと、黒白のボーダーセーターにジーンズ。黒のタートルネックフリースに、薄手で裾の長いニットコート、カーキのスキニー。藍色のパーカーにオフホワイトのカーディガン、そして黒のスラックス。華美なものも特別なものも目立つ色もそこには加えられていないのに、どうしてかその姿は常に視線を奪っていく。

「貴女のセンスがいいからでは?」
「いや、いやいや、ほんとに捻りも何もないコーデだからねこれ。誰にでも着こなせるけど、だからこそ素材の質が顕著に目立ってしまうやつ……うわこわ……」

 彼からの異論も特に無いため、サイズが合ったところからひとまず全て籠に叩き込んでいく。セレブのマダムたちが侍らせた美青年に服を買い与えたがる理由がよく分かった。これは際限なく注ぎ込んでしまいそうになる。
 もっともっとと欲を言う自分の心を黙らせて、一先ず着回せるように先の普段着を3着と、洗い替えにするための部屋着用スウェットを一式。加えて、これから先は冷え込む一方なので、少し厚めのコートを1着選んで会計に向かう。
 レジに立った店員のお姉さんの熱い視線が斜め後ろの彼に向っているのをひしひしと感じながら、手早く支払いを済ませて袋に商品を包んでもらう。
 大きな袋2つに分けられたそれは、店員さんから私が受け取った次の瞬間には彼の手に奪われていた。なんてスマートさだろうか。少し離れたところからきゃあと女性たちの黄色い声が聞こえたのは、きっと気のせいではない。

 服屋から退散した私たちは、気付けばもう昼を過ぎていた時計を見て、一先ずは軽く腹を満たそうとフードコートに入る。
 私が何となく食べたい気分だったから、という理由で彼にもハンバーガーのセットを食べてもらったのだが、ハンバーガーに噛り付く美人というのもなかなかに見物だった。思わずじっと見つめてしまったことは反省しているから、視線だけをこちらに向けて流し目でゆるりと優しく微笑むのはやめてほしい。心臓にあまり良くないんだ。
 食事を終え、次に向かったのは百均や雑貨屋。彼が生活するうえで必要なものと、ついでに丁度切らしていたものもさくさくと買っていく。因みに荷物は全て彼の手の中だ。私も持つと言ったのだが、あの穏やかな笑顔できっぱりと断られてしまった。紳士か。

「はー、結構買ったね。私の買い物にまで付き合わせてごめん、疲れてない?」
「ご心配なく。これでも体力に自信はありますから」
「それは頼もしい」

 もう一度電車に揺られて、家の最寄り駅まで戻ってくる。昼下がりの平日は、心地いい陽気に包まれて酷く穏やかだ。朝もゆっくり寝たはずなのに、ついついふわりと欠伸がこぼれてしまう。

「ふふ。僕よりも貴女の方がお疲れのようだ」
「いや、……これはどちらかというと普通に眠い方かな。今日あったかいから」
「確かに、丁度良く穏やかに晴れていますしね」

 他愛のない会話を続けながら、駅から家までの道を歩く。学校が終わったのだろう低学年頃と思しき小学生たちが、わいわいとはしゃぎながら隣を駆け抜けていった。
 近道のために駅前にある少し大きな公園を抜ける途中、ふと、私の視界の中にあるものが飛び込んで来た。そうだ、とその瞬間に思いついたある考えの下、私は隣を歩いていた彼の腕を引いた。

「ジェイド、ジェイド、」
「はい、なんでしょう」

 こちらへ視線を下ろした彼は、私に腕を引かれるままに足を動かしてくれる。それをいいことに、私は道の端に設置されていたベンチへ彼を誘導した。

「ちょっとここで待っててくれる? すぐ戻るから」

 並木の木陰になったそのベンチに彼を座らせ、私は返事を聞くことも曖昧に踵を返して歩き始めた。平日の公園にいるのは私たちと、散歩中のお年寄りと、遊んでいる子供たちだけ。少し私が彼から離れたとしても、面倒は起こらないだろう。
 私が向かったのは、そこから少し離れたところに広がる広場の、その隅。近づく度に鼻孔を強くくすぐっていく、食欲をそそる香り。粉と、ソースと、マヨネーズ。

