君さえ


3


 あの後、観音坂さんに肩を貸して人気の無い道を選びながら、何とか彼の自宅に辿り着く事が出来た。もちろん私が彼の家を知る訳もないため、熱に浮かされた観音坂さんには申し訳なかったが道案内をしてもらって。
 他の人に道中の私たちを目撃されていなければいいのだが……暗がりを選んだし、見られていたとしても観音坂さんとは分からないはず。不自然な動きについても酔っ払いか何かだと思ってくれていれば……。そんなことを切に祈った。
 
 辿り着いた彼の自宅、閉ざされた扉の前で、くたりと私に体重のほとんどを預けて何とか立っている彼に声をかけ、鍵の在り処を尋ねる。しかし、もう彼にも限界が訪れてしまったようだ。唸るような声が唇の隙間から漏れるだけで、私の問いかけに対する答えは返ってこない。
 数秒の逡巡の後、私は意を決して、意識の朧気な彼に言った。

「観音坂さん、ごめんなさい。鍵を探させていただきます…!!」

 罪悪感やら何やらを抱きながら、私は観音坂さんの鞄の中にそっと手を伸ばす。あまり中をかき回してはいけないため、目星をつけながらゆっくりと鍵を手探った。
 数分もしないうちに、私は鞄の中のサイドポケットから鍵を見つけ出すことが出来、急いでそれを引きずり出す。小さなキーホルダーをひとつだけ飾り付けられたそれは、どこにでもあるようなあのシルバー色のもの。キーホルダーの先にぶら下がっているマスコットが何というか……きもかわいい感じで、思わず少し笑ってしまったのは秘密だ。
 一二三君に付けられたのかな、と微笑ましく思いながらそれで鍵を開ける。そして扉に手を掛け、ほんの一瞬また躊躇しそうになったけれど、背後から聞こえた苦し気な彼の呼吸に迷いは吹き飛ばされた。
 御免! と時代劇みたいな謎の掛け声を心の中で叫び、扉を開く。

 扉の向こうには闇が広がっていて、私は扉の近くの壁を手でなぞり電気のスイッチを探す。指先にそれらしきものが触れたため押してみれば、ぱっと明るくなる視界。
 玄関から真っ直ぐに伸びた廊下には、三つの扉があった。恐らく右手にあるふたつはお風呂場とお手洗い。そして廊下の最奥にあるひとつはリビングに繋がっているのだろう。
 家に上がる前に、もう一度彼に声をかける。

「観音坂さん、観音坂さん。お家に着きましたよ」

 すると、観音坂さんはひとつ小さな声を漏らしてゆっくりと顔を上げる。その頬は赤く、目もどこか虚ろで潤んでいる。もしかしたらまた熱が上がっているのかもしれない。

「靴、脱げますか?」

 私の問いかけにゆるゆると首を縦に振った彼は、上り口の段差に腰を下ろそうとする。しかし体はふらふらと不安定で、私は慌てて手を貸した。
 もそもそと靴を脱いだ彼は、そこに座ったままで、また眠ろうとする。それをなんとか止めて、私は彼を奥へと導いた。先程のように彼に肩を貸して、廊下の一番奥にある扉へと向かう。
 押し開くタイプのそれを開いてまた電気のスイッチを押せば、その向こうに広がるリビング光景が視界に映った。ドラマCDの情報から彼の部屋は散らかっているものだと思っていたのだが、私の目の前には生活感はあるけれど整然と片付けられた部屋。それにほんの少し驚いたけれど、今はそれを気にしている場合ではない。
 リビングを見渡した限りここにベッドはないようだ。となると。
 私たちが入ってきた扉のすぐ向かいに、またひとつ扉がある。恐らく、あの向こうに寝室があるのだろう。彼のプライベートルームとも言えるそこに踏み込むのはやはり気が引けるが、ここまで来てしまったらもう突き進むしかない。観音坂さんを連れてリビングを横切り、奥へと向かう。

 入った寝室もやはり、そこまで散らかっているという印象は受けなかった。
 左手にあったベッドに彼を導けば、彼は直ぐにそこへ倒れ込む。掛け布団を下敷きにしてしまっているしスーツも着たままだったため、何とか彼からスーツの上着と社員証、ネクタイを預かって、掛け布団を救出する。きっちりと首元まで絞められたボタンが苦しそうだったためそれも緩めて、掛け布団を彼の上に被せた。……やましいことなんてひとつも考えていませんよ。ええ。

 布団に沈み込んだ彼はもう深い眠りへと落ちてしまったようだ。健やかとは言い難い寝息を立てている彼をベッドの傍に浮いたまま見つめる。……これ傍から見たらとんだホラー案件だな。

 何か飲み物を傍に用意した方がいいだろうか。
 そう考えて、私はふわふわとキッチンの方へと向かう。コンビニや自動販売機で買ってくることは私にはできないため、観音坂さんには申し訳ないが冷蔵庫の中を探させてもらうのだ。

 キッチンに鎮座してた冷蔵庫の中をそっと覗き込めば、そこには運よくペットボトル入りのスポーツ飲料の姿。ついでに見つけた熱さまシートとタオルも拝借して、彼の部屋へと戻る。

 枕元にペットボトルを置いて、熱さまシートを額に失礼しようと彼の寝顔を覗き込む。頬はまだ赤らみ、眉間にしわも寄っていて酷く苦しそうだ。その様子に思わず私まで眉を寄せてしまう。
 そっと前髪を避けて汗の滲む額を、タオルでそっと拭う。そして熱さまシートを丁寧に貼り付けた。ひんやりとして気持ちが良かったのだろう。彼の表情がふっと和らいだ。
 それに安堵した私は、さてこれからどうしようかと思い悩む。
 このままここにいても私に出来ることなんてたかが知れているし、正直邪魔にしかならないと思うのだ。かといって、苦しそうな彼を一人残していくのもなんとなく不安だし……。

 うんうんと唸りながら彼の眠るベッドへ背を向けた、その瞬間だった。

 くい、とスカートの裾が何かに引っ張られたのだ。どこかに引っ掛けてしまっただろうかと慌てて振り返ってみれば、そこにはスカートの裾を小さく摘まむ誰かの手。その誰かが誰かなんて、答えはひとつしかありえない。だってここにいるのは私と、

「観音坂、さん……?」

 その手から腕へ、さらにその先へと視線を辿らせれば、そこには熱に浮かされる彼の姿。薄っすらと開いたその瞳は、焦点があっていないけれども確かに私を見つめていた。迷子の子供のように不安げな表情と、ゆらゆら揺れるその瞳は何かを訴えかけるようで、私は彼から視線を外すことが出来ない。


「…………行か、ないで、ください」


 掠れ震えた小さな声で、彼は切れ切れにそう紡ぐ。その声はそれでも私の脳を痛いほどに叩きつけて、思考を全て溶かしてしまうのだ。
 私はスカートの裾を摘まんでいた彼の手をそっと取り、両手で包み込む。その手はやはり熱かった。彼を苦しめる熱なんて、全て私にうつってしまえばいいのに。叶わぬ願いを心の中で口ずさみながら、私は枕元にしゃがみこんで、彼と視線を合わせる。

「……はい、傍にいます」

 にこりと笑みを浮かべてそう言ってみせれば、彼は安堵したようにふにゃりと笑って、そして再び眠りの底へと沈んでいった。私の手をしっかりと握ったまま。

 この後、沸き上がる母性や萌えやその他諸々により私が彼の枕元で気味悪くサイレント悶えをしていたのは、また別のお話。



20181230

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