「おじさん、たこ焼きください」

 赤い看板が穏やかな広場の緑に良く目立つ、たこ焼きの屋台。その奥に立っていたおじさんに言葉をかけると、気の良さそうな声と屈託のない笑顔が返ってきた。

「お嬢ちゃん運がいいね、丁度焼きあがった所だ。何パックにする?」
「うーん、ひとパックで! 爪楊枝ふたつお願いします」
「あいよ!」

 白いパックに詰められたそれをそのまま受け取って、お金を払う。まいどあり、の声にありがとうございますと返して、私は彼の下へ足早に戻る。

 先程のベンチにそのまま座って待って居てくれていた彼を遠目から確認して、その姿を見つめながら近寄って行く。赤や黄色、茶色に染まった並木の葉を見上げている彼の横顔がどうしてか酷く儚く見えて、何故か胸が静かに騒いだ。どくん、と心臓が煩く鳴いて、爪先が早く早くと私を急かす。どうしてかも、私には分からない。ただ、ただ、

 ──何故か彼が、今にも消えてしまいそうに見えたのだ。

「ジェイド、」

 彼の名前を呼んだ。彼の瞳が、ゆらりとこちらへ向けられる。その虹彩に私の姿が映し出されて、ふたつの色が柔らかく微笑んだ。世界を駆け抜けていく風に攫われた木の葉が、はらはらと引力に従うまま地面へ向けて舞い落ちて行く。

「おかえりなさい、珠華さん」

 私の名前を呼んで、彼が笑う。その瞬間、視界がじわりと滲んだ。涙ではない、何か、視界がぶれるような感覚。けれど、それが一体何であるのかを私が理解するよりも前に、その不思議な感覚は泡のように弾けて消えてしまう。私に残されたのは、ただただどうしようもない切なさだけ。
 困惑にぐるぐると回る思考と、ぐちゃぐちゃにかき混ぜられた感情。それらを彼に気付かれてしまわぬようにと、私も笑みを浮かべた。

「……おやつ、買ってきたから食べよう」

 手に持っていたたこ焼きのパックを掲げて、私は彼の隣に腰かける。蓋を閉じていた輪ゴムを外せば、ふわりと閉じ込められていた香りが私たち2人を包み込んだ。

「たこ焼き、ですか?」

 その中身を見て、彼の瞳が僅かに丸く見開かれる。

「うん。あ、苦手だったりした?」
「ああ、いえ。食べられますし、好きですよ」

 私の差し出した爪楊枝を受け取りながら、彼はそう言葉を紡ぐ。その顔に浮かべられた笑みは、いつもより一層柔らかく、優しく、温かいもので。深い慈愛に満ちたその表情に、私の視線は呆気なく奪われてしまった。

「……ただ、フロイド──僕の双子の兄弟の好物なので、つい」

 それは名前と外見的特徴以外に初めて私が得た、彼についてのプロフィール。

「兄弟がいるんだ」
「はい。極度の気分屋で手を焼くことも多いですが、……僕の大切な兄弟です」
「そ、っか」

 きっとその兄弟のことを思い出しているのだろう、どこか遠くを見つめるような瞳が、何かを懐かしむような色を孕んだ瞳が、ゆるりと空を仰いだ。鼓膜を打った彼の声の優しさに、どうしてか私の心が震える。
 胸に浮かんだ感情は、彼にもちゃんと大切な家族がいて、きっとどこかでその人が彼を待ってくれているのだという事実に対する安堵。

 そして、──彼の『大切』でいられるその人への、ほんの少しの羨望。

 なんて身の程を知らない願望だろうか。咄嗟に内心で自らを嘲笑い、そうしてその感情を責め立てた。つい昨晩知り合ったばかりの彼にそんなものを望んでしまうだなんて、どうかしている。私と彼は友人でも、勿論家族でも、ましてや恋人でもないというのに。

 どうして、私はこんなにも。

「──貴女も、僕の大切な人ですよ」

 呼吸が止まる。まるで、私の心を読んだかのような彼の言葉。驚きに瞳を丸く見開いて、私は自らの虹彩に彼の姿を映した。声の主である当の彼は、まるでそれが当たり前のことだと言いたげに、何でもないことのように、ただただ柔らかく微笑むばかり。
 心臓がじくりと変に疼いた。

「……つい昨日、出会ったばかりなのに?」
「時間なんて関係ありませんよ。……こんなにも優しい貴女というひとを、どうして大切に思わずいられるのでしょう」

 ──どうして、彼は。
 彼の言葉が、私をどうしようもない程の優しさで包み込んでいった。じわり、じわりと心から溢れ出した感情の濁流が、血液と一緒に身体中を巡って私の体温を上げていくのが分かる。頬まで熱くなっていく感覚に、私は慌てて顔を彼から背けた。

「……それは、どーも」
「おや、照れていらっしゃるんですか?」
「違う! ああもう! ほら、冷めちゃうから早く食べて!」

 口で何を言っても、今の私の言動は全てただの照れ隠しにしかならない。ずい、と押し付けたたこ焼きのパックを受け取って、彼がくつくつと笑っていた。
 ああ、全く。本当に読めない男だ。心の中に子供じみた悪態をこぼして、私もたこ焼きをひとつ、口の中に放り込んだ。

  ***

 帰り道に家のすぐ近くのスーパーマーケットで簡単に食料品の買い物も済ませ、無事に家に辿り着いたのは夕方に差し掛かる頃だった。
 彼には自分の衣料品などの片付けを任せて、私は生ものを冷蔵庫に片付けていく。今朝話し合った通り、今日から家事は彼の担当になり、夕飯も勿論メニューから全て彼が考えてくれることになった。一体彼はこの冷蔵庫の中身からどんな料理をつくってくれるのだろうか。
 期待に胸を弾ませながら、私は茶葉の整理に取り掛かる。とはいえ、紅茶を淹れるのは好きでも紅茶の茶葉に詳しいわけではないので、基本的に自分で買うのはアッサムとダージリンだけなのだが。
 紅茶缶に茶葉を移して、蓋をしっかりと閉める。
 そしてふと視線を上げると、キッチンを挟んだ向かい側、ダイニングにいつの間にか彼が立っていた。
 どうやらあちらの片付けは終わったらしい。何かを真剣に見つめているらしいその視線を辿ると、その先には、キッチンのダイニング側に備え付けられた棚板の上に並んだ、私の可愛いテラリウムたちの姿。
 興味があるのだろうか、と彼の姿を見つめていれば、私の視線に気付いたらしい彼の瞳が、ふいにこちらへ向けられた。

「ああ、すみません。……テラリウム、お好きなんですか?」
「うん、まあね。あんまり得意ではないんだけど、……短大生になったぐらいの頃かな、雑貨屋でテラリウムを作れるキットを見つけて、何となく興味が惹かれてやってみたらハマっちゃって、それ以来。ジェイドも好きなの?」

 まるで愛でるように、指先で優しくガラス容器に触れた彼。小さな箱庭の中に息づく植物の緑がその虹彩に映り込んで、不思議な色合いを生み出していた。

「ええ、僕もテラリウムは学生の頃から趣味で……なんだか懐かしいですね」

 くすりとこぼされた笑みの柔らかさに、心臓が変に軋んだ。テラリウムが趣味とは、本当にどこまでも隙がないというか、何と言うか。
 テラリウムの様子を楽しげに見つめている彼の姿に、じくりと頭が僅かな痛みを訴える。

 ああ、一体何なんのだろう、この感覚は。

 頭の奥の奥に何かが引っかかっているような、つっかえているような、そんな不快感とどうしようもなさ。思考の中に湧き上がってくるのは、それらに対する大きな大きな疑問ばかり。彼と出会ったあの時からずっと私の胸の中に渦を巻いていたそれが、今またひとつ、その勢いを増していった。
 テラリウムから視線を上げた彼が、私を見つめて笑んだ。

 ……どうして、彼は私をそんな目で私を見るのだろう。今すぐにでも大声を上げて泣き叫んでしまいたくなる程に優しくて、穏やかで、酷く、酷く愛おしさに満ちた視線が、私を捕らえては離さない。胸に込み上げてきた感情に、私はぎゅうと唇を噛みしめた。

「……珠華、さん?」

 彼を見つめたまま何も言わない私に、彼が怪訝そうな、そしてどこか心配そうな表情で私の名前を呼んだ。彼の唇から生み出される自分自身の名前に、また呼吸が浅く詰まった。
 こくりと唾を飲み下して、私も震える唇を開く。

「ごめん、何でもない。……お茶にしよっか」

 電気ケトルに水を満たして、私は彼の視線から逃げる様に背を向けた。

 ……どうしてだろう。

 どうして、私は彼の姿に、彼の表情に、彼の声に、彼の瞳に、こんなにも胸を騒がせてしまうのだろう。何度問いかけても、考えても、その答えは一向に分からない。
 ぐるぐると回る思考のまま、かちりと電気ケトルのスイッチを入れた。息を吸って、吐いて、心を落ち着けようとする。きっと、紅茶を飲んで落ち着けばこの違和感も拭い去れるはずだと。そう信じ、私は自らの両頬を軽く両手で挟むように叩いた。

 ――そんな私の後ろ姿に、彼の視線が静かに注がれていたことにも気が付かぬまま。


2020.04.22

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